第一話
「おばちゃーん、コロッケ五つ頂戴」
「はいよー。今日も元気そうだねぇ」
「おいおい……相変わらず騒がしい場所だな」
青年はあまりにも変わっていない故郷を見て、感動を通り越して呆れを覚えた。彼にとってはここを去ってから十二年目の帰郷となるが、目の前の光景に現実感が湧かずにいた。土地に戻ってきたというよりも、時間に戻ってきたかのような感覚が青年を襲う。
暫くの間、奇妙な感覚に戸惑っていた青年だったが、多くの人で混み合っている中でつっ立っているわけにもいかず、とりあえずぶらぶらと歩いてみることにした。
「お、あの惣菜屋……まだ残ってやがったのか。繁盛しやがってこのやろう」
「相変わらず忙しそうだね。無理してない? ……はい、お代」
「はいよ。……まあ、この程度で倒れてるんなら、わたしゃ今頃南無三してるね」
「そろそろ本当になるかもしれないけどね。……それじゃまたね!」
「……ちょっと買ってくか」
自然と笑みを浮かべているのにも気付かず、小走りで惣菜屋へと近づく青年。ところが、彼は目の前から少女が歩いてきているのに気が付かなかった。少女のほうもまた同様だ。なにしろ、青年は百八十センチ超の大男。対する少女はギリギリ百三十センチとかなりの身長差がある。
これだけなら少女のほうが気付きそうなものだが、更に青年は惣菜屋を真っ直ぐに、少女のほうはビニール袋ばかり見ていたのだ。
そうなると、必然的に二人は激突してしまい、身長差がある二人では──
「きゃっ!」
「おろ?」
といった具合に、少女だけが倒れてしまう。少女が倒れるのに気付いた青年は当然腕を伸ばして支えようとするが、如何せん少女の背が小さすぎた。青年の腕は届かず、少女はそのまま尻餅をついてしまった。
「悪い! ……大丈夫か?」
「だ、大丈夫……よっと」
心配そうに問いかける青年を制し、ゆっくりと少女は立ち上がった。それなりの勢いで転んだが、咄嗟に受け身をとったため少女に大した怪我は無い。しかし、青年にはそれが疑問に思えた。
まあ、当然のことだろう。普通の少女が咄嗟に受け身など、到底できるはずもない。柔道部員という線もあるかもしれないが、青年は目の前の小柄な少女がそんなフィジカルのある人物とも思えず、もう考えるのを止めてしまおうかと考えた。
いや、実を言うと彼の中には一つだけ心当たりがあった。あったが「いや有り得ない」とすぐさま否定した。なにせ十二年前のことである。もしかしたら、この少女はまだ生まれてすらいないかもしれない。青年はそう考えたのだ。
ところが、そんな青年の考えはすぐに打ち消されてしまった。
「……あれ? もしかして……あんた日雨?! えーっと……たしか名字は遠藤だったよね?」
「……奏、か?」
「そうそう! うわー懐かしー! ……ていうか、なんで奏? あんたわたしのこと、相沢って呼んでなかったっけ?」
恐る恐る尋ねた青年──遠藤に、少女──相沢は花開いたような笑みで答える。対する遠藤はまるで世界が終わることを神に先刻されたかのような衝撃を受け、いまにも地面に倒れこみそうになっていた。まさか、幼馴染がこんなにも成長していないなどとは、まるで考えていなかったからだ。
確かに十二年前でも相沢は当時から身長が高めだった遠藤より、多少低めの身長をしていた。遠藤の頭には今も「どうせ大人んなってもでかくなんねーんだろーなー」と言ったことが焼き付けられている。
(だからってこれはないだろうが! 成長してんの胸ぐらいだし! 合法ロリってやつなのか?! そうなのかーッ?!)
