エヴァー・アイリス【読み切り•創作神話】
雪を踏んで行く女の姿があった。衣服だけ見れば自分で編んだレースの生地が立派だが、この季節にたったそれだけでうろつくのは目に余るだろう。
足の裏は赤くなり、雪の中の物を踏んでか切れていた。風が唇を凍らせていて唸ることもしなかった。髪も凍ってなびかなかった。
ここは原っぱなのか河なのか、白い雪の中を女が進んでいくと、そこに井戸を見つける。
女は初めて息をした。白い息を吐いた。
井戸のへりに血が付いた手を置いて、最後の力を振り絞ってよじ登ろうとする。しかしその時、誰かの声が降りかかる。
「女。何をしているのか」
男ものの声に女は焦っていた。それなのに女の体は金縛りにあって動かなくなったのだ。
「何をしているのか」
女は凍える口で答える。
「私も死ぬのです。だから止めないでください」
すると女の目の前には古いコートを着た男の姿が現れた。足が無いのを見て、女は彼が何なのかが分った。男もまた、自分のことを言った。
「これは亡霊の井戸だ。ここで死んでも其方は亡霊になるだけだ。この私のように」
亡霊とは、この世に留まり、さまよい続ける不幸な魂。天使でも悪魔でもない、ただ風のように存在し続けるだけのもの。
女はようやく動けるようになり、井戸のへりから手をどけた。雪の上に座り込み、もう自力では動けなくなった。乾いた瞳で白い雪を見つめ、それから言った。
「もう涙も出ないのです」
亡霊は泳ぐように動いて女の瞳を覗き込んだ。氷の幕が張っているかのように白く濁った瞳を見て「それでも泣くのだ」と言った。
「声を出すのも辛いです」
痛む喉を訴える女の、細く筋張った首を亡霊は手で触り「それでも歌うのだ」と言った。
「それが其方の試練なのだから」
女は泣き続けた。涙が止むと歌を歌い続けた。
涙を誘う歌を歌い、涙が枯れたら新たな歌を思いつくのだ。
やがて雪が溶けるとこの土地は枯れた大地であることが分かる。そして女の潤んだ瞳はもう凍っておらず、その向こうにある大河の様子が見て取れた。
足の傷も既に治っていた。ここから立ってあの河岸に行けば、女は水を飲んで生きることが出来るだろう。
「泣きなさい。それから歌いなさい。それが其方の試練である」
大地が見えるようになっても亡霊はそのように言い続ける。不振がって女は問うた。なぜ私は泣き続け、また涙が枯れたら涙を誘う歌を歌い続けなくてはならないのか。
亡霊はただ、試練だとだけ答え続けた。
涙が永遠に大地に流れ、ついに女の足元には緑の若葉が芽生え始めている。
今度は女の歌をよく聞き、その茎は伸びていく。そして紫色の花を咲かせた。
女が泣くたび、歌うたびに花は増え続けた。亡霊はこれを良しとして、次の試練を女に言い渡す。
「その花を毎日、井戸に一輪投げ込みなさい。毎日、一輪ずつだ」
亡霊に言われたとおりに、女はまず一日目に近くの茎を摘み取って綺麗な紫色の花を咲かせた一輪を井戸に放り込んだ。
それによって何かが変わることは無かった。日が沈み、また日が昇ったなら、女は同じように一輪を井戸に放り込んだ。
しかし何日も同じことを繰り返していると、やがて女の側から花が無くなってしまう。そのことで女は多少自分の足で歩いて行かなくてはいけなくなった。
離れたところの花を摘み取り、また井戸に戻って一輪を投じる。また離れた所へ行くと、あの大河の周りには無数の同じ紫色の花が咲いていることに気が付いた。
女はそこへ行こうとした。しかし亡霊がそれを阻んだ。
「何をしようとしているのか」
女は答えた。
「あの花を摘みに行くところです」
亡霊は首を振る。
「井戸に入れる花は、其方の涙と歌で育てた花のみ許される。あの大河のところへ行って摘んではならない」
「どうしてです?」
「それが其方の試練なのだから」
女は、井戸のところで歌を歌った。涙があふれて止まらなくなり、その場でたくさんの花を育てた。
花を一輪ずつ井戸に投げ入れて六年が経っていた。
そこで女の涙が止んで、ふと顔を上げる。おかしなことに、新しい歌が浮かばなかったのである。その時、目の前に現れていたのは天使であった。亡き夫の姿をした天使だ。
「あなた……」
女はその天使を知っていた。彼を思って毎日毎日涙を流し続けていたことを覚えている。彼のための歌をいくつも歌ったことを覚えている。
ついに女が死ぬ時が来た。それを彼が迎えに来たのだ。
あの、紫色の花を女の髪に差し、手を伸ばして女を引き上げる。
女は高く天に昇ってから下を見下ろした。井戸の横に土が盛り上がり、アイリスの花が無数に咲いていた。




