5, 優等生の憂鬱
俺にはガチャガチャしか聞こえない。
感情を注げば注ぐ程。
あぁ、もううんざりだ。
俺がピアノに出会ったのは…
いつだっけな。
確か、るりが「やりたい、やりたい!」と駄々をこねた時だ。
うちの親は、兄妹のどちらかが「やりたい」といったものを、2人一緒にやらせた。双子だからといって、同じものを同じようにやらせなくてもいいのに。
ちなみに、るりは自分のことを「姉」だと豪語するが、俺は自分の方が先に生まれたと信じてる。俺たちは「兄妹」だ。実際、親はどちらが先に生まれたかを教えてくれない。親父曰く
「双子に後先かんけーなし。」
だそうだ。
俺たちは、家の近くにある、ピアノ教室に通った。レッスンしてくれたのは、有名な聖美音大を出た、綺麗な女の先生だった。正直、俺はピアノにも、綺麗な先生にも興味なかった。まるで女の子のおままごとまたいな、そんな感じだったから。だけど、レッスンに行かないと、親父からこっぴどく叱られた。
「バカヤロー、おめー、男がブーブー言ってんじゃねーべ!!何でも極めるのが真の漢だ!!はよ行ってこい。行かなきゃ銀ちゃんの飯は抜きだかんな!!!」
思い出した。3つだ。3歳の時にこんなことを言われたんだ。今だと立派なDVで訴えることができるだろうな。
俺とは真逆に、るりは喜んでレッスンに通った。レッスンに行っては、覚えたての曲を、当時あった小さなキーボードで弾いていた。俺は、レッスンの時も家でも、ピアノを弾かず、るりの弾くバイエルやらハノンやらを聞くだけだった。
そして月日が流れ、ついに小学校に上がる前まで、俺は一切ピアノを弾くことはなかった。
しかし、ある日。親父から突かれた。
「のぉ、銀ちゃん。おめぇは月謝免除らしいの。じゃけど、おら、おめぇがピアノを弾く姿はまだ一回も見たことねぇなぁ。ちと聞かせろ?」
そうして、レッスンに親父がついてきた。先生は、少し戸惑いながらも、親父の存在にビビり上がり、俺をピアノの椅子にちょこんと置いた。
「さ、弾いてみ。」
「そ、そうね、銀次郎くん。じゃあ何でもいいわ。好きな曲を弾いてみましょうか。」
「えぇ?!」
本当に「えぇ?!」だった。無茶苦茶だ。無茶ぶりすぎる。今まで何も弾いてなかったのに、いきなり「何でもいいから。」なんて。
俺は、5歳にして物凄いピンチに追い込まれた。弾かないと、今までのことが全部親父にバレてしまうし、何より先生が、今にも泣きそうな顔をしていた。きっと、俺がピアノを弾けないとわかれば、この先生も親父にこっぴどく叱られるだろう…。俺が意地はってただけなのに。
頭の中で、一生懸命音を探した。記憶にある音、音、音…。
「あっ。」
たどり着いた。そうだ、これなら弾けるかもしれない。
俺は、初めてピアノに触った。鍵盤は、冷たくて、重たかった。ピアノにはドレミファソラシドがあることは知っていた。音階を覚えたばかりのるりが、いつも俺に説明していたから。
一曲弾き終わると、親父一人が拍手していた。
「おー、うめーじゃん。じゃ、その調子でこれからも頑張るんじゃぞ。」
そう言うと、親父はスタスタ帰っていった。
親父が帰ってから、今まで唖然としていた先生とるりが、一気に喋り出した。
「ぎ、銀次郎くん!あなた耳がいいのね!凄い!るりちゃんの練習していた曲を耳で覚えるなんて!!」
「銀ちゃんいつ練習してたのー!?すごーい!!パパビックリしてたよ!」
その時は、何で誉められているのかなんで、訳わからなかった。けど俺は、るりがピアノを弾いてくれていたお陰で、音感のいい耳を手にしたのだった。
そう、今俺が聖美音大でピアノ科トップの成績を持っているのも、この耳のお陰なのだ。
結局、成長してピアノに翻弄されたのは、るりではなく俺の方だった。聞けば聞く程、どんどん色んな曲を弾けるようになっていった。それが、とても楽しかった。
ピアノを弾く時、基本的には楽譜の読譜からやる。まずは右手の音から覚えて、弾けるようになったら、今度は左手を覚える。そして、最後に右と左を合わせて弾くのだ。しかし、音大生レベルになると、楽譜が初見であっても、見ながら両手をスラスラ動かし、何とか弾くことができる。
でも、俺は違う。
俺の場合、まずその曲のデモを聞く。聞く回数は2回。1回目は、集中して音を覚える。そして2回目で指をつける。そこまでやったら、もうピアノに向かう。完璧に弾くことができるのだ。
