コーヒーのたしなみ方 2
陸上の試合を観るのは初めてだ。
どんな様子であるのか気になって、日が過ぎるのが遅く感じた。
「日差しが強いから、日差し対策しとけよ」
わくわくしながらお弁当を作っていると、須佐くんがクローゼットから帽子と薄い上着を持ってきてくれた。
「もう夏が終わるのに?」
「油断していると日焼けするぞ」
経験者の言うことは素直に聞いておこう。
「今日の試合って、次につながる大会なの?」
お弁当をトートバックに詰め、持ってきてくれた帽子と上着も一緒にいれる。
「ん、国内大会の予選会。これで勝ち上がると、次の大会に出られる」
「そうなんだ、大事な試合なんだね」
「まあな」
「須佐くんも試合観るのは久しぶり?」
「ああ。辞めてから一度も観ていないから、久しぶりだな」
辞めてから一度も。その言葉にドキッとする。もしかして観ることが嫌なのだろうか。
「もしかして、気が乗らないのもそのせい?」
「あ?」
「陸上に対して思い入れがあるから観たくないの?」
未練があるのだろうか。私の言動は無神経だったのかもしれない。
急におとなしくなった私を見て、須佐くんがふっと笑うのがわかった。
「そんなことねぇよ」
「ほんと?」
「ああ」
ほっとして胸をなで下ろす。
陸上を辞めたのは私のせいなのに、無神経な発言をしてしまった。
「他の競技みたいに見応えがあるかって言われたら何とも言えないぞ。待ち時間長くて、競技は一瞬だからな」
「それでもいい。須佐くんが打ち込んでいたものを見てみたいから」
「…行くぞ」
車のキーを持って、須佐くんは玄関へと向かった。
見事な秋晴れだった。
まさに行楽日和といったいい天気だ。
スタジアムについた私たちは、その天気の良さに空を仰いだ。
「いい天気ね」
「ああ。風もいいから、記録もいい記録が出やすいぞ」
「そうなの?」
「風が強いと参考記録って言って、正式な記録として残らないんだ」
「へー」
「中に入る前にちょっと寄るとこがあるけど、いいか」
「?うん、いいよ」
須佐くんはスタジアムの中に入らず、外をぐるりと歩いて行く。
ぽつぽつと選手と思われるひととすれ違っていく。
スタジアムに向かって左手にあるブルーシートの前まできた。
「お久しぶりです」
「須佐じゃないか!」
「本当だ、須佐だ」
「久しぶりだな」
ブルーシートに寝転がっていたひとたちが体を起こして須佐くんのもとに寄ってきた。
須佐くんと同じか少し若く見える。
「なんだなんだ、どうした」
振り返るとずいぶん年上のひとが腰に手を当てたっていた。
「お久しぶりです、コーチ」
コーチと呼ばれたひとは須佐くんを見るなり笑顔になった。
「須佐か!」
「ええ、コーチは相変わらず元気そうですね」
「元気じゃなきゃ教えられん」
「そうですね」
「今日はどうした」
「久世がこの間家に来て、試合を観に来いってうるさくて」
「久世か」
「最近調子はどうなんですか」
「いいぞ。上狙えるな」
「そうですか、相変わらず元気なやつですね」
「ああ。ところで後ろの…」
「妻の佳奈です」
「どうも」
ブルーシートにいるひとたちがどっとわいた。
「須佐さんの奥さん!?」
「あのひとが?」
「須佐さんって面食いだったんだ」
色々言われていますけど、須佐くん。
「久世は?」
「いまウォーミングアップしに行っています」
「じゃあスタンドの方に行っているから。予選は何時だ?」
「100は10時半です。決勝は15時」
「わかった、久世が来たらよろしく伝えておいてくれ」
「はい」
歩き出した須佐くんについて行く。
「な、聞いただろ。予選から決勝まで4時間半もある」
その瞳は「待てるのか?」と問うている。
「待てるよ!」
自慢じゃないけど待つのは大得意だ。
それに。
「その間別の競技がやっているんでしょ?」
「ああ」
「他の競技見てればあっという間よ」
陸上はパンフレットがあるということで購入してみた。
めくってすぐにタイムスケジュールが載っていた。5分刻みで多種多様な競技が実施される。
「そうだな」
「須佐くんのおススメの競技は?」
「……そうだな、4×100のリレーかな」
「どのへんが」
「スピード感。トップスピードのバトンパスの流れは鳥肌ものだぜ」
「へー、そうなんだ」
その返事のトーンで須佐くんが眉を寄せる。
「お前いま小学校のリレーとか想像しただろ」
「うん」
私が知っているリレーはクラス対抗リレーだ。ほかのリレーってあるのだろうか。
須佐くんははあ、と大きくため息をついた。
「学校でやっているリレーとは比べもんにならねぇよ。どんだけバトンパスの練習していると思ってんだ」
「はぁ」
「100も4×100も短距離の花形だぜ」
「ほー」
素人丸出しだ。いや実際素人なんだからしょうがないんだけど。
「本物のバトンパスをみたらびっくりするぜ、きっと」
ちょっと自慢げに話す須佐くんはこう言ったら怒られるだろうけど、こどもっぽくてかわいい。どういう態度になるかわかるから言わないけど。
スタジアムの中に入ってスタンドに出た。目の前に開けるフィールド。風がわっとふいてきた。
思わず足が止まる。
空気が違う。
