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 ——……、いいですか、小野さん。一般人はそもそも自分が非力だと知っています。猛スピードで突っ込んでくる自動車があれば避けようとするし、頭上から何かが落ちてくれば身を守ろうとする。つまり条件反射として、回避行動が身についているんです。それは逃げなければ怪我をする、死ぬかもしれない、と本能がまず危険を理解しているからなんです。

 けれど、能力者は違います。個々の能力によりけりな部分もありますけどね、突っ込んできた自動車を素手で受け止められる人もいますし。落下物が自分の体にぶつかるより前に、落下物そのものを粉々に粉砕してしまえる人もいます。危険は、一般人に比べるとずっと少ない。——少ないからこそ、能力をなくした能力者の事故は後を絶たないんです。

 早い話が、頭の中で理性が理解する速度と、神経に染み付いている本能が理解する速度はまったく違うんですよ。危険な事に遭遇して、咄嗟に能力を使おうとした後で、その力を今は失っているのだと思い出して逃げようとしても、すでに手遅れな場合もあります。だから能力をなくした能力者は身の安全のためにリハビリを受けなければいけないんです。無論、法律や条例で決まっている事ではありませんよ、小野さんが辞めるといえば終わりです。でも、よく考えてください。事故で足を失った人がリハビリなしで社会復帰できますか? 脳梗塞で倒れた人がそれまでと同じ生活を苦もなく取り戻せますか? 小野さん、貴方が力をなくしたって事はようするに、それらと同じなんです。今まで当たり前に出来ていた事が出来なくなり、ふとした場面で支障が出てくる。他の事例よりも見えにくいだけで、本質は同じなんです。


 でも。と、脳裏で延々と説明なのか説得なのか分かりづらい事を喋り続ける記憶に、大輔は医者の口から同じ事を聞いていた時同様に、言葉を返した。声に出して、あの時の医者によく似た困り顔をしている高柳へと告げた。

「俺は能力を取り戻したいとは思っています。だから、戻らない事を前提にしてリハビリを受けるつもりはありません」

「——、困った患者だな」間の後でひっそりと深められた口元の笑みには、大輔の強情さに半ば呆れて困る色が滲んでいた。「能力を失った能力者のほとんどが能力の回復を望みながらも出来ていない。なくす原因さえ不明なんだ。そもそも能力を発現させていること自体が異常であり、能力がなくなるのは肉体の修復機能がその異常を治したからだという説もある。今の君の状態のほうが、肉体的には正しいのかもしれない」言って高柳が小さく肩を竦めたのは、その自身の言葉で言うのなら、能力を持っている彼自身が病気なのだと断言したようなものだからだろう。

 正常な状態ではない。一般人が正しい人の姿だというのなら、高熱を発する体が病であるように、不可思議な能力を扱う体も、何かを病んでいるに違いない。

 大輔は首を横に振った。「肉体的にはどうであっても、俺にとっては大事なものなんです。なくなったからといって、はいそうですか、って諦められるものじゃない」そっと左手で、体の脇に垂れ下がっている右手を撫でた。ごく普通の体温を宿した、柔らかい皮膚の感触。当たり前に伝わってくるものに無性に歯噛みしたくなるのを堪えて、その代わりに深々と息を吐き出した。「高柳さんも一度、なくしてみれば分かりますよ。多分、どうしようもなく不安な気持ちになりますから」

「なるほど、」と、高柳は頷く。「君にとってリハビリをするという事は同時に、今までの自分の価値観を捨て去るという意味にもなるわけか」

「、そういう事です」少し違うとは思ったものの、そのささやかな差異を説明出来るだけの言葉を持ち合わせている自信がなくて、一瞬黙り込み、そうしてから頷いた。

 怪訝そうに大輔を見遣る高柳の目の中で、さっき微笑と共に消えた鋭さがゆっくりと再び滲み出し始めていた。空いた間の一瞬で迷った事を目敏く見つめたような目は刑事然としたもので、彼を中心にして部屋の空気がまた引き絞られていく。

 嘘をついていると思ったのだ、と、大輔は柔らかさが鋭さに飲み込まれた高柳の目を見て思った。嘘と呼べるほどご大層なものではないと分かっているから余計に、事実を探り当てようとする眼差しを真っ直ぐに、眼球の奥にまで突き立てる不躾さと強引さが馬鹿馬鹿しくも鬱陶しくも思えてきて、今度こそ部屋を出るために背を向けた。

「大輔、」隠し事があるなら言いなさい。と、大人が子供を諭す声だ。

 振り返らずにノブを回して扉を開ける。体を部屋の外へ出してから、室内の高柳へと向き直った。思っていた通り見据えてくる眼差しには、呼んだ声音の半分程度の優しさも穏やかさもなかった。俺も刑事だった頃はこんな眼をして犯人を見ていたんだろうか。隠し事を許してくれそうにない眼に、苦笑いを浮かべる。

「大樹を見つけてくれたなら、リハビリも受けますよ。高柳さん」

 別に能力に固執しているつもりはない。ただ能力と一緒になくしてしまったものが、あんまりに大きすぎるのだ。力を取り戻したら同じようにまた戻ってくるのではないかと思うから、簡単に能力を諦める事が出来ない。

 ——今までの自分の価値観を捨て去る。という話ではなくて。

 一番怖いのは、リハビリを始める事が半年前になくしたすべての物を諦めてしまう事に繋がりかねない、という事。戻ってくるはずがないと心の何よりも弱い部分で認めてしまいそうだという事。

 本当は、平凡に当たり前に過ぎていく毎日でさえやるせなく、時にどうしようもなく、立ち竦んでしまいそうにだってなるのに。

 高柳の眉間に深く皺が寄るのまでは見たけれど、動き出しそうな気配で震えた唇から発せられた声のほうは、扉を閉める音で掻き消して聞こえなかった振りをした。本当は、「違うだろう。もっと自分の身を大事にしなさい」と声ははっきり、閉じかけた扉の隙間から耳へと滑り込んできたものの、返せる言葉なんてなかったから、無視を決め込むしかなかった。

 ノブから手を離して歩き出す。廊下からエレベーターを使って一階に下りると、ロビーは大輔が三階に上がった時よりも随分とうるさくなっていた。大きな人盛りが出来るほどに人の数も増えていれば、その増えた人間ひとりひとりが発する声も挙動も何もかもが、それなりに広いはずのロビーで飽和状態を作り上げていた。静けさは綺麗さっぱり追い払われている、「あ。小野君、もう終わったの?」その中でもよく通る先輩の声に目をやると、彼女はカウンターに頬杖をついた格好で頬だけをゆるませて笑ってみせた。苦笑いであるのは、目の上で八の字になっている眉で分かる。

 カウンターに近寄り、「一体、なんなんですか? これ」と聞く大輔の疑問に真っ先に応えてくれたのは先輩ではなかった。

「警察はどうして、我々の団体活動に関してだけ規制をかけるのかお聞きしたい」

 耳覚えのある声だった。眉をひそめたのは無意識で、大輔自身がはっきりと自分で顔をしかめたと自覚したのは、声のする方向に視線を向けて、地味な色の背広を羽織った人物の背中を見つけた時だった。耳覚えのある声、が、誰の声であるのか繋がった瞬間に、「……ッ、先輩、なんなんですか、これ」と思わず、同じ言葉をさっきよりも動揺した声で呟いていた。

「演説を摘発に行ったらこうなったの」器用に頬杖をしたまま、彼女は肩を竦めた。カウンターひとつを境目にして他人事を決め込んでいるようである。「道路使用許可書は持ってなかったから、辞めさせるのは簡単だったんだけど。そうしたら、「普通に申請したら受理してくれるのか」っていう話になって、で、こういう状態」

 一触即発。とはまさにこの事だろう。

「——受理するんですか?」種火にならないように小さく潜めた声に、「どうだろうねぇ、ちょっと難しいかもね」相変わらずの口調で先輩は言う。その応えに少しだけ大輔の眉間の皺が深くなったのを目敏く見つけ、目を細めて笑うと、「大丈夫。あの人達、君の元同僚をイジメるのに夢中みたいだから。それにこんなにうるさかったら私の声なんて聞こえないって」

 さっき呼ばれた時はすんなり聞こえたんだけどな。内心で嘆息がちに思う大輔からロビーの人盛りへと先輩は眼を移した。「まあ、あの人達にすれば大変よね。申請書なんて出したって普通に上が握りつぶすんだろうし。受理してもらおうと思って頑張っても、犯罪者集団っていうレッテルはそうそう剥がれるものでもないだろうし。諦めてゲリラ演説みたいな事やっても、警察に見つかったら終わりでしょ?」気の毒だ。とも言いたげに聞こえた。

 けれどそれに大輔が顔をしかめるなり反応を示すより前に首を横に一回、二回と振り、、目だけを動かしてロビーの壁にかけられている壁掛け時計へと上目遣いに視線をやった。「そろそろお兄さんがパトロールから帰ってくる時間だけど、やっぱり会っていくの?」

「いや、帰ります」迷わずに応えると、「そう。じゃあ、気をつけてね」頬杖をやめた手がひらりと振られた。そしてまた、肘をテーブルについてぼんやりと喧騒を眺めやる姿でロビーをうるさく騒がせる音源へと目をやる先輩に背を向けて、大輔は警察署を後にした。


   * * *


「——ッ、だからッ、道路で演説をする時には最寄の警察署、つまりはここの許可が必要なんだってさっきから言ってるでしょうがッ!」開いた自動ドアからロビーへ踏み入ろうとする大智の足がぎょっと驚いて止まるほどの怒声は、聞き慣れた同僚のものだった。といっても、彼自身の声を日常的によく聞いているというだけで、腹の底から苛立って煮え滾っているような怒鳴り声を耳にしたのは、これがおそらくはじめてである。遅れてやってきた自制心が追いつかないままに目を丸くした顔を声のほうへやると、知っている制服姿と向き合うようして三人人が佇んでいた。実際のところは、その四人と同僚を十人ほどが取り囲んでいるのだけれど、文字通り怒り心頭で横顔を真っ赤にさせた同僚の怒声に、負けず劣らずの返事をしているのはその四人だけだった。代表者、といったところだろうか。

 三人が三人とも、平凡そうないでたちである。いや、取り囲む十人を含めても誰一人、加害者として警察署の取調室に放り込まれる事はなさそうな、善人とまではいかなくともごく普通の市民に見えた。警察署に来る理由なんて、免許書の切り替えでやってくるぐらいが精々の。その彼らが同僚を怒らせている。見当もつかない原因に大智は軽く目を瞬いた。

「だから、許可なんて下ろしてくれないでしょう」と言ったのは、代表者の中でも一番年上らしい落ち着いた色の背広上下を着た男だった。「貴方達は、我々の組織を壊滅させたいだけなんですから。だから一部の過激な思想を持ったメンバーの犯行だと我々のリーダーが主張しても、貴方達は信じてくれないんでしょう? 自分も能力者の端くれの癖に、何の力も持たない一般人達の手先になっているのが貴方達なんです」

 大智は歩き出していた。能力者解放戦線。背広姿の男の発言から思考回路に答えが閃くよりも遥かに早く、体は動いていた。沸点を軽く超えた衝動的な怒りの熱が体中に行き渡り、血を沸騰させて足を前へと踏み出していた。

「いい加減にしてくださいッ!」かすれた語尾は数え切れないほどに荒げた声のせいだろう。それでも同僚は怒りに声を張り上げても、握り締める拳は体の脇で小刻みに震えているだけだった。自制心は踏み止まっていた。「貴方達の組織が反社会的であるのは、すでに調べがついている事ですッ! その証明として半年前のあの事件があり、あれのせいで一般人も能力者も警察も、どれだけの死傷者を出したと思っているんですかッ! 許可が下りないとすればそれは、貴方達が今までしてきた事が原因なんです! 私達のせいじゃ——……ッ!」

 俺達のせいじゃないだろう? ふと、そんな言葉が聞こえたような気がした。怒りにじりじりと表面を焼かれながらもかろうじて残っている冷静さで、笑みになっていない歪んだ顔で脳裏から、言ってくる。

 俺達のせいじゃないだろう? 兄貴。父さんや母さんのせいじゃないっていうのは分かる。誰のせいでもないって、分かってる。だったら俺や大輔のせいでも——、ないんだろう?

