表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

01

「初代の魔女ぉ?」

 いかにも笑えない冗談を聞かされたという口調で麻耶まやあゆみが聞き返してくるのに、小野大輔おのだいすけは沈黙で返事をした。珍しく彼女が出してくれた珈琲にスティック砂糖の封を切って砂糖を注いでいると、ひとしきり呆れ果てて落ち着いたらしい麻耶が今度は面倒くさそうに言葉を続けた。

「——初代の魔女。能力者の女性の事を指す言葉。歴史上、女性の能力者が確認された事はないから、存在するようで存在しないモノの例えにも使われる。青い薔薇とか、そういう事葉と同義語じゃない。そんな事を聞くためにわざわざ、私のところに来たわけ?」

「そこまで俺も暇じゃない」空になったスティック砂糖の縦長の袋をくるくると指先で丸めながら大輔は応えた。「昨日、その初代の魔女を探してほしいっていう依頼人が事務所に来たんだ」

 麻耶の目が大きく瞬く。

「都市伝説を探せって?」

「身なりのいい男だったな。誠実そうな、悪い人間には見えなかった」丸めた袋をテーブルに放り出してからカップを掴んだ。美味くもなければまずくもない、必要最低限のインスタント珈琲を味わうつもりもなく一口飲む。少しだけ話を先延ばしにしたい後ろめたさの行動だった。「必死に依頼してくるもので断れなくて。まあ、……依頼料も弾んでもらった」

 見開かれていた眼が、分かりやすい憐憫を込めて細められた。「とうとう、警官時代の貯金を食い潰したんだ?」

「——、うるさい」

 図星である。睨む大輔の眼差しを目にかかる前髪程度の扱いで手で払いのけるような仕草をしてから、麻耶は机に両肘をついた。両手を組み合わせた上に顎を乗せて、小さく傾げてみせる。

「でも、初代の魔女の都市伝説なんてデマだってみんな思ってるようなもんじゃない? 初代の魔女を探すよりも、女装趣味を持った能力者を探したほうが早いんじゃない? そっちの情報のほうが、私も提供できると思うけど」

「依頼人は、正真正銘初代の魔女を探してほしいって事だ」そのあたりの事はちゃんと確認済みだと片眉を上げて主張してから、大輔はカップをテーブルに戻した。上半身ごと動かして真正面で麻耶を見る。「俺の知っている限り、一番情報網が広くて頼りになるのはお前だ。些細な事でもいい、何か心当たりはないか?」

「心当たりって、いってもねぇ」目を部屋の天井へと泳がせながら呟くと、麻耶は両手を解いてから軽く肩を竦めた。「いくら貰ったか知らないけど、初代の魔女なんているはずがないんだから。能力者の魔術は男性特有の遺伝子の中にあって女性にはほぼ百パーセント発現しないっていうのが魔術研究の結論でしょ? だから、魔術師はいても魔女はいない。でも、昔にいたとか、あんまりに強大な力過ぎて政府が内々に監禁しているとかっていうのが、みんな知っている都市伝説。作り話なんだから、いくら警察御用達の情報屋である私であっても、魔女の監禁場所なんて知らないから」

 短く、大輔は息をついた。「一億、だったんだ」言葉を追いかけるように俯くと、視界から外れたところで、「いるかどうかも分からない魔女を見つけ出して一億、なら、魔術を研究してる企業なら喜んで出しそうね」妥当な金額だと頷く麻耶の気配が伝わってきた。

「違う、」顔をあげて首を横に振る。「成功報酬ならさすがに、俺も引き受けたりなんてしない。完全に徒労で終わると分かりきっている話じゃないか。それならまだ、ツチノコを見つけて金一封のほうがロマンがあっていいと思う」

 瞼の上下する音がはっきりと聞こえそうなほどに麻耶は瞼を動かした。「あらら、」その仕草の割には幾分気持ちの欠けた驚きの声をあげる。「即金で一億? いる7かいないかも分からない魔女の捜索に一億? 世の中不景気でも、お金ってある場所にはあるのねぇ」

「……さすがに怖くなって一割前金と経費で貰うだけにしたけどな、」

 ふと麻耶の声に険を嗅ぎ取って返した言葉は、大輔としても言い訳じみたものに感じられた。

 ようするに、後の九割は相手に返した。と言っているわけだが、それでも一千万だ。

 小学生でも知っている都市伝説の真相を探るでもなく、実在しているかも分からない人間の探索に一千万。四年前、高校卒業と共に警察官採用試験に合格して警察官になり半年前に退職するまでの期間、地道に貯金をしても到達できなかった金額。しかも、実際にはその十倍。一億円をかけて初代の魔女を探してほしいと依頼されたのだから、依頼主の本気を疑う事は出来ない。正気のほうは思わず、疑ってしまったけれど。

「なるほど」と、麻耶が得心した様子で頷いた。「さすがにそれだけのお金を詰まれたら無駄足も報酬分のうちって事になるか。大輔君は律儀だから」一応は探してみたのだと自分自身に言い訳するために私のところに来たのね、と暗に言ってくる目に遠慮なく大輔は頷いた。

 でなければ、いくら「探偵業」という平日も休日もなさそうな自営業を営んでいても、大事に使うべき平日の真昼間に麻耶の事務所を訪れたりはしない。警察官時代からお世話になっている情報屋としての腕は買うものの、一個人としての麻耶あゆみという人物は、知り合い程度の関係に留めておきたい癖のある人間だ。人の行動どころか世間の動向さえ見透かしている部分があり、かといって助言らしき事をする事はない。例えば、これから起こるかもしれない事件の真相や犯人をすでに把握しているけれど、その事件が起こらないように未然に行動するなんて事は絶対にしない。そういう人物だ。

 警官時代からの付き合いというのも、そんな彼女の人柄によるところが大きかった。

 警察官は証拠を積み上げ足を使い、犯人を追い詰めて逮捕する。分かりやすい一本の道が見えている場合よりも、複雑に入り組んだ上に袋小路さえあるその作業を行っている者として、彼女の全部を見通すような言動は大抵、神経をこれ見よがしに磨耗させる紙やすりみたいなものだった。けれど厄介にも優秀で、手放す選択肢はありえない。担当が根をあげれば次の担当が選ばれ、次がまた駄目になればそのまた次——……、と文字通りとっかえひっかえしている最中にひとり、まさしく天命のような懐深い性分の警官が彼女の担当に任命された。

 腕のいい情報屋と交流を持っておくのは警官にとっての有益だ。と、当時新人だった大輔と麻耶を引き合わせたのも、その人物だ。

「でも、律儀な大輔君には申し訳ないけど。やっぱり、知らないものは知らないのよね」自分の言葉に納得するように麻耶は頷いて、「他の情報屋にあたってみても同じだと思うけど。むしろ、私よりも盛大に呆れられる事を保障するわ」ソファから立ち上がった大輔を上目遣いに見遣った。

 その目が見るからに気の毒がっていて、大輔は目をそらした。いつものように見透かしての同情ではない。麻耶でなくても、こんな話を持ち込まれた情報屋の反応は火を見るよりも明らかだ。驚くか。呆れるか。もしかしたら羨ましがる、という事もあるかもしれないけれど。

「それでも、探してほしいと依頼を受けて前金も貰っているから仕方ない」

 麻耶がさっき指摘した通りで、見つからないと分かり切っていても探す努力をする事が今回の依頼みたいなものだ。一千万という大金を罪悪感なく生活費に回すための儀式みたいなもの、と言い換える事も出来る。ここ半年間で溜まった滞納料金を一括返済した後で、築云十年のアパートの家賃を払い、公共料金を払い、徹底的に切り詰めても出て行く時は出て行く食費に回す。そうしたら後何年かは、今みたいな生活を維持できる。

 本来ならあの依頼主には、こんな馬鹿げた依頼はするなと言うべきだった。あんた、鴨にされても知らないぞ。一億なんて大金をこれ見よがしに見せて、存在も不明な初代の魔女を探してくれだなんて、一億円を溝に捨てるようなものじゃないか。まっとうな価値観で生きる人間ならば、そう諭すべき場面だった。

 欲に眼が眩んだ。一言で言えば、それだけだった。

「……そういえば、」ふと今思い出したような口調で、実のところは、この事務所のインターフォンを鳴らした時から頭の隅に留めていた事を切り出す。麻耶に眼を据えた。「頼んでいる事はどうなった? なにか、進展はあったのか?」

「ないわね」考える素振りもなく、予め用意していたかのように打てば響く速さでの返事だった。

 簡潔で素っ気なく、淡々とした麻耶の言い方に無意識に大輔の眉根が寄る。向けられる大輔の険のこもった眼差しを写し取るように麻耶も不機嫌そうな顔をすると、尖らせた唇で言葉を続けた。「あのね、私だって知り合いなんだから、大輔君ほどじゃないにしても色々と心配したり気遣ったりはしているのよ。でも、こっちが頑張って情報網を広げても見つからない時は見つからないの。警察みたいな権限を持ってるわけでもないんだから」

 首を横に振って大輔は応えた。「警察はあてにならない」

「半年前まで警官だった人間が言う台詞じゃないわ」大袈裟に呆れた顔をしてため息をついた麻耶はけれど、しばらくしてから目を瞬かせて、「あ。そうか」と納得するように声をあげた。「だから警察官、やめたんだもんね」

 あっけらかんとした言葉だった。その他愛ないなさの分だけ、ぐっと喉の器官が出ようとする言葉の群れで塞がれたような息苦しさを大輔は感じずにはいられなかった。

 その通り、信じられなくなったから辞めた。心底失望して、同じようにはなりたくなかったから飛び出した。——けれど、と出ようとした言葉は言う。その時の事を知らない麻耶に、さも見ていたかのように言われるのは心外であり、見透かれたのだとしても面と向かっては、言われたくない言葉だった。

「……、勝手に納得していろ」押し留めた言葉の代わりに自制心をふんだんに効かせたせいで無感情となった文句を吐き出してから、大輔は麻耶の事務所を出た。玄関扉を開けたところで、「私への依頼料は一番最後でいいから。他の事務所に先に支払っておかないと、調査そのものが打ち切りになっちゃうんでしょ?」と、当たり前の常識でも語るような麻耶の声が背中にに投げかけられたけれど気づかなかった振りをして、扉を閉めた。


   * * *


 バタン、といつもよりも少し大きな音を立てた扉が再び開いたのは、大輔が出て行ってから十分ほど経った時だった。まず控えめに鳴らされたインターフォンに、「はぁい。ドアは開いてるから好きに入ってきて」と応じると、小さな間の後に扉が開く。

 入ってきた紺の背広姿の男は困ったように眉尻を下げていた。大男と呼んでも差し支えない、体格のいい男である。

「世間は物騒だから玄関の扉はちゃんと閉めろ、と言ったでしょう?」

「強盗なんて入らないわよ。そんなに金目のものなんて置いてないし、いかにも狙われそうなオートロック式のマンションでもないんだから」

 これがいつもの、顔を合わせてすぐにするふたりの挨拶だった。

 男としては、注意したところで麻耶が殊勝に心を入れ替えて防犯に努めるとは思っていない。かといって無用心な事には変わりなく、相手が意に介さないと承知していても警官としてそれを見過ごす事はできない。ゆえの発言だ。一方で麻耶からすれば、言うだけは言いたい男の身に沁みた職業精神を馬鹿にする気はないものの従うつもりもないので、とりあえず聞いてはおくけど必要ない、の考えで男の主張を退ける。

 なまじ正義感が強ければこの時点で、情報屋としての麻耶あゆみの相手は出来ない。見透かした態度に腹を立てる以前に不適格のレッテルを貼られた警官が何人いたかは、ふたりとも預かり知らないところだった。

 嘆息一つ。それでいつもの挨拶の終了を宣言した男は、「この間の情報提供の報酬を持ってきましたよ。ついでに駅前のケーキ屋で安売りしていたからこれも、」事務所の中央にあるテーブルに分厚い茶封筒とケーキ屋のロゴが真ん中にプリントされた白い箱を置いた。「情報は大変有益に使わせてもらった。感謝している。と、高柳課長が言ってました。今後とも何かネタを掴んだらよろしく、との事です」

「模擬魔術の密造工場の場所なんて、そうそう手に入らない情報だけど」

 テーブルとセットになっている一人掛けのソファに腰を下ろすと、封筒のほうには確認がてらの一瞥だけをくれて、麻耶はケーキ屋の箱を開けた。正方形の箱の底に側面を合わせるようにして、二つのケーキが収まっているに笑みを浮かべる。「私一人で二つとも食べろなんていう事じゃないわよね?」

「他の部署から、情報提供の要請をたんまり受け取ってきましてね」男は苦笑いと共に肩をすくめた。「全部を伝え切るまでにはケーキも食べ終えてますよ」

「分かった。ちょっと待ってて、」言って立ち上がり、事務所とは暖簾一つだけで隔てられている場所、台所と呼ぶにはコンロと洗い場しかない狭い空間で珈琲を入れようと洗い場の上の戸棚を開けた。さっき大輔に入れたばかりですぐに取り出せる位置にあったインスタント珈琲の瓶を手に取る。「——……、誰か、客が来ていたんですか?」と、訊ねられているというよりは独り言のようにぽつりと落ちた男の声を拾ったのは、瓶の蓋を開けた時だった。

「そりゃ、うちの事務所は繁盛してるから。お客さんぐらいは来るよ、十分ぐらい前だったかな?」あっけらかんと応えてから、短く笑い声をあげた。「でもそのお客さん、おかしくてね。初代の魔女の情報を売ってほしいって頼まれたのよ。女装した能力者の事でも、都市伝説の真相としての意味じゃなくて、正真正銘実在する初代の魔女を探すっていうの。正気の話じゃないでしょ?」

 問いかけに返ってきたのは、小さな間だった。しばらくしてから男が口を開いても、「麻耶はなんて答えたんですか?」子供でも知っている都市伝説としての初代の魔女を探す客へ麻耶と同じ呆れ交じりの笑いを向けるでもない質問になっていた。

 カップにスプーンで掬った珈琲の粉末を入れる。「そこはさすがに、知らないものは知らないって答えるしかないじゃない。でも諦めてないみたいだったけど。他の情報屋にあたってみるんじゃないかな」他愛ない、どうでもいい世間話のような口調で締めくくった。世の中での初代の魔女に対する認識なんてものはこの程度だ。

 ポットの湯をカップに注ぎだしたところで、暖簾の向こうで人の動く気配があった。

「すみませんが、」唐突に短い謝罪が布越しに寄越される。続いて靴音が響いた。「大事な用事を思い出したんでちょっと行ってきます。すぐに帰って来ますけど、先にケーキを食べてください」急いでいる人間特有の言葉を置き去りにしていくような口調ではなかったものの、語尾と重なって麻耶の耳に届いたのは、玄関扉の蝶番が軋む音だった。

「あら、じゃあ。どっちを食べたいのか教えてもらわないと困るわ」

 言って、湯気の立つカップを持っていないほうの手で暖簾を避けて顔を出した時には、パタン、と玄関扉が閉まっていた。その扉のすぐ脇にあるコンクリート製の階段を足早に駆け下りていく靴音がすぐに遠ざかって消えるまでを見送って、麻耶はケーキ屋の箱の傍にカップを置いてソファに腰を下ろした。そうしてからふと、脚の短いテーブルの下を、上半身を傾けて覗き込んだ。

 掃除が行き届いている床にひとつ、丸められた紙くずのようなものが転がっていた。

 テーブルにあったものが偶然落ちて下に入り込んだのか、たまたま目に入らない限りは気にならない程度の違和感でひっそりとそこにあった。手を伸ばして拾い、机近くのゴミ箱に放り捨てる。くるくると犬の尻尾のように丸められていた長細いスティック砂糖の袋は、空のゴミ箱の中で小さな軽い音を二回、短く立てた。

