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迷うことがある

作者: 竹仲法順

     *

 気分が塞ぎ込むことがある。俺もどうしようもなく迷いの袋小路に入ってしまうことがあるのだ。そういった状態がここ一週間ほど続いていた。普通にサラリーマンだったが、勤務時間中も何かと冴えない。俺自身、出社恐怖症になることがあった。下手すると、家から一歩も出たくないと思ったりすることもある。これはおそらくメンタルヘルスが影響しているものと考えられた。仕事をしながらも胃が痛くなったり、腹痛を起こしたりすることがある。上司やほとんどの同僚たちは俺の状態に気付かない。単にコイツの顔色が冴えないなという程度で。そのとき、たまたま一緒のフロアに詰めていて、仲がいい同僚の女性社員の木佐貫(きさぬき)洋子(ようこ)が、

「杉田君、顔色悪いから、一度ここに行ってみたら?」

 と言って、メンタルケア専門の心療内科のパンフレットをくれた。電話番号が書いてあったのでいったんフロアを出、持っていたスマホを使って連絡してみる。電話先の受付の女性が「来週月曜日の午後四時においでください。その時間なら院長も都合がいいので。お待ちしております」と言ってきたので、俺も「分かりました」と返し、電話を切った。そしてフロアへと戻り、立ち上げていたパソコンを使って仕事を再開する。人生でもこういった時期があるのだ。メンタル面で疲れるということが。俺もちょうど三十代半ばに差し掛かる頃で疲労が溜まっていた。普段大人しい方だが、どうしてもストレスや疲れを溜め込んでしまうのだろう。次の月曜の午後四時に一体どんなドクターと会えるのか、楽しみにしていた。俺自身いろいろと気に掛けていたのだが、今考えてもしょうがない。全部は診察室で話すつもりでいた。それにしても心療内科は初めてだ。俺も一度も行ったことがない場所だった。今、日本で急増しているメンタルヘルスに対応するため、こういった場所が増えているのだ。常識では考えられないぐらい。迷いも戸惑いもここで話せばいい。そう思っていた。

     *

 あっという間に週末が明け、月曜日が来た。午後四時に心療内科<中居クリニック>に行けばいいから、余裕を持ってゆっくりと構えている。フロア内は相変わらずパソコンのキータッチ音が鳴り続け、プリンターやコピー機などの作動音も聞こえていた。おまけに電話も鳴りっぱなしである。こんな場所に一日いたら、誰もがクタクタに疲れるだろう。俺もそう思っていた。認めるしかない。職場環境の悪さを。それに大学卒業後、勤務し始めてから実に十年以上になる。肩書きはないのだが、後輩社員たちはいた。俺もそういったことは意識している。まだ後輩は入ってきたばかりの人間も若干名いたので、いろいろと教え込むことから始めることにして。

 静かなクラシック音楽が掛かった待合室でずっと待ち続ける。普通にスマホをネットに繋ぎ、ニュースなどをチェックしながら待っていたのだが、さすがにこの雰囲気は独特だ。物音一つせず、普段仕事に追われている俺から見れば、何かしらシェルターのようなものに思えたので違和感があった。ここがメンタルヘルスを病んだ人たちの来る場所だなと思って。

「杉田様、どうぞ」

 看護師に声を掛けられて立ち上がり、ゆっくりと診察室へ向かう。白衣を着た壮年の男性ドクターがいて、

「初めまして。院長の中居です」

 と言った。俺も一瞬躊躇ったのだが、

「杉田です。どうぞよろしくお願いします」

 と返す。中居がずっと目の前のパソコンの画面を見てキーを叩きながら、俺の言ったことを情報として打ち込んでいく。時折「そうですか」とか「ええ」と相槌を打ちながら……。そして十五分程度診察した後、

「軽めの鬱のようですね。お薬をお出ししておきますので、服用なさって様子を見てください。またお悪いようでしたら、予めご予約を入れてからご来院ください」

 と言った。一礼すると、

「お大事に」

 という声が背後から聞こえてきて、次の患者が入ってきた。俺もさすがに人生の中でこんな体験をするのに違和感を覚えていたのである。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けてから歩き出す。診察が終わった後で疲れが取れていた。罹っていた症状も一時的なものなので、別に悪いことじゃないなと思い……。洋子が紹介してくれたことが一番ありがたかった。待合室でまたスマホを見ながら情報を仕入れる。さすがに実社会で動くサラリーマンにとって時間は命だ。俺もそう思いながら生きていた。時間など作りさえすればいくらでもあるのだが……。確かに焦るときもある。だがそういった風に考えてしまうと、せっかく収まっていた症状がまた元に戻ってしまう。俺も気を付けていた。焦りすぎないよう。

     *

 受付の女性から呼ばれ、病院代を支払って出た。俺もさすがに蒸し暑さに加え、辺りには熱が滞留しているので参っている。だがもう午後五時半過ぎだ。同じビルの一階にある処方箋薬局で薬を受け取り、飲み方などが書かれた紙も同封してもらってからカバンに入れ、歩き出す。一日が終わったわけじゃなかったのだが、会社は早退しているのでこれから自宅に帰るつもりでいた。淡々とした作業が疲れを生むというようなことをドクターが診察中に言っていたような気がする。俺もなるだけそういった状態は避けようと思っていた。別に気にしていても始まらない。明日からまた通常通り出勤だ。ゆっくりと歩き始める。自宅までそう遠くはないのだし、ここからだと徒歩で十分行けるので。自宅とオフィス、それに病院の入ったこのビルはちょうど歩いて行き来できるようになっている。俺も気が楽だった。予約さえ入れれば、いつ来てもいいと言われていたのだし、社での仕事の方は相変わらずずっと続く。パソコンのキーを叩きながら、いろいろな物を作るのだが、慣れているので平気だった。ただオフィスに入るとどうしても疲れてしまう。処方された精神安定剤や睡眠導入剤はどれも軽めのもので、飲めばリラックスできる。俺も早速その日の夜に薬を飲んでみたが、よく効いた。ずっと仕事をしながら、時折スランプのような物を感じることがある。心が晴れない日もあった。だがそれも人間だ。また心に太陽が昇る日も来るのである。そう思って仕事をしていた。人生に迷いは付き物だと思っていて……。そう考えられればこそ人間は生きていける。また本調子になれる日が来るのを願いながら……。

                                (了)


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