 踏み止まれ。そう、言われているのだと大智は咄嗟に理解した。噴きあがった怒りで一瞬にして蒸発してしまった理性が、脳内を巡って何よりも大智の心を我に返らせる言葉を見つけ出してきたのだ。小さい頃からずっと大輔よりも感情の起伏が激しかった大樹が最後に見せた、意地、と呼ぶのが一番相応しいだろう、硬く貫き通された自制心。

 ——だから、兄貴。兄貴にしか頼めない事だから、頼むから、大輔を、

 能力者解放戦線のメンバー達へ詰め寄ろうとしていた足が止まっていた、白く強張るほどに握り締めていた拳が気づけば緩んでいた。

「、小野さん?」振り返った同僚が、目を丸くする。

 大智はゆっくりと呼吸をした。脳裏に佇む弟に、大丈夫だと頷いてから口を開いた。「この騒ぎはどうしたんだ?」抑揚の効きすぎた声は無感情な棒読みになる。瞼を震わせるようにして瞬かせた同僚は戸惑いがちに顎を引くと、対峙していた四人へと顔だけを振り向かせた。

「ここのすぐ傍で演説をしていたんだ。苦情があって注意しに行ったら口論になって、人が集まりだしていたから仕方なく署にまで連れてきた」警察官と能力者解放戦線のメンバーとはまた、通行人達の野次馬根性を刺激しそうな組み合わせだろう。声に混ざる苦々しさは、彼らを警察署に連れてきてまで続いている口論に後悔しているというよりは、そもそも道端で言い合いにまで発展させてしまった事を悔いているようだった。

「仕方なく、って失礼な言い方じゃないか」と同僚の言葉をすかさず拾って皮肉ったのは、背広姿の男の隣に立っていた青年だった。朝の駅のホームにいたら恐らく、見る者のほとんどが学生だろうと思う、遊び心のない生真面目そうないでたちだった。

 要領のいい大樹よりも不器用だった大輔に似たタイプなのだろう。意地悪く歪ませた唇が、この間のバスの車中から住宅街までに交わした一連の会話のすべてを蘇らせて、怒りほど苛烈でも鮮やかでもないけれど鬱々とした不快感を、大智の胸の奥で芽吹かせた。

 問いかけの意味で細めた目を青年にやると、彼は唇の笑みを一度引き結んで表情から隠した。「許可のない演説はやめろと貴方達は言う。でも一方では許可がおりなくて、俺達はメッセージを発信できないでいる。そのせいで能力者解放戦線は悪者だと一方的に思っている人達がいっぱいいて、その事に関して警察は、自業自得だろう、としか言ってこない。ここはじっくりと腰をすえて話をつける必要がある、と思ったら俺達はここにいるんだ」

「そうそう」仲間の言葉尻を受け継ぐように、今度は太った男が神妙な面持ちで頷いた。「人の眼が集まり出してきたから場所を変えた、なんて、自分の主張が大勢の人間に認められないって知っているからわざわざ認められるところへ逃げ込んだ、って言ってるようなもんじゃないか。俺達はどこでも俺達の主張を言える、それが正しいと思っているからだ。あんた達みたいな内弁慶とは違うんだよ」

「だから怖いんでしょう?」と、背広姿の男が問うてくる。肩をすくめて苦笑いを浮かべていた。「貴方達は我々の主張が正しいと心の中では思っているんだ。だから演説を拒む、だから人の眼を集めたくない。だから警察署に連れてきて、「仕方なく」なんて嘘をつくんでしょう?」

 それが締めくくりあるらしい。口を噤んだ背広姿の男の語尾を拾う仲間は誰もいなかった。代わりに綺麗に揃った三人の眼差しが不遜な色を眼球の底で光らせながら、向かい合う警察官達へと据えられる。答えられるものなら答えてみろ、とでも言いたげに。

「——……、なるほど」大智は同僚の肩を、ぽんっと優しく労わってやりたくなった。

 彼らの主張は大智からすれば、「主張」と銘を打つのも煩わしいほどの暴論に過ぎない。憶測と推測と飛躍を繰り返し、強引さを通り過ぎて身勝手に、欲しい結論へと繋ぎ合わせているだけの代物だ。同僚が彼らをここに連れてきたのは、警察との口論を通行人に見せて、いまだ記憶に新しい模擬魔術事件の惨事を思い起こさせないためだろうし、彼らが求める演説の許可が下りない究極の理由もそこにある。対峙する彼らがいかに声高に叫ぼうとも、事件を起こした能力者は「能力者解放戦線」内の過激思想を持ったメンバーなのだ。一般人に、その思想の違いを察しろというのは、どだい無理な話だった。

 しかし、その話をはじめたところで彼らは再びさっきのように、仲間の言葉尻を追いかけるようにして話のすり替えをするのだろう。三対一の会話でそんな事を延々と、同僚はされ続けていたのだ。

「あのですね、だから、そういう話じゃなくてッ」それでも負けじと同僚は口を開いた。

 その声を遮ったのは、おもむろに持ち上げられた背広姿の男の右手だった。挙手の形で指先を真っ直ぐに伸ばして耳の辺りで静止したそれは、手のひらを警察官達へと向けていた。「すいません。ちょっと失礼、」自分にはこの会話を中断する権利があると言わんばかりの口調で告げてから、背広の中へと手を差し込む。取り出した携帯電話を片手に三人の列から離れ、周囲を取り囲む輪の外へと出て行った。

 ぐっと物を喉に詰まらせたような渋面で唇を引き結んだ同僚に声をかけようとしたところで、大智は思わず体を強張らせた。ズボンのポケットに入れていた携帯電話が鳴ったのだ。虫の羽音に似たマナーモードの振動音に、顔をしかめるなり抜き取って電源を切るなりするよりも早く、同僚が振り返った。「……、小野さん。携帯、鳴ってますよ」

 タイミングが物凄く悪かったというだけで、大智にも携帯電話にも罪はまったくないのだけれど、視線を大智の顔から携帯電話が震え続けるポケットへと落とした同僚の眼差しは、刺々しさを隠し切れない口調と同じぐらいに鋭かった。

「あぁ、悪い」思わず謝ってから携帯電話を取り出す。ディスプレイには表示された名前を確認して、通話に出た。「はい、小野ですが」

『あら、不機嫌そうな声』と、電話越しの相手はまず軽く声をあげて笑った。名乗らなくても誰であるかは伝わるはずだと自信に満ちた声音だった。実際、ディスプレイに名前が表示されなくても分かるだろうけれど。大智のポケットから再び顔へと視線を上げた同僚に、“悪い”と空いている手で拝む仕草をしてから、ロビーの隅へと靴先を向けた。

「少し立て込んでましてね、」ちらりと振り向けた視界の隅に、背広姿の男が引っかかった。大智同様携帯電話を片手に人盛りから離れた場所にいる男はさっきから、ひっきりなしに頭を下げたり頷いたりしている。平社員が課長やら社長を前にして恐縮しきり、彼らの一言一言に過剰反応している様子に見えなくもなかった。「大事な用でないのなら、折り返し電話をさせてもらいたいところなんですが。一体、何の用件ですか?」

 くだらない用事だったら電話を切るぞ。と、暗に強く言い捨てての問いかけに、電話の向こうにいる麻耶はさして怯む様子もなかった。返って来た言葉は他愛なく、いつもと同じ調子の声である。

『大事な用事には違いないと思うけど。ちょっと、困った事があって』

「困った事?」電話を切る判断材料とするには曖昧すぎる表現に大智が聞き返すと、『情報網でね、おかしな話がひっかかったの。今から少ししてから能力者解放戦線がちょっとした騒動を起こす、ですって』あらかじめ用意されている文章を声に出して読んでいるような、すこし抑揚に欠いた声が応えた。一度言い終わると短く息を落として、麻耶は言葉を続けた。『確信がないのよね、これ。実際に今起こっている事でもないから、警察に通報するわけにもいかないし。かといってせっかく事前に情報を手に入れたのに見過ごすのもまずいでしょ? だから、電話したの』

 大智は体の筋肉という筋肉が音を立てて引き締まっていくのを自覚した。肉体が瞬発的に動き出す寸前の、すべての部位がその刹那の行動のために身構えた一瞬だった。

「——。連中が騒動って、詳しい事は分からないんですか?」口先だけを駆使して冷静に問いかける。体のほうはすぐにでも外へ飛び出して、麻耶のいう能力者解放戦線が騒動を起こす場所へ駆けつけろと騒いでいた。「今、警察署のロビーでもその連中が騒ぎを起こしてましてね。少ししてから、ではなくて、今ここで起こっている騒ぎがそれって事はないですか?」

『違うと思うけど、』憶測の単語を口にしていても、麻耶の言い方は断定的だった。『もしよければ、今から私が言うところに行ってほしいんだけど。小野君だったら、もし私の情報が間違いでも、後で謝れば済むことだから——……、お願いできない?』

 言葉のニュアンスだけを汲み取れば、この麻耶のお願いを聞き入れるかの選択肢は大智が持っている。にも関わらず、気づけば選択肢はへし折られるなりしていて、選ぶ時にはたった一つしか存在していない。

 いつもの事。といってしまえばそれまでだ。

「——、分かりました」

 能力者解放戦線。彼らが起こす騒動。この二つの単語が出てきた時点で、大智が選ぶ選択肢はもう決まっているも同然だった。麻耶の頼みを聞き入れないはずがない。その事を見透かされた上での会話の運び方だとは思うものの、さして悔しいとは思わなかった。むしろありがたいと感じる事のほうが多かった。

 開いた手帳の空白ページに麻耶が言う場所の住所を書き込む。住所は、ここから車で五分ほどの、近隣住民しか通らないような路地あたりを示していた。両脇には駐車場とまばらな民家が立ち並ぶ片道通行で、車一台がぎりぎり通行できる程度の広さしかなかったはずだ。

 束の間、見慣れている文字面で書かれている住所を眺めてから、口を開いた。

「こんなところで騒動を起こしても意味はないですよ」頭の中で付近の地図を広げた結果、出てきた素朴な疑問だった。もっとも麻耶への信頼が+アルファでようやく、“疑問”に昇格できるぐらいのもので、彼女以外の人間が言ったことなら即座に、胡散臭いものとして眉根をひそめるところだろう。

『行ってみれば分かるよ』と、麻耶の返事は必要最低限の説明も取っ払ったものだった。向けられた疑問を晴らす気もないらしい、聞きようによっては白々しささえ感じさせる言い方だ。『多分大丈夫だとは思うけど、ちゃんと準備は怠らないでね。小野君が怪我して入院でもしたら、警察と私を繋ぐパイプがなくなって大変だから。……じゃあ、よろしくね』

 いかにも過ぎる別れの挨拶が寄越されると、大智が引き止めるために口を開くよりも早く、通話はブツリと切れた。後に残る単調な機械音に小さくため息をついて、携帯電話をポケットの中にしまいなおす。人盛りのほうへ眼をやると、どうやら背広姿の男の携帯電話も役割を終えたらしく、再び輪の中へと戻っていくところだった。

「すいません。ちょうど上のほうから指示があったもので、」謝罪というよりは話を頓挫させた正当性を主張する物言いで不釣合いに頭を下げてから、男は背筋を伸ばして取り囲む仲間達の輪をぐるりと見回した。「大事な用が出来ましたので、私達はこれで失礼します。迎えの車も来るそうなので」この言葉自体、同僚に向けられたものでないのははっきりしていて、明らかな撤退宣言だった。

 背広姿の男の声に輪を作っていたメンバーが一様に顎を引いて頷く。そのまま回れ右で立ち去ろうとするのを、「ちょ、ちょっと待ってください!」引きとめようと慌てて声をあげた同僚に、残り佇んだままの男が口を開いた。

「申請書の件については後日改めて責任者をこさせますので、その時によろしくお願いします」まるで、それまでに能力者解放戦線が納得できるだけの返事を用意しておけと言いたげな口調である。自分達のほうが正しいと思っているのは違いない。ロビーから自動ドアのほうへと歩いていくメンバーの足取りからしても、気が引けている様子もなければこそこそとした後ろめたさも感じられなかった。話の腰を折って立ち去る事も、彼らからすれば正当な権利なのだろう。

 同僚はますます顔を渋く歪めたものの、何も言わなかった。言いたい事が溢れ出そうとする唇をぎゅっと噛み締めて男を見ていた。

「それでは失礼します」輪が崩れ、一緒に並んでいた学生然とした青年と太った男も立ち去ったところで背広姿の男は丁寧に頭を下げて靴先を自動ドアへと向けた。その姿が透明なドアの向こう側へ行ったところで、同僚は頑丈に引き結んでいた唇をようやく緩めた。深々と、ため息をつく。

「お疲れさん」としか、声のかけようがない。

 労いの言葉に同僚は少しだけ目元を緩ませて笑うと、その目を再び自動ドアのほうへとやった。「なんだったんだでしょうね、あれ」これが同僚の素直な感想らしい。

「さあな、」最初から参戦していただろう彼が理解出来ない事を、途中参加の大智が分かるはずもない。ただいえるのは、能力者解放戦線の彼らにとって、ここでの言い合いは鳴り響いた携帯電話の向こう側からの指示よりも重要度は低かった、という事だろう。警察署の入り口で警官相手に水掛け論をしていた心情も分からなければ、それを途中で放り出して立ち去る理由も分からないが。

 そもそも、立ち去れる、と思っていたのも不思議だった。相手が同僚ではなく高柳課長であったなら、輪を作っていた十人はともかくとして三人は、公務執行妨害で手っ取り早く留置所に放り込んでいるだろうから。

 人が一斉に大勢去った事で途端にいつもの静けさを取り戻したロビーの空気を、どこか居心地悪く感じながら、大智は考えに没頭し始めようとする頭を軽く振って思考を停止させた。自信過剰に彼らは立ち去れると信じきっていた、それでいいじゃないか、今は。妥協した考えを脇にのけ、同僚へと向き直った。

「悪いが、また出てくる」

 幾分疲れた目を瞬かせて、同僚は首を傾いだ。「パトロールから戻ってきたばかりなのに、どこへ行くんですか?」

「ちょっと頼まれ事が出来てね」応えて、携帯電話をしまったポケットを軽く叩いた。

 同僚はもう一度、今度はさっきよりもゆっくりとした動作で瞼を上下させてから、「あぁ」と独り言のような、ため息のような声を落とした。携帯電話=相手は麻耶、と彼の頭の中で二つの単語が繋がった結果だった。そうなると後は詳しい事情を聞く気もなくなったようで、「気をつけて行ってきてください。念のため、準備は怠らないでくださいよ。あの人、本当に人遣いが荒くて大変なんですから、小野さんが怪我とかしてパイプ役がいなくなったら、俺に鉢が回ってくるかもしれませんし。嫌ですよ、そんなの」

 最後の部分はともかくとして、注意なのか、それにかこつけた嫌味なのか、いまいち判然としない言葉だった。恐らくは半々といったところなのだろうけれど。「同じ事を麻耶にも言われたな」苦笑いと共に言うと、同僚はむすっと不愉快げに顔をしかめた。

