03
真新しくペンキで塗られたらしい、緑色のフェンスに囲まれた敷地内は一見すると、何処かの建設会社が運営している住宅の見本市のような雰囲気があった。没個性と表現するのが一番的確そうな、壁も屋根もなにもかもが統一された二階建ての住宅が行儀よく五棟ずつ道路と道路の間に収まっている。合計二十棟程度はありそうだった。そのそれぞれの建物に人が暮らしているらしい事は、住宅一つ一つのベランダで風に吹かれている洗濯物の違いで分かった。けれど目に見える生活臭といえばその洗濯物が精々で、後は整然とした様子がいかにも作り物っぽい清潔感を漂わせている。
身長よりも高いフェンスの網目から覗き込んで敷地内を見回すと、大輔は呟いた。
「人がいないな、」人が住んでいるのは確かなのに、人一人敷地内を歩いていないというのも変な話だ。
檜山は肩をすくめる。「まだ夕方になっていないから、誰も帰ってきていないんでしょ。子供達は学校だろうし、大人は会社に行ってるかもしれないし。この時間に家にいそうな主婦は、能力者にはいないから」ごくごく簡単な事だと言いたげに断言してから、目を後ろへとやる。道路を挟んだ路肩に停めた車の傍にいる麻耶を見遣り、目を細めた。「まだ電話、終わらないみたい」
「誰に電話してるんだろうな」大輔も同じように振り返る。
フェンスをぐるりとなぞるように道路を一周してから、学校の正門によく似た観音開きの門の向かい側になる場所で、三人は車から降りた。直後、麻耶が携帯電話を取り出して、「ちょっと電話しなくちゃいけないところがあるから。少し離れて待ってて」と、お願いなのか命令なのか分からない口調で言ってきた。仕方ないので大輔と檜山はこうしてフェンスの金網に手を引っ掛けながら、物静かな敷地内の様子を眺めたり、長い電話がそろそろ終わらないかと振り返ったりしている。ついでに麻耶のほうを見たのはこれで、三度目だった。
「あの電話も、必要な事?」檜山が首を傾げる。
「どうだろうな」分からないと首を振ったところで、麻耶が携帯電話を耳から離した。目が合うと彼女は唇を少しだけ緩めて笑みを作った。車の扉を開けて携帯電話をその中に放り込んでから再び閉め、道路を渡ってきた。
「ごめんね、おまちどうさまでした」友達同士の待ち合わせに遅れたような口調である。「じゃあ、行きましょうか?」と、ふたりを交互に見遣ってから歩き出そうとする。正門とは違う方向だった。
もちろん、これから誘拐された大樹を助けに行こうとしているのにわざわざ正面から堂々と入っていく事はない。けれど、大輔の身長をゆうに超える——恐らく、背伸びをして手をいっぱいいっぱい伸ばしてもてっぺんにまでは届かない高さのフェンスを登るわけにもいくまい。どうする気だ、と先を迷う素振りもない歩調で歩く麻耶の背を見ると、しばらく歩いてから彼女の足はぴたりと止まった。
「ここって、出入り口はあの仰々しい門だけなんだけど。子供達には面倒くさいのよね、いちいちどこにいくのかとか言わなくちゃいけないから」苦笑いを浮かべた唇で言いながら麻耶がしゃがみこんだ場所には、年季の入ったトタン屋根がフェンスの金網に針金で四方を括りつけられていた。
正門以外の敷地の縁を延々と囲っている緑色のフェンスの下部分、大きさにしてちょうど五十センチ四方といったところだろうか。丁寧な手つきで麻耶が針金を解く。トタン屋根を脇へずらすとその括りつけられていた部分はそのまま、ぽっかりとフェンスに空いた穴になった。
「……、見事に空いてるな、これ」自然劣化や不可抗力でひらいた穴でないのは、あらかじめ定規で線でも引いたかのように綺麗な正方形の穴の形で分かる。しげしげと眺めてから大輔は麻耶を見下ろした。「これを知ってたのも、未来を知っていたからか?」
「そ、ここに住んでる子供達が開けちゃうのよ。大人達は模擬魔術事件の事でぴりぴりしてて、あんまり外に遊びに行くのにいい顔はしないからね」
まるで、この場所で暮らした事があるような言い方だな。と、ふと思った。
大輔の視線に肩をすくめると、麻耶は四つんばいになって穴を通り、フェンスの内側に入った。続いて大輔、檜山と続いた。全員が入り終えると麻耶は再びしゃがみこんで、はずしたトタン屋根をさっきの位置に戻してから針金で括りなおした。
檜山が面食らった顔をして、目を瞬いた。「逃げ道を塞いでどうするの?」
「大丈夫」最後の針金を括り終えて麻耶は立ち上がり、檜山に頷いてみせる。「帰りはここを通らなくてもいいようになるから。さて、こっちよ」勝手知ったる他人の家といった様子で、麻耶は再び歩き出した。
麻耶が向かった先は狭いながらに区画整理された住宅街の先にあった。住宅とは様相が違う、どちらかといえば街中の公民館といったほうがよさそうなその建物の玄関先にたどり着くまでに結局、三人は誰ともすれ違わなかった。未来を知っている麻耶がそういう時間を選んだのか、単純に檜山が言っていた事が正しいのかは分からないけれど。
公民館の玄関のすぐ傍に停車しているマイクロバスは、大樹を誘拐したものと同型車のようだった。
無用心にも、——というよりは第三者が敷地内に入ってくる事なんて想定していないからこそ、鍵のかかっていないガラスが入った扉を開けて、中に入る。広々とした玄関から靴を履いたまま、廊下に上がった。長い廊下の両脇にはいくつかの扉があるものの、麻耶はやはり迷わずに手前から三番目になる右手の扉のノブを回す。
そうして部屋へと入る麻耶に続こうとした大輔の足を、「ねぇ、」と、小さな声が引きとめた。
振り返ると、檜山が何処か落ち着かない不安げな表情をして立っていた。目の焦点は確かに大輔の前で結ばれているけれど、ふとした拍子にずれて、全然違うものを見ているようだった。大輔の体を通り越して、部屋の中でさっきから小さな物音を立てている麻耶へと意識を向けているのかもしれない。「知り合い、なのよね?」息遣いをそのまま声にしているような、とにかく小さな声だった。
「ああ、警察官の時からの付き合いだな」応えてから具体的に年月を逆算しようとしたけれど、答えが出てくるよりも先に再び檜山が問いかけてきたので、考えを途中でやめて改めて彼女を見た。「でも、未来の事を把握しているって知ったのはさっきなんでしょ? ——、怖くないの?」
「まあ、あれが麻耶らしいっていえば、麻耶らしいから」というのが大輔の素直な感想だった。普段の物事を見透かしたような態度を行動に移したら、今のような感じになるのだろう。やる事全部が当たり前のような素っ気無さで麻耶自身の目的を促していて、何一つ、障害になる気配がない。
けれど、檜山はその“うまく行き過ぎている事”自体が怖いのか、と大輔は思った。「どっちにしても、あのマイクロバスからして大樹がここにいるのは間違いないだろ。あいつを助けるのに、今は麻耶についていくのが一番いい」
「それは、わかってる」歯切れ悪く檜山は応え、口ごもる。それでもまだ、半眼に瞼を落とした目は何か言いたげに揺らいでいるのを見て、大輔はひっそりとため息をつきたい気分になった。慣れきった憂鬱さが滲むように胸に、じわりと広がっていく。
ちょうどそのタイミングで、「——、話は終わった?」投げかけられた声に大輔は振り返った。そうして吐き出しかけていた嘆息を思わず喉の奥に飲み込んで、面食らった。
その部屋は物置と呼んだほうがよさそうな広さだった。縦横とも、大の大人がめいいっぱい腕を伸ばせば足りそうな長さで、三方の壁にひっついているステンレス製の四段棚には封の切られていない六個入りのトイレットペーパーやテッシュケースやら、卓上コンロ用のガスボンベ、季節をはずしているクリスマスツリーの箱や飾りなどが所狭しと詰め込まれている。大輔が驚いたのは、そんな部屋の床——、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた棚の有様とはかけ離れて、そこには大人一人が通れる程度の穴がぽっかりと開いていたからだった。麻耶はその穴から上半身だけをのぞかせて、こっちに首を傾げていた。
穴のすぐ傍には、元々穴を隠すために使われていたらしい長方形の木の板の束と幅の小さなマットがあった。おそらくさっき背後でしていた物音は、マットを退けて木の板をとりはずしていた時のものだったのだろう。小さく、背後で喉が引きつるような音を聞いた。
「、なんだ。それ」大輔も、さすがに動揺を隠しきれない声で訊ねる。
「隠し階段よ」麻耶の声は相変わらずだった。自分の足元を見下ろしてから、顎を持ち上げて入り口の扉の傍に立っている大輔を見遣った。「大樹君はこの地下にいるから。ついてきて、」言って、背を向ける。コンクリートを叩くような足音をさせながら、麻耶の姿はあっさりとその中へと消えていった。
追いかける前に、大輔は檜山へと体を向けた。
「多分だが、麻耶が大樹を餌に俺やお前を騙している——ってことは、ないだろうと思う。初代の魔女を殺したいっていうのも、嘘じゃないはずだ」
「なにか根拠でもあるの?」顎を引いて上目遣いに、檜山は質問してくる。
「麻耶には絶対的じゃなくてもある程度、未来が分かる。っていうのは、疑っていないな?」目の前で競馬の順位をすべて的中するのを見ておいてまさか疑っているとは思わないが一応、訊ねた。当然、多少は納得いかなげな顔をしつつも頷いた檜山を見て、大輔は口を開いた。
「兄さんが麻耶の担当になるまで、麻耶の担当いびりは凄かったんだよ。相手が嫌がる事をわざとやってるって感じだったから、最後には誰も担当になりたがらなかった。本当は、命中率の高い情報屋を手懐けたいって思うだろう? いつかとんでもない情報をくれて、自分の手柄になるかもしれないんだから。でも、そういう野心を粉々にするほど、麻耶は手ごわい相手だった」
当時、麻耶の評判を聞いていただけに過ぎない大輔でも、大智が新しく麻耶の担当をすると教えられた時、心底心配したものだ。確かに兄は度量の大きい人間だが、それでも勤まるとは思えなかった。「でも実際、兄さんが担当をはじめてからの麻耶はそれほど、問題の多い人間じゃなくなった。多少、人のやる事を見透かしたような態度や言い方はあったけど、麻耶が兄さんを馬鹿にしたところなんて一度も見た事がないんだ。前の担当者達はことごとく、鼻で笑われていたっていうのにな」
「それがどうして、あの人が嘘をついてないって事になるの?」
「俺に麻耶を紹介してくれたのが、兄さんだから」腕のいい情報屋と交流を持っておく事は警察官にとって有益だ。大智はそう言って弟達を麻耶に引き合わせたけれど、麻耶が噂通りに性根の悪い情報屋であったなら、兄はおそらく会わせようだなんて思わなかっただろう。「それに兄さんが麻耶の担当をやめていたら、俺が初代の魔女を探しているという話は、高柳さんまでには届かなかった。俺が麻耶に初代の魔女の事を依頼していなくても、結果は同じ」
檜山が短く、目を瞬かせた。「つまり、演技だった、って事?」
