タイムトリック・パニック 1
いつもと変わらないいつもの月曜日。
ちょっと普段と違うことといえば、これから卒業アルバム用のクラス写真を撮ることくらいだ。そのせいで朝からみんな浮き足立っている。
一生残る写真だ。誰だってよく映りたいだろう。
私も長蛇の列のトイレに並んで、鏡の前で身だしなみの最終チェックをする。
トイレから出て階段を下りようと一歩進んだ瞬間、背中にドンという衝撃があった。
「あぶない!」
落ちると思って反射的に目をぎゅっとつぶった。本当は目は開けて手すりに手を伸ばさないといけないってわかっているんだけど、体が勝手に動いたのだ。
ふわりと浮かぶ感覚は独特で。天辺まで上りきって落ちる瞬間のジェットコースターに乗っているような感覚。
後は意識がぷっつり切れた。
目が覚めたら観たことがない部屋に居た。
目に飛び込んできたのは大きなパソコンのデスクトップのようなもの。私の家にあるものより格段に大きい。両手を広げたぐらいの幅がありそうで、そんなに大きくてはさぞかし作業が不便だろう。大きくする意味が分からない。
足の短いテーブルは茶色で、そのむこうにはキッチンが見えた。
ぐるりと見渡しても、どう見ても保健室ではなさそうだった。
どう見ても誰かの家、マンションの、しかもリビングのようだった。
ではここはどこなのか。
立ち上がろうと寝そべっていたソファに手を突いて上半身を起こす。ずきんと頭痛が襲った。
「あいたたた」
痛むこめかみを押さえて、ゆっくりと体を起こして立ち上がる。
事態が飲み込めない。
確か私はひととぶつかってバランスを崩し、階段から落ちた。はずだ。
だから保健室か、最悪病院の病室で目が覚めるというのは理解が出来る。もしくは家に帰宅して私の部屋で目が覚めるのは想像出来ることだ。
ここはその選択肢のどれでもなかった。
そしてなぜだか体に痛みがない。あれだけの高さから落ちたのだ。無傷なはずがない。
「ただいま」
カタと扉が開く音と共に声が聞こえた。びくっと反応して振り返った。
そこには見たことのない男のひとがいた。
「…誰」
ドアを開けて入ってきたスーツを着た男性は20代後半のように見えた。といっても15歳の私には、自分より年上のひとはみな同じに見えるから年齢なんて当てずっぽうなのだけど。
その人はやけにきれいな顔立ちをしていた。モデルとか芸能人とか言われてもおかしくないような。
ちょっとたれ目とすっと通った鼻筋に形の良い唇。特徴的なものといえば、右の目じりにある泣きぼくろ。今は眉根を寄せて怪訝な顔をしている。
必死に頭をフル回転しても見たことのない顔だった。親戚知り合いにこんなきれいなひとはいない。
「どうした」
どうもこうもない。いきなり知らないひとに声をかけられたら警戒するのは当然だろう。目線を外さずじりじりと後退する。
「佳奈?」
目を見開く。
「なんで私の名前を知っているんですか!?」
後退した分だけ進んでくる見知らぬ男性。きっちり閉めたネクタイを緩めながら近づいてくる。
「なに言ってんの、お前」
「答えてください」
「…おいおい、新手のどっきりかなんかか?」
トン、と背中が壁に当たる。これ以上逃げられない。そっと目線を走らせると右手のほう、数メートル先にドアがあった。どこへ続くのか、外へ逃げ出せるのかわからないけど、いざとなったらそこまで走るしかない。
と覚悟を決めたところで、男性が立ち止まる。
「なんだ機嫌悪いのか?」
機嫌?悪いに決まっている。
どうやら理由は分からないが、見知らぬ男性によってこの場所に連れてこられたようだ。もしかするとここは男性の家なのかもしれない。
しかし私を拉致する理由が、動機がわからない。そもそも目が覚める前は学校にいたはずだ。点と点があって、その間の橋渡し的な記憶がさっぱりない。
つうと背中に汗が流れた。
いままで考えたこともなかったけど、まさか自分がそういう目にあうとは微塵も思ったことはなかったけど、なんらかの事件に巻き込まれた可能性が高い。
でも、どう考えても、事件に巻き込まれるような覚えがない。普通に学校に行き、普通に生活していた。親が特別お金持ちだとか、容姿に自信があるとか、そう抜きん出たものがない。男性にとって私を拉致したところでメリットなんてなにもないはずだ。
「ここに私を連れてきて何をするつもりなんですか」
声が震えてしまうのは仕方のないことだと思う。おとなとこども。男と女子中学生。力の差は圧倒的で、なおかつ見知らぬ場所で、なにか起きる前から不利な態勢はかわらない。
でもここで隙を見せたら終わりのような気がした。
頼れるものは自分しかいない。気力で負けたら、何もない。
「…連れてきたもなにもお前は自分でここにいるだろう」
怪訝な顔は変わらず、いや、一層強くなっているような気がする。
「ウソ!だって私はこんな場所知らない!」
「…ちょっと落ちつけ、今コーヒーでもいれるから、それから話を聴くから」
「あなたなんか知らない私には話なんてない!私をここから出して!」
「…………知らない?」
ぴくりと男性の肩が揺れる。怪訝な顔から呆れた表情へとゆっくりとかわっていくさまに、私の心がざわついた。
「オマエハオットノカオモワスレタノカ」
………………………………は?