 多くの言葉を交わさなくても、すべてを見透かしたような態度と口調。けれどこちらが問いかけるまで絶対に口にしない強情さ。相手が何を欲しがっているのか見当をつけていても、相手の問いかけがその欲しがっているものにあと少しで届きそうな場所まで来ていても、相手が自分から気づくまでは素知らぬ顔を貫き通す。——麻耶あゆみとは、そういう人物だった。インターネットの検索サイトに似ていた。手に入れたい情報はきっと何処かにあるのだろうけれど、検索ワードが一致しない限り、その情報が場面に表示される事はない。

 麻耶の情報を頼ってはいても、最終的には自分の知恵が試されている事のほうが今まで明らかに多かったのだ。

「小野さんはよくあの人と付き合ってられますよね」と、今度の同僚の言葉は明らかに嫌味である。

 大智は肩を竦めた。「そんなに悪い人間には思えないからな」

 麻耶の事を前任者から引き継いだ時は、色々と逸話を聞かされたものだ。彼女の情報をもとに犯人を割り出して逮捕した事を報告に行けば、まるで最初から犯人の事を知っていたような素振りだった、とか。どうして犯人を教えなかったんだと詰め寄れば、「だって聞かなかったでしょ?」と当たり前のことのように応えたとか。なので次からは直接犯人の事を聞くようにしても、「それを調べるのが警察の仕事じゃない」と諭された。などなど。

 大智が理解している麻耶あゆみもおおむねそういう人物だ。ただ前任者達のように匙を投げないのは、その見透かしたような態度も結論を易々と差し出してくれない性格も、彼女本来の性分ではないのではないか、と感じる時があるからだった。すべてを見下せる高みから、目の前の事しか見えない人間を眺めて楽しんでいるわけでもなく、結論に辿りつけず四苦八苦している背を指差して嘲笑う事もない。優越感とはあまりにかけ離れた目を、麻耶はたまにする。何かを必死になって堪えているような、逃げ出そうと震える足で踏ん張り続けているような。

 そこに、本当はいたくはないのだろう? と、空を見上げるように彼女のいる高みへ眼差しを放り投げて、問いかけたくなる。

「ま、小野さんがそう思ってるんなら別に構わないんですけど、」

 自分にパイプ役が回ってこないのなら。と言葉尻に暗に付け加えられるのを感じとって、大智は愛想笑いじみた苦笑いを浮かべた。「じゃあ、課長には少し帰りが遅くなると伝えておいてくれ」伝言を頼んで、自動ドアから外へと出た。

 警察署の建物の前は広い駐車場になっていて、その先に両脇を植木に飾られた門があり、両側一車線の道路が走っている。ちょうど門の傍の路肩に前輪の片方を乗り上げた形で一台の車が止まっているのを、駐車場を横断しかけたところで大智は気づいた。乗用車ではなく、マイクロバスといった四角い車体にせわしなく人が乗り込んでいる。最後に路肩に残った男、あの背広姿の男が乗り込むと、スライドドアは大きな音を立てて閉まった。道路を走る車の流れが途切れたところでゆっくりと路肩を離れ、早々と速度をあげて走り去っていく。

 自然と止まっていた足を再び動かして、大智は門の轍を越えた。車が消えた方向を見遣る。

「……、同じ方角に用事とはな」不吉な符号にしかならない事実をぼそりと、確認事項として呟いた。能力者解放戦線が騒動を起こす、と麻耶が宣言した方向。車一台がぎりぎりの路地に大型のマイクロバスで行くのもおかしな話だろう、と内心で思うものの、嫌な予感が確かに胸の奥に巣食おうとするのを大智は自覚せざるおえなかった。


   * * *


 誰かに見られている。——、という感覚が、まずあった。

 視線をひたりと背中に注がれている。じっと見据えられている。

 けれど振り返ったところで誰もいない。昨日の、夕間暮れの街路灯の下に人がいなかったように。半年前から、そうなった。

 警察署の前を走る道路から外れたこの細い路地には、いま、大輔一人分の靴音しか響いていない。他の通行人もいなければ、ぎりぎり車が一台通れる程度の一方通行の路地に車が入り込んでくる気配もない。けれど視線は追いかけてくる。ただ、眼差しだけが大輔の背を撫でる。

 ——振り返ったところで誰もいない。分かっている。確認して、失望するだけだ。

 けれど一方で期待して、もしかしたら、とも思っていた。

 だから、足は無意識に立ち止まり、体は振り返ろうとする。それを全部無視するようにして、大輔は路地をひたすら淡々と歩き続けていた。


 物心ついた時から、いやもしかすると物心つく前から、大輔はいつも誰かの視線を感じていた。

 近所でも幼稚園でも、小学校、中学校と上がっても、視線はいつも何処かにあった。大きくなるにつれて、自分と大樹が近所でも学校でも珍しい双子の兄弟だから、自然と第三者の目が集まるのだと分かってきたけれど、その頃には、ただ好奇で向けられる不特定多数の眼差しと、たったひとりから向けられる眼差しの違いを感じ取れるようになっていた。

 電信柱、建物の角、——いつも体の半分を隠すようにして、こちらを見つめてくる、人。

 彼女と、他の連中の視線が同じであるはずがない。特別なのだ。大樹とふたりで理解した。

 はじめて彼女を真正面から見た時に、そう理解した。

 なのに今、自身の背に向けられている視線がどちらのものかなのか、大輔にはまったく分からないのだ。

 すべては大樹がいなくなってからだった。


 半年前、模擬魔術事件の現場から忽然といなくなった弟。一緒にいたはずの大輔の記憶は、よく分からない唐突さですとんっと一部が抜け落ちていて、怒号飛び交う現場の喧騒が一気になりを潜めたかと思えば、クリーム色の清潔な天井を、ぼんやりと目は見上げていた。

『——、眼が覚めたか?』と、視界の端から声が届く。

 眼を仰向けの頭ごと動かそうとする前に、小さな物音と共に目の前に影が落ちた。照明を遮って大輔の視界の大部分に入り込んできた見慣れた二歳違いの兄の顔を、天井と同じようにただ見上げた目は、ほころんだ口から気遣わしげな双眸に行き着いて、最後、額に巻かれた包帯を捉えた時に、大きく見開かれた。

 目が醒めるような、眼球の奥に焼きつくような、——……染み入る、痛々しい白さ。

 この時はじめて、焦点が結ばれた。途端、靄のようにあたりをたゆたっていた意識が一気に音を立てて凝固して、大輔は飛び起きた。咄嗟にベットの上に乗り出していた上半身を引いた大智へ向き直る。逞しい両肩を掴み、面食らった顔を引き寄せて、口を開いた。

『暴動はッ?!』掃除が行き届いた室内も、真新しく汚れのない包帯も、すべてが突如目の前に現れたもののように大輔には感じられた。

 張り上げた声が思いの他大きく室内に響き渡り、鼓膜に突き刺さる。思わずぎょっと息を呑んだ時には、室内は素知らぬ速さでにひっそりとした空気を取り戻していて、その静けさを壊さない程度に兄が吐息を落としていた。

 深く深く、なにかをひたすら安堵するような息遣いだった。

『……、兄さん?』と、怪訝をこめた声に、大智は唇を引き結ぶ。

 やや間が落ちて、『暴動は鎮圧した』そう応える声にさっきまでの安堵は余韻も残ってはいなかった。むしろごっそりと安堵を削り落とそうとした時に別の感情も巻き込んでしまったような、不自然に抑揚を欠いた声だった。滑らかで、けれど機械的な。『現場にいた首謀者は一人残らず逮捕した。怪我人はすべて病院に収容して治療を受けている。遺体の身元確認もすべて、終わった。これから遺族に引き渡す手筈だ』事務的に紡いでいた言葉をここで一旦止め、兄は息をついた。『能力者解放戦線本部への家宅捜索は内々に二週間後と決まったから、それまでに職場復帰できればお前も参加できるだろう』

 言うべき事は言い終わった。言葉ではなく再び引き結ばれた唇が、そう告げている。

『兄さん、』だから半分、戸惑いがちに訊ねた。『大樹は?』

 いくら大輔の最初の問いかけが暴動についてだったとしても、兄が最初から最後まで暴動の事しか話さないのはおかしかった。三人兄弟のうちのふたりが同じ病室にいて、ひとりの不在を大輔が気にかけないはずがないし、その事を察しきれない大智でもない。あえて、この人は遠ざけたのだ。閃いた直感に無意識に、言葉を続けていた。

『大樹は、俺と一緒にいたんだ。ずっと俺と一緒に行動していた、だったら——……、同じようにここに、別の部屋に収容されているんだろう?』

 否定はとても短かった。首が一回、横に振られただけだった。

 一文字に真っ直ぐに閉ざされた唇も、伏せ眼がちに視線を床へと落とす眼差しも、その否定が残酷なものである事をありありと告げている。喉が大きく上下した、咥内にいつの間にか溜まっていた唾を飲み込む。

『——、大樹、は?』声が上擦った。

 大智はまず、もう一度横に首を振った。そうしてから、なおも口を開こうとする弟の、いまだ自分の両肩を強く掴む両手をそっと気遣うように、それでも多少は強引に、引き剥がした。その両手を自分の両手で包みこみ、来客用の背もたれのない椅子に座りなおしてから、ゆっくりと口を開いた。『……大樹は、失踪した。現場から姿を消したんだ』

 兄の言っている事が理解できなかったのは、これが多分初めてだった。

 目を見開き、大智を見る。大智の視線は伏せられたまま、弟の両手を握る自身の両手へと向けられていた。大輔にとっては、訳が分からない兄の言葉に唖然とする間であり、大智にとってみれば次に言うべき事を選ぶ間だった。

 どちらも黙り込んで出来た沈黙を、先に破ったのは大智だった。

『詳しい事は分からない。ただお前達がいるところへ駆けつけてみれば、お前が地面に倒れて意識を失っていた。大樹はいなかった。その後で怪我人や遺体の確認もしたが見当たらない。同僚にも聞いたが、誰も大樹を見ていないんだ』

『だから、……失踪?』根拠があるようでまったくない。そんな状況証拠だけで、大樹が失踪したと断定するのか。声に自然と滲み出た苛立ちをまっすぐに、自分と同じように大樹を信じていなければいけないはずの兄へと、大輔は躊躇いなく突きつけていた。『兄さんもそう、思ってる?』

 大智はあっけなく頷いた。そのまま、顔を上げずに声を落とす。『それ以外考えられないだろう? 後処理はすべて終わったんだ、なのに大樹の名前は出てこない。課長も、そうだろうと言っている。対魔術課はじまって以来の大規模な暴動だ、怖気づいて逃げ出しても仕方ない。逃げ出して、それで今更顔を出せないと思っているのか——……、』

 つらつらと、当たり前の事を喋るように淀みなく出てくるそれを、どこまでちゃんと聞けたかは分からない。

 束の間、息が出来なくなったから。

 首を絞められるのと同じぐらいの殺傷力で、その言葉達が大輔の呼吸を殺したのだ。

 衝動的に、大輔は兄の手を振り払っていた。『大樹がそんな奴じゃない事は、兄さんが一番よく知っている事だろうッ!?』体中の空気を全部吐き出すようにして、叫んでいた。そうしなければ何かが終わってしまうような、形のない恐怖心があった。

 そんな弟に大智が顔をしかめる。嫌悪感からではなく、ただ痛ましく悲しいものを見据えるように眉間に寄った眉根と瞼で半眼に隠された眼球が、大輔を同情していた。彼の中での大輔は、現実を受け入れられない可哀相な弟でしかないようだった。

 だから開かれた兄の口から出てきたものは、一つしかない事実を認めない弟への激しい叱責ではもちろんなかった。むしろ諭すような、優しげでひっそりとしたものだ。『大輔。混乱するのも認めたくないのも分かる。しかし、俺の話を聞きなさい、』

 だからこそ余計、恐ろしかったのだろう。

 お前が信じたい事実はない。強要するでも無理強いするでもない、静かな声でそう告げられて。なのにそれに対峙する自分は、ただただ声を張り上げて、兄の言葉を掻き消す事しか出来ないでいる事に。

『大輔、』

『……ッ、嫌だ。聞きたくない!』聞けば何かが終わってしまう。形がなかったはずの恐怖をこの時、大輔は理解してしまった。終わるのは多分、今まで当たり前に思っていた信頼であり、尊敬だ。血の繋がっていない双子の弟達を見つめる、優しい兄への好意すべてだ。

 だから大輔は跳ねつけた。兄が自分の名前を呼ぶ事さえ拒んで、彼の体温がまだ残っている両手で耳を塞いだ。目を硬く瞑った。目尻から押し出されて一粒だけ、涙が、落ちた。


 靴先に当たった小石が、地面に二度、三度、と跳ねて落ちる。ほんの少し離れた背後で、そんな音がした。

 黙々と歩いているうちにふと上の空になっていた意識が途端、その音に吸い寄せられるかのようだった。ぼんやりとしていたものの中に怪訝さが芽吹き、目を細め、立ち止まる。ついさっきまで大輔の足音分しか音のなかった路地に響いたそれを、怪訝が硬く強張った顔で振り返る。

 瞬間、大輔は自分が心底落胆したのを自覚した。おかしな話だ。振り返ったところであの人はいない。分かっていたからこそ、感じる視線にずっと振り返らなかったのだから、物音一つをきっかけにして背後に目をやったところで、いない事実が覆るわけではない——、それでも、視界に入ったその人物に見覚えがないと分かると、胸の奥が軋むように痛んだ。

