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須佐翔太における佐藤佳奈の存在 5

「じゃあね、まずなにからしてもらおうかな」

 佳奈はあきらかにテンションが上がっている。そんなに楽しいものだろうか。

「そうだ」

 佳奈がソファに座って足を組む。手を背もたれに乗せて、いわゆる偉そうなポーズをとった。

「まずは爪を切ってちょうだい」

 と言って右手を前に差し出した。

「ほら、はやく」

 佳奈は本気だった。本気でごっこを楽しもうとしている。

 佳奈が楽しいならそれに乗らないわけにはいかない。

「はい、かしこまりました。姫」

 そう言うと佳奈は満足げな顔をする。こういうところが目が放せなくて、幼いと思う。この場合の幼いは、褒め言葉だ。

 救急箱の中から爪切りを取り出し、佳奈の目の前で膝をつく。右手をそっと取って、慎重に親指から爪を切っていく。

 パチンパチンという音が辺りに響いている。

 小指まで切ったところで、今度は左手を差し出された。同じように親指から切っていく。

 全部切り終わってから、顔を上げた。

「お嬢様、終わりました」

 するりと俺の手の中から左手を抜いて、両手を顔の前に掲げて出来を見ている。

「うん、いいわ。次は肩を揉んでちょうだい」

「かしこまりました」

 背後に回ってその細い肩に手を置く。力を入れすぎたら折れてしまいそうな肩。俺とは違う華奢な体に、たくさんの重いものが乗っかっている。

 記憶が無くなって不安なこともあっただろう。だけれど泣き言は言わなかった。そんな強さが惹かれる理由の一つで、昔から変わっていない。

 変わっていないからこそ、眩しく思えた。


 連絡を待つというのは思いのほか神経をすり減らすものだった。佐藤もこんな気持ちだったのだろうか。

 佐藤は深く傷ついていた。

 だけれども傷つく必要は無い。明らかに相手が悪い。

 ひとは何か悪いことが起きると、まず自分が悪いと考えてしまうことがある。佐藤の場合もそうだろう。佐藤は悪いところがひとつも無いのに。

 見たこともないやつに腹が立って、そいつを殴りたくなる。

 どうしたら凍りついた佐藤の気持ちを溶かすことができるだろうか。

 一度深く傷ついたらなかなか癒えない。5年も前のできごとなのに、まるで昨日のことのように語った佐藤はそれだけ深く傷ついたと言うことで。

 もどかしかった。

 おとなになればなんでもできるかと思っていた。

 けれど実際には縛りが多くてなにもできない。昔の方がよっぽど自由だった。なんでもできていた。

 おとなになって気づかされたのは自分の限界と現実だ。

 現実は厳しかった。


 1か月経った。俺からは連絡を取らなかった。

 内勤が終わった後、会社が持つ筋トレルームへと向かった。コーチと相談して今日の練習メニューを決める。

 こうやって仕事をしながら、陸上を続けている。

 多くのプロと呼ばれる選手は、練習環境などがある企業に就職してその中の練習施設などで練習をつみ、試合に出る。または大学職員として、母校等で同じように仕事をしながら練習しているパターンが多い。

 選手は仕事の一部を練習するかわりに、試合などに出て成果を残すことが求められる。大会で活躍すれば、大きな企業宣伝となる。

 オリンピックや選手権大会などで選手のユニホームなどに所属の企業や契約をしている企業の名前を見たことがあるはずだ。もしくは期間に合わせて社内の選手をCMに出す。

 俺たちは会社の広告だ。

 俺も陸上の指導で名を馳せていたコーチのもとで練習をしたいと、この会社を選んだ。入社して3年目、大学で作った体をもっと鍛えて、試合に出ている。

 短距離は練習よりも才能がものをいう世界と言われている。しかしもちろん練習をしないと筋肉が鍛えられない。

 俺の課題は後半のスタミナだ。前半の加速を持続することがいま取り組んでいる課題だ。そこをクリアしていくことが当分の目標である。

 国内の選手権大会ではそこそこの結果を残しているが、オリンピックや世界選手権ではないため、一般のひとには結果はわからないだろう。

 また、多くの企業は地域のスポーツイベントへの参加や支援なども行っている。

 俺も先日、高校の選手権大会に行ってきた。

 見えないところでこんな活動をしているのだ。

 一汗かいたところで、今日の練習を切り上げる。携帯を手にする。営業部所属のため、なるべく携帯はチェックするようにしている。

 留守電に佐藤からの伝言が残っていた。急いで再生ボタンを押して、耳に携帯をあてた。

『…もしもし、須佐くん?佐藤です。話がしたいの。連絡ください』

 短い伝言だった。

 だがその意味は決して軽いものではない。

 見えないはずの決意というものが見えた気がした。


「ごめんね、また呼んで」

 佐藤の家に呼ばれた。前回同様きれいに片付けられている。物が少ないと言われるとたしかにそうだ。必要最低限のものしかない。

「いや」

 前回と同じ位置に座る。マグカップを手にキッチンから来た佐藤がベッドに背を預けて座る。テーブルを挟んで斜め右に座っている。

「……」

 佐藤から話してくれるのを待った。

 長い沈黙の後、佐藤が口を開いた。

「…須佐くんのこと、信じてみようと思ったの」

「それは」

「いままでそんな風に言ってくれるひとはいなかった。だから信じてみようと思った」

「良いように解釈するぞ」

「…でも、」

「でも?」

「急には変われないわ。正直に言うと、怖い。それは裏切られるかもっていう心の問題とともに、触れられることも怖いの」

 過去にそういう体験をしたら、接触すら恐怖の対象になるだろう。

「それでもいい、ゆっくりでいいから、俺のことを好きになってほしい」

「…もう二度とひとを好きになんかならないと思っていた」

「佐藤」

「返事を待ってくれて、須佐くんの本気、分かったわ。こんどは私が真剣に返す番ね」

「なあ、徐々に慣れていくようにするのはだめか?」

「え?」

「最初は手から。…左手を出せ」

 佐藤は恐る恐るといったように俺の方に向かって左手を出す。その手をそっと握る。 

 びくっと大きく体が震えたのが分かった。

「これは…ダメか?」

 佐藤はふるふると首を左右に振る。

「ここから、徐々に、な」

「……うん」

 佐藤は小さく頷いた。


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