「どうしたの日雨? ……いやまあ、考えてることは大体分かってるけどさ……ふふ」
「うっ……」
あまりにも切なそうに自虐的な笑みを浮かべる相沢を見て、遠藤の中に若干の罪悪感が生まれる。ところが、遠藤がとった行動は慰めではなかった。
遠藤は相沢の顎を掴んで顔を少し上げさせると、頬を軽くはたいた。
「んなちっせぇこと気にすんなよ。そんなの気にしてたら、それこそ肝っ玉がちっせぇと思われるぜ?」
予想していなかった行動に驚いた顔をする相沢。しかし、相変わらず優しさの表し方が下手な幼馴染がおかしくて、先程までとは一転して柔らかい微笑みを浮かべた。
それを見た遠藤も、十二年前とのギャップに微笑んだ。
十二年前の二人の関係は、あまり微笑ましいものではなかった。幼馴染というよりも喧嘩相手という呼び方のほうが相応しい。
なにせ、顔を合わせれば殆ど喧嘩ばかりしていたのだ。原因はいつも相沢で、いいかげん止めたいと願う遠藤の鳩尾にストレートを入れようとし、それをいなされてまともな殴り合いに持ち込まれ、最後には返り討ちに遭っていた。稀に逃げ出すこともあったが、結局は捕まってしまい、当然その後痛い目に遭っていた。
それでも相沢が挑戦を止めることはなく、遂に引越し前日までその喧嘩は続いてしまったのだった。当時、底なしの体力と桁外れの集中力を誇っていた遠藤が夜にぐっすり眠れていたのは、この相沢との喧嘩のおかげかもしれない。もっとも、遠藤にそのことを感謝する気はまったく無いが。
──と、過去の思い出に浸っていた遠藤の鳩尾に強烈な痛みが走った。
原因は言わずとも分かっていただけるだろう。
……そう、相沢が現役の格闘家が惚れ惚れしてしまうようなストレートをぶちかましたのだ。人通りの多い商店街のど真ん中で。
「相沢アアアアアアアアアアアッ!」
「ふはははは! 油断しているからだ馬鹿者め!」
既に遠くへ逃げた相沢を追おうとするが、まさかこの人混みの中を走るわけにもいかない。そのくらいの良識は遠藤のほうにはあった。しかし、だからといってここで逃がすというのも少し癪に障った。
短い時間で様々な方法を考えた結果、仕方がないので遠藤は遠慮なく走る為に──屋根に「飛び乗った」。
けして建物は低くはなく、尚且つ人混みの中という悪条件でのジャンプだったが、遠藤はあっさりと屋根に着地してみせた。周囲の視線を痛々しく感じる遠藤だったが、今はそんなことは気にしていられないと駆け出す。その速度はもはや車を追い抜かすほどだった。(商店街に車が走っているわけもないので、確認の仕様が無いのだが)
無論、靴にバネが仕込まれていたりはしない。これは遠藤の脚力のみで行っていることだ。
そして、相沢も既に屋根を駆けていた。その光景を殆どの人が不安そうな目で見るが、昔から住んでいる人々は驚きと、それと懐かしさを籠めた瞳で見つめていた。逆に言えば、かなり小さい時からこんな化け物じみた行為を行っていたということになるが、とても嬉しそうに二人を見つめている人々にそれを聞くような無粋な者はいなかった。
「待てやゴラァ!」
「待つわけないでしょバーカ!」
鬼のような形相で追いかける遠藤と、満面の笑みで逃げ続ける相沢。傍から見れば遠藤が劣勢のように見えるが次の瞬間、そんな傍観者達の考えは覆される。
建物の上を高速で駆ける相沢。その前に、遠藤が先程までとは比にならない速さで回り込んだ。
「ッ! ……いよいよもってふざけた能力してきたわね、あんた」
「ざけろ。人混みん中でいきなり鳩尾殴るお前のほうがよっぽどクソッタレだ」
刺々しい遠藤の言葉に、相沢は冷や汗を垂らしながら苦笑を浮かべる。相沢としてはこのまま逃げおおせてしまうつもりだったのだが、残念ながらそれは失敗におわってしまった。そう、「逃走」という二択のうちの一択が消えてしまったのだ。
──つまり、残りの一択である「戦闘」をしなければならない。