 目が、合った。

 そらしようもない、伸ばした手が届きそうな距離で、真っ直ぐに大輔の目とかち合った双眸は一度、殊更ゆっくりと瞼を上下させてから見開かれた。そしてすぐさま、率直に戸惑い驚いた顔になった。「——……ッ、あッ、ご、ごめんなさい!」路上で突如赤の他人、それも異性と、束の間見つめあう事になったその女性は肩を飛び上がらせるように息を呑んだかと思うと、前のめりに頭を下げた。

 見ているこっちが思わず、「あ。いや、こっちこそすいません」とよく分からないままに同じように頭を下げてしまうぐらい、真摯さのこもった姿だった。正直大輔の謝罪のほうは、語尾にあるかないかの疑問符が滲む言い方だったけれど。咳払いして、頭を下げたままの彼女に問いかけた。

「それであの、俺に何か用ですか?」振り返って、すぐに目が合う近さに彼女がいた理由なんて、これぐらいしかないだろう。

 おずおず、といった仕草で顔を上げた彼女を改めて見ると、同い年かそれよりも一、二歳年下のように見えた。垂れ下がっている眉尻や不安げに何度も瞬かれる目の印象のせいかもしれない。

「あ、あの」と小さく体を竦ませるようにして、彼女は切り出した。「警察署ってどっち、ですか?」

「警察署?」聞き返すと、頷いた彼女はそのまま、心底困ったようにため息を落とした。

 迷子。年齢が年齢だけに、そう呼ぶよりは「道に迷って困っている」と表現したほうがいいのだろうけれど、小さく目を動かす仕草やあたりを途方にくれた顔で見遣っている様子から伝わってくる不安さは、親とはぐれてしまった子供のような感じだった。困っているようだから助けよう、と親切心が芽生えるよりも早く、この人を助けるのは義務だ、と良心が疼いてしまう。

 瞼を何度も何度も上下させながら、彼女はふと左側へ視線を向けた。

「あっち、ですか?」と、いかにもあてずっぽな口調で訊ねる方角に何があったは忘れてしまったけれど、とりあえず警察署はない。

「いや、そっちじゃないですよ」即座に応えてから大輔は彼女の横に並んで、自分が歩いてきた方角を指差した。路地は多少入り組んでいるけれど、警察署の前の通りまで出てしまえばあとは、迷う事もないはずだ。「まずそこにある角を左に曲がって、それから次の角を、」

 自分が来た道を頭の中で逆に辿りながら言うのをふと止めたのは、隣から小さく布ずれのような物音が聞こえたからだった。耳で聞いても分からないから持っていたメモ帳か何かを取り出したのだろうか、と、なんとなくそう思って息継ぎのように言葉を噤み、彼女のほうへと目をやった大輔はこの時、視界の端で硬く冷たい銀色の感触が閃くのを、見た。

 空気が裂かれるような、そんな音を耳が拾ったのは直後だ。

 その時には体は、後ろへと飛び退いていた。思わず、とも、咄嗟に、とも違う。刃物をちらつかせる犯人から身を守る、警察官として染み付いた一連の動作を体が滑らかに実行した結果だった。彼女は一撃目を仕掛けた体勢から、舌打ちひとつ、足を踏み込んでくる。手に握られている、どこの文具店にでも売ってしそうな市販のカッターナイフの刃が陽射しを弾いて、さっき大輔の視界で閃いたように冷たく輝いた。

 殺してやる。と、言われた気がした。

「ッ! ちょ、ちょっとッ!」思わずあがった声を出だしから引き裂くように、二撃目。真っ直ぐに首筋を、正確には首筋を流れている頚動脈を狙って突き出される腕は、分かりやすく致命傷狙いだ。

 カッターナイフは、切っ先の尖った包丁でもなければ、人を簡単に殺められそうなサバイバルナイフの類でもない。偶然切りつけて死ぬなんて事がまずありえない刃物であるからこそ、薄い皮膚の下で脈打つ主要な血管を切り裂こうとする意思は、単純明快な殺意よりも寒々しく、刃から数センチも離れていない大輔の肌を粟立てる。

 突き出された腕の先で、ひらり、とカッターの刃が大輔のほうへと翻った。そうして薙ぎはらわれるのを膝を折って頭の上でやり過ごすと、大輔はズボンのポケットに手を突っ込んだ。模擬魔術を握り締める。昨日の兄への大盤振る舞いのせいで手持ちはほとんどないに等しいそれを、束の間意識を集中させて、地面に、彼女の足元へと放り投げた。

 金属特有の甲高く軽い音が一回大きく響く、そうして二回目に小さく鳴った時にはすでに、リングは吐き出した白い水蒸気の中へと没していた。彼女の姿も無論、瞬く間に白い靄の向こう側へと消えうせている。同様に彼女の視界からも、大輔の姿が見えなくなっただろう。

 それでも見つけ出そうとしているのか、立ち上がりかけた靴先にさっき放り投げたリングが転がってきた。こつん、と当たる。それを大輔は見た。見て、その事自体に小さく息を呑んで我に返った時には、両足は見事に払われていた。

 背中から地面にぶつかる。呼吸が止まった。咄嗟に頭を庇ったものの、大輔に出来た事はかろうじてそこまでだった。身をよじろうとした大輔の腹の両脇に膝を立て馬乗りになった彼女は、カッターナイフをおもむろに振り上げていた。警察署はどこにあるのか、と訊ねてきた時の不安げな色はもはや、大輔を見下ろす目の中にあるわけもなかった。

「ッ、」殺される。その直視するしかない事実が体の芯を貫いて、筋肉も神経も、瞬く間に硬直させる。

 彼女の腕が動く、気配がした。カッターナイフを握り締める手に力がこもり、見下ろしてくる目が感情の温度を宿さない冷静さで大輔の首筋へと注がれる。ナイフが辿るべき直線をしっかり覚えようとするような目に、大輔は反射的に瞼を閉じていた。そして陽射しが瞼を透かして橙色に見せる視界の中で、腕が振り下ろされる音は、やけに大きく聞こえた。

 何かが、例えるなら重たいものが地面に勢いよくぶつかったような、音だった。

 けれど、痛みはすぐにやってこなかった。皮膚が裂かれ、血が噴き出し、途端に意識が消え失せる事もなかった。しばらくしておそるおそる目を開けると、腹に馬乗りになっていたはずの女の姿はなく、何か人と人とが揉み合うような音が、視界から外れた右側で聞こえてきた。上半身を起き上がらせて、そっちに体を捻って向けた。

 地面にばたつかせる、細い女の脚が見えた。聞こえていた音はそれのようだった。手にはいまだにカッターナイフが握り締められていたけれど、彼女の手首を上から無造作に地面に繋ぎとめている手があった。男が馬乗りになって、彼女の上半身と両手を押さえつけている。自由に出来る両足だけが地面を何度も蹴りつけ、男の背中を蹴飛ばして暴れていた。傍目からみれば、彼女が暴漢に襲われている姿でしかない。目にした通行人が慌てて通報するにしても、「女の人が襲われている」としか言いようのない光景だ。——男が、女に襲われている大輔を助けた、とはまず、誰も思わないだろう。

「ッ! は、離してよッ!」と、彼女がわめく。

「どうしてこんな真似をしたんだッ!」と、恩人に違いない男の怒声が耳に届いた時、大輔は一回大きな音を立てて心臓が鳴ったのを自覚した。

 指先がぴくりと痙攣を起こしたように震えた。頭の中が束の間真っ白になって、やがてたった一つの言葉だけが白い紙に滲み出てくるように、大輔の口から落ちた。ぽとん、と文字通りにただ出てきただけの、ぼんやりとした声だった。

「、大樹?」呼びかけ、ではなかった。半年間、ずっと探しまわっていた弟を目の前にして、こんなにも呆けた声で呼ぶはずがなかった。

 実感のない声だった。無意識に落ちた声が耳から入り、血を巡る。体の器官全部がこの事を心底理解できるまで、しばらくの時間がかかった。心臓が理解した頃には息をするのも辛いほどに、薄い胸の皮膚を突き破ろうとするような脈動が鳴り響いて、体全体はぶるぶると熱に浮かされたように震えだした。眼球の底の網膜が熱く炙られたようだった。鼻の奥がツンと痛んだ。気づけば水分という水分がすべて干上がっていた声帯から、声が出た。

「大樹ッ!」

 今度のは色々なものがぎゅうぎゅうに詰まった声だった。戸惑いも驚きも喜びも疑問も、よく分からないながらに怒りさえ感じて、大輔は叫んでいた。彼女に馬乗りになったまま、その体を地面に押さえ込んでいる男の背が小さく揺れた。肩越しに振り返った、ようだったけれど、その顔を見る事はなかった。それよりも前に立ち上がっていた大輔はその時には、男の背にくずおれてしがみついていた。暴れている女の脚が今度は大輔のわき腹や背を容赦なく蹴りつけてきたけれど、痛覚を司る神経がどこかでブツリと断絶でもしてしまっているかのように、痛みは途方もなく遠く感じられた。

 どのぐらいそうしていたのか。一秒や、二秒、そのぐらいの短い時間だろう。けれど大輔はその何十倍もの長い時間、弟の背にしがみついていたような気がしていた。背に額を押し付け、両手で服を握り締めて。唇を噛み締めたのは、ここで泣いてしまったらどうしようもない、となけなしの自尊心がかろうじて残っていたからだった。

 やがてぽつりと、頭上から声が落ちてきた。「大輔。……、顔、上げてくれないか?」

 一つ一つの単語を口に出しながら確かめるような言い方だった。慎重に慎重さを重ねた声は、半年振りに聞くものであっても大樹らしくないのはよく分かっていた。従ってはいけないような気も、ほんの僅かに感じてもいた。けれど大輔は背に押し付けていた額と服を掴んでいた手を離して、顔をあげた。

 彼女の腹から退いて、大樹は大輔へ向き直る。

「久し振り。……、半年振り、だよな。確か」言って、大樹はぎこちなく表情を緩ませて笑った。その笑みに大輔は、小さく目を瞬いた。

 そうそう顔つきが変わるわけもないのだけれど、鏡が目の前にあるかのように、大樹は相変わらず自分と瓜二つの顔をしていた。だから半年振りの再会であったにも関わらず、大輔の理解は滑らかだった。すっかり大樹のほうは忘れてしまっているようだけれど、同じ顔をしているから、嘘をつく時や誤魔化す時に、大輔と大樹はとても似た顔になる。湿った空気に雨の予兆を嗅ぎ取るように、大樹の微妙な表情の変化から嘘の気配を感じ取るのには、とても簡単な事だった。

 どうして嘘をつこうとしているのか、それはまったく分からないけれど。

 口を開きかけて、大輔は噤んだ。目を、押さえつけていた大樹がいなくなった事でようやく立ち上がり、服についた砂埃を手で払っている彼女へと向けた。視線を追いかけるようにして大樹も彼女のほうへと目をやるのを見てから、訊ねた。

「知り合いか?」でなければ、悠長にここに留まっているわけがない。この女はカッターナイフで大輔を殺そうとしたところを大樹に阻まれているのだから。頷こうとしているようにも首を横に振ろうとしているようにも見える大樹に、「警察の関係者、だよな?」口調を強めるでもなく同じ調子で、重ねて問うた。これも間違いはないはずだ、大輔が投げた模擬魔術を中和したのだから。

 対魔術用の中和剤を現在所有しているのは警察機関だけである。二十二年前に大まかな模擬魔術の技術が民間企業に公開された時も、中和剤の情報だけは機密扱いにされた経緯があった。模擬魔術が関係する事件においての重要性を考えれば、警察機関が中和剤の開発から製造、研究までをすべて独占しているのは当たり前ともいえる。といっても、ある程度の資金と研究機関を備えた企業ならば、多少質は落ちても警察機関の中和剤に似た効力を持つ模擬魔術の開発は可能だろうし、法律や条例で中和剤の開発や製造を民間企業に禁止しているわけではない。単純に、需要が低いだけの話だ。

 どちらにしろ、中和剤=警察関係者、という考え方は正しい。

 きょとんと目を丸くする弟に、大輔は地面へと顎をしゃくった。アスファルトに転がっている二つの色違いのリングのうち、片方は大輔が投げた煙幕の模擬魔術で、もう片方は半年前に見納めたきりの警察官に配布されている中和剤の模擬魔術に酷似している。顔をしかめ、「あぁ」と降参するような声をあげた大樹は目を彼女のほうへ振り向けた。肩を竦めてその視線に応じる姿は悪びれた様子もなく、むしろ、こっちにも正当な理由があるんだと、ふてくされながら主張しているようだった。

「どうして、半年前に行方不明になったお前が、俺の知らない警察関係者と知り合いなんだ?」一節ごとに息をついて質問した。再び視線をこっちへと向けてくる大樹へ首を傾いだ。「ずっと同じ部署で働いていたのに俺が知らないなんて事があるのか? しかも女性だ、能力者じゃない。どうしてその警察関係者に俺が襲われた? どうしてこんな真似を、って言っていたな? 大樹。つまり、お前は事情を知っているのか?」

 大樹から目を離し、襲ってきた張本人へ視線を据える。無言のままでも大樹に対しては、言いたい事をぶつけるような態度をとっていた彼女だったけれど、大輔が向けてくる視線には肩をすくめるのをやめ、真っ直ぐに強い眼差しだけを返してきた。

 上の空だった意識を現実に引き戻した、石ころの転がる音。あれは恐らく、彼女にとって不覚の一言だったのだろう。あの音さえなければ大輔は振り返らなかったし、同時に背後からカッターナイフを振り下ろされても気づかなかった——……、つまりは、殺されていたはずだ。