「つまり、それだけ本気だ、って事だ」大智が担当になるまで、何度も何度もその時の担当の心をへし折り続けたのも。対魔術課の間で、“有益だけれど性格の悪い情報屋”だと噂が流れるまでの事をし続けたのも。大智とまず知り合い、初代の魔女を殺すために必要な大樹と大輔の双子に出会うためであったなら。「ここまでしておいて、「嘘」はないだろう?」
気の遠くなるような話だ。と、思う。この時のために四年前から——、いや未来から過去の自分に記憶をインプットする模擬魔術を使ったなら四年以上も昔から、麻耶は初代の魔女を殺す事を目的にして行動してきた事になる。人を殺す、という生半可では到底続かない決意をずっと、抱いてきた事になる。
「信じられないなら、ここから先は行かないほうがいいだろうな」いって、大輔は檜山に背を向けた。「麻耶には俺から説明しておく。未来が分かるっていうのなら、あいつも、ここでお前がいなくなる事は計算済みだろう」
返事を聞く前に、大輔は穴のようにぽっかりと床に空いた階段の入り口から地下へと降り始めた。
階段は麻耶の靴音から察した通り、コンクリート製のようだった。本来は懐中電灯などの光源を予め用意して降りるのだろう、穴の入り口から入り込んでくる明かりが届かなくなると、周囲は途端に地下本来の暗さを取り戻して、用心深く慎重に足先で次の段を探りながら降りていく事になった。背後、というよりは斜め上のほうから遠慮がちな靴音が聞こえてきたのは、ちょうど斜め下に長細い縦の光の筋みたいなものを見つけた時だった。
大輔同様に用心深い足取りで降りてくる檜山の靴音を聞きながら最後まで階段を降りきると、長細い光の筋は大輔の背よりも若干長いものだと分かった。扉の向こう側の光が、扉と壁の隙間から薄く漏れているのだ。手探りで光の筋の近くを探して扉のノブを見つけ、大輔は押し開いた。思わず、差し込んできた照明に目を眇める。
そうして、しばらくして目が光に慣れ始めると、見えてきた光景に今度は唖然と目を見開いてしまった。
「、なんだ? ここで火事でもあったのか……、?」ぽろりと思った事がそのまま、声になって落ちる。
その場所は、役割的にはロビーかエントラスといったところだった。どっちにしても広さはないが、入り口の扉がある壁を除いた三方それぞれから通路が奥へと延びている。天井すれすれに電気コードが張り巡らされていて、工事現場の明かり取りのような裸電球が等間隔でぶら下がっていた。大輔が驚いたのは、柔らかい暖色系の照明に照らされている天井や壁、床に至るまですべてにこべりついている、黒々とした染みのような、煤のようなものが目に飛び込んできたからだった。
吸い込んだ空気には地下っぽい埃のような臭いはあったものの、燃えカス特有の喉の奥を刺激する臭いは感じられなかった。しかし、臭いがしない程度に以前の事であるなら、鎮火したまま手づかずで放置されているようなこの空間の有様はあんまりに異様に見えた。
「ここで火事があったのは、二十二年前よ」と、麻耶はぐるりと周囲を見回してから応えた。檜山は階段を降り切って扉を開けたところで大輔と同じように目を見開いたものの、その麻耶の言葉の我に返った様子で片眉を持ち上げる。「二十二年前って、確か」
「——……、前政権が創設した研究所が火事で焼失した年、だよ」と言ったのは、三人のうちの誰でもなかった。けれど、誰の声であるのかは全員が即座に理解できる声だった。
コンクリートの空間に綺麗に反響したその声に全員があたりを見て、その後すぐにまた響いた靴音に、一斉に眼差しを階段の扉の正面にある通路へと振り向けた。三対の眼差しを受け止めた成瀬は通路を出て立ち止まると、穏やかに唇の端に笑みを浮かべた。場違いすぎる笑みは、まるで三人がここにやってきたのを心底歓迎しているかのようだった。「能力者解放戦線の本部は、消失した研究所の土地に建てたものだからね。もっとも、地下は中身が燃えてしまっただけで、骨組みはしっかりと残っているからこうして、勝手に使わせてもらっているわけだが」言って、ゆっくりとした動作で壁を撫でた。そこには、座り込んだ人の形にも見えなくはない煤が、はっきりとこべりついている。
ふいにこみ上げてきた胃酸を大輔は咄嗟に飲み込んだ。それでも咥内に残る苦さに顔をしかめてしまっていた。——成瀬が他愛なく言った、“中身が燃えてしまっただけで”の意味を、脳が遅ればせに理解した結果だった。
「大輔君、」呼ばれて、煤から麻耶へと目をやる。麻耶は成瀬に向けた目をそのままに、ひっそりとした声音で告げた。「成瀬は私達が引き受けるから、君は早く大樹君のところに行きなさい。左側の通路から行けば辿りつけるはずだから」
「……、左側?」呟いて、怪訝に目をそっちへと向ける。
この空間から伸びている通路は三つとも何の変哲もなかった。構造も何も分からないのだから当然、大樹がどこにいるかなんて見当もつくはずもなかった。だから通路を見ても麻耶の言葉の信憑性が分かるはずもない。正直、多少戸惑った。
成瀬が能力者であっても、さすがに三対一では分が悪いだろうし。行き先もろくも分からない大輔を先に行かせてわざわざ有利の度合いを削るなら、ここで成瀬の動きを三人がかりで封じてから進んだほうがいいのではないか。
頭に閃いた事を言いさしかけて、でも、と寸前のところで喉の奥に押しやった。——麻耶が信じられないなら先へは行くな、とさっき檜山に言ったのは、大輔自身だ。
「——、分かった」詰めた息を短く落として、大輔は応えた。
大輔が駆け出した時、成瀬は眼差しを静かに向けただけだった。慌てる事はもちろん、引き止める素振りもないまま大輔の姿が通路の奥へと消えていくのを眺め、靴音が聞こえなくなってようやく、麻耶と檜山に目を戻した。「彼を先に行かせたのは、女性である君達が地下通路を歩くよりも目立たないと踏んだからかな? いい考え方だね、半年前から仲間が結構増えたおかげで私でも、組織のメンバーの顔を全員把握仕切れている自信がないんだ。彼なら確かに、通路を歩き回ってても呼び止められる心配はないだろう」
不法侵入者が野放しになる事にまったくといっていいほど危機感を覚えていない口調だった。そして同じく、招かれざる客でしかない彼女らに率直な疑問符をつけて、首を傾げた。「けれど、一体どうやってあの隠し階段の事を知ったんだい? 高柳は階段の事は知っていても、敷地内のどこに隠されているかまではまったく知らなかったと思うんだけどね」
「さあ、情報はどこからでも漏れるものだもの」と、応えたのは麻耶だった。身構え一つなく悠長に口を開いた彼女の斜め後ろで、毛を逆立てた猫ぐらいに分かりやすい警戒心で檜山は成瀬を睨みつけている。
その眼差しに頓着せず、成瀬は肩をすくめた。「模擬魔術事件の後の家宅捜索でも、この通路は発見されなかったんだよ。君達に情報を流した人間がいるとしか思えないんだが、教えてくれる気はないのかな?」
「そんな人間はどこにもいないわ。安心してくれて構わないけど」
あえて言うならその人間は“未来の麻耶自身”という事になるのだけれど。
「そうか、」と呟いた成瀬は事実とは程遠い場所で自分なりに納得したのか、顎を引いて頷くと、改めて麻耶達に視線を置いた。「さて、ここまで来た理由は恐らく、大樹君の事なんだろうが。能力者しかいないこの場所にわざわざ乗り込んでくるなんて、随分度胸のあるお嬢さんがただ。正直、監視カメラで君達の事を見つけた時は目を疑ったよ」
檜山の目が小さく揺れて、麻耶の背を撫でた。監視カメラに気づいていたの? と言葉なく訊ねてくる。
「じゃあどうして、ここに降りてくるまで放置してくれたの?」と、麻耶は世間話でもするように首を傾げた。「さすがに、ここを知られるのはまずいんじゃないの?」
「まずいね」本気とも冗談ともつかない言い方をして、成瀬は目を檜山の後ろにある階段の入り口扉へとやった。「だから君達が降りてきた階段の部屋の入り口はもう、数人でかためさせてもらった。いくら度胸があっても能力者相手に勝てるとは思わないだろう? だから私は言わば、交渉役というものだよ。君達が交渉に応じてくれれば、何も酷い事はしないつもりだ」
「大樹をあんな風に誘拐しておいて、よく言うわ」呻くように檜山が言う。
扉から檜山へ、視線を移してから成瀬は苦笑いを浮かべた。「あの時は、大樹が必要だと思っていたからね。あの子の意思に関係なく、私があの子を必要としていたから連れてきたんだ。説明ぐらいはすべきとも思ったが、そんな悠長な時間を、高柳の手下である君がくれるとは思わなかったから仕方なく、実力行使をしたまでだよ、」そこでふと言葉を途切れさせ、表情を翳らせた。「まさかそれ自体、高柳の仕組んだ事だったとは、計算外だったがよ」
最後の言葉を苦々しげに呟いて、成瀬は大輔が走り去っていった通路を見遣った。そうしてからまるで、そこから神々しいばかりの光が射し込んでいるかのように、眩しげに、けれどどこか愛しげに目を眇めた。「しかし、失敗したにも関わらず彼はここに来た。彼を、大輔を心底必要としている私達のもとに。まるで誰かに導かれているようじゃないか」
成瀬はさっきと同様に一人で納得して頷くと、二人に向き合った。
「もうすぐ、世間でいうところの“初代の魔女”が目を覚ますんだよ。そうすれば我々は、二十二年前に失敗した決起をやり直す。あの時はリーダーである彼女自身が真っ先に捕まってしまって果たせなかったけどね、あの頃よりは私は大人になった。決起するメンバーも増えた。何より半年前の模擬魔術事件での結果で、現政府の能力者に対する弱腰は明白だ」そこまで告げた成瀬の唇の端が、嘲笑を込めて引き上げられた。「我々の力に対抗出来るのは精々、この国では自衛隊ぐらいなものだろう。しかし、政府は自衛隊に出動要請など絶対にかけない。だとしたら、当座の敵は警察……、それも対魔術課の者達だけになるだろうが、問題はない」
檜山は眉をひそめた。「何が問題ないのよ、対魔術課の実力を知らないわけじゃないでしょ」
さすがに能力者のクーデターまがいの決起まで想定されてはいないが、元々、能力者の犯罪、模擬魔術を使った犯罪に対処するために作られた部署だ。ただ能力を持っているだけで使った事のない能力者よりははるかに実戦経験を積んだ者が配属されている——……、傍で聞いている麻耶にも分かるぐらいに語尾がかすかに震えたのは、檜山がこの時、麻耶が車内で語った未来の話を思い出していたからだった。
唇を歪ませたまま成瀬が続けた言葉は、まさしくその未来そのものだった。
「我々が決起をした時点で、一般人は能力者を信じなくなる。半年前の模擬魔術事件でさえ、一般人の不信感を買うのに役立ったんだ。本格的に敵対すれば、「やはり能力者と自分達は相容れない」と思うだろう。そして、自分達を守ろうとする対魔術課の能力者達も同様に敵だと考えるようになるさ。それに中には、我々と交渉しようとする者達も現れる。彼らに、対魔術課の能力者達を殺せといえば、きっと殺してくれるだろう」