このやり方で何も苦労したことはない。寧ろ、得することの方が多かった。
…はずなんだが…。
今、俺は、初めて苦しい壁に当たっている。
話は2日前。学校の食堂でのこと。
「なぁ銀次郎、今度のミニコミ、一緒にやらない?」
こう話かけてきたのは、月島だった。
いつもの様に、女にキャーキャー言われるにこやかな顔で、こっちを見ている。
「ミニコミ?時期が早くないか?」
「え、そうかな?ま、いいじゃん。やろうよ銀次郎。」
適当なのか天然なのか。そんな感じの月島だが、彼はヴァイオリン科のエースと言われる程の実力者だ。
「おまえとか…。別にいいけど。やるならヴァイオリンソナタかピアノソナタ?」
「ん~、曲は銀次郎がやりたいものでもいいんだ。けど…」
そう言うと、彼は鞄の中をゴソゴソあさり始めた。そして、一冊の楽譜を取り出した。
「ベートーヴェンのピアノソナタ第9『クロイツェル・アダージョ』俺はこれやってみたいんだ。銀次郎と!」
俺は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「は?!ピアノソナタの第9?!これ、ミニコミでするようなレベルじゃねーだろ。」
「やっぱそうかなぁ。」
「そうだよ。まぁ、強いてやるとしても、1楽章までだな。」
「えー、俺は全部やるつもりなんだけど。」
今度は椅子から落ちそうになった。月島のやつ、本気で言ってんのか?
「バカ。ミニコミって持ち時間30分だろ?確か。全楽章やってたら1時間かかるじゃん。」
「いいんじゃない?ダメかな?」
「おいおい…。」
時々、こいつは突拍子もないことを言ってくる。こういうところ、るりに似てたりするから、俺は慣れっこなんだけど。
「月島、おまえ何でこの曲を選曲したの。」
一番肝心なところを尋ねてみた。
すると、月島は少し真面目な顔をして、答えた。
「…俺さ、来年ウィーンに留学しようと思ってて。後半年の間でやれるだけのことをやりたいんだ。このピアノソナタも、一緒に音楽を創りたいと思う人とチャレンジしてみたい。…だから、ピアノは銀次郎じゃなきゃ嫌なんだ。」
俺は初めて知った。月島が留学を視野に入れ、残された時間の中で、成長したいということを…。
「そっか、わかった。おまえがそこまで言うなら乗ってやるよ。次いつ空いてる?」
「明日は午後から空いてる。」
「じゃあそれまでに音を拾ってくるわ。」
「ありがとう!じゃあまた。」
早速家に帰って、防音室にこもった。
この部屋は、音大に通う双子のことを思って、親父が押し入れを改装し、作ってくれた。昔ながらの畳が広がる家に、何とも不釣り合いな部屋だけど。
『クロイツェル・アダージョ』は、ヴァイオリンとピアノが同時にテンポ良く、メロディーの山をかけ上ったり、下がったりする場面が多い曲だ。また、双方の掛け合いも多いから、お互いの音を聞かないと、上手く掛け合わない。
だけど、こういうジャンルこそ、俺が最も得意とするものだ。
次の日の午後、練習室を借りて、早速月島と合わせを行った。冒頭は、ヴァイオリンの高く響き渡る和音から始まる。優れた演奏者程、ヴァイオリンの音色は、まるで人間が歌っているかのように聞こえる。月島の音色は、まさにそれだ。
合わせは、30分程度で終わった。
「よし、まずは1楽章まで。これだけ弾ければ、後は弾き込むだけだね。月島の音もさすがだな。」
ふと、月島の方に目をやった。すると、彼は腕を組んだまま、じっと、楽章を見つめていた。
「…?どうした。」
「いや…銀のピアノもさすがだなと思って。初合わせにしては完璧だったよ。」
そこまで言うと、彼は、俺に視線を当てた。
「ただ、俺の知ってる銀次郎のピアノじゃなかった。何だか…違う人と演奏してる感じだった。」
「俺のピアノじゃない…?」
「こんなこと言って悪いけど。俺は今の銀次郎のピアノは好きじゃない。」
と、いうことで、俺は今絶賛病み期だ。現在、何時間経ったかわからない。俺は、ずっと練習室のピアノと向き合って座っていた。
「何だか…違う人と演奏してる感じだった。」
「俺は今の銀次郎のピアノは好きじゃない。」
あんなに月島からはっきり言われるのは、初めてのことだった。そして、何を改善すべきか、いつものあいつなら、丁寧に指摘してくれるのに、今日は遠回りな言葉しか残さなかった。
何が足りないんだ?何がおかしいんだ?
