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短編小説

選択の許された谷底

作者: 一天草莽

<まえがき>

本作はフィクションです。

現実には存在しない「自殺権」というものをテーマに話を考えましたが、この短編で自殺の是非や自殺権についての議論を深めるといった意図はありません。

もしかすると人によっては不快な思いをされるかもしれませんが、そこはどうかご容赦ください。

 その深い奈落の底には、きっと多くの悲しみが眠っていることだろう。

 闇に葬り去られたそれら悲しみの成れの果てが、一体どのような決意を伴ったものなのか、そのすべてを知っている者はおそらく存在しない。

 きっと夢も希望も存在しない、本当にやりきれない絶望を引き込んだこともあるのだろう。

 それでも誰も、この世の誰一人として、今まさに彼らの死に行く姿を前にしてもなお、実際に奈落の底へと旅立った彼らを引き留めることなどできなかった。

 なぜならそれが、法律的に許された行為だったからである。

 社会的に認められた選択肢の一つであり、市民に与えられた数ある権利の一つだったのだから。

 たとえば、誰もが理想として真の自由を求めながら、現実にはすべてを自由にすることなど許されなかった時代。そこに生きていた人々は、どれほどの不満や不幸をその身に溜め込んでいたことだろう。


 ――吐き出すことができるなら、それに越したことはない。発散できることならば、それでチャラにしてしまえばいい。他人に迷惑をかけない限りなら、そんなことが許されたって構わないのではないか。


 だからこそこの時代、それゆえにこのN国では、多くの権利とまた同様に、すべての人間にとある権利が付与されている。

 それは名を、自殺権。

 文字通り、当人が望めばその死を許容するというものであった。

 それはあたかも、咲き頃を終えた桜の花が散っていくときのよう。まだ散ってしまうには早すぎると誰もが儚く憂えて惜しむのに、声は届かず潔く散っていく桜の花びらのよう。

 それはあたかも、人知れず死期を悟った猫のよう。自らの死に場所を求めてさまよう、世間の誰にも見向きされない野良猫のよう。

 それは決して、皆が皆、本当の意味で望んで勝ち得た権利ではない。

 しかしながらそれは、誰もが誰も、本気で拒否したがった権利でもないのだ。

 ただそれは、無慈悲なほどに誰にも平等に与えられていて、その権利を奪い取ることは、もはや誰にもできない代物に違いなかった。

 だからもし、たとえばそれが授業やニュースで議論のテーマとして取り上げられるだけにとどまらず、ふとした日常の瞬間に、身近な話題として耳にすることがあっても、なんらおかしくはないはずなのだ。


「自殺だって?」


 それは、驚きによって導かれた半信半疑を含む声。

 不謹慎ゆえに冗談では済まされないものの、純粋に興味を引く噂。


「ああ、どうもそうらしいぜ」


「でも、そりゃあ……ずいぶんと急な話だな」


「ああ、ニュースになるまでは何事も静かなものさ。当事者でもない俺たちにとってはいきなりのことで、すなわち驚きだ」


 とはいえ、その驚きは珍しさだけのせいではないだろう。

 普段聞き慣れてはいるものの抽象的に過ぎない言葉が、突如その実体をあらわにしたことで、少なからず彼らの死への根源的恐怖、たとえば畏怖や忌避の念を引き起こしたせいでもあった。


