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タイムトリック・パニック 2

 目の前にある状況が信じられない。

 という言葉をたびたび使ったけど、この状況ほど適切な言葉が浮かばない。

 もう一度言葉を変えて言おう。

 ありえない。


 鏡の前で呆然と立っている私を見るに見かねてか、腕をつかんで今来た道を戻って行く。

 先ほどまで横になっていたソファに、今度は座らされた。

「コーヒーでいいか?」

「すみません、コーヒーはちょっと」

 ちょっともなにも飲んだことないのだ。味は話を聞いて想像するに、苦いと思う。とても飲めそうではなかった。普段は紅茶だし。

「ああ、そうか」

 男性はぼそりと呟いてキッチンの方へと歩いていった。

 しばらくして両手にマグカップを持ってやってきた。ひとつ、私の前に置いて正面に座る。紅茶のいい匂いが鼻をくすぐる。

「で?」

 マグカップを口に運びながら男性は話を続けた。

「で?ってなんですか」

「いったいどこまで、いやいつのことまで忘れているんだ。覚えていることは?」

 忘れている?覚えていること?

 忘れていることなんてない。覚えていることと言えば階段から落ちたことぐらいだ。

「学校で階段から落ちて」

「いつの」

「いまです」

「…いやいまじゃなくてだな………何歳のときの、どういう場面で」

 卒業アルバムを撮る前と告げると、目の前の男性はもしかしてという顔で口を開いた。

「中三の10月か。んで時間は午後。場所は3階の西階段」

「そうです!そう!」

 思わず身を乗り出してしまった。まさかさっきの出来事を知っているとは思わなかった。

「あん時って…まじで15年前のできごとを言っているんか」

「15年前じゃなくてさっきなんですけど」

「さっきじゃねぇ。15年前が正しいんだよ」

「どうしてそう言いきれるんですか!?」

 つまり男性は私が15年前のことを昨日のように話していて、その間の記憶がないと捉えているようだった。

 そんなわけがなかった。だってあの浮遊感ははっきりと思い出せる。

 記憶がないならそんなにはっきりとあの感覚を覚えているだろうか。

「…お前も薄々気づいているんだろ。認めたくないだけで。じゃあいまのお前の姿はどう説明できる?15歳には到底見えないけどな」

 ぐっと言葉に詰まる。

 確かに先ほど姿鏡には15歳の私はいなかった。ずいぶんおとなの姿だった。30歳といわれても違和感がないような姿だった。

「だって…だって…さっきまで学校にいたんだもん。卒業アルバム撮るってみんなと騒いでいたんだもん…」

 それが次の瞬間30歳になってましたなんてだれが信じると思うの。

 そんなドラマみたいなことあるわけない。

 ぐすぐすと泣き始めた私を見かねたのか、正面に座っていた男性が立ち上がって私の隣へと座る。そして私の肩に手を回して抱き寄せた。

 こんな至近距離に男性がいたことがなくて、思わず手で押し返してしまった。

 驚いて男性のほうを見ると、同じく驚いた顔をしていた。

 慰めようとしてくれたのはわかるけど、すきなひとが居なければ付き合ったこともなく、兄弟に男がいない私は、そんな行動が初めてだったのだ。驚いてしまうのも無理はないと思いたい。それともそんな私は普通じゃなくて、いまの女子中学生は当然と言った顔でその行動を受け入れるのだろうか。

 ってだいたい、いまだにこの男性がだれだか分からないし。

「……そういえばあなたは一体だれですか?」

「…………そうきたか」

 ふーっと大きく息を吐いて、私のほうを向く。

「俺だ、俺?覚えているだろう?」

 いや覚えているも何も初めて会ったんだから覚えているわけはない。ふるふると首を横に振る。

「俺、お前の同級生なんだけど。階段から落ちたとき、あの場所にいたんだぜ」

「えっ…」

 同級生?てことは知っているひと?つまりあの学校に通っていた15年後のだれかってこと?