それだけは避けたかったというのが相沢の本音だったが、もはや彼女に逃げ場は残されていない。いや、逃げる方法が無いと言ったほうが正しいのかもしれない。逃げれないことに変わりはないが。
「来いよクソ野郎」
「……上等よ、お天気野郎!」
こうして、建物の下に住む住人にとって迷惑すぎる喧嘩が始まった。
先に動いたのは相沢だった。先手必勝を狙ったもので、遠藤に向かって突っ込んでいくそのスピードはとても普通の少女に──男子でも厳しいくらいだが──出せるスピードでは無かった。対する遠藤は、力む相沢とは対照的に完全な脱力状態に入っていた。かったるそうとも言うが、今はそれは措いておく。
遠藤を間合いに捉えた相沢が、鳩尾に鋭いストレートを入れようとする。しかし、銃弾の如き勢いで迫ってくる拳を遠藤はたいしたことではないと言わんばかりに軽く受け流した。事実、遠藤にとってはたいしたスピードではない。脚力同様、動体視力も遠藤は相沢を遥かに上回っているのだ。
初撃をいなされてしまった相沢は、慣性の法則に逆らわずに真っ直ぐ突き進んでいった。下手にとどまってニ撃目を打ちこもうとしても、その前に反撃を食らってしまうからだ。その判断は正しく、当の遠藤も賞賛を湛えた眼差しで相沢を見つめる。完全に上から目線であったため、相沢は喜ぶどころか憤慨してしまったが。
「あーもう、ホントむかつくわね……」
「お互い様だろ、バカヤロウ。感動の再会の後に鳩尾殴られた俺の気持ちにもなりやがれ」
「お断り──よッ!」
勢い良く放たれたニ撃目は、受け流すことを許さぬよう遠藤の体を真一文字に切る回し蹴りだった。これには遠藤も驚いたようで、瞳に少しだけ驚きの色を浮かべた。しかし、所詮はその程度のことであり、遠藤はそれを軽く飛び退いてかわした。
「成る程、良い蹴りだワトソン君。確かにその蹴りは受け流しにくい。けど君には足りないものがあるのだよ。……まあ、言わんでも分かるだろうけど」
「うるさいデカヤロー! クソー……なんであんたばっかそんな身長伸びてるのよぉ!」
いやらしく笑う遠藤に相沢は涙目で憤慨する。精神面だけでなく、物理的にも上から見下されているのが余計に傷付いたようだ。勿論、そこまで計算して遠藤はやったのだが。
遠藤が指摘した相沢に足りない点とは手足の長さだ。相沢は小学生と間違われかねない身長に比例して手足も短い。……つまりリーチが短く、そのせいで遠藤に簡単に蹴りを避けられてしまったのだ──まあ、長くてもどうせ上に避けられてしまうだろうが。
圧倒的な実力差を実感して憤慨しつつもやや諦め気味な相沢に、ゆっくりと遠藤が近づく。遠目に見ると死刑執行者のように見えるが、雄大に力強くコンクリートを踏みしめるその様は王といったほうが正しいだろう。
罪人を裁かんとする王は冷や汗を垂らしながら立ちつくす罪人の手を取り──一瞬で横倒しにしてしまった。
状況を飲み込めずに暫く呆けていた相沢だったが、遠藤のデコピンによって我を取り戻した。
「痛いなぁ……自分の筋力分かってる?」
「鳩尾殴られるのに比べりゃたいしたことねえよ。それに、厳密に言えば筋力じゃねえだろうが」
「……そうね」
立ち上がることなく横たわる相沢の瞳はどこか寂しさが滲んでいるようであったが、立ち去ろうとしている遠藤がそれに気付くはずはない。気付くはずはなかったのだが、遠藤はかったるそうに溜め息を吐くと相沢のほうへ振り返った。
「そんなしんみりすんなよ。ボコさないのはただ……俺が腑抜けちまっただけだ。距離が開いたわけじゃねえよ」
自分が考えていたことを言い当てられ、相沢は驚きを隠すことなく遠藤のほうを見る。
「……せめて、どうして私が倒れてるのかのネタばらしぐらいしなさいよ」
再び広々とした青空を見つめながら、一人呟いた。それが遠藤へと向けた疑問の言葉なのか、形の崩れてしまったコロッケを意識しないための誤魔化しの言葉だったのかは本人だけが知ることだ。