「それにしたって、あの穏やかな性格で知られる佐藤がか?」


「そうさ、あの自己主張の弱さで知られる佐藤がだ」


「あの口答えもしないことで有名な、もの静かな佐藤がか?」


「そうだと言ったぜ。あの他者になされるがままの佐藤がさ」


 ――佐藤。

 おそらく彼のことを知らない生徒はこのクラスにいないだろう。

 だが一方で、同様に彼のことを詳しく知る人間もいないのかもしれない。

 そのことを端的に言い表すのならば、佐藤はクラスの輪からはじき出された友人の少ない、いじめられっ子であった。


「もしかして、佐藤は苦にしたのだろうか」


「彼が何を苦にしたって?」


「いじめをに決まっているだろう」


「……かもしれないな」


 現時点で少なからず、いじめの事実はクラスメイトに確認されていた。

 とはいえ、彼に対するいじめはクラスの面前で公然と行われていたわけではない。むしろ少数の実行犯を中心にして、その事実をひたむきに隠そうという意図が少なからず感じられていて、おそらく教師連中にはその痕跡すら見出せなかったのだろう。


「しかし、自殺か」


「衝撃かい?」


「うん、なんだか罪悪感があるな。彼を見殺しにしたようで」


「まあ、確かにね」


 そう言って彼――尾崎は腕を組んだ。

 そしてそのまま遠い目をして、こう呟く。


「……俺たちは傍観していただけなんだよな」


「そうなんだけどさ、それにしても言い方が他人事じゃないか?」


「悪いとは思う。無責任だとも感じる。……だけど、こうしていざクラスメイトが自殺することを決めたらしいと聞いても、いまいち実感がわかなくてさ」


 たとえば、もしも彼が法律的に結婚することのできる年齢に達したとしても、そのとき実際に結婚するべき相手が彼の隣にでもいなければ、彼はしかし結婚という言葉について実感を持って理解することはできないだろう。

 物事とは、本質的にそういうものである。

 自分にとって直接的に関係のないものは、所詮、頭の中で理解しているつもりになっているに過ぎない。


「なあ、佐藤に会えるかな?」


 そう言ったのは、尾崎の親友である木川であった。

 ところが尾崎は頷かず、渋い顔をして答える。


「どうやら今日は佐藤の奴、すでに学校を欠席しているらしいな。自殺するって話が真実なら、もう彼は手続きに入っているころだろう」


 自殺権とは、文字通り自殺する権利のことである。

 しかしながら、権利とはいえ、もちろんむやみやたらに自殺することを許すものではない。法律に定められた資格と手続きを満たしてこそ、それが初めて権利として認められるのだ。

 それはまず、本人が十八歳以上であること。

 そして、権利者自らがそれを正式に望むこと。

 基本的にそれらの条件は、自殺権を行使する本人が必要事項を漏れなく記入した書類を、役場の窓口に提出することで確認される。

 それが受諾されると、いよいよ自殺への道が開かれてしまう。

 まずは日取りと場所の決定である。これは多くの場合、申請から一ヶ月以内に、最寄りの火葬場付近に用意された崖で行われると決まっている。

 それが済むと、本人の身辺整理のための時間が与えられる。

 また、それと平行して関係各位への通達がなされる。

 友人であるとか、親戚であるとか、大抵の知人には書面によって日取り等が通達される。

 そして最後は唯一正式に認められた自殺方法である、整備された崖からの飛び降り自殺なのであるが(ちなみに、なぜ飛び降り自殺しか認められていないのかといえば、この権利の履行にはそれだけの覚悟を必要とするということ、つまり軽々しく自殺を選択させないための防波堤としているからなのであるが)、その前に一つだけ必ず志願者が通過しなければならない最後の関門がある。

 それは、事前葬式というものだ。

 自殺志願者の葬式が、自殺の実行前に執り行われるのである。遺影や棺の代わりに、まだ生きている自殺志願者を前にして、彼と向き合う形で粛々と彼の葬式が行われるのだ。

 ――この葬式には、色々な意味が含まれている。

 たとえばそれは、友人や知人の発するであろう、彼の自殺を思いとどまらせるような言葉であり。

 たとえばそれは、当人からの懺悔、後悔、諦観の吐露であり。

 たとえばそれは、仏僧による読経であり。

 たとえばそれは、自殺を覚悟したわが子を前に泣き叫ぶ両親の、普遍なる愛情を伝える最後の可能性である。

 いざ振り返れば数多くの希望をなくした若者たちが、この事前葬式を実際に体験して初めて、見失っていた幸せを発見することにより自殺を思いとどまったこともある。多くの希望なき大人達も、やはりこれによって思いとどまることがあった。