 やっぱり、あの人は立派な警官だ。と、満足感に麻耶は顔をほころばせる。

 彼が前触れもなく席を立ち足早に玄関の外の会談を駆け下りて行った理由が、さっき綺麗な弧を描いてゴミ箱に落下したスティック砂糖の袋だった。これ見よがしなあざとさもなく、ただ床に転がっていただけにしか見えないごみを目にして、彼は最初に抱えた小さな違和感で先客の有無を訊ねてきた。違和感は麻耶の他愛ない返事で確信に変わり、彼をこの場所から飛び出させる原動力になった。机の下の丸められたスティック砂糖の袋に気づかなければ今頃、テーブルを挟んでケーキを食べながら、仕事の話をしていたに違いない。

 全部は、男の観察力と洞察力が成した事だった。床のごみを見たのが他の誰かならば、男と同じ結論に辿り着く事はないだろう。精々、掃除が行き届いていないと顔をしかめるぐらいか、親切のつもりでゴミ箱に捨てるかだ。

 男の分の珈琲を入れなかったのは、正解だ。

 自画自賛するようにこくりと頷いてから、麻耶はケーキ箱に向き直ると、迷う事もなく右側に収まっていた苺のショートケーキの下に敷いているアルミ箔の両端を丁寧につまみあげて、テーブルに移した。もう片方のチョコレートケーキのほうが若干魅力的だから、そっちは夕ご飯のデザートにするつもりだ。

 すぐに帰ってくる。男はそう言ったけれど、実際にこの事務所に帰ってくるのは当分先の事になるだろう、と麻耶には分かっていた。彼にとってみれば、麻耶あゆみという情報屋から得られる利益よりも、スティック砂糖の袋が偶然を装ってもたらしてくれた情報のほうが遥かに大事な事だからだ。今頃は麻耶の事はもちろん、差し入れたケーキの存在も頭の中から綺麗さっぱりすっ飛んでいる。

 とりあえずは冷蔵庫にチョコレートケーキを放り込んでも、食べるのに思わず躊躇するぐらいの間を空けて、男はまたここを訪ねてくるはずだ。——……はず、ではなくて、そうなって貰わなくては困る。泥と煤で汚れた憔悴しきった顔も、絶望が頭の中で飽和状態を引き起こしたせいで何もなくなってしまった無表情も、麻耶は見たくなかった。

 頭を振る。脳裏に浮かんだそれらの顔を意識の外へと放り捨ててから、麻耶はケーキに向かって居住まいを正した。ケーキのフィルムを剥がしてから、両手を合わせる。

「いただきます、」


   * * *


 電話をかけた三人が三人とも同じタイミングの同じ理由で爆笑すると、最後の一人の時にはもういちいち腹を立てる事も言い訳を並べるのも面倒になっていた。何かを言ったところで火に油を注ぐがごとく笑いが長引いて、本題から遠のいていくだけだ。肺の中はもちろん、血中に流れる酸素も材料にして長々と続いた笑いがようやく、息継ぎのために収まりだすのを見計らって、大輔は口を開いた。最初の情報屋二人とのやり取りのおかげで至極簡潔にまとまったこっちの依頼を口早にまくし立てた。

「初代の魔女の情報がほしい。俺でも探せるような、ネットで流れている情報はなしだ。出来れば口コミのやつがいい。お前が大好きな女子高生の噂話とかでそれらしいやつを探してくれ」

『……、おいおい』嘆息さえ笑いの余韻で揺らして、電話越しに不満げな声があがる。『人を危ない人間みたいに言うなってェの。女子高生が好きなんじゃなくて、女子高生が持ってる情報網の広さが好きなのよ。俺は』

「有益なのが手に入るんなら、俺は別にどっちでもいい」正直に応える大輔に、『ひでェなぁ、ホント』大袈裟に嘆く素振りで声がむせび泣いた。電話の向こうを脳裏で思い浮かべてみても、ちっとも泣いていない男の姿が思い浮かぶのに、声の演技だけは立派。麻耶のような神がかり的な情報屋とは違い地道に足を使って情報を仕入れるこの男は、一ミリの罪悪感が沸かない中でも土下座して恐怖心がなくとも泣き叫んで、裏社会を泳いでいる。

 しかしこれはこれで最初の二人同様に本題からずれて行っている気がして、大輔はひっそりとけれど相手にもしっかり伝わるようにため息をついて口を開きかけた。

 その時、大輔の声を奪ったのは、電話越しからの絶妙に間をついた声ではなく、数メートル離れた駅前広場に設置された拡声スピーカーからの音だった。片道二車線の道路を挟んだバス停のベンチに座っていた大輔は、音声に変換されなかったざらついた甲高いノイズが空気を走り、耳に図太く突き刺さってくるのに顔をしかめると、半ば開いた口を閉ざしてから顔をそっちへとやった。

『外がうるさいけど、何かあったのか?』怪訝そうな声に応える。「解放戦線の連中が街頭演説でもはじめるらしい」ただ目に入った光景をそのまま感情なく声で表現しただけのつもりだったものの、実際に空気を震わせて耳に入れば、呆れるぐらいに分かりやすい敵愾心に溢れている。

 電話越しにも伝わっただろう。『ふぅん、』触れようともせずに端的に興味がない事だけを告げて、『あぁ。そういえば、初代の魔女を特集のテーマにしようとしたどっかのテレビ局のディレクターが行方不明になったって噂は知ってるか?』声はふとその事を思い出したような唐突さで訊ねてきた。

「——いや、初めて聞く話だが、」意識を駅前広場からそらすついでに、目を空へと放り投げる。

 気遣われたというわけではなかった。解放戦線、正式名称は能力者解放戦線に対して大輔が条件反射的に抱く悪感情を彼は、依頼を請け負った者として知っている。わざわざ首を突っ込んだところで得られるものがない事も勘付いている。だから情報屋としてメリットがないところを掘る気はない、ただそれだけの事だ。

 プロとして、情報を売り物にする商人と情報を漁るだけの野次馬との境目を心得ている男だった。

「初代の魔女をテーマにしたディレクターが行方不明になるのなら、俺が物心ついてから何人の人間がそれで行方不明になる計算だ?」

 夏に入れば必ずといっていいほどある心霊番組の常連ではないか。

 疑っている事を隠さずに質問すると、『最近で初代の魔女を取り扱った番組は一定のルールに基づいて作られているらしい。行方不明になったディレクターの一件がきっかけで、な』神妙に声音を落としたもっともらしい口調で、返事がよこされた。

『初代の魔女の噂が流れはじめたのが、今から二十年前ぐらいだろ? その頃に都市伝説の特集を組もうとしたテレビ局があったらしくてな。ディレクターが今のお前みたいに、色んな情報屋や探偵に調査を依頼したらしい。でもどこも巷で流れている以上の情報を手に入れる事は出来なかった。ディレクターは納得出来なくて、自分で情報を集めたらしい。そうしてある日、一本の取材テープを残して行方知れずになった——、というわけだ』

「想像に想像を重ねたような話だな、」価値を算段する言い方をした。情報収集を依頼した側としては満足できるほどの価値はない、と素っ気なく言い切った後で首を傾げる。「ディレクターの失踪と初代の魔女を関連付けるのは、その取材テープか?」

『噂じゃ警察が持っていって、テレビ局や遺族が返してほしいと訴えても返さなかったっていう事らしい。返せないほどの何か重大なものが映っていたってさ。ようするに初代の魔女の新たな情報が出てこないように、出てきても処分できるように設立されたのが、対魔術課だと』

 自然とため息が落ちていた。呆れた気持ちがそのまま凝縮して、開いた口から出て行く。「あそこはそんな陰謀論がありそうな場所じゃなかったよ」

『あ、そうだった。お前って、今みたいに無職になる前は警察官だったよな』話す相手を間違えたとばかりに悔しげな言い方をするのは上辺だけで、続いて質問して来る声には暗にこっちが本題だと告げる真剣味があった。『でさ、実際どうだ? 安定した職業を辞めて俺達と同じ畑に住んでいる気分っていうのは? 前に情報屋はどうしてこんなにもがめついんだ? なんて言っていたが、少しは分かったか?』

「……、それをお前に嫌味を込めて言ったのは俺じゃない」

 嘆息交じりに見当違いの皮肉だと主張すると、きょとんとした間が束の間、電話越しから伝わってくる。記憶違いかどうかと確認し、やはり自分の言った事が正しいと理解して反論してきた大輔に鼻白むまでの、会話が再開されるまでの数秒間、大輔はその情報屋の職業を馬鹿にした人物の事を脳裏に浮かべた。

 麻耶のような裏で警察からの依頼を引き受けているようなところとは違い、電話越しの相手は裏社会の情報をメインにした違法と合法の境界線をするすると泳いで生きる情報屋を営んでいる。その分だけ「徹底した秘密主義」を一人きりの事務所に額縁付きで社訓として飾っていて、料金はうんざりするほど高い。とりあえず高校生が貰う月の小遣いを全額あてがっても足りず、不眠不休のアルバイトを夏休みに強行してようやくどうにかなるぐらいだった。

 情報屋としてのプライドを傷つけられて、今日までずっと根に持っていた。と、彼が言うのなら、大輔にも言い分がある。高校生がまさしく身を削って手に入れた金と引き換えの結果報告が要約すれば「見つかりませんでした」の一言に尽きた事には、客として憤慨する理由にはなるはずだ。

「お前に文句を言ったのは、大樹だいきだ」

 その隣に座っていた大樹の瞬間的に爆発する不穏な雰囲気を感じ取って思わず、椅子から跳ね上がろうとするその体の両肩を掴んで押さえつけたのが自分だ。

『唾を飛ばしてきた奴は確か、髪の毛が肩ぐらいまであっただろう?』今のお前みたいに、と面と向かっていれば無遠慮に指先を突きつけているだろう物言いに吐息を落とす。

「あの時は俺のほうが髪が短くて、大樹のほうが長かった。あいつ文化系の部活に入っていたからな」

『双子って判別が難しいよなぁ。一卵性双生児だったよな、お前達』

 相手違いの皮肉をぶつけた事自体をなかった事にしようとしているのがありありと分かる、話題の変え方だった。「あぁ、両親も小さい頃はよく俺達の事を間違えていたな」別に大樹と勘違いされて腹を立てる理由はない。男がふってきた話題に相槌を打ちながら、大輔は何気なくぐるりと周囲を見回した。

「異常なほどによく似ている、とはいつも言われてきた事だ」

 そのせいで大輔が売られるはずの喧嘩を大樹が売られ、またその逆も幾度かあった。好きだと告白される場合でも然り。小中高と制服に留める名札には「小野」としか書いていないのが普通だったから、「小野兄? 小野弟?」とまず質問される。双子の兄、双子の弟、という意味なわけだけれど、二つ上の兄がその話を聞いて思い切り顔をしかめた事がある。俺はお前達の兄貴じゃないのか、という顔だ。

 そういえば、その兄だけは一度も、弟達を勘違いした事はなかった。あの人だけはいつも迷わずに、躊躇わずに、弟達の名前を呼んでくる。

 大輔。——、と耳の奥に残っている声が蘇った。半年前を境にがむしゃらに遠ざけ、聞く事のなくなった声だというのに、ほんの少しでも脳裏を兄の事がかすめれば、つい数分前に呼ばれたかのような鮮やかさで思い出せる。

 気づけば、大輔は眉をひそめていた。思い出したくもない事を思い出してしまった、と体がまず拒絶反応を起こしたようだった。そうしてから少し遅れて心が、改めて明瞭な不快感を自覚した。絶望も失望も、怒りも、おおよそ負の感情と呼べそうなものがすべて一緒くたになって混ぜ合わされたような、どろどろとして粘ついた気持ち悪い感情だった。 

『……まあ、お前達が心底似ているっていう点はある意味で助かったかもな』と、情報屋は電話の向こうで頷く。『これから長い年月がかかっても、お前の顔があいつの顔ってわけだ。向こうがそれを危惧して整形しようとしても、それはそれでカルテなりなんなりが残って、情報が手に入る。双子で生まれた事を感謝しないとな』

「長い年月、ね」男にしてみればなんでもない事なのだろうが、意味深な発言として受け取った大輔は口の中で呟くように言ってから苦笑いを浮かべた。短く、電話越しにも伝わるように音を立てて笑ってみせる。「ようするに、手こずっているって事か?」

 小さく空いた間は、意図せず口にした言葉が失言であると教えられての、言い訳を考えあぐねた時間だったのだろうけれど、『失踪人の行方ひとつ、ろくに情報が手に入らないなんて俺もヤキが回ってきたって事かもな』返ってきたのが素直に自分のふがいなさを認める殊勝な発言だったので、大輔は苦笑いを浮かべるのをやめた。

 バスがゆっくりと速度を落とし、バス停の前に停車した。車体の中に溜まっていた空気が抜けていくような音を立てて、前と後ろの折りたたみ式の扉が開く。

 立ち上がり、「大樹の件はこれからもよろしく頼む。依頼料のほうは明日にでも、全額滞納していた分も含めて口座に振り込んでおく」言って、同じようにバスに乗り込む数人の乗客達の列の最後尾に合流した。

『しかし正直な話、半年間探して全然俺の網に引っかからないって事は、裏社会を根城にしている可能性は低いかもしれないな。もしくは、俺からお前の弟の存在を綺麗に隠せるような実力者に匿われてるか。監禁されてるか、』淡々と事実を述べているに過ぎない口調で言ってから、電話越しで何かに思い至ったように声が一瞬跳ね上がった。『一般社会でただ失踪しているだけなら悔しいけど、警察とかのほうがよほど俺よりも役に立つんだが。前に、捜索願がどうのって言ってただろう? あれ、どうなったんだ?』

「——、警察なんてあてにならない」短く、それだけを言い切った。

 ちゃんと男の質問に向き合っての返事ではないのは理解していたものの、捜索願、の一言で思い出せる事に意識を向けた時に否応なく脳裏に浮かぶだろう不愉快な記憶と向き合うほうが鬱陶しくて仕方なかったのだ。大輔の前にいた老女がゆったりとした動作で段差の大きいバスの入り口を手すり伝いに登るのを眺めながら、「じゃあ、何かあったら連絡をくれ」別れの挨拶をして携帯電話を切った。ズボンのポケットに押し込んだ時には老女も入り口を登りきっていて、入り口脇にある整理券を抜き取り、その後に続く。

 バスの中には、まばらに人が乗っていた。年寄りが半分、後は小さな子供を連れた若い母親に、平日の昼下がりのバスに乗るのにいかにも慣れていなさそうな若者達が若干名、といったところだ。それでも座席は綺麗に埋まっていた。近くの手すりを適当に掴んだところで、さっき扉が開いた時と同じ音を立てて、真ん中でふたつに折りたたまれていた扉が閉まる。

 閉まりかけたところで、ガツン、と何か物々しい音が車内に響き渡った。

 入り口近くにいた大輔達はもとより、運転手付近に座っている客達も束の間、ぎょっとほぼ全員が驚いた顔をして扉のほうへ目を、顔をやる。閉まろうとしていた扉だけは、そんな乗客達の動揺なんて知ったこっちゃないとばかりの呑気さで、再び空気が抜けるような音と一緒に開いた。

「ッ、どうかしましたかッ!?」

 運転席から離れない事を使命としているような、腰をあげるところを滅多に見ない運転手が迷わず席から身を乗り出して、バスの後方へ、見開いた眼と上擦った声を投げた。子どもの手でも挟んでしまったのか、誰かが怪我してしまったのか。最悪の事ばかりを考えて青褪めていくばかりのその顔に、ひらり、と手が振られる。血まみれでもなければ子どもの手でもない、節だった男の手だ。