どんなに尊敬する先生や先輩に言われるより、月島に言われた方が、何倍も気になった。
俺には、何が足りない…?
「ちょっと、さっきからノックしてるんだけど。」
気づくと、扉のところでこちらを見ている女性がいた。全く気づかなかった…。
「あなた、ピアノ科の水原銀次郎?」
「何であんた、俺の名前知ってんの?」
「こっちが質問してるんだけど。」
ツーンと言う効果音が似合うだろうか。そんな態度で、ズカズカと練習室に入ってきた。何だこの女…。こういうタイプ、一番苦手だ。
「…誰かとデュエットするの?」
女は、ピアノの上にあった譜面を見て言った。
「まぁな。」
「『クロイツェル・アダージョ』か。じゃあお相手はヴァイオリンね。私、この曲好きよ。」
そう言うと、女は背っていた楽器ケースを開け、中身を取り出した。
ヴァイオリンだ。
勝手にチューニングを始め、ピアノの横で構えた。
「…何ボーッとしてるの?早く合図ちょうだい。」
「は?今から弾くつもり?」
「だって、貴方この曲練習してたんでしょ?私が一回手伝ってあげるわ。」
何て勝手なやつ。しかも、めちゃくちゃ上から目線。
練習できなくて困ってたわけじゃねぇよ…と、言い出しそうになったが、どこの誰か知らないやつが、ここまでしてくれるなら、練習に付き合ってもらうか。
しかし、演奏が始まると、驚いた。冒頭は、ヴァイオリンの高々と鳴り響く二重和音。月島の場合、繊細だが、芯がぶれない太い音が鳴る。この女は、とにかく力強い。アップテンポになればなるほど、音は激しく、荒ぶる。なのに、全く下品でない。上品なベールをまとっている。 今まで、聞いたことのない音だった。
「…まだそんなに合わせたことないの?」
弾き終わると、女が話かけてきた。
「今日が初合わせ。」
「成る程。やっぱ貴方はピアノ科トップクラスだけあるわね。」
弓に松脂を塗りながら、上から目線で講評してきた。こいつ、絶対生まれも育ちも上級階層のお嬢だ。
「初めて貴方の演奏聞かせてもらったけど、中身が空っぽなのね。残念すぎるわ。」
「えっ。」
俺はハッとした。何だか、天からヒントが降ってきたような、そんな感じだった。
「それ、どういう意味?」
「そうね、感情のない人間って感じかしら。貴方のピアノからは、バックグラウンドが何も伝わらないわ。」
「感情…。」
確かに、生活の中で「無口」「無愛想」なんてことはよく言われてる。けど、音楽においてそんなこと…初めて言われた。
「貴方、もしかして耳で覚えるタイプ?」
「あぁ。」
「やっぱりね。私もそうなんだけど、耳で覚えるだけじゃダメね。“音を詠まないと”。」
「音を?譜読みしろってことか?」
「そうじゃないわ。例えば、この5小節目。貴方は何故ここにFisの音があると思う? 」
「はぁ?そんなの、ベートーヴェンじゃねーからわかるわけねーだろ。」
「でしょ?みんな誰しもそう思うわ。けど、その分からない部分を詠みとるの、想像して。ベートーヴェンの『クロイツェル・アダージョ』は、貴方が思ってる以上に広い世界観があるのよ。」
俺は呆然とした。この曲の背景を勉強しなかった訳ではない。だけど、この人は、それだけの世界観で終わってはダメだと言う。
「それができないのが、私たちみたいに耳のいい人間。だって、音を聞けば弾けちゃうんだもの。」
「じゃあ、あんたは、自分が演奏するとき、少なくともその“音詠み”とやらをするんだな?」
「そうね。私も以前、貴方みたいに演奏してて、教えてもらったから。」
「誰に?」
すると、彼女は俺と目を合わせた。
「月島奏太。私が最もライバルとする男よ。」
思わず汗がすうっと流れた。まさか、この女から月島の名前が出てくるなんて…。
「あら、貴方と話してたらもうこんな時間ね。じゃあデュエット頑張って。」
楽器を片付け、女は練習室を出ようとした。
「ちょっと。結局、あんた誰なの?」
俺は部屋を出ていく女を寸止めし、最後に尋ねた。
「…ヴァイオリン科2年、大神千鶴。ま、いずれまた、貴方とは出会うと思うわ。じゃあね。」
大神千鶴が出て行った後、俺も片付け、やっと帰路に向かった。