「どうして、俺を殺そうとしたんだ?」大樹か、彼女か。どちらに問うたのかは、口にした大輔にも分からなかった。

 その後の彼女の行動からしても、改めて不意打ちを狙っていたのが分かる。いかにも害のない振りをして、道に迷って困っている女性を演じていた。ちょっとした人助けだ、助けよう。と自然と気持ちが傾いて自発的に立ち止まらせる。まさかその隣から、カッターナイフを突き出してくるとは誰も思うまい。

 大樹が口を開こうとする。その前に、「俺の気のせいだ、とか言い出すなよ。大樹」先回りして、強い口調で釘を打つと、大樹はとたん、物を喉に詰まらせたように顔をしかめた。見事に図星だったらしい。その顔を見遣ってからため息を落とし、首を横に振る。「もっとまともな嘘をつけよ。カッターナイフで、首筋で、馬乗りだぞ? 殺人未遂以外のなにがあるんだ?」

 それも初対面で、まったく躊躇いなしに、である。

 大樹は押し黙った。唇を噛み締めての渋面は、何かをとにかく必死に考え尽くしているようだった。

 彼女はそんな大樹を見遣り、そうしてから大輔へと視線を移し、しばらくして再び大樹へと目を戻した。大輔に視線を置いている間は何か言いたげに、不満そうに目を眇めていたものの、結局噤んでいる唇が開く気配はまったくなかった。

 大輔が双子の弟に投げかけた質問のすべての答えは、彼だけが持っている事ではない。

 そういう事だ。と、大輔は大樹と彼女の沈黙の中に答えを見つけて、目をゆっくりと瞬かせた。どうして初対面の人間に命を狙われなくてはいけないのか、そのあたりのところはさっぱり分からないけれど。このふたりの間の空気、みたいなものは感じ取れた気がした。尊重し、庇いあい、守りあい、譲り合う。それぞれが大輔に言いたい言葉を持ち合わせていても、大樹は彼女のために、彼女は大樹のために、大輔に言う事が出来ないでいる。

 初対面の人間に、殺意を抱かれる事などあるはずがない。けれど彼女なら、ありうるかもしれない。

 間違いなく、大樹のためだ。——彼のために、大輔は死ななくてはいけない、と、彼女は思ったのだろう。

「——……大輔、」と、大樹の神妙な声音だった。

 前提として嘘をつくのはやめようと決意したのが伝わってきて、大輔は改めて眼差しと意識を双子の弟へと据えた。強張った顔の筋肉をどうにか動かしながら、大樹は物静かに話しはじめた。「えっとな、まず、この人は檜山薫さん。ちょっとした事情で世話になってる人なんだ。正直、お前に話せない事がたくさんあるんだ。誤魔化すしかない事が、山のようにあって、でもどうせばれるって分かってる。相手の嘘を見破るのは得意だもんな、俺達。……だから、さ、言える事しか言えない。お前が怒るって分かってるけど、」そこで一度言葉を切り、深く呼吸をしてから、告げた。「もう、俺を探して回るのは、やめてほしいんだ」

 大輔は目を瞬いた。それ以外はぴくりとも動かす、声さえ出てこなかった。

 僅かに頬を引きつらせて、大樹は笑みを作ろうとする。ほとんど失敗作と呼んでもいいだろうそれは、今まさに泣き出そうとする寸前で堪えている顔といったほうが正しそうだった。酷い言葉を浴びせられて傷ついた人間が意地でも泣くまいと虚勢を張っているような。少なくとも今ここで、その表情をしていいのは大樹ではなかった。握りこんだ指の爪が手のひらの薄い皮膚に食い込む痛みを感じながら、大輔は思った。

「大輔が俺の事をとても心配してくれているのは分かってる。半年前に突然行方不明みたいになって、それからずっと音信不通だったんだから」大樹の言葉は切実だ。声音は真摯でいると決意した分だけ真っ直ぐに大輔の心臓へと届く。けれど大樹の思いが、体に染み込めば染み込むほど、大輔は自分の心の中にあったものが黒ずみ、朽ちていくのをまざまざと感じ取っていた。大樹から伝わってくるものそのものが、大輔が抱き続けていた大樹への思いを汚していく。

「でも、もうちゃんと会ったから大丈夫だろう? 俺は元気でやってる。怪我もない。飯もちゃんと食ってるよ。半年前は、その、色々あって気を失ってる大輔を現場に放り出していく事になって、その問題もまだ解決したとはいえないけど、俺一人で解決できる問題だから、大輔が気にする事じゃないんだ。大輔が心配しなければならない事は、俺の事に関していえば何もないんだ。全部終わったら俺から会いに行くし、ちゃんと話すから。それまで俺の事は放っておいてほしいんだ。俺の事ばかり気にして、自分の事をおろそかにしちゃいけないんだよ、大輔。お前にもしもの事があったらそのほうが、俺は心配だし——……、」

「ちゃんと病院でリハビリを受けろ、って話か?」と、しごく普通に大樹に質問した。

 反応したのは、さっきからずっと口を閉ざしている彼女一人だけだった。片眉をあげて怪訝そうに大輔を見遣る。それはある意味当たり前の反応だった。大輔にとってみれば自分の問いかけに、さして迷う素振りも意味を問いただす眼差しを向けるでもなく、あっさりと頷いた大樹の反応のほうがおかしな事だった。おかしくて、けれど辻褄は合っている。

「そ、大輔にはちゃんと病院にも、」行ってほしい。と続いたのだろうけれど、声はそこで止んだ。

 半端に言葉を噤んだ大樹の表情は渋く強張っていて、遅ればせながらに大輔がした質問の意図を察したようだった。今更気づいても、言葉を撤回する事は出来ないけれど。

 そうしてふいに落ちた沈黙を靴音で踏みにじって、大輔は大樹との距離を縮めた。弟の目の中に映る、能面のように淡々とした表情の自分と視線を交わしながら問いかけた。

「どうしてお前が、俺の能力がなくなった事を知ってるんだ? 半年前に行方不明になって、今日この場所で会うまで俺はお前がどこにいるかも何をしているかも知らなかったのに、どうしてお前は俺の事を知ってるんだ?」

 返事はなかった。出来ないのだろう。それに大樹がどんな答えを寄越してこようと、大輔の頭の中で組みあがっている結論は強固なもので、そうそう崩れる気配はない。

 皮膚に食い込んでいる爪の先が、ひくり、と動く。

「それにさっき、言ったな? 俺がお前を探してるって。確かに俺は半年間ずっと、お前を探し回ってた。麻耶や知り合いの情報屋に頼んで、お前の行方をずっと探してもらっていた。まったく成果はなかったけど。で、それをどうして、お前が知ってるんだ?」

 まるで引いていく血液の音が聞こえてきそうなほどに、目に見えて青褪めていく弟の顔を凝視する。 

 ——脳裏に、大智の姿が浮かんでいた。それが答えだろうと、大輔は冷静に思っていた。

 大智なら、大輔の能力がなくなった事を知っている。大樹を探すために警察署をやめた事も知っている。何より、大輔が申請し続けている大樹の捜索願を毎回毎回、なかった事にしている。その行為が、現場から失踪した身内の恥を隠したい一心から来る保身ではなく、失踪した大樹本人から頼まれた事であったならどうだろう。

 保身なのだとずっと、大輔は思ってきた。捜索願を取り下げる理由を二歳年上の兄は一度でもまともに答えてはくれなかったから。答えられない理由があるのだと考えれば、自分勝手な動機ぐらいしか思い浮かばなかった。少なくとも、兄と弟が連絡を取り合っている可能性、なんてものは想像の範疇にさえなかった。

 だから、軽蔑した。皮肉を言い、嫌味を吐き捨てた。——尊敬していた分だけ、憧れていた分だけ、好意を抱いていた分だけ。

「で?」出てきた声は心底、冷ややかだった。「どうして俺にだけ黙って、いなくなったんだ?」

 沈黙は思っていたよりも短かった。青褪めた顔のまま大樹は震える唇を開き、呻くように呟いた。「大輔を、お前を俺が守ってやりたかった、からだよ」

「え?」聞き返したのは、声が聞こえなかったからでも嫌味のつもりでもなく。意味が理解できなかったからだ。

 けれど大樹は大輔のその反応を嫌味の類だと受け取ったらしい。何かに挑むかのような強さを眼球の底で光らせて目を細めた。傷つくばかりではなく、立ち向かおうと奮い立つ声には、破れかぶれに似た響きがあった。「俺はお前を守りたい、ただそれだけだッ! お前が兄貴の事を軽蔑しようが、俺の事を馬鹿だと思おうが関係ないッ! 俺がそうしたいからそうしてるッ、いちいち、お前がどう思うか考えて、怖がってッ、やってられるか!」

 下手に出る事をやめた大樹の率直な言葉に唾を飲み込み、そうしてから反射的に言い返そうとした時だった。その金属質な音は、大輔の唇から出かかった言葉を喉の奥へと押し戻させ、怒気も垣間見えそうな大樹の表情をとたんに怪訝に歪ませた。ふたりの間にある僅かな距離のなかへと、軽く地面に何度もぶつかりながら転がってくる——、リングの正体はいうまでもなく即座に双子は理解した。ふたりして、さっきから会話に一度も加わらない彼女のほうへと向き直った。追求する目を、ほとんど犯人探しをする刑事のような目を双子はしていたものの、違う、と反射的に思った時には、煙幕の模擬魔術は発動していた。

 彼女が模擬魔術を投げたのではないか、と、双子は思ったのだ。けれど、振り向いた双子の視線に素直に困惑した色の目で見開いた彼女の様子は、話を強引に終わらせようとしている人間がする仕草にしては自然すぎた。リングから噴きあがった霧が瞬く間に彼女の動揺した顔を覆い尽くす、手を伸ばせば確実に触れられる場所にいる大樹の姿も包み隠そうとする。

「ッ、大樹ッ!」思わず、大輔は手を伸ばしていた。まず体が動いていた。完全に模擬魔術の霧が大樹の姿を隠してしまう前に、どうにか視界に捉えていた弟の手を掴んだ——、と思った。

 大樹の手が、大輔の手の中からすり抜けていた。掴んだと思ったものが途端に形を崩して、指と指の間から流れ出し、手の中が空っぽになってしまったような。ぎょっと硬直し立ち尽くしかけた大輔は、くぐもった人の声を聞いたような気がして、掴み損ねた手から目を白い空間へとはねあげた。布越しに押さえ込んでいるかのような声だったけれど、耳に届いてきた声は確かに大樹の声だった。

「大樹ッ?!」叫び、声が聞こえたと思う方向へあてずっぽに手を伸ばした。

 カラン、と地面に金属質の何かが落ちる音と、大輔の手が霧の中で何かを掴んだのは同時だった。一秒未満の遅れもなく、迅速な処理能力で霧を晴らしはじめる中和剤の効力によって視界が瞬く間に開けた大輔は短く、息を呑んだ。

「あ、あんたッ、はッ! 成瀬さんッ?!」動揺した体の震えがそのまま声帯に伝わり、発する言葉を細切れに上擦らせる。

「ありがとう。大輔君。君のおかげだ」男の声はいかにも悠長だった。中和剤によって不完全ではあるものの晴れた視界の中で、大樹を子供が等身大のぬいぐるみを抱きすくめるような格好で抱きしめていて、その口に白い布のようなものを押し付けている姿からすれば場違い過ぎるほどの、悪びれてもいなければ後ろめたさも何もない声だった。むしろ、親愛がこもっていそうな声だった。

 気を失っているのか、大機はぴくりとも動かない。

「小野大輔ッ! その男から手を離しちゃ駄目よッ!」

 背後からの声が、男の二の腕を掴んでいた大輔の手を震わせる。慌てて力を込めなおすよりも先にあっけなく振りほどかれたかと思うと、男は逃げるでもなく、ほんの少しだけ唇を歪ませて笑みの形を作った。邪推しようのないほどに、優しげな笑みには違いなかった。この場ではなくもっと別のところで——、例えば、この男とはじめて会った、大輔が住んでいる古びたアパートの一室で見たのなら、少なからず好意は抱いただろう。

 男は、大輔に一億円を差し出しながら、初代の魔女を探してほしいと、酔狂にも程がある事を頼んできた依頼人は、まるで親が子供を諭すような声音で大輔に告げた。

「君は早く、ここから立ち去りなさい。君に危害を加えるつもりはまったくないんだ。けれど、そこの女と共謀するつもりなら、私達と君は対立する事になる。それはとても悲しい事だし、妹だってそんな事はまったく望んでいない、」

 鋭く、アスファルトを軋ませるような靴音が、大輔のすぐ真後ろで鳴った。「だったら大樹はッ、お前達と一緒に行く事なんて望んでないッ!」叫び声と共に、大輔と男の間に割っているように踊り出た彼女の右腕が大きくしなった。カッターナイフの刃が、振り下ろされる。

 けれど、そのカッターナイフの銀の一閃は唐突に、何かに音を立ててぶつかると、そのまま勢い任せに跳ね飛ばされたかのように彼女の手から明後日の方向へと飛んでいった。

「望んでいないように仕向けたのは、君達だろう?」と、男は相変わらずの口調で問いかける。「世の中の秩序。能力者と一般人の共存、綺麗なだけの張りぼての言葉を並べて、何が一番世間とって大事かを教えたんだろう? けれどそれは、望みではないよ」