「あぁ、すいません」と、彼は言った。

 飄々とした、本気で謝っているのかどうかはっきりとしない口調での謝罪だった。こういう謝り方をする時は決まって、他にもっと大事な用事を抱えているから厄介な面倒ごとを一つでも減らしておきたい、と彼は思っている。「このバスに乗りたくて少しばかり無茶をしてしまいましてね。大丈夫、挟んだのは足だけですから。ご迷惑をおかけして申し訳ない」眉尻を下げてちょっと困っているような表情を作ると途端、体格のいい男特有の人を圧倒する気配がなくなって、人懐っこい柔らかさが滲み出てきた。

 運転手の顔が緩み、けれど瞬く間に険しくしかめられる。安心した表情を相手に見られたくないから分厚くしかめ面の色を塗りたくったような、杓子定規に眉根を寄せ唇を尖らせて、口を開いた。「駆け込み乗車は危険ですから気をつけてください。怪我をしてからでは遅いんですよ」

「はい。すいませんね、本当」

 運転手の注意に彼は、へこり、と長身の上半身を折り曲げると、その姿勢のまま上目遣いに眼差しだけをあげてバスの中を見回した。盛大な音を立てて駆け込み乗車してきた人物を呆れがちに、あるいは鬱陶しげに面倒くさそうに、好奇も織り交ぜて見遣ってくる視線達へ世辞程度の愛想笑いを浮かべる。その笑みで我に返ったいくつかの顔が慌てた様子でそむけられた。

 けれど大輔が、その見開いたままだった瞼をゆっくりと上下させたのは、今度こそ何も挟まずにバスの入り口の扉が閉まった時だった。

「、あ」相変わらずに呑気な音を立てて扉が閉まる。ついさっきまでならさっさとバスを降りて逃げられたんじゃないか。と気づいた時には、バスはくぐもった短い振動を車内の床に伝わせて、ゆっくりとした速度で動き出していた。それも少しの間の事で、すぐに路肩から道路に合流し、速度をあげていく。

「元気そうだな、大輔」と、頭上から声が落ちてきた。駆け込み乗車の謝罪よりも若干遠慮がちな、こっちの反応を窺う口調である。

 息を吸い込んだ。次のバス停で降りるにしても二分ぐらいはこのままバスの中である、カップラーメンを作るのにも足りない二分間なものの、男のかけてくる言葉を全部独り言と断じて無視し続けるには長い時間だった。吸い込んだ息を吐き出して、顔をあげた。

「——……、こんなところで奇遇、ですね。兄さん」無論、本当に奇遇だとは思っていなかった。

 この、二歳年上の兄、小野大智が実のところ至極用意周到な人間であるのを大輔はよく知っている。バスに乗るにしても、タイミングよく停車していたから駆け込む、なんて事はまずしない。時間の余裕を持って行動するのが兄で、小さい頃からそれによく付き合わされた。だとすれば、このバスに扉に足を挟まれてまで乗らなくてはならなかった理由なんて。

 ——、麻耶か。大輔は短く結論づけた。

 麻耶の事務所に兄も用事があったのだろう。背広姿だから十中八九、情報提供料を渡しにきたのだ。そこで麻耶から大輔も訪れたのを聞かされた。

 だったら大智がここにいる理由も納得できる。と、内心で頷きかけたところで、「麻耶は関係ない、」きっぱりとした口調で否定されて、大輔はむっと唇を尖らせた。険しく目を細めて兄を見る。

 じゃあどうして? 口には出さなくとも弟の眼差しで質問を受け取ったらしい兄は小さく肩をすくめた。「たまたま、偶然だ。麻耶の事務所の床にまるめられたスティック砂糖の空の袋が落ちていたからな。昔からお前にもあった癖だと思ったら、お前が麻耶を訪ねてきたんじゃないかと気になった」

 嘆息を落として、大輔は窓の外へと視線を逃がした。「……たまにサービスされるとこれか、」滅多にしない事をしたりすると明日は雨だとよく言うけれど、雨よりももっと面倒くさいものがやってきたわけだ。

 いや。と、ふと思った。現実問題として目のそらしようのない場所にいる兄からどうやって逃げ出すか考えている頭の片隅で、実はこれは麻耶が仕組んだ事じゃないだろうか、と、ほとんどどうでもいい事を想像する。

 普段の麻耶は大輔が事務所を訪ねても、珈琲を入れるなんて事はほとんどしない人間だ。

 飲みたければ自分でどうぞ、珈琲もコップもお湯も好きに使ってくれて構わないから。というのが、彼女の基本的な態度である。麻耶自らお茶を用意するのは、たまにお茶請けになりそうなものを買っていった時だけだろう。ついでに今回は何も手土産なんて持っていかなかったから、彼女が大輔に珈琲を入れる理由はない。

 大輔としては麻耶の事務所に行くのは用事があるからで、それが終わればさっさと帰るわけだから、自分から珈琲を入れてくつろぐ理由もなかった。

 けれど、今回は珈琲を飲んだ。訪ねてすぐに麻耶がカップを差し出してきたのだ。飲むでしょ? と、最初から大輔が首を横に振る事がないのを知っているかのような仕草だった。そして大輔は、カップを受け取った。

「麻耶から、初代の魔女を探していると聞いたが、」ふとさっきよりも近くから声が聞こえてきて、大輔は意識を外へ戻した。

 視線を向けていた車窓のガラスに、大智の顔が映り込んでいた。

 鏡越しに見つめられる、それも名前を呼んできたさっきの遠慮がちなものとは一線を画す鋭利さに眉をひそめて、大輔は今度は目をバスの車内へと放り投げる。

 職業病というやつだろう。真剣に相手に質問しようとすればするほど、染み付いた警察官としての癖が鼻につく。目配り一つ、表情一つ、事実だけを嗅ぎ分けようと凝視されている。尋問されているような、追及されているような不快感を兄がわざとこちらに植えつけようとしているわけでないのは十分に分かっているものの、応じた声は自分でもはっきりと自覚できるほどの皮肉がこもっていた。

「麻耶は、関係ないんじゃなかったんですか?」

「大輔が来た、とは聞いていない。俺が聞いたのは十分前に先客がいた事と、その客が初代の魔女を探しているという事だけだ」的確な返事は、大輔の皮肉に怯む事もなく逆にちゃんと答える事で、自分が最初にした質問のほうの答えを暗に催促しているようだった。

「兄さんには関係のない事です」求められている答えとはかけ離れているだろうけれど、これが素直な大輔の意見だった。大智の眦が険しく持ち上げられる気配を背後で感じながら、分かりやすく嘆息を落として言葉を続ける。「俺がどこで何をしていようが、貴方に関係がありますか? 以前までのような同じ職業に従事しているわけでもない。上司と部下の関係でもない。もちろん、俺は犯罪行為にはまったく関わっていないから、貴方の世話になる事もありえない……、」相手に遠慮はいらないと思うと、ここまでほいほいと言葉が出てくるものなのかと、内心で少し驚いていた。

 少なくとも半年前、まだ兄である大智に対して憧憬やコンプレックスを抱えていた時は、言いたい事を言う半面で、この言葉を告げたら兄はどうするだろうか。困るだろうか、怒るだろうか。と悩み、口ごもる事が多々あった。人の心中を察するのが得意な兄に、「こういいたいのだろう?」と逆に訊ねられて、頷く事もあった。——恐らく、この人はこんな返事を待っているのだろうな、と薄々勘付いて、期待に沿うように振舞った時もある。

 初代の魔女なんて探していない。依頼人から受け取った料金の義理を果たすために情報を探しているだけで、実際にいるはずのない人間を探すほど暇じゃない。

 大智が今、欲しがっている答えの全貌はこんなところだろう。けれど、それを大輔がわざわざ選ぶ義理はない。義理、といってしまえばその言葉を口にする理由全部が大智のためのように聞こえるけれど、それは少し違う。兄が欲しがっている返事をして、さっさと彼を視界から遠ざけられるのならメリットは、大輔にもある。動物を手で追い払うように、その返事を使えばいい。しないのは単純に、兄の望んだままにしたくないからだ。大智が何を欲しがっているのか、自分が確実に察したのだと理解したくないからだ。

 瞼を伏せ、大輔は考えにふけっていた間も涸れる様子なく心から沸いてきていた言葉を言い続けた。「俺は貴方に何の迷惑もかけてはいないでしょう? それなのにどうして、関係もない事で貴方に質問されなくてはいけないんですか。俺が大事な事で、何よりも大切な事で質問してもまったく返事はくれないのに、どうして自分の時だけは、俺が返事をするだなんて思うんですか?」

「、大輔」

 僅かに息を込む音がして、そうしてから呟かれた自分の名前の後に何かが続きそうだったけれど、大輔は声でそれを踏みつけた。低く声をくぐもらせて、吐き出すように言い放った。「半年前の事を、俺が諦めていると思っていますか。あの場所にいたはずの貴方は何も教えてくれなかった。教えてくれなかっただけじゃない、貴方は今だって何も言わずに最低な事をしているっていうのに——……ッ」

 押さえきれず、最後は声を張り上げていた。昼下がりの、賑やかな高校生のグループが乗り込むにはまだまだ早い時間帯のバスの車内に唐突、響いた大輔の怒鳴り声に、ゆるんでいた空気がぎょっと揺らぎ、条件反射のような眼差しが一斉に向けられる。

 ただただ驚いて、といったふうに見開かれた目達だった。声を吐き出した唇を思わず噛み締めて、それらの目に申し訳なさそうに大輔が頭を下げる時には、バスの空気はさっきまでの穏やかなものに戻っていた。目もそらされている。

 大智はなにも言わなかった。さっきの叫びに気圧されたわけでもないだろうに、後ろに佇んでいる気配は押し黙っていた。

 車内にアナウンスが流れたのは、この時だ。テープにあらかじめ録音されているのを再生しているだけの、判を押したような淡々とした女性の声で次のバス停の名前が告げられた。『お降りのお客様は、近くのブサーを押してお待ちください。なお、運転席すぐの両替機の使用をご希望されるお客様は、バスが停車してからご利用くださいますよう——……』アナウンスが終わる前に、近くの窓枠の傍にあったブザーを押した。

 そのバス停のすぐ傍に引っ越したのか? とでも、訊ねられるような気がしたけれど、想像した質問が実際、大智の口から出てくる事はなかった。

 バスはゆっくりと速度を落とし、最後に僅かだけ車体を左右に揺らして停車する。

 そして、空気の抜ける音に続いて前後の扉が開くのと同時に、大輔は後ろから無造作に右の二の腕を掴まれた。

 思わず、全身が強張った。なんだ、と目を見開く間に、弟よりは数段体格のいい大智の長身が右脇を抜けて、大輔をひっぱっていく形になった。「ッ、は? おいッ、!」抗議の声をあげ、慌てて踏み止まろうとしたものの、すぐさま力負けした靴裏が床を滑り、そのまま、ずるずると引きずられていく。

 料金箱に二人分の乗車賃を放り込んで、大智は運転手に愛想笑いを浮かべた。「いや、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」まるで、子供が大騒ぎして、とでも続きそうな言い方は、まず自分が駆け込み乗車してきたのがはじまりだったのをすっかり失念しているようだった。制帽の下で目を細める運転手の表情は、その事を言いたげにも見えたものの結局は、「今後気をつけてくださいよ。バスの中は公共の場ですから、騒げば他のお客様のご迷惑になります」と、ありきたりな注意を模範的に口にするだけで終わった。掘り下げて注意するよりも、相手がここでバスを降りてくれるのなら引き止めずに出て行ってもらったほうがいい。事なかれ主義を選んだ運転手に、「ええ。分かっています。それじゃあ、」軽く頭を下げて、大智はバスを降りた。もちろん、二の腕を掴まれている大輔も一緒に、である。

「段差があるから気をつけろ」と言いつつも腕のほうを離す気はないらしい兄に、「気をつけてほしいならまず、腕を離すのが先だと思うんですけどね」一度本気で振り払おうとしたけれど、失敗した。これ見よがしな嘆息を落として、バスの車体の高さとバス停の地面との間の段差を降りる。

 他にこのバス停で下車する客はいなかったらしく、もしくはバスに駆け込み乗車した客と、その客と言い争いらしき事をしたもう一人の客が降りたバス停に一緒に降りるのを拒否したのか、大輔がバス停の地面を踏んだところで背後のバスの扉は音を立てて閉まった。そのまま走り去っていく気配を肌で感じながら、大輔は二の腕を掴む大きな手を見遣り、そうして手から腕を辿って大智の顔へと視線を置いた。

 バスにこの人が飛び乗ってきた時は、唖然としか見る事が出来なかった。いま改めて見据えると、半年という歳月は存外に短いらしいと実感する。喧嘩別れ、と評するのも馬鹿馬鹿しくなるような言い合いから警察を辞めて、実家も飛び出して、文字通り音信不通になったのが半年前だ。その半年前と同じ喧嘩別れと繰り広げそうな棘々しさが気づけば、向き合うふたりの間には流れていた。いや、険をこめて相手を見ているのは大輔だけで、大智は半年前と変わらずに飄々としていた。他愛なく当たり前に、大輔が思う事もしたい事も全部を短い一言のうちに切り捨てていく顔をして、弟を見ていた。

 ゆっくりと、二の腕を掴んでいた手が離れる。「俺がしている事に反論をするつもりはない。お前が俺の事を詰りたい気持ちも、分からないではない」理解のある振りをする、味方だとあたかも振る舞うような言い方をしていても、その続きが否定で締めくくられるのは、半年前にうんざりするほどに繰り返した兄弟喧嘩で知っていた。

「安心してください。貴方に分かってほしいなんて、今は思っていません」

 突き放す口調で言ってから、大輔は耳をそばだてた。バス停がある道路は昼間のせいか、車はまばらにしか走っていなかった。目を、弟の発言に表情を曇らせた大智から、その背後にある道路の先へと投げる。すっからかんの道路の脇にぽつねんと佇んでいる信号機の色は青色だ。

「——……、今度、一度ぐらいは実家に顔を出してほしい。親父も母さんも、お前と大樹の事を心底心配している」小さく間を置いてそう呟いた兄は恐らく、本心からそう思っているのだろう。俺の事はどう思っていてもいいから、と脇に退けて言ってくる。

 それに思わず声をあげて笑ってしまったのは、大輔には分かっていたからだった。

「大輔?」分からない兄は眉をひそめる。どうして弟が突然笑ったのか理解できず、真摯な話に水を差すだけの笑い声に多少の不快感を滲ませて、大輔を見た。

 諌める目に幼い頃からの条件反射で笑い声こそ止んだものの、くつくつと胸を揺らすようにして溢れてくる笑いの余韻のほうは、しばらく収まらなかった。兄の本心と、現実は随分かけ離れていた。誰が誰を信じるのか、信じていたのか。半年前に面と向かって、今みたいに神妙な顔をした大智にそう言われたのなら、大輔は間違いなく従っていただろう。両親が自分の事を心底心配しているのだと素直に受け取って、非番の日にでも実家に帰ったはずだ。けれど今は、そんな気持ちはこれっぽっちも沸きはしない。

 ごっそりなくなったのだ。と大輔は、思う。信じていたものが信じられないものへと変わった。オセロの白と黒があっさりとひっくり返るように。

 視界の中にあった信号機の傍に、さっきバスに乗る前にも見た統一性がなさそうである数人の集団がいるのに大輔が気づいたのはこの時だった。駅前だけでは飽き足らず、真昼間の人通りの少ないこんな場所でも街頭演説をしようとしているらしい。集団内のリーダーらしき中年層の男がマイクを握り、口を開いた。