 ――それでもなお、思いとどまることなく自殺へと突き進む人間が毎年三万を越えることもまた、疑いようのない事実ではあるのだが。


「佐藤の事前葬はいつになるか、わからないかな?」


「わかったとして、お前は行くつもりなのか?」


 そうやって尾崎に面と向かって追求されると、木川も自らの感情に疑念を抱かずにはいられない。


「……だって、彼はクラスメイトだろ?」


「ああ、クラスメイトだ。だけどたったそれだけの理由で、君は他人の生き死にについて容易く関われるのかい? 今まで見て見ぬ振りをし続けてきた俺たちに、彼の決断を見届ける資格があるとでもいうのかい?」


 そこまで指摘されると木川は、どうしても迷ってしまうのだ。

 果たして自分は、死を決意した佐藤に向かって一体何を言うために事前葬へ行こうというのか。

 それとも自分は、単なる義理として、所詮は礼儀の一つとして彼の決断を見届けようとしているだけなのか。

 いつしか胸の痛みを覚え始めた彼は、厳しい顔つきを崩さない尾崎の鋭い視線から逃れるように顔をそらせた。

 教室の窓からそっと見上げた空は、いやなくらいに青々と晴れ渡っていて、それが彼にはいかにも皮肉としか思えなかった。







 それは、翌々週の土曜日だった。

 木川は制服に身を包むと重々しい足取りで家を後にして、すぐ近所のバス停から午後一番のバスに乗り込んだ。もちろん向かう先は、この町の外れにひっそりと佇む式場である。

 式場前のバス停で下車した彼は、立派な式場を直近から感慨深く見上げるよりも先に、したり顔でバスを出迎えた尾崎の姿を目にして驚嘆した。


「君は絶対に来ないと思っていた! くそう、てっきり!」


 先ほどまで自分が暗く沈んでいたことも忘れ、友人の前で悔しそうにして木川は地団駄を踏む。


「おいおい、やめてくれ。どうか今すぐに子供じみた真似はやめてくれ。そのままじゃ友人である俺まで非常識だと思われる」


「う、それもそうだな……」


 いたって冷静な尾崎に注意されてしまい、顔を赤くしつつあった木川は自分の非常識さに思わず身を縮こまらせてしまう。粛々と式場に入っていく人たちは大人から子供までがほとんど全員、沈痛な表情を浮かべていたのだから。

 今日はこの式場で、自殺を決意した佐藤の事前葬式が行われるのだ。

 彼らの周囲はすでに、重々しい空気に包まれていた。


「ほら、わかったら早く式場に入ろうぜ?」


「わかってるよ……」


 なだめられるように尾崎から肩を叩かれた木川は、いかにも渋々といった様子で歩き出す。

 もちろんこれは彼らにとっても、気乗りするような出来事ではなかったのだ。なにしろクラスメイトの自殺だ。今からでも否定できるものなら、多少の無理をしてでも否定してしまいたいと願うほどだった。







 式場の中は、すでに大勢の人間で埋め尽くされていた。

 尾崎と木川は溢れつつある人混みに圧倒されながら、佐藤の自殺という決断が、少なくともこれほどの人間に影響を与えるものだと実感し、それが不謹慎だとわかっていても、思わず感嘆してしまうのだった。