「つまり、」と、成瀬の言葉の続きを引き継ぐように口を開いた麻耶の声は、ひどく淡々としていた。「どの道、能力者じゃない人間には今後あまりいい世の中じゃなくなるから、今のうちに貴方達のいう事を聞いておくほうが得だよ、って言いたいの?」
「女性を傷つけるつもりは、最初からないんだよ」成瀬は浮かべていた嘲笑を消した。「女性は子供を産んでくれる存在だからね。我々能力者の間で唯一欠けているのが、後世に能力を持った子供を確実に残す方法なんだよ。能力が発現する遺伝子は、基本男子にしか現れない——、例外だった彼女はもう子供が産めない体になっているし、彼女の子供は全員がどういうわけか男だったから」
鋭く、檜山が息を詰めた。そうして悲鳴じみた声を張り上げた。「ッ、私達に好きでもない能力者の子供を妊娠しろっていうのッ!」
成瀬は心外そうに首を振ってから顔をしかめた。「さすがに、そこまで非道な事を言うつもりはないよ。たまたま能力者を好いたなら、普通に子供を作ればいい。それが無理なら、卵子を提供してくれるだけでいい。幸いな事にこの地下には、体外受精から代理出産まで、妊娠に関わるありとあらゆる施設が研究所当時のままに残っていてね、望まぬ妊娠を強いるつもりはないんだ」
「冗談じゃ、ッ!」ないわ。とでも叫ぼうとした檜山の声を遮ったのは、麻耶の静かな所作だった。そっと手を身を乗り出しかけた檜山の前に伸ばして、その動きを制した彼女は、何かを見透かすように目を細めて成瀬を見た。
「貴方はそれを、私達に対する誠意だと思うのね」
問いかけに、成瀬は頷いた。当然の事を当然に言っている、戸惑いなどあるはずもないと体全部で肯定する。「今のところは。しかし、決起に成功し、我々がこの国を支配できる立場になれば、それは義務になるよ」
「——……、つまり、貴方の妹に研究者達がしてきた事と同じ事を、貴方は他の女達にしようとするわけね?」対する麻耶の声音は変わらない。成瀬のそれに多少なりとも憤っていいだろうに、その素振りさえ見せない言い方で成瀬に問いかけていた。その質問の意味を掴みかねた様子で成瀬が首を傾げるのにも構うつもりはないようだった。
「卵子を提供するだけなら誠意? だったら、その提供された卵子と貴方達能力者の精子で出来た子供が能力を持っていない男子だったら、貴方はどうするのかしら? 価値のないものだって殺すの? 能力者の国では、力を持たない男子なんて必要ないものね。——……、貴方はきっとなんの躊躇いもなく殺すでしょう。失敗作だった、能力を百パーセント引き継ぐ方法はないものだろうか、とか言って。そのやり方は、研究所にいた研究者達と同じじゃない」
断言して、麻耶は唇を噤む。
そうして出来た沈黙の最後で、途端、成瀬の顔から怪訝そうな色が音を立てる勢いですべて剥がれ落ちた。その次の瞬間に、頬に留まらず耳の端までを瞬く間に染め上げた真っ赤な色は、怒りそのものだった。ここに来て、麻耶達と対峙してからはじめて、成瀬が露骨なほどにはっきりと見せた激情だった。
それほどに、麻耶の言葉は的確に、成瀬の弱い部分を抉ったのだろう。
けれどその激情を成瀬は麻耶達にぶちまける事は出来なかった。成瀬が思わず、といった様子で口を開きかけたところで、その出だしを踏み潰す騒々しさで靴音が、成瀬が背にしている通路から響いてきたからだった。現れたのは学生然とした、檜山には見覚えのある青年だった。
「な、成瀬さんッ!」と、酸欠で喘ぐように彼は上擦った声で叫んだ。「べ、別の隠し階段から、ひッ、人が侵入、してきっ、きたって連絡があったんですッ! 数人が対処しに行ったんですけどッ、だ、誰からも連絡がッ、返ってこなくて! 改めて確認しに行ったら、みんなッ、通路に気を失って倒れてッ、ました!」
成瀬の見開かれた眼から、ふっと火が消えるように怒りの温度がなくなるのを檜山は見た。まさしく冷や水を頭から浴びせられたかのように我に返った成瀬は眼を落ち着きなく二度三度瞬かせて、青年を見た。「、なんだって?」
「い、一番警備が、手薄だった場所ですッ! ち、近くに設置し、してる監視カメラにはぜ、全然映ってませんでしたッ。細工されていたみたいでッ、恐らく今から十分ほど前に侵入してきたんだとッ!」
その時だった。今までずっと成瀬と対峙してきた麻耶が、くるりと檜山に向き直ったのは。
言葉はなかった。ただ、この事態が逃げるチャンスなのだとは、即座につかまれた手首と目配り一つだけで麻耶が駆け出そうとするので分かった。路地で小野大輔に同じように手首を捕まれて、突然現れた車に向かって逃げ出した時と大差ない。ただ、檜山は小さな抵抗もせず、麻耶に従った。従うのが一番いい、とこの時なぜかはっきりと自覚していたのだ。
——このタイミングで、他の出入り口から侵入者だなんて、それこそ偶然のはずがない。
敷地内に入る前に麻耶が、何処かに電話していたのを思い出す。
ふたりの唐突な行動に、虚を突かれた成瀬と青年が、唖然とした顔をしていた。
けれどその顔も、麻耶に腕を引っ張られるまま、通路に飛び込むと壁で遮られ、見えなくなった。大輔が走り去った左側の通路とは正反対になる右側の通路を、能力者しかいないこの場所では異物でしかない彼女達はとにかくひた走る事になった。
* * *
その頃大輔は——……、ありていにいえば、迷子になっていた。
ただ普通の迷子よりも性質が悪いのは、目的地こそあれ、それがどんな形なのかさっぱり分からない事と、迷子だからといって通り過ぎる誰かを捕まえて道を聞けない事である。道も悪い、地下通路という性質上なのか、右も左も変わり映えのない通路が延々と続いているだけだ。一本道ならまだいいのだけれど、時たま分かれ道が現れる。一つ一つをしらみつぶしにあたっていくとしても、全体的な地下通路の構図が分からなければどうしようもなかった。新しい道を歩いているようで、実はもう通った道を歩いているのか。その逆なのか。
そんな事を思いつつ、壁に目印になりそうな染みや跡がないか探す大輔の耳に、近づいてくる足音が聞こえてきた。
慌てる気もなく目だけをそっちへやると、通路の角からやってきたのは、見知らぬ男だった。男のほうも大輔へ一瞥くれただけで視線をすぐ前へと戻して、通り過ぎていく。そこにごく当たり前にあるものをなんとなく見ただけ、といった様子だった。——靴音や人の気配に動揺して隠れていたのは、一人になってからしばらくの間だけだった。さほど扉もない通路では隠れようとあわふたするほうが余計に目立つ、と腹を括って堂々と相手が通り過ぎるのを待つのようになってから、気づいた事がある。
どうやら、能力者解放戦線には新参者が多いらしい。
精々向けられるのは一瞥ぐらいで、どこの誰だと呼び止められる様子はない。あわふたしていた時は逆に、どこに行くのかと聞かれたほどだ。さすがに成瀬が誘拐まがいの方法で連れてきた大樹の居場所を聞くわけにはいかなかったので、トイレを探していると適当に答えたものの、親切に連れて行ってもらった時は素直に、「ありがとうございます」と頭を下げていた。
「いやいや。困った時はお互い様だよ」と微笑んで去っていった男はいかにもな好青年だった。とりあえず、人の大事な弟を目の前で誘拐するような人間達の仲間であるとは思えない。
能力者解放戦線が信頼を失っている、というのは一般人からの信頼という意味であって、そこには能力者は含まれていないのかもしれない。と、大輔は思った。むしろ、能力者解放戦線の暴挙に能力者全体への不信感を根強くさせつつある一般人の蔑視や度の過ぎた冷遇から逃げるために、能力者は自然とここに集まってきているのかもしれない。過激思想を持つ幹部達の独断で事件は起こった、というのが能力者解放戦線の主張であるから、事件を皮切りにした世間の風潮の変化に耐え切れずにやってくる能力者達にしてみれば、悪い思想を持った者達はみんな逮捕されたのだし大丈夫だ、とか思っている可能性もある。
けれど麻耶が語った未来では、そんな彼らが初代の魔女の名の下に決起して、人口の大半を占める一般人達を支配するのだ。
何がそこで燃えて出来たのか、壁の黒んだ染みを撫でて、大輔はふと胸の奥に軋むような痛みを覚えて顔をしかめた。
その時、再び聞こえてきた靴音は、今までの淡々と通路を歩いていくそれとは違って、少し慌しげに近づいてきた。染みから手を離して何気なくそっちへ眼をやった大輔は束の間、致命的に自分が不法侵入者であることを忘れていた。思い出したのは、駆けてきた男が見知った人物であり、息も絶え絶えに大輔の目の前で靴底を甲高く鳴らしながら止まった時だった。
眼を見開く。「、あ」と、後悔するにはちょっと遅い。
男は、背広を着ていた。見慣れた、地味な色のやつだ。これで会うのは五度目だった。
刹那、大輔の頭の中で、前かがみになった背を大きく上下させて呼吸を整えている背広姿の男をすぐさま殴り飛ばして気絶させるか、あるいは彼が顔を上げる前に自分が踵を翻して走り出すか、ふたつが選択肢として浮かんだ。けれどどちらを選ぶよりも先に、男が深呼吸した息を吐き出す声で叫んだ。
「さ、探しましたッ!」その声で、大輔の頭の中の二つの選択肢は両方消えうせる。
大輔は、見開いたままの眼を瞬かせる。男の声は、まるで道に迷った賓客を必死になって探し回った末にようやく見つけて安堵しているような、怒りや敵意とは程遠いところにあった。不法侵入者に対して向けるべき感情は何一つ含まれていないから、思わず声をかけられたこっちが不安になってしまう。
「は?」と、聞き返すと、男は顔を上げた。頬がまだ紅潮していたけれど、全力疾走した名残というわけではないようだった。
「大輔さん、リーダーがお待ちです」どうにか厳かに言おうとしているのだろうけれど、男の声音は何処か熱を帯びていた。ぬるりと水気を帯びた眼球がまっすぐに大輔を見つめている。「私はお部屋までお連れするようにと命じられまして、探し回っていた次第です。——、こちらです」
背広姿の男は真っ直ぐに揃えた右手の五指で、自分が走ってきた方向を示してから踵を翻した。その慇懃な物腰は深読みするのが馬鹿馬鹿しくなりそうなほどに丁寧で、向けられた背は大輔が危害を加えるとはこれっぽっちも思っていない無防備さだった。このまま一目散に大輔が逃げ出しても、すぐさま追いかけてはこれないような気がした——……、ついてくるはずだ、と確信しているように思えたから。
素直についていく理由は、こっちにはまったくないけれど、
大輔は男の隙だらけな背後から、肘の内側を男の喉仏にひっかけて、締め付けた。声というよりは潰れた音が男の半分開いた口から漏れる。条件反射に首にまきつく大輔の腕を引き剥がそうと持ち上がった男の手がふいに止まったのは、大輔が突き出した人差し指を男の背中、心臓の真上へと押し付けた時だった。