『皆さん、はじめまして。私達は、能力者解放戦線のメンバーです、』能力者、と聞こえたところで大智の肩が分かりづらくはあったけれど、ぴくりとかすかに震えた。反射的に振り返りそうなるのを堪えたような、しかめ面をする。『半年前の、模擬魔術事件の事は皆さんの記憶に新しいと思います。マスコミには能力者解放戦線内の権力争い、または過激派の暴走と報道されていましたが、あれは我々の正義を貶めようとする政府や国家の陰謀であったのです。一般人の皆さんは、あの事件を見て、私達、能力者は危険だと思われたでしょう。管理すべき存在だと感じられたでしょう。その、自衛から来る感情こそ政府と国家が合法的に能力者を隔離するための、手段なのです。我々は決して一般人と能力者の境目があってはならないという信条に基づいて行動しておりまして——、』

 信号機の色が、青から黄色に変わった。そうして、赤になった。 

「兄さん、」聞こえてくる拡声器によってひび割れた声を頭の中で除外しながら、もう一度耳をそばだて、車が近づいてきていないのを確認する。

 今から口にする事は全部捨て台詞みたいなものだ、と言う前から自覚していると、口から飛び出てきた言葉は今までの中で一番本心に近いものになった。「俺は、ずっと貴方も両親も俺の家族だと思っていました。血は繋がっていなくとも家族です。でも、違うのだと今は思っています。本当の親なら本当の兄なら、行方不明になった息子や弟を全然探そうとしないのは不自然でしょう? 本当に血の繋がっている俺はこんなにも会いたいと思っているのに、貴方達は全然そんなふうには見えない。別にいたっていなくたって、同じだと思っているんじゃないんですか?」

「ッ、!」

 途端、大智の表情が鋭く引き締まった。

 見ている側が思わず立ちすくむほどの、瞬間的に膨れ上がった怒気の激しさが細められた目の奥で迸るのを見て、大輔は言葉を続けた。言い逃げるつもりでいても、何かを言わなければこのまま兄の怒りに呑まれて、謝ってしまいそうな予感があって、それからも逃げるように無意識に飛び出していった言葉達だった。

「貴方にとっての、大樹はなんなんですか? 弟? 大事な家族? だったら、どうしてちゃんと探そうとしないんだ。貴方にとっての俺も、大樹と似たようなものなんでしょう? 目の前にいる時は、血が繋がっていなくても家族だと言って、でも目の前からいなくなれば途端に無関心になってッ! だから俺はッ、あの家を出て行ったんだ!」

 叫んでいるのは大輔自身だというのに、他人事のようにそれを聞いている頭の一部分で冷静に、俺はまるで泣き喚いているようだ、と感じていた。

 辛辣な皮肉を言い、兄さんが怒ったと思えば今度は、どうして理解してくれないんだと子供のように泣いてはわめいている。

 大樹の事をちっとも探そうとしない家族に失望した。邪魔をする兄に絶望した。五人掛けのダイニングテーブルの空席、箸立てにいつも残っている箸。使われない茶碗やカップ。それらをキッチンや食器棚にしまいこんだまま、当たり前に日常の時間が過ぎていく「小野」という家。

 血が繋がっていない事を自覚する事は多々あったのだ。大樹だけが唯一、血の繋がった兄弟だと知っていた。同じ顔をして同じ仕草で、少しだけ表情豊かに笑う弟、もう一人の自分。大輔が見たものを同じように感じ取ってくれた、たった一人の肉親。だから耐え切れず、家を出た。——自分が消えてしまっても、この家の中は今と同じように回るのだろう。そう感じると、ただ息をするのも苦しくなった。

 ズボンのポケットに大輔は手を入れた。指輪の形に似たそれを強く握り締めて、意識を束の間手のひらの中に集中させる。

『我々能力者と一般人は同じ人間です! 能力者には多少、一般人とは違う特殊な能力があるだけで、基本的なところは何一つ変わらないのです! その能力にしても、現在は様々なところで生活向上のために利用され、模擬魔術として流通しているのが現状です! 一般人との唯一の違いである能力も模擬魔術で補える今、能力者と一般人の差異はどこにあるのでしょうかッ!』

 それは恐らく、心情というものだ。と、大輔は心の中で応えた。

 魔術と呼ばれる能力自体が問題なのではない。多分、能力そのものはきっかけなのだ。その人間と自分とは違う、相容れない、と思うきっかけ。それから実際に溝が出来はじめ、敵意を持ったり憎んだり、関わりを拒みあうようになるのは、能力のせいでも生まれや立場のせいでもない——、人の心のありようだろう。

「大輔、」大智が口を開く。けれどその言葉を聞くつもりは、大輔にはなかった。

 ポケットの中で握り締めていた手のひらを引き抜き、指輪の形をしたそれを地面に投げ捨てる。アスファルトの地面で軽い金属質な音を大きく一回、続いて小刻みに二、三回響かせたそれに大智の視線が自然と向けられた。そうして俯き加減になった目がふと見開かれ、——その後、すぐさま見返される気配が体の芯をざわめかせたけれど、その時にはもう大輔の視界に、兄の眼差しも姿も映ってはいなかった。

 晴れ渡っていたはずの昼下がりは瞬く間もないうちに朝霧に沈むが如く、一センチ先も見通せない視界不良の霧の中と化したのだ。

「ッ、——大輔ッ!」原因を瞬時に理解した大智の鋭い声に混じって、さっき地面で響いた金属音によく似た音が耳朶を撫でる。その音を合図にして、大輔は踵を翻した。前後左右もままならない白い光景の中で、声に背を向けた事だけを自覚して走り出した。

 大輔が地面に投げ捨てたシルバーアクセサリーの指輪によく似たそれは、使用者の発動意思を読み取り、表面の金属が硬い物質に当たった瞬間、有害性のまったくない水蒸気を周囲に噴出させる仕組みになっている。有効範囲内は最高二十メートルほどで、車が行き交う道路での使用は交通事故のもとになるので控えてください、と取り扱い説明書には書いてあった。実用化され、店先に並ぶ模擬魔術の中では一番シンプルな使い方の王道商品だろう。痴漢や暴漢から逃げる時間を稼ぐために持ち歩いている女子学生は結構いるし、客層を意識してのデザインが受けて、幅広く市場に流通している。

 無論、その手に入りやすさと分かりやすい用途の分だけ犯罪に悪用される事も多々あるのだから、警察がお手上げだと降参しているはずもない。大智の声と共に耳が拾った金属音の正体は考えるまでもなく、警察だけが常備している中和剤としての模擬魔術だ。

 ほとんど白く塗り潰されていた世界の向こう側にうっすらと、さっきまであったのどかな昼の光景が見え始めてきていた。光景と大輔の目との間に、白い半透明フィルムを差し込んで見るような感じだった。発動させた模擬魔術が不良品でなく、取り扱い説明書通りに効果が持続するのなら、約一分ほどは霧が晴れないはずである。けれど、警察が使用している中和剤を発動させれば強制的に十秒ほどで効力を完全に無効化できるのは、半年前まで警察官であり、その手段を重宝していた立場として十分理解していた。

 瞬間的にあたりを覆いつくした白い水蒸気の集団が今度は大智が地面に落としたものによって無効化され、さきほどまでの他愛ない平日の昼下がりが再び姿を見せようとしている。半年間のうちに改良が成されていたら、十秒よりも早く水蒸気は消えうせるだろう。

 対抗する手段はあった。走る速度を緩める事なく、大輔はポケットに再び手を突っ込んだ。探り当てた残りの模擬魔術の一つを握り締め、意識を集中させて発動を手のひらで感じ取るとさっきと同じ要領で、走り去る地面に放り捨てた。


   * * *


 築云十年の木造アパートは、夕暮れによく映える。身も蓋もない事を言ってしまえば、打ち捨てられた廃墟のように、柱ひとつ玄関扉一つ、生々しく古臭い過去の遺物であるようだ。住めば都、という言葉がこれ以上に似合う建物もそうはないだろう。と、大輔は思っていた。

 塗装が剥がれ、全体を茶色に錆付かせた胴製の階段をのぼり、二階の通路に出る。ギシリ、と力を加えればあっけなく踏み抜いてしまいそうな音をか細い悲鳴のようにあげる階段だったが、一応設置されている手すりを掴む気にはいつもなれなかった。地金が覗いているそれに触ると、金属独特の嫌な臭いが手にこべりつくような気がするのだ。鉄の臭い、——血が咥内に広がった時に味わうそれに、なんとなく似ている。

 通路を歩き、階段から数えて三番目の扉の前で止まった。事務所兼住居、ではあったけれど、玄関扉にも脇の壁にも表札は出していない。毎回向き合うたびに鍵の必要性を考えてしまいたくなる玄関扉を軋ませながら開けて中に入ると、大輔はそのまま大の字になって床に倒れ込むように寝転がった。靴を脱ぐのも面倒くさく、鍵を閉めるのも億劫だった。第一、この部屋には何もない。とられて困るものが何もない、という点は、空き巣がアパートの外観を観察し、「こんな場所に住んでいる住人の部屋に金目のものがあるはずがない」と断じて想像する部屋と大差ないだろう。

 空き巣だって生活がかかっているのだ。玄関の扉が紙を破るよりも簡単そうな鍵ひとつだったとしても、住居者の程度を考えればもう少しは、見た目からして生活水準が高そうなマンションを標的に選ぶはずである。

 それでも染み付いた習慣で、しばらくしてから大輔はのろりと起き上がった。惰眠を要求してくる体を必要最低限の速度でゆっくりと動かして、いつ見てもちゃちな鍵を閉める。そうしてからまた、ぱたりと床に仰向けの形で倒れこんだ。眼に差し込んでくる、玄関のすぐ横にあるシンク傍のくもり硝子からの夕陽が痛くて、瞼を閉じて寝返りを打った。太陽の温度を吸った床はほんのりと暖かく、まったく行き届いていない掃除のせいで埃まみれではあったけれど、疲労しすぎた体はさして贅沢を言う気力もないようで、そのまま意識がとろりと形を崩して溶け、なくなっていくように大輔には感じられた。

 ——結論から先に言えば、大輔は逃げ切った。

 もしもの時のために、と、ポケットに放り込んでいた霧を発生させる模擬魔術を計五個すべて、中和剤で完全に霧が晴れかけたところに一つずつ発動させていったのだ。真昼間の偶然か、道路をまったく車が走っていないのも幸いした。何に気兼ねする事もなく実行した模擬魔術の大盤振る舞いに、さすがに兄も中和剤を五個も所持しているわけはなかったようで、最後に放り投げた五個目は取り扱い書通りに一分間、伸ばした手も見えないほどの濃霧を発生させ続けた。

 問題はどちらかといえば、その後だ。

 二つほどバス停を走って通り過ぎてからバスを捕まえようとしたものの、まず最初に立ち止まったバス停のバスは、つい数分前に出て行ったばかりだった。このまま立ち止まっていては兄に追いつかれるかもしれないと次のバス停に向かって歩き出してからしばらくすると、今度はバスの後姿をあっけなく見送る羽目になった。そうして次のバス停にたどり着いて時刻表を見て——……、という風に一度バスに乗り損ねた大輔はそのままずるずると歩き続ける事になって、結局、事務所兼住居のある最寄バス停にへとへとになりながら徒歩で、到着してしまったのだった。

 意識、と呼べるものの最後の一滴が床の温度で蒸発する。言葉通り、眠りに落ちる一歩手前の瞬間に、大輔の目は覚めた。突然鳴り響いた携帯電話の着信音と、それより少し遅れて重たいものが壁にぶちあたったような振動と怒声が、壁一枚を隔てた隣室で轟いたからだった。

「うるせぇ——ッ!」ただ寝起きを邪魔されたにしては人一人殺しかねない殺気じみた声である。大輔は跳ね起きた、その時にはもうどれだけ疲れていたかも、あと少しで眠りそうだった事も全部吹っ飛んでいて、「すいません!」と壁越しに謝り、携帯電話の通話ボタンを押した。もちろんこっちの事情を知る由もない電話越しから、『よう。少し時間いいか?』呑気な情報屋の声が聞こえてきた。

「少し待ってくれ、」言って、部屋を出る。鍵は閉めずに玄関扉に背を預けるようにして座り込んでから、「もういい。で、何の用事だ?」ちらりと隣室の玄関扉を見遣って質問した。

 元警察官を慌てふためかせるほどの殺気を撒き散らしたにも関わらず、いつもの事ながら隣室の玄関扉は沈黙を保ち、蹴破って殴りこんでくるような事態になる気配はなかった。恐らく、寝ぼけていたところに響いた携帯電話の音にキレて、無意識に何かを壁に投げつけたのだろう。重たい衝撃音がする何か、が、枕や目覚まし時計のような他愛ないものでないのは想像がつくけれど、じゃあなんだろうかと考えるのはいつもの習慣でやめておく事にした。

 ほうっと安堵のため息をつきかけたところで大輔は、電話越しに一瞬溜まった沈黙を静かに男の声が破るのを聞いて、思わずその息を喉の奥へと飲み込んだ。

『あの噂、初代の魔女の正体を調べようとした人間は行方不明になるっていうの、実は嘘やでっちあげの類じゃないかもしれない』と、彼が言ったのだ。

「、どういう意味だ?」男の言葉尻を追いかけるようにして聞き返してから、大輔は束の間黙り込んだ。どういう意味、もないだろう。情報を取り扱う自身を誇りに思っている男が、中途半端な推測や憶測で、依頼主にこんな話をしてくるはずがない。

 手のひらの中で携帯電話が軋んだ音を立てるのに我に返り、携帯電話を握り締める白く強張っていた指先の力を弱めた。息をつき、気持ちが落ち着くのを待ってから問いかける。「いや——……、それよりもお前は大丈夫なのか? 嘘やでっちあげの類じゃないって言うなら、まさか、誰かに襲われて怪我でもしたんじゃないだろうな?」

 口に出すと途端、会話の合間に入り込むざわついたノイズが気になりだした。ただ電波の具合が悪いだけのようにも聞こえるけれど、一度抱いた不吉さは血まみれの手で携帯電話を握り締めて蹲る男の姿を想像させるには十分だった。

 短く、笑い声があがる。『馬鹿言え、』考えている事なんて全部お見通しだとばかりの失笑を滲ませて言うと、電話越しの声はふと止んだ。間を置いて再び聞こえてきた声は、笑いの余韻を沈ませて硬く強張っているようだった。『まあ、怪我はしていないがな。でも、このまま初代の魔女の事を調べるのなら命の保障はない、とは言われたな』

「誰に?」問いかけに打てば響く速度で、『名前、いえると思うか?』重ねられた問いかけが答えのようなものだった。おいそれと名前を出していいような相手ではない、それだけの立場にいる人間。という事だろう。

 そう思い、けれどすぐに大輔は首を横に振った。——違う、問題は誰が男を脅したのかではなくて。脅さなくてはいけなかったのか、だ。

『ちょっと情報網に引っかかる噂を探しただけで捕まって、その忠告だ。本腰を入れて探し始めようものなら確かに、行方不明ぐらいにはなるだろうな。殺されてばらされて、人気のない山中に埋められるか。コンクリート詰めにされて、海に投げ捨てられるか、』

「そんなに怖い脅し方だったのか?」暗に伝えようとしている事を察しながら、わざと遠目で眺めやるぐらいの距離をとって質問した。触れない核心をちょうど中間地点において、反対側にいる男と眼が合う。

『淡々と、な。それでも裏社会に身を置いていれば、どの程度本気かってことぐらいは、嫌でも分かるもんだ』理解したか? と訊ねられている。大輔は少しだけ、顎を引いて頷いた。

 つまりは、こういう事だ。

 初代の魔女は実在する。あるいは、実在する可能性がある。

 もし存在しないとしても、その存在そのものを隠れ蓑とした何かがある。裏社会において、権力を持つ者だけが事実を知り、知る故に隠し通そうとする意思が作用する何かが、だ。