言っている意味がわからない。
もう一度、今度はゆっくりと男性は言った。
「お前は夫の顔も忘れたのかって言ったんだ」
「………………………………え?」
「だーかーら、俺はお前の夫で、お前は俺の妻だろ」
何を言っているのか全然理解できない。
「…夫?」
「三年前に結婚しただろうが」
「…だれとだれが」
「俺とお前が」
「ウソ!」
「ウソなもんか」
「だってそんなことはない。私はあなたを知らないし、第一中学生は結婚できないんだよ!」
「は?中学生?」
今度は男性が押し黙った。
「中学っていえばもう15年も前の話じゃねぇか。なにをいまさら」
「じゅうごねんまえ?」
いつそんなに時が経ったというのだろう。目を瞑って開けるまでが15年?ありえない。
なおもわめく私の言い分をじっと聞いていた男性が長い沈黙のあと口を開いた。
「……お前の言い分をきいていると、自分は中学生で知らない間にここに連れてこられてきた、と」
「そうよ!」
「…とりあえず、風呂入ってこい」
混乱した頭を冷やせ、ってことなんだろう。
その声は有無を言わせないものだったので、おとなしく従うことにする。力の差は圧倒的で暴力振るわれたりしたらいやだもんね。
「でもお風呂の位置もお風呂セットのありかもわからない」
その言葉に目を見開く男性。
「……こっちだ」
案内された浴室へと続く廊下に姿鏡があった。何気なく、本当に何気なく、視線を走らせたのは。
「なにこれ!」
思わず足が立ち止まる。
鏡に映る姿は見たこともないひとだった。いや、見たことはないというとちょっと違う気がする。どことなく私に似ているひと、といった方が正しいかもしれない。
まず制服姿ではない。淡い色のワンピースを着ている。
恐る恐る右手を上げてみる。すると鏡の中の人物も右手を挙げる。
その場で軽く飛び跳ねてみる。同時に鏡の中の人物もジャンプする。
どう見ても、どう考えても、その姿の人物は私、という結論にいきつく。
目を疑ったのは、その姿がどう見ても15歳の私ではなく、おそらく20代ぐらいだったことだ。
「どういうこと!?」
落ち着け落ち着け。なにかの間違いだ。
だってさっき学校でトイレに行ったとき、そこに映っていたのはいつもの私の顔だったのだ。
そしてある事実に気づく。
メガネをしていない。
本の読みすぎで徐々に視力が落ちてついにメガネをかけないと黒板が見えなくなってしまったのが中学2年。つまり去年からずっとメガネをしている。
なのに今はメガネをしていなくても見えているのだ。さっき数メートル離れた男性のほくろを発見できるほどに。メガネをしていなければあの距離では顔すらおぼろげに見える程度の視力のはずだ。
どういうこと。
呆然とその場に立ちすくむ。その様子を背中で感じたのか男性は振り返った。
「どうした」
「………訊いてもいいですか」
「なにを」
「さっき15年前って言いましたよね?」
「そうだ」
「……今、平成何年なんですか」
「平成25年」
がつん、と頭を殴られたような気がした。
「…………私は、いま、何歳なんですか」
本当はこんなこと訊きたくない。でもあるひとつの可能性が浮かんできた。
15歳の私は結婚なんてもちろんしていない。それどころか好きなひとすらいない。
けれど。
「今年30になる」
愕然とした。
信じたくないけど、こんなこと起こるはずがないのに。
いまある情報を総合すると、15年後の世界にタイムスリップしてしまったようなのだ。