「能力者でも、心臓を撃ち抜かれれば死ぬだろう?」子供騙しもいいところだ。けれど、首を絞められ、自身の背に押し付けられた指先を見れない男からすれば、嘘だと判断するのにも勇気がいる。喉が大きく上下に動くのを、皮膚で感じながら大輔は口を開いた。今まではただの新参者として、通り過ぎる人間はみんな気にしていなかったようだけれど、さすがにこんな状況に出くわして、素知らぬ顔で通り過ぎる人間はいないだろうから、率直かつ簡潔な質問だった。「お前達が路地で誘拐した、小野大樹はどこにいる?」
「ッ、は、お、小野大樹ッ?」一つ一つの単語を、まるで溺れている人間がどうにか叫んでいる調子で問いかけてくる男に、大輔は少しだけ肘の力を弱めた。代わりにもっと強く、人差し指を押し付ける。「この地下施設の何処かにいるんだろう? 案内するなら殺したりはしない。それとも、どこにいるのか分からないのか? 誰だったら居場所を知ってる?」瞬間、脳裏に成瀬の姿が過ぎったけれど、首を軽く振って否定した。
男は黙り込み、しばらくしてからおずおずと口を開いた。
「そ、その人なら、リーダーの部屋に連れていったはずです、」多少は空気の出入り口を確保できたようで、出てきた声はさっきよりも落ち着いていた。ただ、いきなり背後から首を絞めてきた大輔に対していまだ、慇懃な言葉遣いをやめようとしていない。
「——……、俺を待ってる奴だよな?」そこに大樹も連れて行かれた。そもそも不法侵入であるはずの大輔を待っている、という時点からしておかしいのだけれど。「どうして、お前達のリーダーに大樹を連れて行ったり、俺を待っていたりするんだ」
我々は君を歓迎するよ。——、ふと、耳の奥で再生された声を聞いた。
「ここのリーダーは、成瀬か」呟きながら、だったら納得できる、と大輔は思った。あの路地での騒動の最中に成瀬が大輔に言っていた言葉の数々はどれも、敵対する相手へのそれではなかった。
男が首を横に振る。といっても首の動き自体は大輔の腕が邪魔しているので、中途半端なものであったけれど。「な、成瀬さんは、違います。あの人は以前までは確かに、リーダーでしたけど。半年前にむ、息子さんが見つかってからは、組織の事は全部息子さんに任せてますからッ、い、今は組織運営の相談役という感じで、」
「じゃあ親子揃って、俺達双子になんの用だ?」
また中途半端に男は首を横に振った。そんな事を自分に聞かれても困る、と言いたげだった。「それは、リーダーに直接聞いてください。わ、私は道に迷っているようだから、迎えに行ってやってくれと頼まれただけなので、」
いわば、この男は中間管理職みたいなものだろう。演説の時のように若手を仕切る事もあれば、こうして上からの伝言役のような事もする。経験上、こういった手合いは必要最低限の情報を持っているかいないか、そのどちらかだ。
束の間考えて、大輔は男の首から腕をはずした。男は大輔から逃げ出すように、二、三歩、歩いてから立ち止まり、おそるおそる振り返ってくる。
「いきなり首を絞めて悪かった」一応謝罪してから、本題に入る。「じゃあ、案内してくれ。大樹がいるところに俺を連れて行ってくれるんだろう?」
「……、はい」頷き、男はちらりと大輔の両手に眼をやってから、前に向き直って歩き出した。さっきの無防備さよりは幾分か肩に力が篭っているように見えるのは、大輔が拳銃を隠し持っていると勘違いしているからだろう。
本当は何一つ、武器なんて持っていなかった。車内で麻耶に、「さすがに煙幕ぐらいは持っていったほうがよくないか?」と質問したけれど、麻耶が首を横に振ったのだ。彼女が言うのには、「物騒なものを持っていったほうが余計に問題が大きくなる」という事らしい。
男の案内は数分程度で終わった。途中、すれ違った何人かの人間に丁寧に頭を下げられたり、道を譲られたりしながら、男が立ち止まった先は、迷路のように広がっている気がしていた通路の行き止まりであった。今までの、通路の途中にあった質素なステンレス製の扉と趣の違う、木製の扉がそこにはめ込まれていた。特に装飾が施されているわけでもない、質素な点ではステンレスの扉とあまり変わらなかったけれど、無愛想なコンクリートの灰色や何かが焦げ付いた跡としての黒が延々と続いた先にある、木目の優しい茶色には、ほっと体の力が抜けるような安堵感があった。
男がゆっくりと扉のノブに手を伸ばす。カチャリ、とやけに大きな音を鳴らして、扉が開いた。
部屋の光景よりも何よりもまず、こちらに背を向けて木製の椅子に座っている背中が、大輔の眼に飛び込んでくる。それが誰なのか、理解するのと同時だった。「大樹ッ!」叫んで、部屋の入り口に立つ男を半ば押しのけて、足を踏み入れた。
声に、思わず、といった様子で肩を飛び上がらせると、大樹は椅子が押し倒される勢いで立ち上がり振り返った。見開かれた眼の中に、大輔は自分の顔が映っているのを見た。人ごみではぐれてしまった兄弟に良く会えたと喜んでいる幼い子供のような顔をしていた。——けれど、そんな大輔の喜びを映している大樹の目自体は、駆け寄ってきた大輔を認めた瞬間、険しく細められていた。
「大輔、お前どうしてこんなところにいるんだよ、」苛立ちさえこもっていそうな言い方だった。
予想していなかった反応である。「どうしてって、」大輔は一瞬、言葉が詰まるのを自覚した。助けに来てくれたのか、ありがとう。なんて言葉を殊更期待していたわけではないけれどあからさまに、大輔がここにいる事に動揺よりもまず、嫌悪感を向けてきたのに少なからず困惑したのだ。「お前が目の前で誘拐されたから、助けに来たんじゃないか。他に理由なんてない」
大樹が眉間に皺を寄せた。「薫は逃げろって言ったよな? ここまで誰が、お前を連れてきたんだよ」
質問にすぐに口を開かず、大輔は一歩下がると大樹の頭から足先までゆっくりと視線を動かした。服は路地で成瀬に誘拐された時のままで、特に怪我をしている様子もなかった。その事を一回二回と視線を往復させて納得してから、応えた。「ここまで俺を連れてきてくれたのは、麻耶だ。檜山も一緒だけどな。途中で別れた」
「麻耶?」どうしてここでその人物の名前が出てくるんだ、と言いたげな聞き返し方である。
けれどまさか、未来の事が分かるから初代の魔女を殺しに来た。と言えるはずもない、「さあな、」強引にお茶を濁して、大樹へと視線を置いた。「どっちにしてもここまできて、通路で迷子になっているところをそいつに案内されてこの部屋まで来たんだよ。リーダーが呼んでいる、っていわれてな」
しかし、部屋には大樹以外いないようだった。部屋に踏み入った時よりは幾分か落ち着いた心持ちで室内を見回すと、部屋はいわゆる、キッチンもトイレもないフローロングのワンルームマンションの一室といった感じに近いのが分かった。これで窓があれば完璧だけれど、そのあたりはここが地下通路の行き止まりである事を思い出させるように、四方ともクリーム色の壁である。その壁の一つに、一辺二十センチ大程度の正方形の穴が開いていて金網が被さっていた。恐らくは通気口だろう。
家具の類は、大樹が座っていた椅子と同じデザインのものがあと四脚、それらとセットらしい木製のテーブルが一つ、それだけだ。なのでこの部屋が普段、どんな用途で使われているのか、大輔には判断する材料がまるでなかった。応接間と呼ぶには、椅子もテーブルもあまりにさっぱりとした素朴なデザイン過ぎるし、誰かの私室であるなら、その人物は一切私物を持っていない事になる。
ぐるりと室内を見回した大輔の目が最後に止まったのは、通気口近くの、カーテンで覆われた一角だった。大部屋の病室に設置されているような、カーテンレールが天井に取り付けられていて、そこから床をこするほどの長いカーテンが垂れ下がっていた。壁の色よりも若干濃い色は、カーテンの内側に何があるのかを完全に隠している。
眼を大樹に戻して、大輔は首を傾げた。「リーダーって奴には会ったのか?」
少しばかり間をあけて、「、ああ」少し歯切れの悪い声で大樹は応えた。どんな奴だった? と続けて問いかけようとしたところで、「——……、二人とも立って話すのも疲れるだろう? 椅子は人数分ちゃんとあるんだから、座って話をすればいいよ」その声は部屋の入り口のほうから聞こえてきた。苦笑いを含んだ、親しげな声だった。
眼を見開いて大輔が振り向いたのは、声が聞こえるまで入り口に気配を感じなかった事に驚いたからではない。聞こえてきた声が確かに、鼓膜を震わせて耳から入ってきたのに気づいたからだった。頭に直接響き渡る声ではなく、大輔がいるこの部屋の空気を震わせて伝わったのだと分かったからだ。ふと、苦虫を噛み殺すような顔を大樹がするのを視界の端で見たけれど訝しむ間もなく、声の主を視界の中心に捉えた瞬間、大輔の頭の中にあったもの全部が、文字通り吹っ飛んだ。
男とも、青年とも。どちらでも良さそうな雰囲気を彼は漂わせているけれど、年の頃は大輔と同じはずだ。両手に持っていた盆をテーブルにおくと、彼は盆の中のティーカップや、紅茶のパックらしいものが浮かんでいる耐熱ガラス製のポットやらをテーブルの上へと移していった。たちまち、午後のお茶会のような光景がテーブルの上に出来上がるのを、大輔はいまだ動き出す気配のない頭の中で不思議がった。地下通路の行き止まり、テーブルと椅子と、仕切られたカーテンしかない部屋にはとてもじゃないが、相応しい光景とは思えない。
ましてや、それを取り囲むのが——……、「ヒロシ、?」呻くように小さく零れた声に、彼は小さく口元で笑って見せた。空になった盆をテーブルの脚に立てかけるようにして置くと、椅子に腰を下ろして上目遣いに大輔を見遣る。
「まるで幽霊か、この世には存在しないはずの人間に出くわしたような顔だね」その声は、大輔の動揺の真意をあっさりと看破していた。「でも、僕は幽霊ではないし、ちゃんとここに存在してもいるからね。そんなに信じられないなら、握手でもしてみるかい?」言って、手を差し出してくる。
その手に視線を向ける事までは出来ても、同じように手を伸ばして握る事は大輔には出来なかった。表情を強張らせ、硬い声を押し出すようにして質問する。「、お前が、能力者解放戦線のリーダーだったのか」
「そうだよ」差し出した手をひらりと一度振ってから引っ込めると、ヒロシはポットの取っ手を掴んだ。自分の前に置いているカップへと、琥珀色のお湯を注ぎながら応えた。「半年前からね。まあ、実際のところは今でも父さんが運営や管理はやっているから、僕がしている事はここで日がな一日、母さんの相手をしているぐらいだけれど、」
大輔は眉をひそめる。「母さん、?」何か酷く、ひっかかる言葉を聞いたような気がした。
ポットをテーブルの上に戻し、ヒロシは首を傾げて大輔を見る。「大輔は、僕が幻の存在だと思っていたんだろう? 能力の事で学校にうまく馴染めない自分と大樹が、無意識のうちに勝手に作り上げて共有した幻。だから、僕がここにいる事に驚いた。でも、僕が君の目の前にちゃんと実在しているのを確認した今は、別の事も気になっているんじゃないのかい? 僕がいるのなら、あの人も存在しているんじゃないか、とね」ゆっくりと椅子を押して立ち上がると、ヒロシはにこやかな笑みを一度大輔へ向けてから、部屋の一部を覆い隠すカーテンのほうへ歩き出した。カーテンの端を少しめくって、中へと入っていく。