 気にかかるのは依頼人が、どこまで知っていたかという事だけれど。

「一億円、ね」ぽつりと、大輔は呟いていた。

 ただの都市伝説としての初代の魔女を探せ、というのなら一億円は狂気の沙汰にしか映らない。けれど、裏社会に精通した人間が死を宣告されるほどの何かを孕んだ初代の魔女を探せ、となれば一億円は妥当な金額であろうか。命の値段としての、一億円だったとすれば。

 無意識に小さくため息をついていた。「随分と値切ったな、一千万って」

『お前の依頼主が何を考えているかは見当もつかないがな。……、女の能力者が実在するなら、研究機関としては喉から手が出るほど欲しいだろうな』男の口調は、どうでもいい事を喋っているようだった。無関心を装ってしか言えない事を言っている、そう伝ってくる。『能力者同士を掛け合わせたら能力は受け継がれるのかどうか、とか、何か変異はあるのか、とか、興味は尽きないだろうからな』

「——あの依頼人は、そういう事を考えている風には見えなかったが、」

 依頼人を擁護するために言った事ではなかった。大輔の反論は、依頼人を見誤ったのではないかと指摘する男に対しての、明瞭な自己弁論だった。

 そもそもそんな事を考えていそうだったなら、さすがに一億円を前にして欲に眼が眩んでいたとしても断った。能力者の力を模擬魔術として一般人にも使用できるように加工するための研究、と今のところ、能力者を対象にした実験のすべては位置づけられているものの、蓋を開けてみれば少なからず、人権をないがしろにした研究施設は存在する。一般人の親から生まれたばかりの能力者の子供が金で研究所に売られるという事件はいつもニュースを騒がせるし、内部告発によって研究所の暗部が明るみに出る事もよくある話だ。

 それでも、二十二年前に起こった政府直属の研究機関での暴動当時よりは随分ましになったのだと、言っていたのは誰だっただろうか。

『とりあえず、俺はこの件から手を引かせてもらう。一億円ならまだしも、お前との契約料じゃ命の値段には程遠いからな』電話越しで男が、困ったように肩をすくめたようだった。『まったく、俺は受けた依頼は必ず達成するのを信条にしているつもりだったのに、お前と関わるといつもこんな感じだな』

「俺のせいじゃないだろう。単に偶然だ」大輔としても、情報屋に頼んでも解決しないことばかりを背負いこんでいるつもりはない。男の言葉に反論するのなら一番面倒を被っているのは、どうにもならなそうだと思えば辞めてしまえる彼自身ではなく、情報屋が手を引くほどの事だと理解しても手元に置いておくしかない大輔本人だろう。

「それに、命の危険があったのは今回ぐらいだろう? 前のふたつはただ進展がないだけで、お前の身の安全がどうのという話になった覚えはない」

『毎回毎回、命の危険に晒されたくもないけどな』と、男は笑う。『一度目は、どこにいるかも分からない、たまにお前らのほうをじっと眺めてくる女の子の事を探してほしい、だったよな。でも結局、その女の子が実在する証拠もなくて、お前達にしか見えない幻みたいなものだって事で結論が出ただろう?』

 大輔は眉をひそめた。「子供の度の過ぎたいたずらって事で、うちの親がお前にいくらか金を積んだんだろう?」大人をからかうもんじゃない。どうしてそんな嘘をつくの、と、叱るというよりは半ば泣き縋るように両親に言われたのを思い出す。双子にすれば必死に貯めたお金を全部依頼料に費やすほどの本気だったのだけれど、周囲の大人達はみんな、ふたりが見たものを嘘だと断じた。

 そして最後は、嘘である事が事実だというように、見つからなかったのだ。

 眼の錯覚。勘違い。「今にして思うとそんなものだったのか、とは思うよ」眼を覚ませば忘れてしまう夢みたいに、今の大輔では確信を持って、あれがすべて現実だったのだと言い切る事は出来ない。

『二度目は、お前の双子の弟の消息、だよな。鋭意継続中の。人一人探すのなんて簡単なもんだと思っていたがこれがなかなかうまく行かないしな。人探しで半年間も苦戦するなんて相当だ。で、三度目が今回の、初代の魔女の話だろう?』

「大樹の事は本当に、期待しているんだ」素直な気持ちだった。神がかり的な情報屋としての麻耶の裁量も頼みの綱にはしているけれど、彼女が警察御用達の立場である事を考えれば、裏社会にいる電話越しの相手のほうがまだ、大樹に近づけるのではないかと思っている。「警察はあてにならないから、裏社会に精通している人間に部があるはずだ」

『その、いかにも小野大輔らしくない発言に半年間、振り回されてる気がしないでもないな』

 苦笑いと共に、『じゃあな。ひとまず、初代の魔女の一件は気をつける事だ』挨拶と忠告で締めくくって向こう側から回線が切れる。携帯電話をポケットに押し込んで立ち上がり、玄関扉を開けかけたところでふと、大輔は体ごと後ろに振り返った。

 夕間暮れの一時の明るさはすでに没していて、空は残り火のような薄明るい紫色を西の僅かな空に残しているだけだった。段々と明度を落とし、色を重ねていくようにして空は濃い夜の色へと変わろうとしている。一足早く点灯した街路灯の周囲だけが、夕陽に長く濃く引き伸ばされた影とも、近づいてくる夜の闇ともいえない道路の暗がりの中でぽっかりとした白い円を作っていた。振り返り、束の間さまよった大輔の眼は自然と、その明かりへと惹きつけられた。白いだけの、ただ明かりが灯っているだけの空間に。

「、あ」小さく、声が漏れた。分かりやすく、失望した声だった。

 誰かがいる、と思ったのだ。

 名前を呼ばれたと感じたわけではない。正直、誰かに見られているという感覚もなかった。けれど例えるならば、その誰かがいるだけで空気が変わるようなものなのだ。息遣いを感じ取る事が必要なのではなくて、その人がそこにいるのだと大輔自身が思う事で何かが変化する。大輔は一瞬、誰かがいる、と思ったのだ。

 だから一瞬だけ、確かに暖かくなった心の奥が、今度は現実を視認した冷静さで急速に冷えていくのを感じながら、大輔はゆっくりと息をついた。心底自嘲してやりたい気持ちだったけれど、唇がちゃんと笑いの形になっているかどうかは分からなかった。心が冷えすぎて麻痺したようで、どんな表情をしているか皆目、見当もつかない。

 誰かが——……、いや、あの人が、こっちを見ていると思ったのに。

 強張った瞼をぎこちなく上下に動かす。ぎちぎち、と変な音が鳴った。もう一度だけ、誰もいないその場所を凝視し確認してから、眼をそらした。街路灯を、体ごと意識から遠ざけて、玄関扉を開ける。そうして外の世界を完全に締め出すために、玄関の鍵をかけた。


   * * *


 夢だと自覚する夢を見る。

 その夢の小野大輔はとても小さく、とても幸せだ。信じられるものをたくさん持っていたし、信じられるものに対して、心底絶望した事も失望した事もない。何も知らない事が一番の幸せだというのなら、大人になってからふと省みた時、確かに一番幸福だった頃の大輔の夢である。

 成熟するために流れるべき時間がない夢の中では、子供はいつまでたっても子供のままだった。

「なあ、大輔。大輔って」呼ばれて振り返ると、そこにはいつも鏡がある。鏡のように瓜二つな顔立ちをした大樹が立っている。色違いの服を着て同じ色の真新しいランドセルを背負った、双子の弟だ。

 ただ、弟の大樹のほうがくるくると表情がよく変わった。大輔は弟の怒った顔や泣いた顔を見ることで、自分もそういう顔をするんだろうかと思っていたけれど、実際は、怒っても笑っても表情の筋肉は弟の半分ぐらいしか動いていなかった。

 無愛想なのが兄貴。感情豊かなのが弟。——異常すぎるほど似ている双子に、学校の教師達、たまに会う親戚連中が一応は遠慮を見せて影でこそこそ言っているのは、この時にはとっくに知っていた。

「……、なに?」まったく不機嫌でもないのに、心底不機嫌そうな声が出る。

 弟はまったくそんな兄の言葉に無頓着で、くいっと大輔の服の袖を引いた。こっそりと誰かに見られるのを、多分前を歩いている二歳年上の兄に知られるのを警戒しての小さな身振りで、さっき過ぎたばかりの電柱を指差した。

 弟の指先を見、そうして電柱にたどり着いて、大輔は見る。

「なあ、あれ。あの人」と、隣で大樹が呟く。

 電柱に体の右半分を隠すようにして、一人の少女が佇み、こっちを見ていた。隠れているのだから、こっちがはっきりと振り返った今、慌てて目をそらすなり逃げ出すなり、何か反応があってもおかしくはないだろうに、彼女はぴくりも動かなかった。たまにゆっくりと瞬きされる眼が、大輔と大樹を見ていた。

 まず、どこかで見た事のある顔だと思った。肩まで真っ直ぐに伸びた髪に、人形みたいに整っているけれどどこか人間らしくない顔をしている。背丈は多分、彼女のほうが少し高い。近所にいる高校生のお姉さんぐらいの年齢に見えた。あ、若いなぁ、とぼんやり思うのを自覚して、大輔はふと顔をしかめた。

 なにか、とても落胆してしまったような、がっかりと肩を落としたい気持ちになったのだ。

「あの人、俺達の姉さんかな?」と、大樹が言う。

 振り向いた先の、見慣れた鏡のような顔を見て、「そうかも」と応えていた。精巧に作られた人形のような顔立ちがふとした拍子に微笑めば、大樹のようになるのだろう。どこかで見た事がある、ではなくて、毎日鏡で見ている自分の仏頂面に似ているのだ。大輔は小さく頷いて、もう一度彼女を見遣った。

 悲しそうだな、と今度は思った。

「話かけてみようか?」無邪気に言うだけ言って、大輔の返事を待たずに靴先を彼女のほうへ向けようとする大樹の手を、思わずひっぱった。駄目だ、と思うよりもまず先に体が動いた結果だった。引き止められた大樹が怪訝そうな顔をしてこっちを見る。どうして止めるんだ、と、声に出すまでもなく雄弁な眼に問われて、大輔は口を開いた。

「——、あ、あのな」気づけば、咥内はからからに渇いていた。体が緊張しているとか、そういう事ではなくて、まるで言おうとした全部を誰かに咄嗟に口止めされてしまったような、よく分からないままに語彙が全部頭から抜け落ちてしまったような感覚だった。

 近づいてはいけないと思うんだ、と、言おうとした。

 彼女と自分達との距離は多分、目に見えているだけのものではなくて。時間とか次元とか、どうしようもなく超えられないものまで横たわっている。近づいた分だけ、遠ざかる。正しく手順を踏んで近づかないと壊れてしまう。そんな事を、言おうとした。

 言おうとして、けれど言葉にならなくて。見据えてくる弟の眼の中の怪訝が次第に、別の険しい何かになろうとしているのを感じ取って、大輔は慌てて声をあげた。頭を精一杯動かして言いたい事を組みなおし、口にした。

「ヒ、ヒロシ君と多分——……、あの人は、一緒だ」

 きょとん、と大樹の眼が丸くなる。「ヒロシと?」聞き返してくる声に大輔は深く頷いた。

「多分、まだ会うには早いんだと思う」

 じゃあ、いつになったら会えるのか。と大樹に質問されたらどうしよう、と、大輔は内心で思った。大人になるまで、とかお茶を濁す言い方はいくらでもあるだろうけれど、大輔の誤魔化しなんてすぐに見破ってしまうのが大樹だ。世間の双子とはみんなそういうもなのか、互いの嘘と誤魔化しは、自分で自分のそれを自覚するよりも的確に理解できる。

 だから大輔にとって、脳裏でふと聞こえた小さな笑い声は心底、歓迎すべきものだった。

『僕もそう思うな。別にいつかちゃんと会えるんだし、急がなくたっていいじゃない?』

 声、といってもそれは耳の鼓膜を震わせて聞こえる、空気を伝ってくるものではない。頭の中に小さなスピーカーみたいなものがあって、そこで遠いどこかの電波を受信しているような感じ、である。ラジオに似ていなくもない。ただ、相手の声が淡々と流れてくるのではなく、自分が喋れば相手にちゃんと伝わるから、無線機といったほうが表現として正しいだろうか。

 大樹が目を瞬かせる。その声を受信して、こっちの声を送信する何かは大樹の中にもあった。大輔と大樹と、声しか聞いた事はないけれどヒロシの中にだけ存在する器官だった。

「でも、気になるだろう? 会いに来てくれてるなら、話しかけるぐらいいいじゃないか」

『駄目だって、』と、ヒロシはため息をついたようだった。

 ごく普通のラジオや無線と違うところは、その小さく肩を落とす様子が手に取るように理解できる点だ。どんな言葉で説明すれば大樹に分かりやすいだろうか、と考え込んでから、ちらりとだけ目を向けられた気がした。大輔だったらどう説明する? 暗にそう問いかけられていた。

 目を彼女へとやる。顔の輪郭、服から覗く細くて綺麗な指の輪郭、ひとつひとつを視線でなぞるようにして記憶に書き込みながら、近づいてはいけない、と思った理由をもっと単純明快なものにばらしてみた。すると時間がない中で組み替えた言葉よりは多少、説得力のありそうなものが出来上がったので、ヒロシと視線を交わすように意識を彼のほうへと向けた。

 それなら、大樹も分かってくれるかもね。笑って頷く気配に後押しされて、口を開く。

「なあ。大樹」呼んで、弟がこっちに振り返るのを待ってから話し出した。「……、あの人が本当に俺達の、家族だったなら、一緒に引き取られなかったのには理由があるんだと思うんだ。多分、子供にはどうしようもない理由で。それで、俺達はまだ面と向かって会えないんだと、思う」

 大人の事情というものだ。子供に教えられない事を大人は、「この話には事情があって」と濁す。例えば、大輔と大樹が実の自分達の子供でない事を今の両親は、小学校に上がる頃には話してくれたけれど、じゃあ本当の親はどうしているのか、という点については何も話してくれなかった。死んだのか生きているのかさえ謎だ。「事情があって、いつか話せる時が来たら話すから、」大輔たちの本当の両親の話は、その濁された言葉を開かずの扉にした向こう側にある。

 大樹は眉をひそめた。「どうして、父さんと母さんは、引き取らなかったんだろ?」

「経済的な理由かも。三人も養子を迎えるのは大変そうだから」

『赤ん坊ならまだしも、ある程度物心ついた子供を引き取るのは大変だとか思ったのかもしれないよ。実の親の事も覚えているだろうし、暮らす環境も変わってしまう。なにより、懐いてなかったのかもしれないしね』犬猫の引き取り手の事を話しているような淡々とした、ヒロシの言い方だった。大樹もそう思ったのか、分かりやすいほどにはっきりとした嫌悪感で顔をしかめた。

「俺達は、犬や猫とは違う」

 間が落ちた。『、そうだね』と、短く呟かれた言葉には、何の感情もこもってはいないようだった。反論した大樹への謝罪の意味も、弁解じみたものもなく、ただ相槌を打っただけだと伝わってくるそれに、大樹は大袈裟なため息を吐き出した。収まりどころを作ってもらえなかった苛立ちを一緒に体の外へと強引に放り出してから、幾分落ち着いた声音で言う。

「俺達にとって、親は飼い主じゃないだろ。今は面倒見てもらわなくちゃ生きていけないけどさ、大きくなったら違うだろ。嫌なら出て行けるし、好きなところにだっていける。犬や猫より自由だって」