 大樹の口もとから離れ、カッターナイフの柄を刃も気にせずに真正面から垂直に受け止めている男の手は、白く光って見えた。陽射しの反射でもなく、見間違いでもなく、手の皮膚そのものがにわかに発光しているのだ。その男の手を傷つけるはずのカッターナイフの刃はほとんど根元から折れ、地面に転がっている。さっき音を立てて飛んでいったのは、その刃だった。

 大輔は目を瞬いた。「能力、者?」目の当たりにしているにも関わらず、語尾に疑うような色が滲みでる。

「そう、初対面の人間が、自分が能力者であると語れない世の中からしておかしいとは思わないか?」男の言葉は、目は、すぐ傍で対峙している檜山の体も敵意を素通りして、大輔へと当たり前のように向けられていた。「世の中の大勢が一般人だから? まあ、だからこの世の中のありとあらゆる仕組みが一般人のために都合されているのは分かる。でも、それを能力者にまで強いるのはどうしてだ? まるで、自分達が感じている不便を、われわれ能力者にも押し付けないと、気が済まないように見えるけどね」

「大樹はそっちを望んだんだッ! 一般人と共存するほうを選んだ能力者をどうこうする権利なんて、あんたにはッ、」ないッ! と、語気荒く断言した声と共に刃を失ったカッターナイフを再び振り上げようとした彼女の姿はまた、金属質の音と共に瞬く間に煙幕の中へと消えた。

「——……、確かに、ない、んだろうね」応える男の声がふいに遠ざかる。続いて、恐らくは彼女が投げ落とした中和剤の金属音と入り乱れるようにして、複数の靴音が騒々しく駆け込んでくるのを聞いた。「でも、この子に関しては別だ。この子が何を今、望んでいようと、私はそれを説得しなければいけないし、考えを改めさせなければいけない」

 中和剤が霧を晴らした時、路地にいたのはさっきまでの四人だけではなかった。

 響いていた靴音は彼らが立ち止まった瞬間にぴたりと止んだ。十人はくだらない、服装様々な統一性のない男達は揃って面持ちだけを険しく歪ませて、檜山と大輔に真正面に向き合い、生身の刃に似た眼差しを突きつけていた。一歩でも踏み出したなら膾切りにされても文句は言えないような、到底、普通に生きてきた人間には不釣合いな薄ら寒い眼光が、それぞれの眼の底で輝いている。

 無意識に喉が上下する。男達のうち数人に、大輔は見覚えがあった。

 地味な背広姿の男。いかにも生真面目そうな学生然とした男。そして、集団の中でひときわ太っている男。姿には、見覚えがあった。けれど、昼下がりの住宅街で必死に能力者解放戦線への理解を求めていた時とも、今朝アパートの前で他愛ない話をしていた時とも、まるで中身が挿げ変わっているかのように表情は別人だった。

 そんな男達を隔てた向こう側、少し離れた路地の終わりに、成瀬は佇んでいた。いつからそこにあったのか、四角い車体の黒いマイクロバスの扉の傍で、気を失った大樹を丁寧に抱きかかえたまま、こっちを見ていた。「時間はたっぷりとあるんだよ、大輔君。私にも君にも、大樹君にも。だから無理強いをする気はまったくないんだ。もちろん、酷い目にあわせるつもりもない。だから安心してくれて構わない。気になるのなら、君も後でくればいい」

 そういって差し伸べられた手は、ふたりの間の距離がなければ、現実として殺気立った男達が塀のように間にいなければ、思わず手にとる事を考えてしまいそうな代物だっただろう。自分は間違った事をしていない、非難される事もしていない。そう大輔に断言しているかのようだった。

「我々は君を歓迎するよ、大輔君。たとえ君が能力を失っていても、君には我々の同胞になる資格があるんだから」成瀬の話はそこで終わった。

 見計らったタイミングで、マイクロバスの運転席からひとりの男が出てきて、車体の扉を横にスライドさせて開いた。大樹を抱えたまま車内へ入りかけた成瀬はふと他愛ない事を思い出したような素振りで、眼を車内へと向けたまま、口を開いた。「そこの警察官は始末しておいてほしい。でも、彼は出来る限り傷つけるな。妹が悲しむ」

 そうして成瀬が車に乗り込むと、スライド式の扉はひときわ大きな音を立てて閉まった。

「——ッ、おいッ!」大樹が連れ去られる。衝動的に声をあげて駆け出そうとした大輔は次の瞬間、服の襟首を思い切り後ろから引っ張られ、尻から不恰好に地面に倒れこんだ。痛みに顔をしかめるよりも先に、その傍を淡々と通り過ぎる檜山を、襟首を引っ張った張本人を苛立ち混じりに見上げると、「小野大輔。さっさとこの場から立ち去りなさい」機械的な命令じみた声だけが檜山から向けられた。

「、は?」間の抜けた声で聞き返しても、返事はない。

 排気ガスを撒き散らし、タイヤで路面を軋ませながらマイクロバスは走り去っていく。

 それを両者ともが合図とした。ただでさえ刺々しく張り詰めていた空気が途端、音を立てて引き締められる。少しでも音が鳴れば気配が揺らげばその瞬間に、極度に緊張した空気の糸がぶち切れ、誰ともなく動き出すのだろう。戦いや乱闘、ではなく、これは私刑みたいなものだ。

 両手でも足りない、恐らくは全員が能力者に違いない男達に、女性であるのだから能力者のはずがない檜山が一人で挑もうとしているのだから。空のポケットをまさぐって、大輔は思わず舌打ちしたくなるのを堪える代わりに顔をしかめた。思っていた通りに煙幕の模擬魔術は全部使い果たしている、この場で手っ取り早く逃げおおせる常套手段は今、大輔の手の中になかった。

 だからといって、一人で逃げ出すなど論外だ。けれど、ここで大輔が檜山の加勢に入ったところで、私刑になる人数が一人から二人に増えるぐらいで、大局が変わるはずもない。

 ——お手上げ、とはまさにこういう時のための言葉だろうか。率直にそう思う。

 その時だった。路地の張り詰めた空気を引き裂くようにして、車のクラクションがけたたましく鳴り響いたのは。

 無遠慮どころか、無神経とも呼べそうな音だった。意識の外から突然飛び込んできた音に、その場にいる全員が全員、驚いた顔で音のほうを見遣った。緊張が崩れた途端にはじまるだろうと誰もが理解していた乱闘の気配さえ見事に掻き消してしまったクラクションの主は、大輔達の背後、成瀬が乗った車が過ぎ去っていった路地とは反対側の入り口に停車していた。マイクロバスとは対照的な、四人乗りの軽四自動車は運転席側の側面を大輔達へと向けている。

 運転席の窓がおもむろに開き、ひらりと細い手が振られた。その手から緩やかに放物線を描いて、何か小さく光るものが地面へと放り投げられる。

「助けに来てあげたよ、大輔君」麻耶の声が届いたのと、煙幕の模擬魔術が地面で大きく一度跳ね返ったのは同時だった。瞬間的に辺りに立ちこめた霧が視界を遮る寸前で、大輔は立ち上がり様、反射的に檜山の手首を掴んだ。突然のクラクションに続いて投げ込まれた煙幕に、にわかに動揺していた檜山がさらに眼を見開いて大輔を見た。目が合った、と思った時には煙幕で隠れてしまっていたけれど、大輔は口を開いた。

「逃げるぞ」宣言して、手を握ったまま、駆け出す。

「ッ! ちょ、ちょっと!」僅かに抵抗する気配が檜山の手首から伝わってきたものの、それはこの場に踏み止まろうとしているのではなく、突如様変わりした事態に順応できずに混乱しているからのようだった。残ったところで勝ち目はないし、逃げるなら今こそ好機である。理解しているから大輔の手を振り払おうとはしないけれど、張り上げる声に宿った混乱は素直に大輔へとぶつけられていた。「一体なんなのッ! あれは知り合いッ?!」

 知り合いであってもどうしてこんなタイミングで現れるのか。しかも、「助けに来た」なんていえるのか。檜山が抱いている混乱の一部はそのまま大輔の疑念でもあったけれど、それら全部をひっくるめて、結論は一つだけだった。

 大輔は断言する。「とりあえず、あの連中と多勢に無勢でやりあうよりは、逃げたほうがマシだろ」

 煙幕の下で獲物が逃げ出した気配を察して、乱れながらも近づいてくる複数の足音を背後で聞きながら、霧の中を闇雲に伸ばしていた大輔の指先はようやく、ゴールである麻耶の車の車体に触れた。ほっと思わずつきたくなる吐息を飲み込んで、ノブを手探りで探して扉を開けた。

「早くしないと彼らに追いつかれちゃうかも」見るからに修羅場だったに違いない路地で勢いよくクラクションを鳴らした威勢とは程遠いのんびりとした口調で言う運転席の麻耶を一瞥してから、「ほら、早く乗って!」手首を引っ張って先に檜山を後部座席へ押し込んだ。

 そうしてすぐさま続けて乗り込もうとした大輔を引き止めるかのように、その声は彼らの靴音よりも明瞭に大輔の耳に飛び込んできた。

「——警察だッ! お前達ッ、そこで一体何をしているッ!」大智の声だった。

 反射的に半分乗り込みかけていた体を戻しかけた大輔に、「見つかるとさすがにまずいんじゃない? 大輔君」投げかけられる麻耶の声音は至って平静だった。運転席から首を少し捻って後部座席へと眼を向けると、小さく肩をすくめてみせる。「能力者解放戦線といざこざ、なんて面倒事、説明してもすぐに納得してもらえると思わないけど。もし早く納得してもらえたとしても、当分、一人で行動するのは不可能になるだろうし。それよりも早く、大樹君を追いかけるほうが先じゃない?」

 大輔と檜山は揃って、息を呑んだ。そして先に我に返った檜山は大きく目を瞬くと、運転席の座席をわし掴んで、助手席との間から身を乗り出した。「ッ、どうして、大樹の事を知ってるのッ!」質問というよりは罪を追求するような、叱責に近い叫び声だった。声を荒げて詰め寄る事で、どうにか自制心を保っているような声音でもあった。

 檜山を見遣り、そうしてから息を呑んだまま固まっている大輔へと目を移し、最後に麻耶は正面のフロントガラスへ顔ごと視線を向けた。「霧が晴れちゃうけど、」と、誰に言うでもない独り言のような素振りで呟いて、首を傾げた。留まるか、車に乗るか。二者択一で求める目が、バックミラー越しに注がれる。

 どっちを選ぶかなんて、麻耶は分かりきっているに違いない。問いかける眼差しは単純に、どうせ選ぶほうは決まってるんだから、さっさと行動しなさい、と催促しているのだ。大輔がここで車を降りて扉を閉め、兄と能力者解放戦線のメンバーがいる路地に残るはずがなかった。

 喉に詰まるようにして留まっていた息を吐き出して、大輔は車に乗った。扉を閉め、後部座席のシートに腰を下ろそうとしたところで、いきなり響き渡った車のエンジン音と共に圧し掛かってきた衝撃に、背を座席の背もたれへと押し付けられた。ぐっと胃酸がこみ上げてきそうな重力だった。

 後部座席の乗客のことなどお構いなしに急加速した軽四自動車は、窓の外の景色を振り切る速度で路地を突っ切り、そのまま警察署のある通りへと突入していた。細い路地から通りへ出るのだから、往来の確認は必須事項だろうに、まったく速度を落とさなかった車は周囲を窺う様子も見せないまま、車内にさえ響くほどにタイヤを甲高く軋ませて右折する。そしてますます、速度をあげた。

 文字通り、脱兎の如く、である。ただ、逃げ出した路地の入り口がとっくに後方へと去って見えなくなってしまっても、アクセルを踏み込んでいる麻耶の足の力が緩む気配はまったくなかった。警察署が斜め前に見えた、と思った瞬間には、後ろへと飛んでいる。座席へようやく座りなおした大輔が振り返った時には、もう影さえ見つけられなかった。

 今すぐにこの車の速度違反を警察組織への挑戦だと受け取ったパトカーのサイレンが後方で鳴り出しても、文句は言えない。

 ゆっくりと大輔は喉を上下させてから、口を開いた。「……おい、」いくらなんでもスピードを出しすぎじゃないのか。言おうとした言葉を遮ったのは、至極淡々とした麻耶の忠告だった。

「別に話しかけてくれてもいいけど。こんな速度で事故ったら、確実に死ぬでしょうね。私達」


 三人が三人とも押し黙って出来た空気の中で聞こえていた音がふと、和らいだ。

 車の速度がゆっくりとではあったけれど落ちていくのを、大輔は車内に響き渡っていたエンジン音とタイヤの軋む音で察した。何をするでもなく俯いていた目を窓のほうへとやると、まるで跳ね飛ばされているかのようだった外の景色がどうにか、目で追いかけられるぐらいの速度で後ろへと流れていた。

 麻耶の眼差しがバックミラーを介して後部座席へと向けられた。今なら話が出来るけど、と言葉なく言ってくる目に先に口を開いたのは、檜山だった。

「——どうして、大樹の後を追いかけるほうが先だなんて言えたの?」

 話しかければ事故る。と、ほとんど脅迫に近い言葉で質問を封じられている間ずっと、考えていたのだろう。ひとつ疑問をことさら物静かに口にした檜山だったけれど、すぐに何か堪えきれなくなったように顔をしかめて、矢継ぎ早に言葉を続けた。「どうしてあのタイミングでやってきたの? 逃げる直前に小野さんが来たのは偶然? 模擬魔術を投げたのはどうして? どうして、私達を助けるような事をしたのッ?」

 最後のほうは、面と向かっていれば胸倉を掴みあげていそうな険しさがあった。返事如何では、車が事故れば運命共同体の身の上でも許さない、と眼差しは鋭くフロントガラスに映る麻耶を睨み据えていた。