しばらく、小さな物音がカーテン越しに響いた。やがてカーテンが、音を立てて開けられる。
息を、大輔は呑んでいた。けれど意外なほどに、それ以上の動揺も驚きもなかった。
現れたのは、車椅子に乗った小柄な女性だった。年の頃は三十代前後といったところだろう。赤茶けた髪を耳朶よりも少し下で切り揃えていて、清楚感漂う白いワンピースを着ている。肌はその布地の純白よりも白く、血管の青さが浮き出てて見えるほど病的に青褪めていた。陽の下に一度も出た事のない人間がいたとしれば、こんな肌の色なのかもしれない。
眼は半眼に伏せられ、物静かに自分の膝に掛けられた赤と緑のチェック柄の布地を見つめている。いや、ただ視線がそこにある、というだけで彼女がそれを見ているかは分からないかった。少しだけ顔が俯き加減になっているから、視線が下を向いているだけで。恐らく、大輔へ真っ直ぐに顔が向いていたとしても、視線がかち合う事はないように思えた。
生きている人間には違いないのだ、ゆったりとしたリズムで胸元が上下している。けれど一方で、肌の材質からすべてにこだわって作られた等身大の人形なのだと言われても、納得してしまいそうだった。つまりそれだけ、車椅子に乗っている彼女は人の形こそしているけれど、中身は綿でも詰まっているかのようだったのだ。
その眼が真っ直ぐに大輔を見据えていた時があったのを、忘れてしまいそうなぐらい。
車椅子の両輪がゆっくりとフローリングの床を軋ませながら近づいてくる。車椅子を押しながら、ヒロシは大輔と大樹を交互に見遣った。「この人が僕達の、母さんだ。分かるだろう? 僕達をいつも、見守ってくれていた人だよ」
言われなくても、ふと誰かに診られていると思って振り返れば、この人はいつも後ろにいた。
けれど、大輔は首を横に振っていた。「——……、おかしいだろ。俺達は今年で22歳だ。この人はどう見たって三十過ぎているかいないかぐらいだ。俺達の母親のわけがない。それに、今の言い方じゃまるで、」僕達、に含まれるのが誰なのかは、考えるまでもない。この車椅子の女性を見てきた、ここにいる三人だ。困惑で言葉が中途半端に途切れた、そのまま黙り込んでしまった大輔にヒロシは首を傾げる。
「大輔は、何の繋がりも持っていない赤の他人同士が、物心つく前からテレパシーのようなもので結びついていたなんて思うかい? 君達を育てた小野家の人達が、実の親でないことぐらいは知っているんだろう? だったら、何を怖がる必要があるんだい?」
現実を受け入れろ、と迫ってくる声だった。「血が、僕らを結び付けていた。母と、僕と、君達双子を。だから僕達以外の誰にも、母の姿は見えなかったし、電話でもするみたいに心の中で会話できたのは、僕と君達だけだったんだ」
「俺はこの半年間、この人の姿を見ていないし、お前の声も聞いていないけどな」血で結びついているというならば、能力と共に消え去ったのはどう説明がつくというのか。
半ば、難癖をつけている気分だった。ヒロシの言う事にも一理ある、と思いながらも大輔はそっと傍らの大樹へ眼をやった。
動揺の一片さえ、弟の表情から見つけ出す事は出来なかった。大樹の横顔は車椅子の女性へと注がれていたけれど、いきなり「この人が母親だ」と告げられて困惑している様子もなかった。あらかじめ全部を知っていて、それを再確認した過ぎないような、淡々とした表情だった。
初代の魔女の秘密、車内で麻耶が言っていた言葉を思い出す。「——……その人が、初代の魔女か」質問すると、ヒロシは隠す必要もないと言いたげにあっさりと頷いた。
「その通り。ただ、魔女というのは当時の研究所の人間が使っていた記号みたいなものだから、あまり好きじゃないけどね」言って、肩をすくめる。「でも、それで分かるだろう? 能力者同士に血縁関係があっても、今までテレパシーのようなものが確認されたという話は聞いた事がない。でも、女性としてはじめて能力の発現が認められたこの人の血を引いているのが条件なら、前例がないのは当たり前だし、生みの親の事を育ての親が語りたがらないのも当然だ」
——研究者にとってみれば、女性の能力者がいない以上は調べようのない事だったから、興味は尽きなかっただろうな。魔女は幼くして遺伝子上の母親になった。さすがに母胎は既婚者の研究員の子宮を使ったらしいが。
高柳の言葉が脳裏に、まるで暗闇で閃いた光のように浮かび上がった。
兄である、ようするに育ての親である小野夫妻の実子になる大智は今年で二十四歳だ。研究所が火災からはじまる諸々の事で閉鎖になったのが二十二年前、家にある家族のアルバムには当たり前のように生まれてからこれまでの兄の写真があったから気にしていなかったけれど、能力者が生まれたら研究所に預ける、という風潮が強かったらしい当時にどうやって兄を出産し、研究所が閉鎖になるまで育ててきたのかは——、気になるところである。
ふたりとも、あるいは片方が研究員だったとすれば。研究所の、世間では暴かれていない本質を知っていたからこそ、我が子を預けなかったとしたら。
考えに没頭しはじめる意識を引き止めたのは、ふと感じた視線だった。顔を上げ、眼がかち合う。
一瞬、呼吸が止まったと思った。向けられた眼差しにそれだけの強さはまったくなかったのに、ただ眼が合っただけで心底自分が動揺したのを大輔は自覚した。
「母さん、」と、ヒロシが車椅子の傍で膝を折る。呼びかけたその声に、大輔へと優しげな眼差しを向けていた彼女は殊更ゆっくりとした仕草で首を捻って、ヒロシへと眼を向けた。カーテンから出てきた時と変わらない、一見すると人形にも見えていた姿が今ははっきりと、人の姿として機能していた。「……、ヒロシ? ここに、いるのは大輔……、よね? その隣にいるのは、大樹、だわ」夢心地で語るような声は若干呂律が回っていない、子供のようなたどたどしさがあった。
隣に立つ大樹の体が、ぶるり、と震えたようだった。気配として伝わってきたそれに振り向くと、車椅子の彼女を見遣っている弟の表情はただただ無表情に硬く強張っていた、喜びや驚きはまるでなく、青褪めた唇を噛み締めている。
そんな大樹とは対照的な柔らかな眼を、彼女はしていた。「今日は、みんないるのね。……、あら、でも、兄さんはいないのね。兄さんがいたら、このテーブルの椅子が全部、はじめて、埋まるのにね」椅子が五脚用意されているテーブルを見遣り、少し残念そうに眉をひそめた。
「大丈夫だよ、母さん。父さんはすぐにこっちに来るから、そうすれば家族は揃うよ」慰める口調でヒロシが言うと、彼女は眼をヒロシにやってふわりと表情をほころばせた。言葉にすれば、ありがとう、と告げているような暖かい笑みだ。——けれど、それが最後だった。
「、あ」と、小さな声が無意識に大輔の口から落ちる。
ねじ巻き式のオルゴールが止まる瞬間、のようだった。今まで当たり前に動いていたオルゴールの人形がゆっくりとぎこちなくなりはじめ、最後にはぴたりと動きを止める。彼女の笑みはゆっくりと表情から消え、最後には口元のかすかな笑みだけを残してなくなった。それさえさっき彼女自身が浮かべたもの、ではなく、最初から掘り込まれていた跡のように見えた。人形だったものが束の間人になり、また人形へと戻る。まるでそんな、おかしな夢の一幕のような。
「……意識を半分、封じられているんだよ」ヒロシはそっと立ち上がると、自分のほうを向いたまま再び動かなくなった彼女の顔の両頬に手を添えて、真正面に戻した。「半年前に僕が最初に出会った時は、言葉さえ話せない、今のような状態がずっと続いていた」
テーブルの傍にある空の椅子を一脚だけ部屋の隅に片付け、空いた場所に彼女の車椅子を動かした。タイヤのストッパーをかけてから、傍らのさっきまで自分が座っていた椅子へと腰を下ろす。ひとつ短く息を吐き出すと、顔を持ち上げた。「二十二年前に、ここで何があったかは知っているだろう? 表向きにはただの火災って事になっているけれど、実際は研究所の非人道的な行いから能力者達を解放するための暴動だ。母は、僕らの父であり自身にとっては兄でもある成瀬修司、他にも賛同する仲間を募って、決起した。でも、失敗に終わってしまった」
続きを話し出そうとするヒロシを咄嗟に、大輔は止めた。「ちょっと待て、——成瀬がこの人の兄、っていうのはどういう事だ?」
「驚く事でもないだろう?」聞き返すようにして肩をすくめたヒロシの口振りは、まったく物事を理解していない大輔に呆れているようにも、一方で同情しているふうにも聞こえた。「研究所は、まだ十歳にもなっていない女の子の体から卵巣を取り出して成熟させ、受精卵を別の女性の母胎に植えつけて代理出産させ、その子供らを実験対象にしていたような場所だ。兄の精子と妹の卵子を交配させたらどうなるか、思いついたけれど人道的に出来ない——、なんて思いとどまると思うかい?」
皮肉を込められた問いかけに、応えられるはずもない。言葉の代わりに、ぎゅっと見えない圧力に押さえつけられたかのように胃が痛んで、今にも吐き出しそうな気持ち悪い感覚が食道をせりあがってくるのを感じた。眉をひそめ、唾を何度も飲み込んだ。教科書に載っていたあの白黒写真が、脳裏にちらつく。
体の芯から、ゆっくりと温度が下がっていくようだ。奥歯を噛み締めなければ、今にもガチガチと音を鳴らして、震えだしてしまいそうな。
大輔が言葉を詰まらせたのを肯定と受け取ったらしいヒロシは再び、口を開いた。
「話を戻そうか。——……、決起に失敗した母さんは捕まり、意識を封印された。研究者達は、暴動の首謀者の一人だったこの人を殺す事はしなかった。現在発見さている中で唯一の女性能力者だ。まだまだ研究したい事が山のようにある。だから脳の中に意識を封じ込める模擬魔術を施して、それを解除するための対となる模擬魔術を、当時はまだ代理母の腹の中にいた僕達の頭の中に刷り込んだんだ」言って、人差し指をこめかみに添えた。トントン、と指の腹で叩いてみせる。「そして、代理母のふたりは研究所から逃げた。——、いや、父さん達から逃げ、身を隠した。それを父さんはずっと探し続け、半年前にようやく僕を見つけた」
そこで一度言葉を切ると、ヒロシはそっと唇の端をゆるめた。昔の事を懐かしく思い浮かべているうちにほころんだ表情が笑みになったようなその顔は、今はもう人形に戻ってしまった母親がかすかに浮かべる笑みにどことこなく似ているようだった。