須佐くんはそんな私に声をかける。
「佳奈?どうかしたか」
「ううん、なんか圧倒されちゃって」
「選考会でそんなことを言ってたら、大会はどうなるんだよ」
「なんだろうね、これだけのひとの本気を集めたら強い力になるのね」
「……そういう感性は、すごいと思うぜ」
「え?」
「なんでもない、独り言」
「ねえ須佐くん、これどこに座ったらいいのかな」
「…無難にこのあたりにしとくか」
そういって階段を数段下りてちょうどメインスタンドの真ん中辺りに座る。
「無難に?」
「全種目みたいんだろ」
「できれば」
須佐くんの横に座って荷物を置く。
「陸上って、フィールド競技とトラック競技があるんだよ」
そう言ってトラック内を指差す。
「あれ?」
顔を寄せて須佐くんの目線の先をたどっていく。
「いまフィールドでは走り高跳びが行われているだろ」
高飛び。ハイジャンと呼ばれる競技だろうか。
Hの形をした棒と分厚いマットが見える。
「うん、あれがそうなんだ」
「高飛びも見てて結構楽しいと思うぜ」
「ほー」
次々と選手がバーを越えていく。
「あんなに簡単に飛べるものなの?」
「まだ高さが低いからな」
「ふーん」
しばらくとどこ見ていいか迷ってきょろきょろしていたら、須佐くんがぽつりと言った。
「こうして改めて試合を観るのは初めてだな」
「そうなの?」
「試合といったら参加するしかなかったからな」
「怪我とかしなかったの」
「怪我はしないように最善の努力を払っていたから、しなかったな」
「すごいね。どう、改めて外から見てみると」
「不思議、だな」
「不思議って?」
「この世界しかなかったのに、こうやってみるとちっぽけな世界なんだなって思うよ」
ちっぽけな世界。
確かにこのスタジアム内の世界は、外から見たら狭いのかもしれない。
「でもこれが全てだったんでしょ?」
「まあな」
「私はそういうものがなかったから、眩しく思えるよ」
「眩しい?」
「そう、眩しい」
何かに打ち込むこともなく、ただ毎日を生活していた私にはわからない世界だ。
と、背後から声が聞こえてきた。
「センパイ!」
振り返るとユニホーム姿で笑顔の壱くんがいた。
「わーほんとに来てくれたんだ!」
須佐くんの横に降りてきて須佐くんの手を握ってぶんぶん上下に振っている。
「来いって言ったのはお前だろ」
「そうですけど!」
「…壱くんって犬みたいだね」
尻尾があったら大きく振っていそうだ。
「えへへへ、よく言われます」
「…おい、もうコールされるだろ」
「え、あ、いけね!センパイ、見ててくださいよ」
「はいはい」
壱くんはダッシュでスタンド席の横にある階段からフィールドへ降りていった。
「コールってなに?」
「ようは集合だよ。その時間に規定の場所に行かないと失格になる」
「ふーん」
そんなに差し迫った時間なのにわざわざ須佐くんのところにきた壱くんは、よっぽど嬉しかったのだろう。
「好かれているね、須佐くん」
「…迷惑だけどな」
本当に嫌ならここに来ないよ。素直じゃない須佐くんに自然と笑みが浮かぶ。
「…なんだよ」
「なんでもない」
つと視線をフィールドへ戻す。
「あ、壱くんだ」
トラックの外側をゆっくりと走っている。ウォーミングアップしているようだ。
「ああいうときってどんな気持ちなの?」
「…ん、何にも考えてないな」
「へ?」
「無、って感じだな」
「よくわかんないよ」
「伝えるのは難しい」
やはりその場に立った者しかわからない感覚なのだろうか。
壱くんがゆっくりと歩いてスタートの位置にやってくる。見知ったひとだろうか、何人かすれ違ったひとと話をしている。
電光掲示板に壱くんの名前が出た。
「あ、壱くんの番だ」
壱くんは軽く屈伸をして、その場でジャンプしている。
スターティングブロックを調整して、何度かスタートダッシュをして感覚を研ぎ澄ましているようだ。
その顔は真剣そのもの。数歩先をじっとみつめてから、視線をスタートラインに戻す。
いつもの明るくて動き回っているイメージとは違っている。
選手たちがスタートラインに並ぶ。
壱くんは最後にスタートの体勢に入った。
「セット」
ぐっとお尻が上がって体重が指先にかかる姿勢になる。
パン。
ピストルの音と共に選手たちが一斉に走り出した。
壱くんはスタートダッシュが成功したようだ。ひとり先に出ている。
そのままゴールした。
減速して辺りを見渡すようにぐるりと頭を動かしている。
目が合った。
と思ったら、こちらに向かって大きく手を振っている。
隣にいる須佐くんを見る。
「あいつ…」
呟いただけの須佐くんに代わって、私が手を振る。気づいたようで、一層大きく手を振った。
「壱くん、1位だったけど、これで優勝?」
「いや、これは予選。1位抜けしたし、他のやつ見ていても、まあ久世が一番になるんじゃないのか」
「すごいじゃん、それ」
「まあ、やつの能力からいってもそんなもんだと思うぜ」
随分評価が高い、と思う。
須佐くんは感情や言動がストレートだけど、褒めるのは初めて聞いた。
そっけない態度も、愛情の裏返しかと思うとにやにやしてしまう。
「なに笑ってんだ」
「え、別に」
壱くんは見事優勝した。