『——……、そうだね』同じ短い言葉は、けれど、さっきの温度も色も何もない味気ない無味無臭からほんの僅かだけ温もりを取り戻していた。手を握り返せば伝わってくる相手の生きている温度を確かめるように脳裏に響く声を、大輔は聞く。

 夢だと自覚する夢。夢である以前に自分の記憶なのだと理解しているものというのは、まるで見古した一本のビデオテープを再生するような気持ちに似ている。色褪せはじめ、音もところどころ飛んでは、次第に一繋がりであるはずの光景がばらばらになり、意味のないものになっていくのが運命だと、消耗品でもあるテープはちゃんと分かっている。つまりはいつか、必ず思い出せなくなる時が来る。

 だから大輔は、見る夢を丁寧に眺めながら安心する。ほう、っと吐息を落とす。

 まだ、大丈夫だった。覚えていたいもの。忘れてしまいたくはないもの。なくしたくないもの。それらはまだ形を一切損なわずに、心の中に存在していた。


   * * *


 目が覚めた。夢の底からふわりと浮上した、というよりは、ただ閉じていた目を開いただけのような、はっきりとした覚醒だった。仰向けで眠っていたので自然と目に入った年季の入った天井を眺め、瞼をゆっくりと瞬く。目覚めが悪いほうではなかったものの、まるでずっと起きていたかのように寝ぼけていない体に、けれど確かに眠っていたはずだと自覚している意識が戸惑っていた。直後、ぶるり、と、充電器のプラグを差し込んだままの携帯電話が僅かに振動する気配を聞いた。

 あ、電話が鳴るな。と思った時には横になったままで手だけ、畳にほとんど無造作に投げ出されていた携帯電話を拾い上げていた。愛想のない目覚まし時計の電子ベルに似ていなくもない音が今まさに鳴り響きかけたところで、通話ボタンを押す。ついでに待ち受け場面の隅に表示されていた時間を見た。十一時二十八分。

「——、はい」布団からゆっくりと這い出す。どちら様ですか? と訊ねる前に、声が向こう側から聞こえた。大輔自身が出た事を短い言葉で理解しての、必要最低限の返事だった。

『久し振りだな。小野君』と、低い男の声だった。

「、どちら様ですか?」一拍、思わず息を飲み込んで出来てしまった不自然な間が、この問いかけが無意味なものであると大輔自身に自覚させた。素知らぬ声を装うよりもまず、電話の相手が誰であるのか理解してしまった事を相手に告げていた。

 向こう側で男が笑う。かすかに唇の表面だけを引き伸ばすようにして笑うのを、ノイズによく似た気配で感じ取った。『高柳だ。どこの高柳か、までは話さずとも分かると思うが、一応名乗るべきかな?』笑いの余韻を残して名乗る。

 その分だけ最後の問いかけが、ただの冗談や軽口ではない事を大輔に分からせた。

 間違い電話のように他人の振りをしても無駄だ。——分かっていますよ、と、白旗をあげる気持ちでため息をついて、口を開いた。「、高柳さん、なにか俺に御用ですか?」今度間が空いたのは、大した意味からではない。単純に、電話越しのこの人の事をなんて呼べばいいのか分からなかったのだ。

 小さい頃は、「叔父さん」と呼んでいた。血縁関係はなかったけれど、家に来ては遊んでくれる優しい叔父さんだったので。それは高校を卒業するまで続いて、警察官になってからは「課長」と呼ぶようになった。対魔術課の課長、直属の上司となった相手を、昔のように馴れ馴れしく呼べるはずもなかったからだ。けれどその分かりやすい関係性も大輔の退職を機に終わりを告げた今は、子供の頃の無邪気さだから呼べた「叔父さん」に戻すわけにもいかず、かといって「課長」のままで通す気にもなれず。

 ことさら他人である事を強調するような呼び方だ、と口にする一瞬、少しだけ後ろめたさを感じたものの実際に言ってしまえば、この距離感が今の自分達には一番妥当で、ありがたくも感じられた。

『用件は至って簡単だよ』突き放したようにも聞こえただろう大輔の声に、高柳はなんでもない口調で応えた。『警察署に来てほしい。それだけだ』

 目を瞬く。「どうして?」率直に出てきた言葉だった。

 退職して、もう半年になる。受け持っていた仕事の引継ぎ関係で支障が出たという話ならば、もっと早く連絡が来るはずだ。

 沸いた疑問に対しての高柳の返事はいたって分かりやすく、明確な脅しまでついていた。

『君が初代の魔女を探している、と小野兄から聞いた。その事で話したい事があるんだがね、この件に関しては電話で詳細を話すのは躊躇うんだ。だから警察署まで来てほしい。——……、という事だよ。来る気がないと返事をしてくれても構わないけれど、そうなると色々、面倒事になる』

 面倒、の部分をはっきりと強調するでもなく言い切った男は、大輔が何かを言い出すよりも先に言葉を続けた。『先日、警察にある苦情の電話があったんだ。若い男が道路の近くで模擬魔術を乱発させている、とね。しかも、車が通行する可能性のある道路での使用は非常に危険だと分かっている煙幕の模擬魔術だったらしい。それは大変だと至急現場を調べたら、使用者を特定するに十分な証拠を見つけたわけだが、』

 そこで一旦口を噤んだ高柳に暗に促されるような形で、大輔は推理にもなっていない事実をいう事になった。「模擬魔術の表面に付着していた俺の——、指紋、ですか」

『その通り、』と、電話越しで高柳は頷いた。

「職権乱用っていいませんか? そういうの」

 模擬魔術使用法、というものがある。世間一般に浸透しつつある模擬魔術の悪用を防止するための法案であり、模擬魔術ひとつひとつに設けられた使用基準に違反した場合、この法律によって罰せられる事になる。煙幕の模擬魔術を車が走行する道路の近くで使用してはならない。今回大輔が違反した項目はそれだ。「だって実際のところ、俺の使った模擬魔術で交通事故は起こっていないと思いますけど。ちゃんと使用する時に、車が来ているかいないか確認しましたし。あの人が、中和剤を使ったから、五個連続で使ったっていっても実質的な効力はほとんどありませんでしたからね」まともに最後まで使い切ったのは五個目だけだ。

『しかし、煙幕型の模擬魔術の使用基準では、君の使い方は違法だ』

「でもいちいち、大事にもなっていない模擬魔術の使用方法で人一人を逮捕しようなんて面倒くさい事を警察はやっていない。——半年前は、そうでしたよね?」

 市販されている模擬魔術に記載されている使用基準はやたら厳しく滅茶苦茶でもあった。製造会社としては、何か問題が起こった時に、「使用基準がなかったからこんな事故を引き起こしたんだ」と言われないために、様々な事を想定する。故に、こんな事をいちいち使用基準にしなければならないのか、と疑ってしまいそうな事まで書かれている。

 そして、その使用基準に違反した者達をいちいち捜査し逮捕して送検するほど、警察署——とりわけ模擬魔術を専門に扱う、対魔術課は暇ではない。しかも、半年前に起こった模擬魔術事件の余韻は暗い影としていまだに、世間に広がっている。小物の相手をする時間があれば、模擬魔術事件の主犯格と目されている能力者解放戦線の情報を収集し、次に起こるかもしれない事態に備えておきたい、というのが対魔術課の正直な本音であるはずだ。

 電話越しで高柳がかすかに微笑んだ、ようだった。

『君の言う通り、労力は必要最低限に抑えておきたいよ。だからこうして電話をした、というわけだ。君が今から私のところへ出向いてくれるなら、忙しい部下達に指示を出して君を逮捕するための作業をしなくてもすむ』

 けれど断るのなら、指示を出す。と、他愛なく声は断言する。——その結果として、日が変わるよりも前に元同僚がこの部屋の薄っぺらい玄関扉を叩く事になるのだろう。いや、それも元同僚ならまだマシなほうで、わざわざ面倒な労力を使わせた大輔へのささやかな嫌味として高柳が、大智に捜査を指示する可能性もなくはない。

 不思議なほどにすっきりと目が覚めた頭を大輔は抱える。「それ、俺にメリットのある選択肢がありますか?」頭痛を堪えるようにして訊ねていた。受話器から伝わってくる短いノイズ交じりの笑みは、『降りかかってくる厄介事を自分で調節できる、と思えばいいんじゃないか?』暗にどっちも五十歩百歩のデメリットがあると素直に認めていた。

 模擬魔術事件の直後で警察官の誰もが忙殺されている時期に、半ば強引に退職した。その職場でのこのこと顔を出す。それが嫌だと断れば、せっかく家を出て半年間、見つからずに暮らしてきた我が家の住所を特定される事になる。個人的な探し人ではなく、警察からの正式な捜索依頼の形をとっていれば麻耶も情報提供を拒むはずがない。

 初代の魔女、という単語が出てきた時点で大輔が誰を想像するか見当がつけていて、そこに付きまとう無条件の反感を見越しての、回りくどい交渉術。とでも言えば聞こえはいい。逃げ道を順当に潰されて、二箇所だけになった道を見てみればどっちにもこれみよがしな穴が空いている。違いは深さぐらいなものだ。

 思わず、歯噛みしていた。いつもの事ながら、気づけば袋小路に追い込まれているという顛末だ。「相変わらず、性格悪いですね。高柳さん」悔し紛れの皮肉に、高柳は少しだけ笑みを沈ませて応えた。『それだけ大事な話がある、君に来てもらわなければならないと思っている。とは、考えられないか?』

 考えたくはない。と、拗ねた答えをいえる場面ではなかった。高柳が無駄に人を追い詰めて楽しむ類の人間でない事を知っている分だけ、彼が真剣にそう思っている事もはっきりと伝わってくるのだから。

 しかし、それでも素直に納得するのは癪だったので、「——、分かりました」これ以外の言葉を知らないかのように棒読みで応えてから、充電器のプラグを引き抜き、立ち上がった。無造作に脱ぎっぱなしになっているズボンの裏返しを直しながら、質問する。「行くのは、一時ぐらいでいいですか? 朝飯を食べてから行きたいんですけど」

『それでいい』来る事を約束さえしていれば、後は別に何時になっても構わないと言いたげな口調だった。

 それだけ大事な話、と高柳が口にした単語を一度頭の中で反芻する。初代の魔女は実在するかもしれない。初代の魔女を探せば命の保障はない。昨日、情報屋と交わした会話のいくつかがふと、脳裏にふわりと浮かんでは弾けて消えた。

『では、一時に対魔術課で待っている』それを別れの挨拶にして受話器が置かれようとする気配に、「あ。待ってください」大輔は声をあげた。「兄さん……、小野大智はその時間、部署にいるんですか?」

 思案するような間の後で、『模擬魔術事件の報告書を書いているところだろうな。昨日は情報提供をしてくれた麻耶さんに謝礼金を持っていったはずだから、今日は何か問題でも起こらない限りは一日中、部署にいるはずだ』と返ってきた返事は最後に、空気をゆっくりと震わせるようにして笑った。『彼がいたら迷惑か?』

「——、そういうわけじゃありませんけど、」ただ昨日の今日で顔を合わせづらいのは確かだった。偶然街中で出会う、のなら自分の運の悪さを嘆いて終わりだけれど、今から相手の職場に行こうとしているのだから、居心地が悪い。

 かといって、誰それがいるから行くのをやめます。では、分別の利かない子供以下の言い訳だろう。せめて初代の魔女の事を聞いている時だけは同席させないようにここで頼んでおくか、と自分なりに譲歩できる最低ラインを確認して、大輔は言葉を続けようと口を開いた。

『分かった、』と、電話越しで応える高柳の声が、大輔の言葉が声になるよりも前に話を締めくくる。『小野君には市街の巡回にでも出てもらおうとしよう。そうすれば二時間程度の余裕はとれるだろうから、問題はないね?』

「、はい」と答える以外の返事があれば教えてほしい。と内心で思いつつも、一応は感謝しながら頷いて、「じゃあ、一時に」と今度はこちらから別れの挨拶を告げて通話を切った。そして、通話中のアイコンが消えたディスプレイで時間を確認する。十一時三十五分。

 着替えを済ませてコンビニで朝飯を買って、近くの広場か公園で食べて——、警察署に行くまでの行動を頭の中でシュミレーションして最後に、これでいい、と頷いた。時間には十分に間に合うだろう。とりあえず今はさっさと、朝飯になるようなものなんて一切冷蔵庫に入っていない家を出る事だ。

 裏返しを直したズボンをはいて、箪笥から適当にシャツを引っ張り出して着る。汁が入ったままのカップラーメンの容器が放置されている流し台で顔を洗うと、用意は整った。半年前まではこのあたりで、櫛を持った大樹が「せっかくの色男なのに、髪の毛ぐらい綺麗に梳かせって」とぶつぶつ言いながら近づいてきたのだけれど、一人暮らしのこの部屋に櫛はない。鏡もない。大樹がいたら、そもそもこの部屋にいる意味さえない。

 昨日、麻耶の事務所を訪ねる時に肩にかけていた鞄はそのまま、畳の上に放ってあったので、それを右肩から左脇へかけて、玄関で靴をひっかけた。わざわざ時計を見る気はないけれど、精々五分ぐらいの身支度だろう。扉を開ける前になんとなく、髪の毛の表面だけ撫でる。耳の傍のあたりで手のひらに跳ね上がった毛先の感触があったものの、適当に他の髪の後ろに隠して終いにした。

 鍵を閉め、階段のほうへと歩き出す。ちょうど二階へ上がってきた隣人と、階段のすぐ手前で鉢合わせた。

「よう。重役出勤か?」立ち止まって分かりやすい嫌味で挨拶してくる中年の男は、長袖のTシャツに作業着姿という、いかにも工事現場にいそうないでたちだった。実際、夜間の工事現場で働いているから昼間は寝るので静かにしてほしい、と隣室に引っ越してきたばかりの頃に言われた事がある。うるさくすれば言わずもがな、昨日のように壁に何かがぶつかってくる。

「はい。今日は帰りが遅くなるかもしれません」だから存分に寝てください。と、こっちも明らかに嫌味を込めて言ってから、男の脇を通り抜けた。半年間隣室同士でも、交わす会話なんてものは大体がこんな感じだった。

 二言三言、嫌味のような皮肉のような事を並べて、どちらかが立ち去ったら終わり。大輔が階段を降りはじめるより先に歩き出した男の靴音からも分かる、至極シンプルな関係である。けれど三段も降りないうちにぴたりとその遠ざかっていた靴音が止んだのにつられて、大輔もなんとなく立ち止まってしまった。

 振り返った視線の先で、男が大きく右腕を振りかぶっていた。野球のピッチャーというよりは槍投げ選手の動作に似た腕は鋭くしなり、空気を引き千切るかのように素早く、何かを二階の通路から外の路地へと投げつけた。ようだ、と思ったのは、彼の投げたものが見えたからでも、投げつけられた何かのぶつかる音が聞こえたからでもなく、今まで静かだった一階の周辺の空気が途端、にわかにどよめいたからだった。

 動揺し慌てふためく複数人の気配を上から無造作に押し潰そうとするように、男の声が響き渡る。

「てめェらの話なんざ、聞きたくもないッ!」と、彼は怒鳴った。心底嫌悪する声音と同じ色をした眼差しは真っ直ぐに、外へと向けられている。「なにが我々は差別されているだッ! なにが能力者と一般人の平等な社会だッ! そんな言い訳を振りかざして、自分を受け入れない社会を妬んでるだけだろうがッ! そういう根性なしがいるせいで、他の能力者が困ってるとは考えねェのかッ!」

 いつもの眠っているところを騒がれてキレる男の口調とは違っていた。普段はただ腹立たしげに言い放たれている声が今は、明らかな敵意に凝っていた。叫び終えてもなお、何か言いたげな唇を強引に引き結んで、男は踵を翻す。バタッン、と、玄関の扉が閉まる。そんな乱暴に扱ったら壊れてしまうんじゃないかと他人事でも心配になるほどの音を聞いてから、大輔は残りの階段を降りきった。そして、男が声を荒げた理由を目にした。