「僕の頭の中にあった模擬魔術で、母さんの意識を半分だけ解放した。だから今は、時々だけど目を覚まして、会話ができるようになった。——、脳に負担がかかればまた人形のようになってしまうけどね」言って上半身ごと眼差しを母へと向けたヒロシは、皺一つ出来ていない彼女のひざ掛けを丁寧に掛けなおした。「父さんは、もう半分の模擬魔術を持つ僕の兄弟を探した。見つけるのは簡単だったよ。なにせずっと僕達は、意識は繋がっていたんだから。母さんが実在していると分かったからには、君達が想像の産物だなんて思うはずもなかった。双子だったのは少しだけ困ったけど、でも、大樹が行方不明になったというのが判明して、模擬魔術を持っているのは大樹なんだろうと、父さんと話し合った」
だから、行方不明の大樹を見つけ出すために、双子の兄である大輔を利用しようとした。盗聴器まで仕掛け、接触してきた大樹を誘拐したのだ。一方で成瀬が大輔に優しい言葉をかけていたのは、解除の模擬魔術自体は持たずとも、自分の息子だったから。
ヒロシの唇の笑みにふと、苦々しげな色が滲んだ。「対魔術課は現政党の肝いりで出来てる。意識を封印する模擬魔術と対になる模擬魔術が実在する事も、それを初代の魔女の最後の子供達に植え付けた事も、代理母が誰であるかも、資料は全部持っているだろうと思ったよ。だから、大樹は逃げたんだと、僕と父さんは考えた。母が復活するにはまだ早い、でも研究対象としては魅力的だ。一応解除の模擬魔術を持っている人間さえ警察が確保しておけば意識を完全に復活させるタイミングは、そっちで自由に出来る。僕達に居場所を探らせないために、警察は大樹の行方を分からなくさせたんだとね」その時、声に僅かだけ呆れまじりの感嘆に似たものが混じったのを、大輔は聞き逃さなかった。
出し抜かれた事に腹を立てながらも、拍手を送る礼儀ぐらいは忘れていない口調だった。大樹へ、向けられているものだと思っていたから、口を噤んだヒロシが視線を当たり前のように大輔へと向けてきた時には、小さく息を呑んでいた。
ヒロシの手が不意に伸ばされ、大輔の手を掴んだ。その瞬間、触れ合った皮膚と皮膚の間をくぐもった音が小さな衝撃と一緒に駆け抜けていった。静電気のようだった。痛み、と呼ぶほどのものでもなかったけれど、ほとんど反射的に大輔はヒロシの手を振り払っていた。足が一歩、後退っていた。
「本当に模擬魔術を持っていたのは、君のほうだったんだ。大輔。今ので、分かっただろう?」振り払われた手をヒロシは引いて、笑った。「一人の人間の意識を解放する模擬魔術は本来、一つのものだ。それを研究所は警戒して、わざわざ二つに分けた。今の現象は、僕の中にある解放済みの模擬魔術が、君の中にある解放を待つ模擬魔術と反応したんだ。僕が手を貸せば、君の中の模擬魔術を解放する事が出来る。母さんの意識を取り戻せるんだ」
さあ、と、ヒロシの手が差し出された。
じっとその手を見つめても、大輔は掴もうとは思わなかった。無意識に距離をとろうとした足が何より、自分の本心に近い気持ちを代弁していたのだと理解した。ありていにいえば、得体の知れない恐怖だ。
「——やめろよ、ヒロシ」とこの時、さっきからまったく口を開かずにただ険しげに顔をしかめていた大樹が口を開いた。ヒロシの手から逃げて眼を向けてきた双子の兄を見遣り、そうしてから改めて、もう一人の身内を見た。「この人を復活させたいっていうのは、お前と成瀬の願いだ。俺や、大輔の願いじゃない」
似たような事を檜山も言っていた。大樹の言葉にきょとんと眼を丸くしたヒロシは、檜山の言葉にその時成瀬が言い返した事と同じ言葉を、少しばかり困惑した口調で言った。「願いじゃない、って思っているのは、そう思わされてきたからだ。本当は願ってるはずだよ、心の底から」
大樹は大きく頭を横に振った。「この人が復活したらお前らはまた、模擬魔術事件のような事をしでかすんだろうッ」
「当たり前だ」困惑を消し、当たり前の事として応えるヒロシの口調には硬く、容易に崩れない決心が詰まっていた。「この世の中には一般人に傷つけられている能力者がたくさんいる。生まれてきた事さえ謝りながら生きている能力者達がいる。彼らに教えないといけない、能力者は一般人に虐げられるために生まれてきたんじゃない。生きる事を誰かに許されて生きているんじゃない。僕は、彼らを救いたいんだ。だって、彼らは昔の僕自身なんだからね」
途端、膝に力が入らなくなったのを、大輔は自覚できなかった。膝から崩れ落ちるように床に座り込んではじめて、大輔は目を見開いて床についた膝を見下ろした。けれどそれも、すぐに輪郭がぼやけ曖昧になるのに、瞼を瞬かせた。ぼとり、と不自然に重たげな音を立てて目尻から、滴る涙がそのまま床へと落ちる。その瞬間だけ明瞭になる視界はすぐさままた、涙の幕で覆われた。
大輔はくずおれて、泣いていた。
感情が、やけに遠い場所にあった。止め処なく溢れては落ちる涙を流し続けている体はここにあるのに、悲鳴を上げたいぐらいに悲しい気持ちは、体のどこを探してもない。
「ッ、大輔!?」慌てた大樹の声がすぐ頭の上で聞こえた気がしたけれど、顔を上げるとそこにいたのは大樹ではなく、ヒロシだった。ヒロシは何処か気の毒そうに眼を細めていて、さっき大輔が振り払った手を床についていた大輔自身の手へ重ねていた。
痛みはなかった。代わりに伝わってくるのは人としての体温で、皮膚を通り、その下を流れる血を暖めていく。
「一般人は、そしてそれを守る警察は、本当のところは能力者の事なんてなんとも思っちゃいないんだ。対魔術課にしても、能力者の犯罪を能力者に対処させているだけで、一般人は知らぬ存ぜぬだ。でも、何か問題がおこればこれ見たことかと非難する。まるで、僕の育ての親みたいにね、」浮かべた苦笑いは、歪んでいる唇だけが笑いの形をとっていた。八の字に寄せられた眉も、細められた目も、本当は今にも泣き出してしそうに震えていた。
ぎゅっと胸が痛くなった。遠ざけていた記憶が不意に蘇り、どうにか癒えたばかりの心のあちこちに出来たかさぶたを思うまま引き剥がしていこうとするような、痛みだった。
「僕を育てた人達は、僕の事を猫や犬のようにしか思ってなかったよ。いや、犬や猫よりも価値のないものだったかもしれない。モルモットみたいなものだったんだ。実験対象として産むつもりが、研究所があんな事になって不本意にも殺すわけにもいかなくて、義務として生かしておかなくてはいけなかった。あの人達は研究者の眼をしていた。いつか僕が役に立つだろう、って僕の生態を観察し、記録につけるのが今の自分達の役割だと思っているようだった。だから愛情なんて、感じた事はなかった。精々、児童相談所に連絡が行かない程度の世話をして、後はいつもひとりだった」
子供の頃の記憶にあるヒロシとの会話の中で、ヒロシはいつもやたら淡々と家族の話をしていた。その時には大輔はもう、自分達が小野夫妻の実の子ではないと知っていたから、そういう家族に対する冷めた気持ちがヒロシの淡々とした口調に出ているのだろうと思っていた。でも事実はとても単純で、ただヒロシは本当に、分からなかったのだろう。
心臓が脈打つリズムに、ヒロシの言葉が重なる。呼応するようなそれにようやく、大輔は理解した。
——止まらない涙も、息苦しいまでの胸の痛みも全部は、本来ならヒロシのものなのだろう。一つのものをわざわざ二つに分けて、ヒロシと大輔の頭の中に入れた。触れ合い反応しあうのなら、片方の感情をもう片方が自身に降りかかった事のように感じる事も、出来るのかもしれない。
「だから僕は、父さんと会った時、この人が実の親なのだと分かった。これが本当の親の温かみなんだって、理解した。母さんと初めて顔を合わせたとき、この人の笑顔が見たいと思った。君達が本当に実在して、本当に血の繋がった兄弟だと知った時は、君達をすぐに迎え入れたいと思った」
上下した瞼に押し出されて、目尻から涙が溢れた。それが、大輔の眼窩にあった最後の一滴のようだった。顎を伝ってそれが床に落ちる時にはもう、胸を押しつぶそうとする痛みも同じく消えて失せていた。家族を知らなかった青年は、家族と出会えたのだ。涙はいらない。子供向けの童話ならばそれでハッピーエンド——……、だろうに。
感情は相変わらず遠く、そして境目が分からなくなっている。愛されない孤独感に胸を軋ませながら泣いていたのは、半年前までのヒロシだろう。じゃあ、と大輔は言いようのない寂しさが過ぎ去った心中にゆっくりと芽吹きつつある感情に戸惑っていた。この想いのどこまでがヒロシのもので、どこからが自分なのか。——分からないにしても、この願いそのものは、ひどく当たり前のことだった。
やっと、母さんに会えたのに。ずっと求めていた家族をようやく、見つけたのに。その笑顔が、見られないなんて。
まるで大輔の心を見透かしたように、あるいは自分の思った事を自覚したようにヒロシが笑った。今まで見てきた笑顔の中で一番、幸せそうな笑みだった。強く手を、握り締めてきた。
「大輔。僕は母さんに会いたいんだ。笑顔が見たいんだ。分かるだろう? 君は僕の、弟なんだから」
首がゆっくりと頷こうとするのを、大輔はまるで他人事のように感じた。境目をなくした意識の一体どちらが、大輔の体で頷こうとしているのか。その動作の合間に、頷いてはいけない、と心中で声を張り上げたのはどちらなのか。分からないまま頭を打った体は自然と、握り締めてくるヒロシの手を同じぐらいに強く、握りなおそうとしていた。
さっきは確かに、差し伸べられた手を握ろうとするのも怖かったはずなのに。どうしてあんな恐怖を、感じてしまったのだろうか。
ふと過ぎった疑問の答えは突然、耳を劈いた。「大輔ッ!」と、それは自分を呼ぶ声だった。
大輔の唇は彼自身が、その声の主を理解するよりも早く動いていた。「兄、——」と、ここにいるはずのない人物の名前を呼ぼうとしていた。途中で声は立ち消えてしまったけれど、大輔は自分の声をちゃんと聞いたような気がした。兄さん、と。
直後、それは起こった。音、というよりは、衝撃だった。まるで二つのものが一つに溶け合いそうなほど自然に重なり合っていた大輔とヒロシの手の間で、何かが弾けたのだ。低くくぐもった、重たい何かが弾け、ふたりの手を引き剥がした。静電気に似ていなくもなかったし、手のひらにうっすらと電気が走ったような感覚もあったけれど、そんな生易しい表現では物足りなかった。一言で言うなら、拒絶、だった。
「ッ!」手を跳ね上げたヒロシは、虚を突かれた、といった表情だった。条件反射のように勢いよく手を離したらしく、後ろに尻餅をついていた。大輔も似たようなものでぎょっと背をのけぞらせていて、その背が何か硬く暖かいものにぶつかった。背後に壁はない、じゃあなんだと思う前に、大輔の両肩を背後から大きな手のひらが掴んだ。
まずその手を見遣り、眼を見開いて首を捻った。「兄さんッ!」
小野大智が、そこにいた。片膝をついて、大輔の真後ろにいた。
声には自覚するだけでも様々な気持ちがこもっていた。戸惑いや動揺や驚き、喜び、一緒くたになった声で叫んでいた。大智は一瞥でその呼び声に応えると、再び真剣な眼差しを真正面に据えた。兄の視線を追いかけるように同じく真正面を見遣ると、ヒロシが唖然とした表情で自分の手を見下ろしていた。さっきまで、大輔の手を掴んでいた手のひらだ。