あいつに出会ってから、俺は毎日ピアノ室にこもるようになった。
家でも、帰ってくると、ずっとピアノを弾いていた。兄貴がうるさく声をかけてきても、「試験中だから」とはねのけ、しゃこの友達らしき子が、扉の前で寝ていることにも気づかず弾き続け、仕舞いには、犬を飼うだの、どうのこうのいう議論がうっとおしい程、頭の中はピアノのことで一杯だった。
ある晩、家のピアノ室に行くと、るりが中で歌っていた。歌い途中で俺に気付き、戸を開けた。
「あ、ごめん。いいよ、使って。」
るりは、ずっと続けていたピアノを辞め、今は声楽をやっている。俺からしてみれば、ピアノを辞めたのはもったいない感じがしたけど。
「いや、いいよ。おまえ、追試あんだろ?」
るりがギャーギャー言い出した。声楽に転科してから、本当、調子良くないみたいだ。
「それよりもう一回歌って。」
「え?今のアメージンググレース?」
「うん。」
「嫌がらせなら歌わない!」
「そうじゃないから。歌って。」
俺はるりの歌う曲を聞いていた。
思えば、ずっと前から、こうやってるりの音楽を耳にしていたはずだ。曲の世界観をたっぷり表現した、奥行きのある音色を。るりは、こんな風に音楽を表現するのが、昔から上手だ。その表現力が、俺はずっと羨ましいと思っていた。
「…ありがと。じゃあ悪いけど、やっぱピアノ弾かせてくんない?」
「ちょっ、何それ!歌うだけ歌わせといて、感想とか言ってくれないの?!」
「え、言った方がいいの?」
「うっ…。やっぱいいよ!もう!そこから一生出てくんな!!」
るりを追っ払い、また集中した。
初合わせから1週間。お互いの都合が合わず、やっと合わせられる日が来た。
あの日から月島に会うのは久々だ。
「やぁ銀次郎!久しぶり!どう、ピアノの方は。」
「お陰様で。あれからだいぶ悩んだわ。」
「ふふっ、良かった。で、何か答えは見つかったの?」
「ああ、バッチリな。合わせてみるか?」
「是非ぜひ。」
チューニングを終え、月島の視線を待った。
月島が軽く姿勢をこちらに向けし視線を合わせた。その瞬間、身体が大きくうねり、高々と、繊細な太い和音が鳴り響いた。初合わせの時よりも、何倍も分厚く、綺麗な音だった。
ピアノの音に合わせ、難しいリズムを崩さずヴァイオリンの音色が絡んでくる。以前よりも、正確なメロディーで、テンポも上がっているにも関わらず、不思議と、ヴァイオリンの音が、一音一音しっかり聞こえてくる。そして、次のフレーズの情景が、しっかり脳裏に思い浮かぶ。そのイメージに当てはめるかのように、月島の音はどんどん音を奏でていった。
最後の一音が、室内に鳴り響いた時、余韻が気持ちよく耳に残った。
「…凄い…凄いよ、銀次郎!こんなに曲の世界を膨らますことができるなんて!!俺、途中から君の世界に浸りっぱなしだった。凄く気持ちいい音楽だったよ!やっぱり、君は本物の天才だね!!ありがとう、銀次郎!」
「いや、礼を言うなら俺の方こそ。初合わせで、おまえが正直にああやって言ってくれなかったら、曲に向き合うこともできなかったんだ。おまえの方こそ、優れたヴァイオリンニストだ。」
こんなに、音楽に真面目に向き合ったことは、正直なかった。だからこそ、今、感じたことない、スッキリした気持ちでいられる。
俺は、俺自身が優れていた訳じゃないんだ。
耳がいいことが才能じゃないんだ。
月島や、るりや、大神千鶴…。
俺は、周りの人間に恵まれてたんだ。
それから1週間後、俺たちは学校内にある聖美堂ホールにて、本番を迎えた。
聖美音大の学生が主催する、このニコンサート、。この日、ホール内にいたゲストは1万人。溢れかえるような人が集まってくれたお陰で、ミニコン史上最大のコンサートになったそうだ。
聖美音大生の、大きな目玉は、年度末ラストの定期演奏会。有名な音楽家が招待され、やって来るこの演奏会は、成績順で、奏者がエントリーされる。だから、学年関係なく、誰もが出演を目標としているのだ。
勿論、俺の一番の目標も、定演に出ることだ。 この定演をめぐり、大きな出来事が起こっていく話は 、また今度。