 すぐに返事はなかった。「まあ、事情を話すよりも先に、しなくちゃいけない事があるから」と、誤魔化しのようにも聞こえなくはない事を言ってから、麻耶は首を少しだけ捻って視線を大輔のほうにちらりと向けると、片方の手をハンドルから放して自身の服の襟首へと持っていった。ゆっくりと親指と人差し指で撫でてみせる。

「? なんだ?」そこを触れ、というジェスチャーに見えなくもない仕草に首を傾げながら大輔は手を、麻耶と同じように自分の服の襟首へと持っていった。親指の腹が上着のタグをなぞり、服の縫い目に触れたところで、顔をしかめた。なにか、シールのようなものが貼り付いているのに気づいたのだ。

 親指の爪で丁寧に端からめくって剥がす。取れたものを見るとやはり、シールだった。一辺が二センチ程度の、角を丸く切り取った正方形の形をしていた。よく見かける靴下に貼り付いているサイズが書かれたシールとは違って、表面は真っ白で何も書いていない。粘着部分のほうを裏返して見ると、囲碁の黒石を小さくしたようなものが中央についている。

 テレビのCMで見た、磁石の力でコリをほぐすとかいう商品に似ていなくもないけれど。

 しかし、どこでこんなものをつけたのか。大輔にはとんと分からなかった。しかも服の外側ではなく、内側である。偶然に貼り付いたとは思えない場所だ。かといって誰かがこっそり貼り付けたにしても、こんな無地の味気ないシールではその理由も掴みかねる。

 そんな事をシールを見ながら考えていた大輔の横合いから、音のない静かな動作で突然、腕が伸びてきた。シールを大輔の親指から素早くめくって、腕を引っ込める。「、あ」特に何かあったわけでもないものの、間の抜けた声と一緒に視界の端から抜けた腕を追いかけて目をやると、檜山がしげしげとシールを観察するように眺めていた。そしてしばらくしてからため息をひとつ落とすと、親指と人差し指でシールを小さく丸めて、そのまま空いているほうの手で車の窓を開け、外へ、パチンコ玉でも弾き飛ばす要領で元シールの小さなごみくずを放り捨てた。

「ッ、おい」思わず尖った声が出た。さして窓の外から捨てられて困る事があるわけでもなかったけれど、一応は大輔の服についていたシールなのだ。少しぐらいは何か言ってから捨てても罰は当たらないだろう。

 用事が済んだとばかりにさっさと車の窓を閉めた檜山は、大輔の怒りを孕んだ反応に一瞥さえよこす様子もないまま、真正面のフロントガラスに、ますます険しげに眉間に皺を寄せた顔を向けた。正確にはフロントガラスに映る麻耶へと視線を据えていた。

「さっきのあれが、私の質問に対する答え?」先程までの、場所が許せば殴りかかるぐらいはしたそうな声音よりは多少落ち着いているようだった。けれど眼差しのほうはますます、鋭く尖っていく一方だ。

 落ち着いていると感じるのはただただ、自制心が声の表面にあるからなのだろう。と、大輔は思った。言い換えれば、分かりやすいほどに自制心を込めなければ本気で麻耶を後部座席から殴り飛ばすかもしれない、と檜山が判断したのだ。いくら最初の頃と比べて少しは車の速度が落ちたといっても、他の乗用車も走っている道路で運転手に危害を加えればどうなるか、は、想像するまでもない。

「……、あのシールがなにか、問題なのか?」問題があるとすれば、あの黒石みたいなものだろうか。

 不可解には感じられても具体的には何も分からなかった大輔の素朴な質問に、檜山の返事は簡素だった。目は追及の手を緩める気もなさげにフロントガラスに映る麻耶を凝視したまま一言、告げた。「盗聴器よ。あれ」さらりと、何でもない事を話すような口振りである。

 目を瞬く。たっぷりと檜山の発した単語が脳みそに行き渡るまでの間が出来た。

「——、は?」それでも間抜けに聞き返すと、檜山は心底面倒くさそうに肩を落として息を深々と吐き出すと、フロントガラスから目を離した。上半身を捻って大輔に向き直る。

「盗聴器、なのよ。あれ」一回目よりも殊更丁寧に、一言一言噛み締めるような言い方だった。「多分、GPS機能も搭載してる、模擬魔術の技術も使った最新型だと思うけど」そこで一旦口を噤んでから、目だけをフロントガラスへとやった。意地悪げに目を細める。「あれがあればそりゃ、能力者解放戦線とやりあう寸前になってる事も、大樹が誘拐された事も、何もかも分かって当たり前でしょうね」

 短く、麻耶が鼻を鳴らした。「馬鹿は言ってほしくないわ」私は潔白だ。と断言するのに似た、檜山の推測を跳ねつける強い口調だった。「第一、そのシールをつけたのが私なら、どうしてシールの事を大輔君に教えてあげないといけないのよ。放置しておくほうが絶対に得じゃない? ジェスチャーで教える必要もないわ。それに理由はなに? 大輔君の居所を把握してていい事なんて私には、これっぽっちもないんだけど」ハンドルを握ったままで器用に肩をすくめてみせた。

 檜山の一瞥が、物言いたげな色をして大輔を撫でた。言葉にするなら、盗聴器を仕掛けられる心当たりはないの? といったところだろうか。確かにあのシールが盗聴器で、貼り付けたのが麻耶、だったとしたら、その動機はともかくとして、絶妙なタイミングであの路地に現れた理由は説明がついた。——逆を言えば根拠はないけど起こした行動で、麻耶=盗聴器を貼り付けた人物、と檜山の中ではなっている。

 大輔は目を、運転席にやった。

「じゃあどうして、あのタイミングで出てくる事が出来たんだ?」訊ねてから、大輔はまだ大事な事を麻耶に言っていない事に気づいて、目を丸くした。途端、少し内心で気まずくなるのを咳払いで誤魔化して、再び口を開く。「……、あの時、麻耶の車が来なかったらきっと、大変な事になっていたと思う。だから感謝しているし、ありがたいとも思う。礼を言うのが遅くなったけれど——。助かった、麻耶。ありがとう」

「相変わらず律儀よねェ、大輔君」苦笑い半分からかい半分の声で応えると、麻耶は方向指示器を出した。カチカチ、音を鳴らしながらゆっくりと速度を落として、車を路肩へと停車させる。サイドブレーキを引いた。「私がどうしてあの場所にいたかは、言葉で説明するよりも実際に見てもらったほうが早いと思うのよ。盗聴器なんて面倒くさい事をする必要なんて私にはないって分かるから」そう言うと麻耶の指先は、車に備え付けられているラジオのボタンへと伸びる。電源を入れ、選局のツマミをまわす。

 しばらく耳障りな雑音が続き、やがてスピーカーから男のいやに興奮しきった声が聞こえ出した。『……さて、今回の出場馬ですが、やはり一押しの大人気は、一番ゲートの』

 大輔は首を傾いだ。「競馬?」これと大樹の事がどう関係するのかと半ば怪訝に麻耶を見遣ったが、彼女は口元を緩めるのみである。ラジオからは今回の出場場が番号順に紹介されていて、個々に親はどこの馬であるとか今までの功績であるとかが読み上げられている。麻耶が再び口を開いたのは、十枠目の馬の紹介が始まった時だった。

『さて、最後にゲートに入ったのが最近調子の振るわない、』

「この競馬、一着が十枠で二着が一枠よ」

 特に気負う風もない麻耶の言葉に、まず揶揄に近い笑みで応えたのは、ラジオに耳と目を向けていた檜山だった。浮かべた笑みの上にすぐさま不機嫌な色を塗って、麻耶に問うた。「ようするに競馬の勝敗が分かるみたいに未来も分かるから、能力者解放戦線のことも大樹の事も分かるっていうの?」

「その通りよ」あからさまに込められている皮肉に麻耶はあっさりと肯定した。途端、興醒めした様子で顔をしかめる檜山に顎をしゃくり、十枠目の馬の批評を流し続けるラジオを見る。「聞いての通り、十枠目の馬にはろくな評価がないわ。ラジオのいう事をそのまま聞くなら、王道は一枠と三枠でしょ。だったらここで私が十枠が一着にゴールするって宣言する事に意味はあると思わない? 物凄く確率が低いもの」

 ラジオでは十枠までの出場馬の説明が終わり、実況席による他愛ない順位予想がはじまっていた。一枠が一着なのは間違いないだろうが二着目を調子のいい九枠がとるか安定した三枠がとるかで、話が盛り上がっているようだ。確かに麻耶の言うとおり、ここで紹介の時にも明らかに不調だと告げられていた十枠が一着になると宣言する事には意味があるだろう。

 けれど、と大輔は思う。「一着二着よりも、未来が本当に分かるなら、全部当てる事も出来るんだろう?」と、思ったままの事をそのまま質問した。ハードルをあげようと思っての難癖ではなくて、客観的に考えるならそういう事だと考えての確認事項のつもりだった。

 檜山は目を素早く瞬かせた。彼女としてはそもそも、未来が分かる云々からして懐疑的なのだろう。「そうよね、」と大輔の問いに同調して頷く様子は、納得しているように見えてその実戸惑っているふうだった。言い逃れみたいな事に何もそこまで言わなくても、と度の過ぎた嫌味に多少尻ごみしている目で、麻耶を見る。「未来が分かるなら確かに、可能よね」

「分かった」実にあっさりと麻耶は応じて、迷う素振りもなく一着から十着までの馬の番号を口にした。

 はたから聞けばその口調は、どうせ当たりはしないのだから、と適当に番号を組み替えていっているようにも聞こえなくはなかった。ただ本当に未来を知っていて言っているなら、それだけ他愛なく、なんでもない事なのだと麻耶本人は思っている。そう伝わってくる声でもあった。

 最後にゴールする馬を九枠目の馬だと断言し終えて一度口を閉じてから、麻耶は小さく息をついた。「全部当たったら納得してね。でないと話が全然進まないんだから、」念押しする声と共に目を大輔と檜山にやった。

 ラジオから、スタートを告げる実況の声と共にひときわ大きい歓声が飛び出した。

 果たして、結果は麻耶の言う通りになった。

 最後の直線に入ったところで、実況がほとんど断末魔の悲鳴のような声で十枠目の馬の名前を連呼しはじめた。隣の檜山が大きく喉を上下させる、唾を飲み込む音が聞こえそうだった。けたたましくスピーカーから響き渡る音声と比例して、車内は重々しく静まり返る。最後に、途中で突然失速して取り残されていた九枠目の馬がゴールした事を、その時にはぜいぜいと息も絶え絶えになっていた実況が伝えると、大輔はラジオから麻耶へと視線をあげた。

「未来が分かるならどうして、大樹を誘拐させた?」何より、気になっていた事である。

 半分ほどの馬がゴールしたところから、呼吸するのも忘れたように動かなくなっていた檜山の体が、大樹、の単語の部分でぴくりと動いた。まさか本当に全部が当たるとは思っていなかった、と言いたげな血の気の引いた顔を持ち上げる。

 まだ声を発するほどには衝撃から回復していないらしい彼女の、大輔と同じ事を問う視線を受け止めて、麻耶は肩をすくめた。

「誘拐してもらわないといけなかったのよ」

「どうしてだ?」と、大輔は訊ねた。

「初代の魔女を殺すためよ」と、麻耶は応えた。

 落ちた間は、なんとも言い難いものだった。言葉を失って唖然としているようでもあり、純粋に驚いた結果でもあり、白々とした馬鹿馬鹿しさで呆れているようでもあった。恐らくはどれもが分解できないレベルで混ざり合い、不可解な空気を作り出して車内に満ちていた。

「——……前に、初代の魔女を知らないって言ってたのは嘘か」本当のところはどうでもいいとさえ思っていたけれど、ついそんな事を皮肉のように呟いていたのは、その空気の重みに気持ちが耐えられそうになったからだろう。些細な事でいいから、会話のきっかけが欲しかったのだ。

 大輔の言葉に、麻耶は少しだけ申し訳なさそうな顔をして頷いた。

「そうね、あれは嘘だった。あの時は知らないって答えて、大輔君が自分で色々とやるのを待たなくちゃいけなかったの。ねえ、バタフライ効果って知ってる?」

 問いかけに応えたのは檜山だった。長い間喋る事を忘れていた人間がおずおずと話し出すような、ゆっくりとした口調だった。「本来ならとても小さな事か、やがては無理できない大きな差になる……って話よね、それって。日本で蝶が羽ばたくと、ニューヨークでは嵐が起こる、みたいな事よ」

「麻耶が俺に初代の魔女の事を教えたら、初代の魔女は殺せないって?」大輔は首を傾げた。

「私が何もかもを最初に教えたら、そもそも大輔君は他の情報屋に依頼しないでしょ? スタートした途端にゴールみたいなものだから。でも私が教えなければ、大輔君は自分で情報を集めようとする。大輔君の行動は色んな人間に影響を及ぼす。たとえば、わざわざ大輔君を警察署に呼んだのは誰だった?」

 元上司であり、対魔術課課長の高柳充彦。大輔の脳裏にその人物の姿が浮かぶのと見透かしたタイミングで、麻耶が淡々と言葉を続けた。「その人が大輔君を警察署に呼ぶきっかけを作った人もいる」

「兄さん、だな」そして、と息をついて大輔は麻耶に改めて視線を置いた。その小野大智に、大輔が初代の魔女を探していると告げたのは、運転席に座っている彼女本人だ。

 視線に麻耶は愛想笑いのような、他愛ない表面だけの笑みを向けて檜山を見遣った。「そして、大輔君が警察署に呼ばれるのを高柳さんから聞いて行動したのが、彼女ってわけ。だから警察署を出て大輔君が人気のない路地に入ったところで、襲う事が出来た。で、それを大樹君に邪魔された」