「俺たちは単なるクラスメイトだから、後ろのほうに座るか」


「まあ、そうだろうな。それでも人がもっと多くなれば、俺たちは立っていなくちゃならなくなるだろうけど」


 そんな心配をめぐらせた彼らではあったが、さすがに全員が座れないほどの満席になることはないまま、抑揚のないアナウンスの声で粛々と佐藤の事前葬式が開始された。

 式場の係員に手を引かれ、列席者の前の壇上に一つだけ置かれている小奇麗な椅子へと、集まった面々と向き合うように座らせられる佐藤。

 その顔には感情という感情もなく、明確な緊張もなく、ただまっさらに彼の心境を語っていた。

 彼の登場とともに湧き上がった小さなざわめきも、やがて始まった仏僧による読経によってかき消されてしまう。それでもわずかに漏れ聞こえたすすり泣きは、果たして一体誰のものであるのか。

 佐藤は始終、能面のような表情を崩さなかった。







 それから、いくつもの修羅場があった。


「あんた……、なんて馬鹿なことを! あんなにお腹を痛めて産んであげたのに、今度は私の心を痛めて死んでいくつもりなのかいっ?」


「母さんが泣いているのがわからんのか! お前はそこまで馬鹿になったのか! 父さんだってな、お前が育っていくことこそが幸せだったというのに!」


「いいかい、佐藤。先生はな、今でもお前の相談に乗る用意ができている。今までは何もできなかったかもしれないが、これからはお前のために尽力したいんだ」


「佐藤君……。僕は君と高校で離れ離れになってしまったけど、子供のころから友達だったじゃないか……。僕を残して先立つなんて、あまりにもひどいよ」


 ……だのに、佐藤はそのすべてを飄々と切り抜けてみせた。

 さすがに彼の風貌から余裕というものは感じられなかったが、また同様に動揺も苦悩も見て取られなかったからであろう。

 誰もが彼を思いとどまらせることなど不可能であると想像した。

 ところが、最後に佐藤の前へ声を掛けに行く面々は、その諦めというものを知らなかった。決意を胸に秘め、確かな足取りで突き進んでいた。

 その数人の男子生徒である彼らこそ、クラスで佐藤をいじめていた張本人たちである。


「……すまなかった!」


 開口一番、彼らは口をそろえて謝罪した。頭を深く下げながら、祈るように、哀願するように、ただただ佐藤の返事を待っている。


「……だけどね」


 重い口を開けた佐藤は、その声に反応して顔を上げた彼らの顔をゆっくりと眺め回しながら、こう続ける。


「君たちに謝られたところで、僕は何も変わらないよ。許して欲しいっていうんなら、うん、別に許してあげるけれど」


 佐藤はそう言うが、それが望んでいた許しとは似ても似つかぬ投げやり口調だったためか、彼らはたまらず佐藤に向かって身を乗り出す。

 本当の許しを、真実の許しを得るために。


「もしかして何か漠然と社会に不満があるのか? その、やっぱりクラスの状況に問題があったのか?」


「もしも俺たちのいじめが原因だっていうんなら、佐藤。俺たちは謝るよ。……だから、こんな後味の悪いやり方だけは止めてくれ」


 しかし、そう言った彼らの言葉を遮るように、佐藤は首を振りながら口を開く。

 まるでそれは、何もかもが手遅れで、無駄であると言わんばかりに。


「……違うんだ。僕はね、自分を取り囲む社会なんか実際どうでもいい。君たちのことだって恨んじゃいない。僕はもう単純に、自分に絶望してしまっただけなんだ」


「でもさあ、お前を絶望させてしまったのは、俺たちなんだろ?」


「そういう意味では、うん、むしろ感謝したいくらいだ」


「佐藤……」


 彼らはその後も佐藤に語り続けたが、ついぞ佐藤は折れなかった。

 柳に雪折れなしの言葉通り、意志薄弱たる佐藤の決意は、並々ならぬものがあったのだろう。







「悔しいな」


 やがて静まり返った式場の中で突如そう呟いたのは、今まで後方にて事の成り行きを黙って見守っていた木川であった。


「木川?」


「なぁ尾崎。俺はずっと黙っている心積もりだったが、いよいよ佐藤の奴に言ってやりたくなったよ」


「おいおい、いきなりどうしたんだよ? お前には特別、あいつには何かを言う資格なんてないだろ?」


 あきれたような尾崎の言葉を耳にして、とっさに自問自答を繰り返した木川。確かに今、佐藤と同じクラスだったとはいえ交流のなかった木川の立場では、彼を諭すだけの思いや言葉などが出てくる可能性は低いだろう。