「どうして?」訳が分からない、と言葉も態度も何もかもが、そう呟いている。ゆっくりと手のひらに爪を立てるように拳を作ると、顔を上げて大輔を見た。「どうしてなんだ、大輔。君だって、母さんの笑顔が見たいだろう? 母さんに会いたいだろう? なぜ、力を貸してくれないんだ。僕と同じ気持ちのはずなのに」今にも泣き出しそうに顔をゆがめる。
さっきあのまま、手を握り返していたら——ヒロシの解放された模擬魔術を経由して、大輔の中にある模擬魔術も解放されていたのだろう。あのまま、ヒロシの悲しみを自分の悲しみだと嘆き、ヒロシの願いを自分の願いだと体が思い込んでしまっていたのなら。
大輔の手のひらにはまだ衝撃の名残が、残っていた。低温火傷のような、鋭くも激しくもない代わりにじわりじわりと骨にまで伝わっていきそうな痛みだった。大輔はその痛みをそっと手のひらでくるむように握り締めて、首を横に振った。これが迷う事のない、大輔自身の答えだった。
「ヒロシ。俺は、……俺も、大樹と同じだ。初代の魔女を復活させるわけにはいかない」この人、でも、母、でもなく、“初代の魔女”と呼び慣れた呼称で断言する。
大きくヒロシの肩が揺れた。ただ悲しげだった表情に途端、剣呑の皺が浮かぶ。「どうしてだ。母さんが意識を完全に取り戻すにはどうしたって、君の力が必要なんだ。君が手を貸してくれなければ、母さんは永遠にこのままなんだよ。永遠に家族を取り戻せないんだ」
痛いほどに、ヒロシの思いは伝わってくる。ヒロシとの境目をなくしていた時に直接流れ込んできた感情は今もなお、大輔の中にあった。ただ違うのは、それを自分自身の気持ちだとはまったく感じていない事だった。だから大輔は首を再び、横に振った。
「でも、復活させるわけにはいかない。俺は、兄さんを殺したくない」
「なに言ってるんだ、大輔」ヒロシの口調は半ば戸惑うように揺れた。「血の繋がった兄弟は、僕と大樹だけだろう? 他の兄弟達はみんな、研究所の実験対象として死んでいったんだ。母さんと父さんの子供は、僕達だけだ」
血の繋がった兄弟の言葉を、大輔はまた首を振って否定した。「俺には、育ててくれた父さんと母さんも、兄さんも、家族だ」だから駄目なのだ。そしてそう思う事が、ヒロシと自分の考えや想いの決定的で致命的な違いなのだと分かっている。
ヒロシには、理解できない。育ての親に「研究者の目」しか向けられてこなかったヒロシには悲しいぐらいに、血の繋がらない親や兄を思う大輔の気持ちは伝わらない。だから、ふいに耳に大智の声が飛び込んできた時に、混ざり合っていた二人の意識は乖離するしかなかったのだ。大輔が呟いた、「兄さん」という言葉に自然と込められた思いを、ヒロシが理解できなかったから。能力者として生まれた孤独や悲しみや痛みの記憶を共有する事は出来ても、暖かな家族の記憶を共に抱く事は出来なかったから。
血の繋がらない家族を思う気持ちが、血の繋がった家族の復活を拒絶した。
「また暴動が起これば、一般人と能力者の溝は決定的なものになるんだろう。どっちが勝っても、俺達家族は不幸になる。兄さんはきっと、警察官として負けたほうを助けようとするだろう。それで……、死んでしまうかもしれない」麻耶が語った未来では、そうなったのだろう。今大輔の背を支えてくれているこの人は、死んでしまったのだろう。
信じられないとばかりにヒロシは声を荒げた。「でもこの男はッ、君に大樹の事を隠していたんだぞッ。母さんの封印の事を知っていて、その模擬魔術の入れ物が君である事も知っていたはずだッ! でもすべてを君に隠し、君を偽り続けたッ! 君が大樹の事を案じている間も、隠し続けた。それは大輔、君を信じていなかったからじゃないのかッ? 母さんの封印の事や君自身の秘密の事を君が知れば、封印を解きたがるかもしれないと、疑ったから話さなかったんじゃないのか!」
投げつけられた言葉に一瞬、大輔は面食らって息を呑んだものの、成瀬が仕掛けた盗聴器の事を思い出すと、喉に押し込めた息をゆっくりと吐き出した。気持ちは、落ち着いていた。何度目かになるかは忘れたけれど、また首を横に振り、大輔は口を開いた。
「違う。多分兄さん達は、……ただ俺を、遠ざけておきたかっただけだ」疑うとか信じるとか、そういった気持ちとは無関係な場所で、大智も大樹も動いていた。ふたりが大輔の知らないところで連絡をとりあっていたのだと知った時は憤るしかなかったけれど、その理由を知らされた今となっては、分かる。
大輔の中に封印を解除する模擬魔術がある真実は消えない。大樹が身代わりとして周囲の目をひきつけて逃げたとしても、真実の所在は変わらない。大輔が知っていてもいなくてもだ。けれど、重たさは変わるのだ。知らない事実は空気と同じ。けれど知ってしまえば、それ相応に重みが増す。その上で双子の弟を巻き込んだ事実は生々しく真実にまとわりつくだろうから、知ってしまえば大輔は、相当な重荷を背負う事になっただろう。
大智と大樹はただ、その重みから大輔を遠ざけたかっただけだ。遠ざけて、代わりに自らがいくらかの代償を背負ったのだ。大樹は逃げ続ける事。大智は逃げる大樹を見守りつつ、真実を知らない大輔が出す大機の捜索願をもみ消し、その事で罵倒され軽蔑され——……、「信じてもいない、どうでもいい奴が好き勝手にいつも、顔を合わせるたびに自分の事を罵っていたら、耐えられるはずがないだろ? 何も言わず、ろくな弁解もしなくて文句も言わなくて、俺の罵声をずっと聞いてられるはずがないだろう?」
真っ直ぐにヒロシを見据えた。ゆっくりと、次第に大きく彼の目が見開かれると、眼球の底に黒々と溜まっている闇のようなものが僅かに揺れ動いたようだった。戸惑いが薄れていく代わりに、そっと諦めに似た色が滲みはじめていた。
気づいてくれたのだ。と、大輔は思った。立ち上がり、ヒロシに近寄ろうとした。
けれど、床に足をついて半ば、中腰になった時だった。突然、背中を力任せに突き飛ばされた。中途半端にバランスの悪い姿勢だった大輔はそのまま前のめりに数歩よろめいた。すぐ目の前に彼女が乗っている車椅子の車輪があって、咄嗟にすがりつくように手をついた。一息深くついてから、振り向いた。小さな悲鳴が眼を見開くより先に喉をついて、出た。
まず、木目のフローリングを徐々に侵食していく歪な赤が目に飛び込んできた。部屋の明かりに照らされて表面がぬるりとした光沢を発していた、——血だ。
「兄、…さん?」茫然とした声と一緒にさまよう眼が、その中心にいる大智を見た。脇腹を右手で抱え、額を血溜まりに押し付けるようにして蹲っていた。その傍らに佇む、いつからそこにいたのかも分からない成瀬が手についた埃か何かを払うように短く手を振ると、まだ血溜まりに汚れていないフリーリングの床に小さな赤いの跡が、ひとつ、ふたつ、と出来た。
「じゃあ、仕方ない」と、成瀬は言った。今までの優しさなどかけらも見つけられない声であり眼差しだった。「ヒロシ。俺がこの子を殺すから、お前は完全に大輔が死ぬ前に模擬魔術を解除しなさい。死に際なら、抵抗する事も出来ないだろうから」
その言葉に、ヒロシの眼が瞬かれた。動揺を隠しきれない忙しさで何度も上下し、何か言いたげに唇が開きかけたものの結局、閉ざされた。こくり、と頭を項垂れるように打つ。
そんなヒロシに成瀬のほうは淡々と頷き返してから、大輔へと靴先を向けた。けれど近づこうと歩き出しかけたところでふと、下半身を不自然に震わせて止まった。細めた眼を足元へと落とす。
「……ま、待てッ、」血で汚れた左手を成瀬の右足に必死に絡みつけながら、脇腹を押さえたさっきの姿で大智が低く声を押し出した。精一杯肺を膨らませて叫んでいるのだろうが、それでもか細く、息絶え絶えな声だった。「大輔、はッお前、のッ、子供だろうが!」
短く、成瀬は唇の端を引き上げた。笑みの形ではあったけれど、本心から笑っている気配は表情からも、開いた口から発せられる言葉からもまったく感じ取れなかった。
「だから話し合いで分かりあえると思っていたんだよ」告げて、右足を強引に前へと動かすと、大智の腕はあっさりとほどけ血溜りに落ちた。血が、ほんのすこしだけ跳ねた。吸い込んだ息が鋭く喉を鳴らした、思わず駆け寄ろうと立ち上がりかけた大輔の前で、成瀬は足を止めた。文字通り、立ちふさがった。「でも無理だったみたいだ。本当に残念だ、でも——説得しても無理だったなら、仕方ないだろ? 妹の目覚めを邪魔するならもう、血が繋がっていても、仕方ない」
そうして無造作に成瀬が振り上げた右腕は、それ自体が内側から光り輝いているような白銀を纏っていた。同じ能力だ、と大輔は立ち上がりきる事も逆に座り込む事も出来ないまま、場違いにそんな事を思った。白銀を帯びた手のひらは、鋼鉄に似た頑丈さで、研ぎ澄まされた凶器でもある。一度頭上で止まり、白銀を帯びた腕は空気のしなる音と共に振り下ろされた。
大輔は逃げなかった。成瀬の体の向こう、部屋の入り口に麻耶が佇んでいたから。
人が一人殺されようとしている現場に居合わせた人間の動揺も何もなく、ただ眺めているだけの彼女の眼差しにすべてを察した刹那、視界に白いものが飛び込んできた。麻耶の視線を、白銀の軌跡を遮り、それは白くはためいて、翻った。
耳のすぐ傍で何かが、勢いよく倒れる音が飛び込んでくる。甲高く重たく、耳を劈いたその金属的な音の合間を縫うようにして別の、湿り気を帯びた、耳に入り込んでくるだけでも鳥肌が立つような生々しく怖気を孕んだ音も、聞こえてきた。
瞬間、はためく白の中に赤が飛び散る。
その赤は大輔の頬を濡らした。生暖かい感触の正体に大輔が眼を見開いた時には、尾を引くようにしてほのかな熱を伝えながら頬を伝っていた。目の前に成瀬はいなかった。大輔の視界を遮るようにあったのは、細い、華奢な背だった。到底、誰かを守るよりも守られるために存在しているような、弱々しくも儚げな後姿だった。
「、しをり、?」一人言のような、うわ言のような、——成瀬の声がまるで合図だったかのように。
その体は崩れ落ちた。白の中に点々とした赤をちらばらせながら、彼女の身を包んでいたワンピースの裾がまた、大きく翻った。女性とはいえ、大の大人が床に倒れる音とは思えないほどの、軽い、おかしなほどに存在感のない音が、聞こえた。
(一週間後)
初代の魔女の死は、世間を騒がせるはずもなかった。そもそも存在からして都市伝説であると思われているのだから、一部の人間を除けばあの人は、生きていても死んでいても変わりのない存在なのだろう。
成瀬修司の死も、さほど世間では大きく取り上げられる事はなかった。人権団体が、留置所での野首吊り自殺について、取調べの行き過ぎではないかと騒ぎ、警察が監視体勢の徹底を図ると会見で告げたことぐらいが、成瀬の死後に起こった騒ぎのすべてだった。——実の妹を事故とはいえ手に掛けてしまった兄の、あっけないといえばあっけない最期であった。