 数人の男達が、いかにも困った顔をしてアパートの二階を見上げていた。何か悪さをしでかしそうでもなく、かといって昼下がりの住宅街に溶け込めるような雰囲気でもなく。服装自体ばらばらな、一言で表現すると「奇妙な」団体だった。

「どうします?」と、そのうちの生真面目な学生っぽい一人が口にする。誰に問うでもなさそうな言葉だったが、「住人に嫌がられたんじゃ駄目だろう。イメージダウンする事はあまりするなって、リーダーから言われてるし」太った格好のひとりが答えると、賛成とばかりに他の全員がこくりと頷く。そのほとんどの顔には見覚えがなかったものの、たった一人だけ、「じゃあ、仕方ない。ここは演説はなしで。リーダーの指示を仰ぐ事にしよう」締めくくるようにそう言った地味な背広姿の中年男だけ、大輔は知っていた。といっても、知り合い、というわけではない。どこでその顔を見たのか、思い出しただけだった。

 駅前で昨日、拡声スピーカーをいじっていた男だ。

 つまり彼らは、能力者解放戦線のメンバーなのだろう。足元を見ると選挙の演説とかで使われていそうなスピーカーが一台、二台、と置かれている。そこからコードがのびて、地味な背広姿の男が持っているマイクへと繋がっていた。

「でも、さっきの男の人、怖かったですよね。いきなり二階から傘を投げつけてくるなんて」

 と、ため息混じりに言う学生風の男が視線を地面に落とした。柄の真ん中部分が折れて、「く」の字に曲がった安物のビニール傘を靴先でつついている。「俺達の事、そんなに嫌いなのかな。怖いんですかね、能力者って」

 大輔は歩き出す事にした。約束の時間までに朝飯兼昼飯を食べなければいけなかったし、このままアパートの前に立ち呆けて、彼ら、能力者解放戦線の気を引くのも避けたかった。けれど無意識に、いつもよりもゆっくりと足を踏み出していたのは、生真面目な学生がした素朴かつ永遠のテーマであるその質問に、他の仲間がどう答えるのかを、聞いてみたいとも思ったからだった。

『大輔や大樹も、初対面の人を怖いと思う事はあるだろう?』ふと脳裏に、兄の言葉が蘇る。中学の頃だったか、似たような質問した双子の弟達に兄は他愛ない口調で言ったのだ。『それは相手をよく知らないからだ。知れば怖いという気持ちはなくなる。まあたまにもっと怖くなる時もあるが、それはそれでいい。何が怖いのかを理解していれば、その恐怖を取り除く方法も分かるからな。何も知らないって事が一番、どうしようもない恐怖を生むんだ』

 そして同じ質問を、ヒロシにもした。

 大輔は渋ったけれど、大樹が「色んな人間に質問したほうがきっといい答えが見つかる」と譲らなかったのだ。問いかけられたヒロシはしばらくの間じっと黙り込んでから話し出した。ゆっくりと頭の中にある考えを声にしていくような喋り方だった。

「——さあ、どうだろう」思い出したその言葉が別の誰かの声を伴ってこの時、大輔の耳に入り込んできた。

 思わず足を止めて声の方向へ振り向く目に、地味な背広姿の男の首を傾げる姿が映った。「山本さんが似たような質問をされて答えるのを聞いた事があるけど。そもそも本当に怖いのなら、能力者に逆らおうとか思わないはずだよ? だって、怪我させられるかもしれないし、もしかしたら殺されるかもしれない。だとすると、傘を投げたりするのはようするに、怖いとかじゃなくて、自分の周辺に近づいてきてほしくない。関わりたくないって事なんだよ。俺の世界に入ってくるな、って事だ」

「入ってくるな、ですか」その言葉を今はじめて聞いたとでもいうように太ったひとりが目を瞬かせた。背広姿の男が肩をすくめる。「だって、そうだろう? 怖いと思うものにあえて歯向かおうとする人間はいないから。本当は檻にでも放り込んでおきたいんだ。ライオンやトラみたいに、隔離されていれば安心できる。動物園みたいに自分達が見たい時だけ、触れ合いたい時だけ傍にいけるようだったらいいと思っている。人を食い殺せるだけの牙と爪を持っている、厄介な生き物だからね」

 立ち止まったままの足を大輔は意識して動かした。これ以上聞いてはいけない、と思った。ヒロシの言っていた事を言葉選びこそしながらも同じニュアンスで語る背広姿の男も、これ以上見ていたくはなかった。自分の心の中にある、一番誰にも触れられたくない醜悪な部分をごっそりとくり抜いてひとりの人間として、存在させているかのようだった。男の言葉には身震いするほどの懐かしさと、それと同じだけの怖さがあった。

 ゆっくりと、そして次第に歩調を速めている間も、彼らの会話は続いている。遠ざかる大輔の耳に最後に届いた声は、背広姿の男の嘆息混じりな一言だった。

「まあ、怖がっているのは僕らじゃない。怖がっているのは、無力な彼らのほうなんだよ」


   * * *


 正面入り口の自動ドアを開けて中に入ると、さりげなくいくつかの視線が向けられた。受付カウンターに座っている、数人の婦人警官の眼差しだ。彼女達の目は束の間、入ってきた人間は自分の担当する部署に用事だろうかと観察するように向けられて、そして違うと判断した時点で、あっさりとそらされる。分からない時は意味深な眼差しが続くけれど、声をかけられる事は滅多にない。

 そうして、ひとり、ふたり——、と婦人警官の視線がそれていくうちで、ひとりだけカウンターの向こう側で椅子から立ち上がった人間がいた。「あぁ、小野君。ひさしぶり」ひらひらと振られる手は、街中の雑踏で遠目に偶然知り合いを見つけて注意を引こうとする仕草のようだ。人が溢れかえってもいない警察署では無駄に周囲の人間の視線を集めるだけの行為でもあって、大輔は思わずため息をついてから彼女のいるカウンターに向かった。

「やめてください、先輩。その、恥ずかしいんで」といって、振られる彼女の手を掴んで、カウンターの上に下ろさせる。大輔の発言に目をきょとんとさせてから、ようやく気づいた様子で周囲を見回して、彼女は小さく舌を出して苦笑いした。そうすると大輔よりもだいぶ年上のはずなのに同年代ぐらいには見えた。

 警官時代に、世話になっていた先輩のひとりだ。彼女に限っていえば、退職してからのほうが世話になっているともいえる。

「あ。ごめんね、小野君」これほど悪びれない謝罪もないだろうと思うぐらいにあっけらかんと言ってから、彼女はカウンターにボールペンと記入用紙を置いた。「そろそろ来るんじゃないかと思ってたのよ。だから勘が当たって嬉しくてね」

「すいませんけど、今日はそっちの用事で来たんじゃないんです」言いながら大輔はボールペンのキャップをはずした。もう何回も書き続けている書類に今回も、同じ内容の記載を手早く済ませて彼女に手渡す。「でもまた、受理されてなかったんですね」

 指で一つ一つの欄を確認し、最後にこくりと頷いてから先輩は不思議そうに首を傾げた。「いつもちゃんと不備がないって確認してるのに、どうして記載不備で毎回返ってくるのかな。ある意味、都市伝説よね」

 それはうちの兄の仕業です。とは、さすがに言えず、大輔は無言のまま唇を引き結んで、ボールペンのキャップを戻した。カチ、と軽い音を立ててしまったボールペンをカウンターの向こう側にあるペン立てになおす。

 兄が、失踪した大樹の捜索願いをもみ消していると知ったのは、退職する数日前だった。

「まあ、今回は大丈夫でしょ」と、書類が不備で返ってくるたびに書き直す大輔へ言う台詞を今回も言って彼女は、「それで別の用事ってなあに? なにか盗まれた? 事故にあった?」書類をカウンターの上の小さな棚に片付けながら質問した。答えれば、それに応じた書類を出そうと待っている手を見ながら、大輔は首を横に振る。

「生憎、そういうんじゃありません」

「だったら、お兄さんと待ち合わせ?」半年前から続いている仲違いを知らない先輩の声は明るい。彼女の中での小野大輔はいまだ、二歳年上の兄を心底尊敬する青年でいるのだろう。「お兄さん、さっきパトロールに行っちゃったから、当分帰ってこないと思うけど。待ち合わせするならちゃんと、時間とか決めておかないとね」

「兄に用事はありません、」気をつけて言葉を選んだつもりだったけれど、愛想のない声が思ったよりも冷淡に兄の事を切り捨てていた。言ってから、しくじった気まずさに無意識に唇を噛み締めてしまう。

 意外な返事として受け取ったらしい先輩が一回、大きく目を瞬いた。なにか言いたげに唇が揺れるのを見る。

 本当は書類に不備なんて一つもない事は、長年受付カウンターに座っている本人が一番よく分かっているだろう。それでも毎回返されてくる書類への不信感を後輩である大輔に問うでもなく、ただ不思議がるだけで付き合ってくれている。もう書くなと言うでもなく、大輔の気持ちを何よりも尊重してくれている。世話好きというか、困っている人を見たら助けたくなるその性分が、さっきの大輔の言葉に反応してむずがっているようだった。

 詮索される前に、大輔は話を打ち切った。

「高柳さんに——…、課長に、呼ばれたんです。今日の朝、電話で」初代の魔女の件で、と言う気にはなれなかったので、ひとつ息をついてから嘘をついた。「引継ぎの件でひとつだけ、うまくやっていないのがあったらしいので。時間があれば来てほしいと頼まれて来ただけです。兄さん、とは関係ありませんよ」

 兄、を、兄さん、に変えるだけで随分と言葉が柔らかく聞こえた。結局他人行儀な言葉よりも長年言い慣れた言葉だからだろう。先輩はもう一度、さっきよりもことさらゆっくりと瞬きをしてから、「そう、」とまず小さく頷いた。「小野君がやめたの半年前なのに、ずっと気づかなかったっていうのも間抜けよね」

 詮索しないから。暗に告げられた言葉に便乗して、話をそらす。

「忙しかったんでしょう。模擬魔術事件でずっと忙しかっただろうし」

「そうね」応じて、彼女は口元をゆるめた。「対魔術課はそうでなくても人員が足りなくて大忙しなのに、働き盛りの子がひとりさっさと辞めちゃったらそれは、大変よねェ?」最後のほうはどちらかといえば張りぼてのような意地悪さがあった。問いかけの形をしていても大輔の返事を期待していないのは明らかで、間を少しも置かずに彼女はちらりと視線を、大輔の背後へとやった。

「二階以上にあがるお客さんを案内するのも私の仕事の一つなんだけど、どうする? 対魔術課まで案内しようか?」

「さすがに引越しでもしていない限りは迷いませんよ」

 苦笑いで丁重に先輩の申し出を断って大輔は、彼女が視線を向けた背後のエレベーターのほうへと踵を翻した。そのままロビーを立ち去ろうとするのを引き止めたのは、音もなく開いた自働ドアから入り込んできた外の音だった。

 自動ドアを開けたのは、ごく平凡そうな男である。その男の靴音と共に耳に入ってきた、機械越しにノイズが絡まった音声に大輔は立ち止まっていた。振り向いてドアのほうを見ても、あるのは駐車場のアスファルトの色ぐらいなものだったけれど、その音声がなんであるかを察するのは簡単だった。

「あら、外は随分と賑やかなのね。選挙なんてなかったと思うけど」と、音の正体に気づいてないらしい先輩の他愛ない声である。さすがにさっきの音声が能力者解放戦線の演説だと教えれば多少は眉をひそめるだろうけれど、あえて告げる理由もなかったので大輔は口を噤む事にした。

 でも、と心の底では呆れた思いだ。

 いくら半年前の模擬魔術事件の首謀者を“組織内における一部の過激思想を持った能力者”と触れ回っていても、半ば無差別殺人のような事をしでかした組織が警察署を前にして、組織のアピールをしているのだから。腹いせ交じりにしょっ引かれても文句は言えない気がする。

 それとも警察への連行のリスクを背負っても、彼らはこの近くで演説をしなければいけないのだろうか。確かに警察署は大通りに面しているから、陣取って演説をすれば自然と多くの人の耳に入っていくだろうけれど。昨日と今日、二日間で場所を変えて四回、能力者解放戦線のメンバーに遭遇しているというのも、半年前の大事を考えれば頻度が高い。なんだかんだで半年前、事件をきっかけにして行われた一斉摘発で幹部達の大半は逮捕され、下っ端は下っ端で逃げ出したもの、知り合いの説得によって抜けたものが大勢出ただろうから、これ以上の弱体化を防ぐ意味でも新しい仲間の勧誘は彼らにとって急務なのかもしれない。

 しかし、能力者仲間のうちでも能力者解放戦線は鼻つまみものだ。表面上は波風立てずに共存してきた能力者と一般人の境目を力任せに揺さぶり、亀裂を作り出してしまっている。亀裂が隙間になり、最後は飛び越える事もままならない溝となるのを恐れている能力者は思いの他、多い。

 そこまで考えが行き着いたところでひっそりと、息をついた。

 ——まあ、俺には関係のない事だけど。と、大輔は内心で静かにピリオドを打つ。

「あの、」と、カウンターにいたひとりの婦人警官が先輩に声をかけた。周囲に聞かれるのを憚る押し殺した声ではあったけれど、自働ドアが閉まるのと一緒に外から入り込んできていた声を締め出したロビーの空気は、さっきまでの静けさを取り戻している。耳をそばだてる必要もなく、聞こえてきた。「道路を挟んで向こう側の公園で、能力者解放戦線が街頭演説をしているらしくて。警察の威厳はどこに行ったんだって、あの人が——……」

 あの人というのはさっき入ってきた男だろう。

 視界の外側で見えなかったものの、能力者解放戦線、の単語が出た瞬間、先輩が顔をしかめるのを感じた。物静かなりに穏やかだったロビーの空気に剣呑が落ちてざわめく。

「そうね、」と、先輩が前置きのように言うのに大輔は振り返っていた。気配のようなもので、呼ばれるのではないかと思ったからだ。伏せ眼がちにカウンターを眺めていた彼女は目を上げると、すぐさまかち合った大輔の視線に面食らった顔をしたものの次の間には、苦笑いに近い笑みを浮かべた。

「ついでに対魔術課の誰を呼んでくればいいんですね?」彼女の言いたいだろう事を推測して訊ねると、彼女は苦笑いのままこくりと頷いた。「お客様をこき使って悪いね。その代わりといっちゃらなんだけど、書類のほうはちゃんと死守するから。今回は任せておいて」言って、自身の胸元を叩いてみせた。

「まるでその言い方だと、今までは適当だったように聞こえますけど」

 こっちも苦笑いを添えた軽口を言ってから歩き出した。ちょうど上階から降りてきたエレベーターに乗り込んで、対魔術課に向かう。


 三階の一角にある対魔術課は通り過ぎてきたどの課よりも物静かだった。絶対数として部署にいる人間そのものが少ないから、彼らひとりひとりがせわしく席を動き回っていても全体的にはひっそりとした雰囲気なのだ。——と、対魔術課の事を表面的にしか知らない来客者なら思うのだろうが、なまじ彼らの内情を知っている大輔の肌は、少ない人数ながらに他の刑事課や生活安全課と同等のスペースを有している部屋の空気が、ぴりぴりと静電気を帯びたようになっている事に気づいていた。忙殺されすぎて殺気立っている空気である。