 それでも、やがて自分の中で一つの答えを見出した木川は、隣で訝しがる尾崎に向かってこう言った。


「ああ、なるほどそうかもしれないな。今さら俺には佐藤のところへ行く正当な理由なんてないだろうよ。ひょっとすると権利もないかもしれない。そしてこれは、間違っても優しさや正義なんかじゃないはずさ」


「だったら……」


「だけど俺はさ、やっぱり誰にも死んでほしくないんだ。誰かが自分から死にたいなんて言ったら、俺は悲しいんだ。……それだけじゃない。うまく説明できないけど、まるで生きることそのものを否定されたように感じるんだ。このまま彼を見殺しにすると、なんだか自分まで殺されてしまう気がする」


 木川はそう呟くと、尾崎の制止も振り切り、みんなの前で悲痛な覚悟を噛み締めている佐藤に向かって駆け出した。

 そして初めて驚いた顔を見せる佐藤を前に、木川は声を張り上げる。


「おい佐藤、お前も権利なんかに踊らされるなよ! 死んでいいからって、自殺していいからって、たとえそれが認められていたって、だからってお前がそれを選ぶことを俺は見逃せないんだ!」


 そこで一呼吸おいて、けれど彼の反応を待つことなく話を続ける。


「もちろん、お前に向かって生きろなんて叫ぶ俺も無責任なのかもしれない。だけどさ、みんなが不幸になるということがわかっていて、それでもお前が自分のためだけにそれを選ぶというのなら、俺は容赦なくお前をぶん殴っちまうぞ! 自分を殺すなんて許さない! そいつが俺を苦しめてくるからって、邪魔な他人を殺すことと何が違うって言うんだ! 権利を盾に身勝手を振り回す奴が、俺は大嫌いなんだ!」


 自分勝手な意見だということは重々承知している。

 めちゃくちゃな言い分だということも理解している。

 死を選ぶほど苦しんできたに違いない佐藤へかける言葉としては、本質的に間違っているかもしれないということも。

 それでも彼はこぶしを振り上げたかった。こうして木川が佐藤に向かって挑発的な口調で呼びかけたのは、何も本当に怒っていたからではない。文句を言ってやりたかったからでは決してない。

 とにかく佐藤の返事を聞きたかった。もはや理屈は何でも構わないから、すでに悟ったような彼の本心をさらけ出したいと願ってのことである。

 そのためには自分が悪役になることもいとわず、少々強引な方法でも彼はためらわなかった。

 死にたくない、死ぬのが怖い。

 そんな言葉が引き出せれば。


「な、なんだよ……。君は今まで、僕のことなんか見て見ぬ振りをし続けてきたというのに! まるで関係ないくせに!」


 当然のこと、佐藤にとってみれば、そんな木川こそ癇に障った。

 最後の最後に出てきて、自分の選択を格好つけて否定してくる彼の姿が、たまらなく憎らしく見えたことだろう。

 苛立ちを我慢できずに顔をゆがめた佐藤を目にして、すかさず木川はきつく言葉を投げかける。


「だったらお前は俺に向かって助けを求めてきたのかよ! お前だってそうだろうけどさ、俺だっていつも、自分自身のことで精一杯なんだよ!