大輔が久し振りに訪れた麻耶の事務所は引越し準備の真っ最中だった。別に手伝いに来たわけではなかったけれど、タオルを首からぶらさげた麻耶が当たり前の口調であれやこれやと指示してくるので、ついつい手伝っているうちに陽はすっかり落ちてしまっていた。
「——どうして、成瀬に初代の魔女を殺させた?」と、大輔は最後のダンボールに本を詰めながら質問した。昼下がりからずっと手伝っていて、今まで他愛ない話をし続けてきたというのに、一番気になっていた疑問はどういうわけか、最後の最後になってようやく聞く気になれたのだ。
あの時。大輔を殺そうとした成瀬は、大輔の前に躍り出た妹をその手で文字通り刺し殺してしまった。
あの時。すぐ傍で鳴り響いた金属音は、彼女が立ち上がる際に倒れた車椅子の音だった。
妹の血に塗れた手をだらりと体の脇に垂れ下げた成瀬の、茫然と表現するのも難しい、空っぽのような姿を、ふとした瞬間に思い出す。
麻耶は、詰め終わったダンボールの蓋を片手で固定して、もう片方の手でガムテープで止めながら応えた。「彼じゃないと駄目だったのよ。初代の魔女を殺しただけじゃ、成瀬は止まらない。いっそう一般人を恨むようになるだけ。成瀬を殺しただけじゃ、初代の魔女の復活を望む人間がいる。ふたりがいなくなってくれないと、暴動は必ず起こるのよ。逆を言えば……、ふたりがいなくなれば暴動は起こらない。ヒロシ君は立派にリーダーをやってるみたいじゃない?」最後のは疑問符こそあっても、大輔に問いかけていなかった。分かりきっている事を分かりきっている相手にただ告げる、そんな声だ。
「……、まあな」としか、大輔は言えなかった。
息を引き取ってもまだ、真っ赤に濡れた胸から止め処なく血を流し続けていた母親にすがりついてむせび泣いていたヒロシの姿が脳裏を過ぎる。最後に会ったのは、二日前だ。成瀬修司の死について、彼が所属していた組織のリーダーとして記者会見をした帰りに、会った。偶然ではなく、大輔のほうから近づいた。
『、ヒロシ』
呼ばれて初めて、そこに大輔がいるのだと気づいたような顔を作っていたけれど、すぐに嘘だと分かった。それこそ音信不通だったのは半年間だけなのだから、目配りひとつだけでヒロシがなにを思っているか見当はついた。複雑な心境そうだった。けれど、血の繋がりよりも今まで育ててもらった家族を選び、不可抗力とはいえ実の父親が母親を殺すきっかけを作った人間を見るような、冷たい眼差しを向けてはこなかった。
周囲の取り巻きたちに先に車に乗るよう指示を出し、彼らが車に乗り込むのを見届けてから、ヒロシは首を傾げた。『こんなところでどうしたんだい、大輔。僕に何か用かい?』
『悪い、』特に用事があったわけではない。あえて言うなら、気になった。とかそういう事になるのだろうけれど、ヒロシの問いかけはそんな陳腐な返事を拒んでいた。なぜわざわざこんなところに来た、と面と向かっては言わないものの、大輔自身がはっきりと自覚させられる強さを持っていた。一歩足を後ろに引く。『たまたま近くを通りかかっただけだ。じゃあな、』
正直、何がしたかったのは今でも分からない。謝りたかったのか。何か言葉をかけたかったのか。ただヒロシと真正面で顔を合わせて理解したのは、その思いつくどれもが大輔自身の自己満足でしかないという事だった。首を振り、考えを頭の外へ放り出してから、ダンボールの蓋を閉じた。ガムテープを持っている麻耶に眼をやる。「おい。ガムテープ」
「はいはい、ちょっと待ってね」大輔の隣にやってきて最後のダンボールの蓋をガムテープでふさぐと、麻耶は顔を上げた。大輔に、にこり、と微笑む。「でも本当に助かったわ。ひとりで大変だったのよ」
率直に素直な感謝の言葉にも聞こえなくはなかったけれど、大輔にはどうにも白々しく聞こえてならなかった。照れ隠しにしても無愛想に顔をしかめてしまったのは、そのせいだ。
「俺が来るって、わかってたんじゃないのか?」でなければこんな広々とした事務所の引越し掃除をたった一人ではじめようとは思わないだろう。問いかけに麻耶はきょとんと目を一回瞬かせてから、そんなわけないでしょうとばかりに呆れた様子で唇を尖らせた。
「まさか。私が知っている事は全部、一週間前にに終わってしまったもの。ここからさきは、私も知らない未来よ」きっぱりと断言すると、麻耶は大輔が詰めたダンボールの底に手を差し入れて持ち上げて、部屋の片隅に置いた。その一角にはすでに十箱ほどの、どれも有名な引越し業者のロゴが入っているダンボールが積まれていて、殺風景になった事務所内で結構浮いている。
積みあがっているダンボールを大輔は何気なく見上げた。本、生活用品、服、あらかじめ黒のマジックペンで丁寧に中身が書かれているダンボールを一つ一つ眺めて、ふと眉をひそめた。「情報屋、やめるのか」呟くように言ってから、麻耶が口を開く前に彼女のほうを見遣り、続ける。「もう、未来が分からないから?」
ダンボールの中に、書類と書かれたダンボールがなかったのだ。代わりに、いかにも大量にシュレッダーをかけましたと言いたげな細い短冊の束が透明のゴミ袋にはちきれんばかりに入っている。全部で五袋以上ある。
麻耶は肩をすくめた。「私が情報屋をやってたのは、そのほうが未来を作るのに簡単だったからよ。もうその必要もなくなったんだもの、やる必要もないって事。それに大輔君の言うとおり、今まで神がかり的だったのは未来がわかってたからだし、今後やっていこうと思っても、今までみたいには出来ないから」
「——……どうするんだ。これから」聞いてどうするんだ、と思う一方で、聞く権利もあると思った。
少し悩むような素振りで黙り込んで見せてから、麻耶はまた首を傾いでみせる。
「じゃあ大輔君こそ、どうするの?」暗に、応えない、と断言されたのだろう。
同じように束の間、黙り込んでしまったのは悩んだからではなかった。まず気恥ずかしさが先立ってしまって、ひとつ大きな咳払いをしてから大輔はゆっくりと口を開いた。「……、一応、実家に戻る」と応えると、短く感激するような感心するような声が麻耶の口からあがった。
「へぇ。仲直りしたんだ?」もう少しかかると思っていたのに、とも聞こえる少し意地の悪い口調での質問だった。
「仲違いしていた理由が、理由だったからな。もう意地を張る理由もないだろ。もう一度警察官の採用試験を受けて、対魔術課に戻ろうと思ってる」
「へぇ」と、さっきと変わらない声をあげると、麻耶は数歩後ろに下がった。オブジェの上から下までをじっくりと観察するような眼で、大輔の頭から足のつま先までを眺めた。しばらくしてから口を開く。「と言う事は、能力のほうの回復は順調って事なのかしら?」
大輔は頷いた。「おかげさまで、」言って、自分の右腕に視線を落とす。
半年前、模擬魔術事件の現場で意識を失い、病院で目覚めた時にはすでに能力を失っていた。実際には失っていたのではなく、封印されていたのだと教えられたのは、初代の魔女が死んでから一日が過ぎた時だった。初代の魔女の意識を封印した模擬魔術と同じ要領で、能力を使う時に活性化する脳の一部に封印をかけたのだと、高柳が言っていた。そしてそれの対となる解除の模擬魔術は、大樹が持っていた。
『君達、初代の魔女の子供らにあるテレパシーのようなものは、能力の一つであると推測してね』と、高柳は大樹が大輔の模擬魔術の解除をしている間、とつとつと喋っていた。独り言にしては長いけれど、だからといって、この場にいる大輔にも大樹にも、話しかけている口調ではなかった。『大樹が解除の模擬魔術を持っていると装っても、何かしらの偶然で本当に持っているのは君だと気づかれる可能性もある。大樹が逃げる代わりに大輔の自由は出来る限り保障する、というのが約束だったんだ。だから、山本ヒロシの模擬魔術が解除された反動で気を失ってしまった君に、封印の模擬魔術をかけた。力をなくしている人間と、力はあるだろうけど行方不明の人間とでは、後者を探すだろうと踏んでね』
「そうね」麻耶が納得したように頷いた。「元通りになるのなら、そっちのほうがいいわよね」
彼女にすれば、何気ない言葉のつもりだったのかもしれない。けれど大輔は、その言葉に反応するかのように、ぞわりと背筋に悪寒が這うのを感じ取っていた。元通り、というのは何も大輔が分かっている過去の原状回復、とは限らないのではないだろうか。と、思ったのだ。こと、未来から過去へ、拒みたい未来を変えるために過去の自分へと情報を送った、最初の麻耶あゆみからすれば。
大輔にとっては、現在は現在でしかない。ひとつきりのものだ。けれど——。
麻耶はふと目を瞬かせた。大輔を改めて見る。「そういえば、今日は何の用事だったの? 本当引越し準備を手伝ってもらってよかったけど、何の用事もないのにこんなところに来るわけないものね?」他愛ない訊ね方だった。なのに大輔の心臓が大きく一回、息苦しいほどに跳ねたのは、それがあまりにタイミングの悪い質問だったからだ。
「、あ。いや、」見透かされそうで、目をそらす。言えるはずがない、と内心で思った。
大輔にとって、今ここにいる事は、血の繋がった母と父の死の上に立っているという事なのだろう。物心ついた時から心を寄り添わせるように生きてきた兄弟の大事な家族を奪い、自分は血の繋がっていない家族を選んだ。何か言いたくて近づいても、結局何もいえないほどに距離は遠ざかってしまった。でも、もし過去を変えられると言われても、大輔は自分がそれを選ばないと分かる。
大智が死ぬのは嫌だった。もちろん小野家の家族を選んだ時には、その代わりに血の繋がった家族が死ぬのだとは分かっていなかったけれど。でも、すべてを知った今でも、あの時と同じ選択肢を出されれば、兄の命を選ぶだろうと、確信を持って言える。いえるなら、それは大輔にとってはもう、宿命や運命みたいなものなのではないか、とも思う。
——、でも。少なくとも、未来を変えたいと願った最初の麻耶あゆみがいた未来での、小野大輔は違ったのだろう。
そして、これから先の、ここにいる麻耶あゆみが「先の事は分からない」という未来での自分自身は、大輔にとっては、一人きりだろうけれど。
「悪い。用事、忘れた。多分そんなに大事な事じゃなかったんだろう」嘘だった。やけに渇いている気がする舌先を動かして大輔は応えると、くるりと玄関のほうへ靴先を向けた。「じゃあ、引越し先が決まったら教えてくれよ。また手伝いに行くから、兄さんと一緒に」言って歩き出し、事務所の玄関のドアノブを掴んだところで、麻耶の声はひっそりと大輔の背を撫でた。
「いいのよ、別に」言葉は、全部を許しているようで、諦めているようで。「大智さんが不幸になるようならまた、過去をやり直すだけだから」
思わず息を呑んで振り返った大輔に、麻耶は微笑んだ。「冗談よ。もちろん」
(終)