 外していた視線を男性の顔にあてる。じっと見つめる。

 こんなにきれいなひと、いたっけ。いいやきれいっていうかかっこいい。

 私の知り合いにこんなにかっこいいひといたっけ。いやいないと思うんだけど。

 そもそも男友達なんてほとんど居ないし、クラスメイトとは挨拶するくらいだし、好きなひともいないし思い当たるひとが居ない。

「ごめんなさい、わかりません…」

「……そういやお前、あん時は俺に興味ないって言っていたな」

 ちらりと悲しそうな目をした。

「はぁ。すみません…」

 なぜか謝ってしまった。だって一瞬だったけど、本当に悲しそうだったんだもの。

「まあ仕方ない。お前もあいつらと同じように騒ぐタイプだったらこうしてここにいることはなかっただろうし」

「はぁ」

 なんだこのひと。騒ぐタイプってまるで自分に自信のあるような。

 そこで気づく。これだけのイケメンだ。男性が中学生のときも相当かっこよかったのだろう。で、人気があった、と。

「やっぱりどう考えても私の知り合いにはあなたはいないと思うんですけど」

 どこか校内ですれ違っていただろうか。その距離なら会っても覚えていないだろう。もともと男子に興味が無いし。

「…自分で言うのもあれだが、あの時俺相当人気あったんだぜ」

 ほんとに自分で言うのもなんですが、このひとが言うとしっくりきてしまう。それくらいかっこいいのだ。納得してしまう。

「って、なんで私こんなかっこいいひとと結婚しているんですか!?」

 ようやく男性の言う「現実」が形を帯びて見えてきた。実感がわかなかったけど、いまでもわかないけど、どうやら目の前のイケメンと「夫婦」らしい。

 いやだって想像をしてほしい。すきなひとすら居なかった数十分前。気づいたら結婚していた、しかもみたこともない知らないひと。しかもそれがイケメン。

 男性のいう「私」がいまの私と結びつかない。

「申し訳ないんですけど、まだ受け入れているわけじゃないんですけど、あなたと私って、その、恋愛結婚なんですか?」

 どうも釣り合いが取れないと思うのは私だけだろうか。平凡を絵に書いたような私はとりたてていいところ、惹かれるポイントなんてないと思う。現に告白なんてされたことないし。

 お見合いなら…いやお見合いでも見初められる気がしない。

「ああ、そうだけど」

「………………………………………………あなたはいったいだれなんですか?」

 意を決して問う。

「須佐翔太」

「………………須佐、くん!?」

 3年B組の須佐翔太くん。学校一の人気者だ。

 確かに先ほど言っていた「騒ぐ」レベルだ。

 須佐くんは陸上部所属で、大会に出たら全国大会まで出場するほどの実力の持ち主で、その容姿端麗と生徒会会長という役割をこなす力量から、うちの学校で知らないものはいないほどだ。

 確か最後の中体連も100メートル走の全国大会でファイナリストになっている。

 平凡を絵に描いた私とはまるで接点のない天上人だ。

 その彼と私が結婚。ありえ、ない。

 押し黙った私を見て、ふうとため息をつく須佐くん。ぽんぽんと頭を軽く叩いて、「今日は混乱しているだろうから、もう寝るぞ」と言った。

「……………………うん」

 これ以上ものごとを考えたくはないし、寝て起きたら夢だった、ってことだろう。それならはやく寝てしまいたい。

「寝るところは……さすがに一緒は無理だろ、いまは」

 一緒に寝るってこと?無理!

「無理です!」

 とりあえず相手が誰かは分かったけど、一緒のベッドで寝るなんて到底考えられない。だって私15歳なんだよ?彼氏いないんだよ?男子と一緒なんて!

 いくら「結婚している」と須佐くんが言っても、それは彼の主張だ。私にとっては無理な現実だ。

「…とりあえず寝室に案内するわ。で、俺はソファで寝る」

「え、いいよ!私がソファにいくよ!」

 須佐くんの家で家主を置いてベッドで寝るなんて考えらない。

 そんな考えを読んだように須佐くんは言う。

「ここはお前の家でもあるだからな」

 

そう言われてしまったらいまの私には返す言葉がない。追い出されたら行くところがないんだから。

 まるで外堀を埋められていくように、ゆっくりと「現実」が近づいてきていた。


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