 そもそも、ただでさえ俺たち高校生っていう未熟な人間はな、心身ともに不安定な思春期で、自分の将来を選択する重大な分岐点にいるから苦悩してしまう時期であって、あまつさえどこまでも馬鹿で無力な人間に過ぎないんだ! わざわざ相手から頼まれもしないまま、お節介に手を差し延べている余裕なんて、普通は誰にもないんだよ!」


 焦るあまり口では威圧的に叫びながら、そっと心の中で手を差し延べる木川ではあるが、それは上手く伝わらず、かえって反感を与えてしまう。


「僕にだってもう余裕はないさ! そうさ、生きる余裕がないのさ!」


 そう声を限りに叫んだ佐藤は、言葉通りに一杯一杯だった。もう他には何も考えることができないほど、心にも余裕がなかった。

 心身ともに追い込まれ、磨り減り、何もかもを失ってこそ、最後に残された権利が一つだけ輝いて見えた。明日も見えない希望なき絶望の中でこそ、彼はこの選択を決断してみせたのだから。

 そんな佐藤の心境を知ってか知らずか、木川は語調をやわらげ、穏やかに語りかける。


「余裕がないときに選び取るものなんて、お前が本心から望むものじゃないだろ? 自分から選んだつもりになっていて、本当は何者かから選ばされているんじゃないのか?」


 それは権利という言葉に誤魔化された、破滅への甘い罠であるのかもしれない。権利は時として、無自覚な義務と紙一重になり、そうしなければならないと、そうするべきであると、ある種の人間を自他共に脅迫してしまうこともあるのだから。


「……だけどこれはね、僕らに許された選択肢の一つなんだ。たとえ行き詰った末に下した決断だったとしても、それを一方的に間違いであると断言される筋合いはないよ」


 しかし何事も権利によって法的に許容されてしまうと、人は理屈によってそれを批判することが一層困難になってしまう。

 それを根拠なく「駄目、絶対」と言い切ることもできなくなり、かすかで頼りないものにそのよりどころを求めてしまうものだ。

 たとえば、感情論。


「けれど、お前が自殺してしまったら、ここにいるみんなは悲しむだろ? 自由になるというのも、楽になるというのも、それは自殺するお前だけだろ? なのに、お前は本当にそんな身勝手を……」


「身勝手?」


 それをすべて言い終える前に、自分の失言に気がついた木川の懸念どおり、鼻息を荒くした佐藤はその言葉にいち早く反応した。


「もしもこれが身勝手だというのなら、そんな君の意見こそ立派な身勝手だよ。だって、少なくとも僕の選び取った自殺という行為は市民の権利として保障されているからね。そう、だからこんなもの、僕にしてみれば自己決定の一つだよ」


 数え切れないほどに存在する未来についての選択肢の中から、自分に最もふさわしいものを、誰に操られるのでもなく積極性をもって選び取ったのだ。

 そう宣言するかのように佐藤は胸を張った。


「自己決定って、それは本当にそうなのか? 死ぬってことは、つまり終わりだろ? 逃避することをいいように言いつくろっているだけじゃないのか?」


 そう指摘した木川に対しても、まるで臆することなく、自信満々な口調で佐藤はこう言い返す。


「人の決断や行為を一方的に逃避だと決めつけてくるような世の中が僕は嫌いなんだ。死ぬことは決して逃避じゃない。これはね、僕にとっては邁進だよ」


 それはもしかすると、世間的に見れば現実逃避に他ならないかもしれない。

 しかしながら、彼にとっては確かに一つの自己実現だったのだ。

 生きることがそのまま苦行につながる気のする佐藤にとって自殺とは、彼にとってまがいなりにも自由を与えるものであり、彼に対して一時的にも救いをもたらすものであり、何よりも、生まれて初めて自ら選び取ることのできた未来だったのだから。

 たとえば彼がどのような状況で、どういう心境で、いかなる経緯でこの結論にたどり着いたのか、それを全く考慮せずに自分の意見を押し付けることは、必ずしも褒められた行為ではないだろう。

 無論、木川とて誰かに褒められるために他人の自殺を思いとどまらせようとするのではないのかもしれないが、それは大きなお世話とか以前に、小さな自己陶酔に過ぎないのかもしれない。