「それで、邪魔をした大樹は俺に色々言って、成瀬に——、能力者解放戦線に誘拐されたんだよな」

 成瀬は大輔に一億円つきで初代の魔女を探して欲しいと頼んできた依頼人だ。半ば成瀬の依頼を持て余しながらもひとまずは情報を得ようと、大輔は麻耶の事務所を訪れた。一つの出来事が別の出来事のきっかけとなり、連鎖を続けて、円になる。

 けれどはっきりした事が一つあった。「俺に盗聴器を仕掛けたのは、成瀬か?」質問の形をしていても、疑問を挟むつもりはなかった。盗聴器の主は成瀬である、そうでなければあのタイミングで彼が現れるはずがない。もっと厳密に言えば、と大輔は背筋を這った悪寒に顔をしかめた。「——……、あの能力者解放戦線の連中が、俺の行くところ行くところにいたのも、そのせいか?」

 最初は駅前。次はバスを降りた住宅街。翌朝になると、アパートの前にいて、最後は警察署の前だ。

 麻耶はこくりと頷いた。「彼らは、行方不明の大樹君が大輔君に接触するのを待ってたのよ。接触しなくても何かしらのリアクションはあると思っていたから、いつでも大輔君の傍に駆けつけられる距離にいた」

「盗聴器を仕掛けて、わざわざ大樹が接触するのを待った理由はなんだ?」

 ただ何かしらの理由があって身柄を確保する事が目的、のようには見えなかった。恐らくはハンカチに染み込ませた何かしらの薬品を大樹に嗅がせて気を失わせたのだろうけれど、そんな強引な手段をとった割には、大樹を抱いている成瀬の手つきは優しげだった。いや大樹だけではなく、大輔に対しても成瀬の態度は同じだった。

 なのに、と、大輔はさらに深く眉間に皺を寄せた。「早く大樹を追いかけなくてはいけないのは、どうしてだ?」その麻耶の言葉から感じ取れる危機感は、能力者解放戦線に誘拐された大樹の身に何かが起こる事を確信しているようだった。

 この質問は、さっきから口を閉じている檜山も気になったらしい。大輔と檜山の、二対の眼差しに麻耶は努めて抑揚を抑えた声で告げた。「早く行かないと、大樹君が殺されるから」

 大輔は思わず、喉を上下させた。どうして? と、さっきから繰り返していた疑問符がこの時だけ、唾液が干上がった咥内にべたりと貼りついたように、声にならなかった。

「ちょっと待って、」代わりに、即座に声をあげたのは檜山だった。「貴方に未来が分かるのは認める。盗聴器も成瀬修司が小野大輔に取り付けたと判断するのが妥当でしょう。でも、能力者解放戦線が大樹を殺す動機なんてまったくないわ」

「あるから、ちゃんと」麻耶は檜山に向かって首を小さく傾げた。「だって、そのために半年間ずっと行方不明だったんでしょう?」

 言葉を喉に詰まらせた檜山の表情は、どうしようもない致命的な弱みを握られた人間のそれによく似ていた。反論できずに唇を噛み締めて俯いた彼女から視線を、まだ呆然とした気持ちが抜けきっていない大輔へと麻耶は移す。

「大輔君も不思議だったんでしょ? 半年前の模擬魔術事件で現場から失踪して行方不明になったはずの大樹君が、中和剤を所持している彼女と知り合いだった事。その彼女を、大樹君とずっと同じ部署で働いていた自分が知らない事。だから半年間のうちに知り合ったんだと思ったんでしょう? でも、事件を放っていなくなった大樹君がわざわざ警察関係者と関わりを持つはずがないし、ましてや半年間の大輔君の動向を知ってるはずもない。だから、自分だけに内緒で失踪して、実は影でお兄さんと連絡を取り合っていたんだって、最後に結論を出したのよね?」

「、ああ」渇いている喉をなんとか動かして、頷いた。

「それ、だいたい正解よ」と、麻耶は言う。ゆるんだ目元にある笑みみたいなものが大輔を同情していて、けれど同じぐらいに褒めているようでもあった。「半年前の模擬魔術事件で、大樹君は首謀者である能力者解放戦線の秘密を知ってしまった。そのために失踪しなくてはならなくなって、警察は秘密裏に彼に護衛をつけた。護衛は能力者解放戦線の活動状況を確認するために定期的に対魔術課と連絡を取り合っていた、……さすがに組織立った動きが出来るものを相手にして、援助なしで逃げ切る事はできないものね」

「その秘密っていうのは、初代の魔女のことか」呟いて、大輔は檜山を見た。

 檜山は頷いた。「そ。課長と話した事があるなら知っているとは思うけど、本来なら初代の魔女の秘密は探ろうとした時点で制止され、知った時点で排除されるもの……、でも、大樹の知った秘密はちょっと特殊で、逃げるしか方法がなかったのよ」そうして、不満げに顔をしかめた。「私はちょうど昨日の定時報告で課長から貴方の事を聞いたのよ。大樹の苦労も知らないで、よりにもよって初代の魔女を探しているなんて教えられたら、誰だってッ」

「でも、大輔君に殺意を抱いた貴方の様子に大樹君が違和感を持たなければ、彼が不用意に外に出てくる事もなかったでしょうけど」檜山の言葉を遮るように麻耶は言うと、困ったように眉根を下げた。「そして、そうしたのは、私。責任はちゃんととるわ。大樹君は殺させないし助けるから——だからふたりとも、初代の魔女を殺す手助けをしてほしいのよ」

 どちらもすぐには、返事をしなかった。やがて先に、率直な疑問をしたのは大輔だった。「俺達が手助けすれば、初代の魔女は殺せるのか?」大輔には見えないバタフライ効果の先が麻耶に見えているのなら、そういう事だ。静かに頷く麻耶を見てから、少し表情を曇らせる。「大樹が誘拐されるように仕組んだのは、俺を巻き込むためなのか?}

 初代の魔女を殺す手伝いをしてほしい。と面と向かって頼まれて、即座に頷く事などあるだろうか。

 以前の大輔なら首を横に振る。都市伝説だと思っていた存在を肯定され、その存在を探すなと脅された代わりに交換条件を飲ませて、命まで狙われて。締めくくりとして半年前に失踪した弟との突然の再会と、目の前での誘拐を経てようやく、大輔は応じる事が出来る。

 そして、早く追いつかないと大樹は殺される。と言う麻耶は、初代の魔女を殺すために大樹の誘拐を見逃して、一方で大輔には手助けをしてほしいと頼んでくる。

「大樹君を、見捨てる事は出来ないものね」酷く感情のない、かといって冷淡に聞こえるわけでもない不可思議な口調で麻耶は応えた。

「——……、確かにな」

 息を吐き出すようにして呟いた。命の危険を伝えられて見捨てられるような弟なら、そもそも半年前に失踪してからずっと今まで、探そうとするはずもない。だから、本来なら憤るぐらいの事は妥当だろうと思っていた。麻耶にいいように大樹を思う気持ちを利用され、大樹本人まで危険に晒されている——、なのに、続けて出てきた言葉は大輔も少し驚くほどに、冷静なものだった。「じゃあせめて、どうして初代の魔女を殺さなくてはいけないのか、その理由を教えてくれ。こっちの了解なしに勝手に巻き込んだんだ、事情ぐらいは話してくれるんだろう?」

「事情は、貴方達にとっては未来の話になる。訪れるはずだった、だけど」と、語り出す麻耶の口調は何度も読み直した本の一説を淡々と声にしていくような感じだった。手馴れた作業に感想を抱く気にもなれない、といいたげに唇だけが無表情の中で機械的に動いている。「初代の魔女が復活したのよ。「研究所」の生き残りと共に決起して、今の政府に宣戦布告した。同時に能力者達にも呼びかけたわ、いつまで虐げられているつもりだ? ここで立ち上がらずにどこで立ち上がるんだ? ってね。全国の能力者がそれに呼応して、あちこちで暴動が起きはじめた。でも、政府は一度も有効な策を取れなかった。もっともよね、今の政府は能力者を弱者とみなして今まで政策をとってきたんだもの。暴動を収めようにも強引な手は使えないわ、能力者団体の支援を受けてる与党の国会議員は山のようにいたから」

 確かにその通りだ。半年前に模擬魔術事件が起こっている今現在だって、政府は具体的な政策をとるまでに至っていない。付け焼刃のように事件の被害者に対する救済処置は設けているものの、事件を起こした能力者解放戦線自体を解体させるなどの話は出てきていない。能力者団体から支援を受けている議員達がそれに反対し続け、法案提出さえままならないのだと言われている。

 幹部達を失い、世間の悪意に晒されてはいても、能力者解放戦線は組織名を変える事もなく、実在し続けているのがいい証拠ではないか。

「彼らの暴動に抵抗したのは警察官だった。主力は、対魔術課の能力を持った警察官達よ。でも、一般人達はそんな彼らを信用しなかったの。警察官でも能力者である以上は、世間で暴動を起こしている連中と同じだっていって、自分達を守ってくれている警察官達を襲撃した。襲撃のニュースが流れるたびに、今まで暴動に参加していなかった能力者達が立ち上がったわ。で、暴動が大きくなると一般人はますます能力者を信じられなくなって警察官を襲う。その繰り返しね」麻耶の目がふと、遠くを見るように細められた。それ眼差しは恐らく、大輔が麻耶の視線を追いかけてみても見れない、彼女しか知らない光景に据えられているのだろう。「そしてとうとう、政府は乗っ取られたのよ。一般人の女性は能力者と結婚する事を義務付けられて、男性は純粋に労働力としての価値を与えられたわ。——その頃ね、私が恋人を殺されたのは。私は彼の死を認められなかった、許したくないと思った。だから、ちょっとだけかじった事のある模擬魔術でどうにかできないかって考えたの。必死になって研究して、記憶を情報化して過去の自分自身の脳にインプットする模擬魔術を開発したわ。その時にはもう、この国は能力者の国になってた。能力者じゃないと生きていけない国の中で、もう誰も新政府に抵抗しようとはしていなかった。しても無駄だって、思い知ったんでしょうね」

 そう締めくくって閉じた唇を苦笑いの形にすると、麻耶はふたりに首を傾げた。何か質問はある? と訊ねる仕草だった。

 けれどふたりとも、咄嗟には何も言えなかった。疑問がなかったわけではないし、むしろ山のようにありすぎてどこから問えばいいのか途方にくれてしまった部分もあった。黙り込んでしまったふたりに、「質問がないなら、私の話を分かってくれたって事でいい? 車を動かしていい?」質問しながらも麻耶は後部座席を見るために捻っていた上半身を真正面に戻して、引いていたサイドブレーキを下ろした。指示器を出して、麻耶は後方から来る車の列に目をやっていた。

「、つまり、」と、檜山が呟くように言った。「貴方は絶対的に未来が分かるわけではないのね。それこそ、バタフライ現象のように、こうしたらああなる、っていう原因と行動を知っているに過ぎないのね」最後に僅かだけ滲んだ皮肉は、それで本当に大樹を助けられるの? と問うていた。

 麻耶は小さく頷いてから、ハンドルを大きく道路側へと切った。アクセルを踏み込んで、前方と後方の車の間に空いていた空間に素早く車体を滑り込ませる。「でも、私が望んでる事に対する未来はわかるわ。それに、どう行動したら大樹君を助けられるのか。皆目見当もつかない状況よりはずっと、マシだと思うんだけど」と、世間話の口調で言って、目をバックミラーを通して後部座席へ向けてきた。

 言い返す言葉なく再び黙り込む檜山の隣で、大輔は口を開いた。「分かっているとは思うが、初代の魔女を殺すのに俺が必要だといっても——、多分、俺自身は初代の魔女を殺せないから」それこそ差し迫った危機でなければ無理だろう。本当に初代の魔女をこの手で殺さなければ、目の前で大樹が死んでしまうとか、そんな状況でなければ。理性よりも衝動が、勝ってくれなければ。

「そんな事は十分わかってるよ」バックミラーに映る麻耶の目が、子供を宥めすかす色で和む。「大輔君は律儀だもんね。そんな、起こるか起こらないかわからない未来の事で、人一人の命を奪うなんて出来ない人だって、知ってるから。それに、初代の魔女を殺すのは大輔君じゃ駄目なの。大樹君でも、檜山さんでも、私でも駄目だから。そのあたりの事は、安心してくれていいよ」

「、あのな」何を安心しろって言うんだ。と、呆れがちに大輔は言おうとしていた。

 それだけ、今の麻耶の口調は何処か安請け合いしているような雰囲気があったからだ。いつもの、相手の二の句を継げなくさせるような見透かした言葉ではなかったから、つい合いの手を打つ調子で言いさしかけて——、大輔は言葉を呑んだ。

 視線がガラス越しにぶつかった。真っ直ぐに見据えてくる彼女の目には、口にしている言葉の軽々しさなどまったくなかった。あるのは、なにかとてつもなく重々しい決意のようなものを決めた人間特有の頑なさというべきか。

 こうした目をする人間が時々、警察署に来たのを大輔はふと思い出した。不可抗力でも無計画でもなく、覚悟を持って人を殺した人間の目だ。人一人の命を奪う事で、何を失って何を傷つけるのか、棒に振る自分の人生さえ受け入れて、それでも誰かを殺す選択肢を選んだ人間の目だった。

「初代の魔女を殺す人間は、もう決まってるんだから」と、麻耶はなんでもない事のように言って、唇を噤んだ。


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