 自分の意見こそが絶対だと――もちろん、これはどちらの立場にも言えることかもしれないが――信じて疑わず、一方的な価値観で主張や糾弾を繰り返す限り、両者の溝は決して埋まることもないだろう。

 相手に同情しろとまでは言わない。互いに共感しろとも言わない。

 それでも最低限、まずは自分の思考を疑ってみるべきではないか。

 しかし、木川は簡単に佐藤の言葉を受け入れることができない。


「なぁ、耐えろよ。どうか耐えてくれよ、佐藤。生きるってことは、確かにそれだけで無邪気に幸せを感じるには難しいものがあると思う。でもさ、だからって自殺してどうするんだよ……」


 ついに悔し涙を流した木川を不思議そうに見つめながら、佐藤は穏やかに答えた。


「……どうするってこともないよ。それでも僕は、自ら望んで自殺するだけなんだ。たとえそれが幸せのためでないとしても、本来、僕らは自分の幸せのためだけに決断を下すわけじゃないんだ。数ある選択肢の中から何かを選ぶということは、必ずしも結果としての幸福だけが理由となるわけではないから。合理的にしろ、感情的にしろ、決断の背後にあるものが幸福であるべきだと、そう決め付けられるのは僕にとって不幸だ」


「じゃあ、他に道はないのか?」


「もちろん探せばあるかもしれない。だけど僕ら人間は、数ある多くの道から自由にそれを選び取れるべきなんだ。少なくともこの自殺権の行使は、僕にとっての責任ある未来選択と、自由を求めるための自由なのだと思う」


 そう言った佐藤は、この日初めて笑顔を見せた。


「よりにもよってここで自由か。もし俺の言葉と行動に、お前を引き止めるだけの自由と権利があれば……」


 そう言った木川は、悔しそうに歯を食いしばるのみだった。







 それから数日後、佐藤は権利を行使した。

 その知らせを淡々と受け取るしかなかった木川と尾崎の二人は、言いようのない虚無感と、はっきりしない後悔や自責の念を胸に抱くのだった。


「なあ、他にやり方があったのかな?」


 尾崎の背後にいなくなった佐藤の姿を見る木川は、頼りない口調ですがるように尋ねる。そんな木川の未練を断ち切るように、彼の友として、尾崎は突き放したように答える。


「残念だが、もう過ぎたことは諦めるしかないだろ。もしも俺たちにやり方が残されているとすれば、今後は誰かが積極的な自殺を考えたりしないように、みんなでお互いに支えあって幸せを作っていくしかないだろう」


「そうだよな。実際に自殺権が認められている以上、もはやそうすることでしか、他人の自殺を食い止めることはできないのかもしれない」


 そう言って空を見上げる木川であったが、その顔は苦渋に満ちていた。

 なぜなら彼は、佐藤の死後、こんなことを知ってしまったからである。


「それにしても、よりによって佐藤をいじめていた奴らも罪悪感に駆られて自殺を申請するなんて……」


 ――自殺権とは、法律的に認められた権利である。

 それは、過去すでに自殺を選んでしまったすべての悲しき人たちに対して、手向け代わりに与えられた社会的な免罪符であり。

 またそれは、現状に苦しみを覚える人間への、社会的な救済や保障代わりとして与えられた、どこまでも後ろ向きな自殺対策であった。

 いつしか国民の権利として認めらることとなった自殺は、もはや社会問題として扱われることもなく。

 今日もまた、年間三万人を越える自殺者のあとが絶たない。


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― 新着の感想 ―
[一言] 生存本能<理性 かしら でも自殺は もっとシンプルに自殺 だけでいいはずで 理性の意味も本能の意味も 定義と意味の違いも 考えず だから「自殺権」って言葉そのものが 滑稽なくらいすがすが…
2011/06/05 09:21 退会済み
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