 さて、こんなところに半年前にいきなり退職した同僚が来たらどうするかな。とふと思った時には、想像するよりも先に声をかけられていた。「あれ? 小野? ……、小野、大輔のほうだよな?」部屋の中央に向かい合う形で寄せられた六つの机の右端にいた男が目を丸くして、入り口の前に立っている大輔を見る。半年前に大樹が失踪したのは同僚であるこの男も知っている、そもそも大輔と共に現場にもいた。一応の確認といった口調で続けられた名前に大輔は頷いて、「久し振り」とありきたりな挨拶を口にしてから、視線を部署の一番奥へと投げた。部下達の机の先、大きめにとった窓ガラスを背にする格好で机が一つ置かれている。

 視線を受け止めて、机に座っていた高柳がゆっくりとした動作で立ち上がった。

「待っていたよ」たった一言の他愛ない口調に、声を投げかけられた大輔ではなく目を丸くした男のほうが先に早く反応して顔をしかめた。突然の驚きが過ぎ去るとようやく、どうして大輔がここにいるのかという疑問が生まれたらしい。無論、模擬魔術事件の後処理で大忙しだった頃にろくな事情説明もないまま辞めてしまった大輔が、と反感しかない前置きがついている。

「——そういえば、一階の受付の人が対魔術課の人間を寄越してほしいと言ってました」同僚が何かを言い出す前に、先輩から頼まれていた事を高柳に告げた。「警察署の前で能力者解放戦線のメンバーが演説しているそうですよ」

「そうか」と上司が応じた時には、男が席から立ち上がっていた。

「俺が行ってきます。恐らく路上使用許可を取っていない無断での演説でしょうから、向こうもそんなに抵抗しないでしょうしね」言って、部屋から立ち去る。大輔の傍らを通り抜け、早足で遠ざかっていく。その靴音が消えるまで耳を澄ましながら、大輔はひっそりと息をついていた。

 避けられた、と思った。向こうからすれば、なまじ嫌味を言わないために距離をとった、というところなのだろうけれど。

 ひとりいなくなった事でますます閑散とした雰囲気が深くなった対魔術課の室内で高柳は、男が座っていた机の斜め向かいに腰を下ろしている部下へと「悪いが、私はこれから彼と大事な話があるから小会議室に行く。何かあれば携帯で連絡してくれ」告げて、入り口にいる大輔の肩を軽く叩いて廊下に出た。

「気分を害したなら私から謝ろう」と、上司然とした声が言う。「君が抜けた穴を埋めたのは彼だ。その分だけ苦労もしただろうし、君に言いたい事もあるんだろうが」

「分かってますよ、」ただ無視されたと憤るほど子供ではない。身勝手な大輔の行動に元同僚が腹を立てるのは当然の事だったし、一方で大樹の一件が遠慮となって、文句を吐き出したい口を塞いでいる事も察しがつく。

 小会議室は対魔術課を出てすぐの場所にあった。

 扉の脇のプレートを「使用中」に差し替えてから、ふたりは部屋に入る。せいぜい十人程度しか収容できなさそうな室内は、すぐに会議が行えるように、長机が四角形の形に辺として置かれていて、入り口から見て手前の奥には使い古されて本来の白色をなくしているホワイトボートがある。大輔に一番近くの折りたたみ椅子を勧めた高柳自身はそのまま辺をなぞるようにして、大輔と机と空間を隔てた反対側に回りこんだ。

「単刀直入に言おう。初代の魔女を探すのはやめなさい」と、席に座って彼は言う。

 反論を許していないのはもとより、上司と部下の関係であった時でさえ言われた事がないほどのはっきりとした命令だった。この有無を言わさぬ口調で告げるためにわざわざ必要以上の距離をとったのではないかと勘ぐりたくなるぐらいだった。こんなに離れていたら剣呑を抱いてもまず手をあげるよりは、口を開くほうが早い。

「どういう意味ですか?」理由がないものに従うつもりはない。部下としてではなく、あくまで忠告を受ける立場として質問する。「初代の魔女を探すと何か問題でもあるんですか? その前に、やめるように俺に言うのは叔父さんとしてですか。それとも、課長として?」

「両方だな」応えると、高柳は困ったように口元を緩めた。「しかし最初に聞いてくる事は、初代の魔女は都市伝説ではないか? だと思っていたんだが」意外だった。と言いたげな口振りが一方で、言葉なく問いかけてくる。

 実在しているという確信を、一体どこで見つけてきたのか。

 隠す必要を感じなかったので、「初代の魔女の情報を頼んだ情報屋がその日のうちに根をあげてきたんです。探せば命はない、と脅されたって」ありのままを話して再び質問した。「高柳さんも、その用件ですか?」だとすれば、初代の魔女の周囲に張り巡らされた有刺鉄線は想像以上に頑丈で隙間がないかもしれない。

 情報屋が脅されたのはあくまでも、裏社会だ。そして大輔が今向き合っている男は、表社会に属する。つまりは裏と表が交差し合い、行く手を阻んでいる事になる。そこまでして隠蔽しなければならない何かが、「初代の魔女」という対象には潜んでいる。

「恐らくは、同じ用件だろうな」高柳は口元の笑みを深めた。「そして君の性格上、納得のいく答えを得られなければ指示には従わないだろう? わたし達の間に、上下関係が存在するならまだしも」

「……でも、話してくれるんでしょう?」高柳はその気だろう。でなければ会議室でこうして顔を突き合わせているのはおかしいだろうから。深入りしない忠告を口にするだけのつもりならば、人の出入りがある対魔術課の室内でも十分だった。

 初代の魔女に潜んでいる何かを大輔の前に晒して見せるために、高柳はここを話し合いの場所として選んだはずだ。廊下を行き交う人間がどれだけいても、「使用中」のプレートが差し込まれている会議室の扉を開けようとはしないだろうし、防音設備も行き届いている。

 問いかけに元上司は物静かに頷いた。

「最初に言っておくと、話せる範囲の事は決まっているんだ。君がどれだけ先の事を知りたいと願っても、それが話せる範囲を超えていれば私は沈黙するしかない。でもそれは私の保身のためでもあり、君自身のためでもある。初代の魔女について、多くを知りすぎた人間は遅かれ早かれ命を奪われてきた。……社会的抹殺、という意味も含めてね」

 そうして一旦言葉を切り、悲嘆そのものといった息をついてから彼は続きを話し出した。「まず、初代の魔女は実在する。何かの情報の暗号というわけでも、兵器の隠語でもなく、能力者として生まれた一人の女性を指す単語だ」

「能力は男にしか発現しないって言われてますけど」

「突然変異という見方が大半だな。今現在でも、彼女以外に能力を持った女性が生まれてきたという報告はない。君も知ってはいるだろうが、そもそも能力は男性特有の遺伝子情報の中に存在するもので、生物学的に見ても女性が能力を持つ事はありえない。——ありえないからこそ、彼女が発見された時、学者達は歓喜したわけだ。まだ、「研究所」が健在だった頃だから」

 頭の中で年数を数える。「二十二年前以前、ですよね?」

「三十年前だ。政府が研究所を立ち上げたのが三十五年前だから、五年後の話だな。——、そのあたりの事は学校の授業で習っただろう?」そう大輔に訊ねてから噤まれた唇は、自分から答えを告げる気はないと言いたげに頑なに引き結ばれていた。教科書に載っていた事、現代社会でも歴史でもなく、道徳の時間に学んだ事だ。高校を卒業して久しい頭の中からは難解な方程式の解き方は綺麗に抜け落ちているけれど、広げたページの右半分を使って掲載されていたモノクロ写真の事は、いまでも不思議なほどはっきりと覚えている。

 白と黒だけの画像にも関わらず、写真の大部分を占める灰色の壁はとても寒々しく見えた。壁よりも若干薄い色で映る中央の台、手術台と表現するのが一番適切だろうそれに点々とある歪な形の汚れは、モノクロでは映せないはずの毒々しい赤色のようだった。

 淡々と他人事として、一行の文章が写真には添えられていた。——研究所内、実験室。

 思い出すと、自然に眉根が眉間に寄る。まるで、確かにその実験室で痛めつけられた体の箇所があるのだと主張するように、じくりと胸の奥が痛み出す。古傷が雨で疼くのに似ていた。

「大丈夫か?」と投げかけられた声に、顔を上げる。

 それは俺の台詞だろう。と、大輔は心の中で思った。高柳は今年で三十五歳だ。当時能力者として生まれた子供はこぞって研究所に預けられていたそうだから、二十二年前まで存在していた研究所にいたのは確かだろう。

「……、大丈夫ですよ」応えてから一度、深く呼吸をする。そうして心の中に溜まりだしていたむかつきごと、深々と息を吐き出した。「普段は忘れてるようでも案外覚えているもんですね。迫害の歴史、っていうのは」

 二十二年前まで、模擬魔術は一般的には普及していなかった。

 今では生活を支える一つの柱とも言える技術を一括に管理していたのが時の政府であり、その政府の管轄下において模擬魔術を研究開発していたのが、いわゆる「研究所」と呼ばれた組織だった。正式名称は、能力者矯正支援センター。建前上は、三十五年程前から一気に増加しはじめた能力者と一般人とのトラブルを未然に防ぐための、能力者専用施設。当時は今よりも能力を持った子供を捨てたり育児放棄をする親が多かったため、養護施設のような感じであったらしい。

 その施設で、親から捨てられた能力者の孤児達は専門家やカウンセラーの手厚い援助を受けながら育っている。幸せに暮らしている。

 創設されてから十三年後、つまりは二十二年前、研究所が突如火災に見舞われ、今までまったく研究所と関わりのなかった地元の消防隊が逃げ遅れた者達を助け出そうと施設に駆け込むまで、世間はそう思っていた。駆け込んだ消防隊の一人が、和やかな養護施設然とした一角に不自然なまでに頑丈に閉ざされた扉を発見し、こじ開けて中を見た。その光景を消火完了後に写真に収めなければ、世間はもう少しの間ぐらいは無関心でいられただろう。

 公開された写真こそ大輔の脳裏に今も焼きついている、薄ら寒い空気を漂わせた実験室の光景だった。

 世間に広く浸透していた「能力者のための施設」というイメージからはあまりにもかけ離れたその写真を、政府はまず門前払いにした。けれどそれでは世間が納得しないと分かると今度は、事実無根の写真だ。捏造だ、と唾を撒き散らしながら主張するようになった。

 けれどちょうどその時に、ある企業から新商品として煙幕の出るリングが発売される。同時期にとある出版社が、火災の際に施設から逃げ出した能力者のインタビュー記事と彼が命がけで持ち出したという研究所内の機密資料を大々的にページを割いて掲載した。そして、新商品の外観や構造がその資料のひとつにとても酷似していた事が、知らぬ存ぜぬを繰り返す政府を袋小路に追い込む結果となった。

 世間が事の真相をちゃんとした言葉で聞くのは、それから一年後になる。衆議院選挙で惨敗した政府に代わり第一党に躍り出た現政府が即日に調査委員会を創設し、判明したことのすべてを国民に伝えると約束したからだ。

「初代の魔女の事は分からなかった、という事ですか?」

 明るみに出た事は、能力者矯正支援センターとは名ばかりの、関係者の中では少しの温もりもない「研究所」と呼ばれていたその場所で、非人道的な行為が日常的に行われていたという事実だった。隠された目的は、能力者の力の解明と応用。毎日血液を抜かれ、内肘の柔らかい皮膚の部分が痣のように青黒く変色した者もいた。普通の血管から血を採取できなくなれば、耳朶のような、本来採血するのに相応しくない場所から強引に取る事もままあったらしい。

 これらの情報は“国民が知るべき能力者迫害の事実”の位置づけをされる一方で、研究所を設立させた前政府と政権交代を果たした現政府がまったく違うものなのだと国民に印象付けるためにも使われた。二十二年たった今、現政府にもそれなりにスキャンダルがある。政治家にありなちなカネと汚職の問題は新聞やニュースを騒がせてはいるものの、まだ誰の口からも政権交代をすべきだという声はあがっていない。この国は二大政党制だから、表で一般人と能力者の平等を謳い、影では人体実験と謗られても大袈裟だと言い切れない事をやらした党に再び、政治の中枢を任せるのか? と、政権交代という単語に付きまとうその問いに、「はい」と断言できる者がまだ現れていないのだ。現れにくいように、政府は能力者問題を操ってきた、ともいえる。能力者の敵=前政府として、彼らの悪行をひとつひとつ見つけては白日の下に晒してきたのだから。

 高柳は静かに目を伏せ、机の上で両手の指を組み合わせた。「分かってはいるだろう。ただ、ここ二十二年で政府は、能力者の味方を演じ続けてきた。能力は不可思議な力こそあるが普通の人間であり、絶対数が少ないから大勢の一般市民に迫害されれば生きていけない。能力者=弱いもの、という位置づけで彼らは、弱きを守る立派な政府を演出してきたわけだ」

 能力者の施策として、政府は能力者の力の応用技術を民間企業へ解放する事で今まで国が独占していた情報を統べて手放した。研究所を潰し、今度こそ能力者ための支援施設を建設した。その傍らで模擬魔術や能力者自身による犯罪が横行し始めると、警察内に能力者だけを揃えた対魔術課を作り、対処を命じた。能力者を庇護しながらも一般人との折り合いを図り、双方が歩み寄れる社会環境を築く——、半年前までは順調に行っていた、といえるだろう。

「模擬魔術事件のせいで一般市民はまた、能力者を恐れ出している」苦々しい声には、対魔術課として事件を見現に防げなかった後悔も混ざっている。「その上で初代の魔女と誰かが接触し、彼女自身の口から研究所の火災の事実が世間に広まれば今度は、前政府のとった非道な行為のほうが正しかったと言われかねないと恐れているんだ」

 高柳は息をついて指を解いた。瞼を上げて、大輔を見る。

「政府の見解では、火事は煙草の火の消し忘れになっているだろう? しかし本当は、初代の魔女と彼女に呼応した過激派達が引き起こした暴動の結果としての火災だった。彼らは研究所から逃げ出すために施設内に火を放った。研究者達はもちろんの事、自分達の同胞である能力者が焼け死ぬ事も厭わない行動だ」

 大輔は息を吸い込んだ。喉の奥が干上がっていてひりひりと乾いた痛みを訴えていた、唾を二度三度、飲み込んでからようやく口を開いた。

「、それで、初代の魔女を探してはいけないんですか?」

 能力者が政府の庇護を受ける理由ともなった火災の事実。一般人が恐れを抱くかもしれないから、という理由は表としては十分だろう。けれど、裏社会にまで禁忌として広がるにはまだ何かが足りない。

 大輔の疑念に高柳は応じた。今までの口調の中で、ひときわ感情を押し潰したように低い声だった。「研究所は初代の魔女を発見してすぐ、彼女の卵子が使用可能か検査した。両親が共に能力者だった場合、その子供はどんな能力を受け継ぎ、一般的な子供との差異はあるのか。研究者にとってみれば、女性の能力者がいない以上は調べようのない事だったから、興味は尽きなかっただろうな。魔女は幼くして遺伝子上の母親になった。さすがに母胎は既婚者の子宮を使ったらしいが。その最初の、魔女の子供の能力データが、裏社会に流れたらしい」

 大輔は首を傾いだ。「流れて、……どうなったんですか?」

 裏社会は初代の魔女を禁忌とした。ある程度名前は通っていてもしがないはずの情報屋でさえ少し魔女を探そうとしただけで命の危険を告げられるほどに。結論はあるものの、そこに辿りつくまでの経過が分からなくて高柳を見る。

「人を殺すのに、爆弾と包丁、どちらがいいか? という話だよ」と、声の調子は変わらずに告げられた。「爆弾と包丁なら確かに、殺傷力は爆弾のほうが高いだろう。しかし場所を選び、無関係な人間を巻き込みかねない。包丁ならば、動脈の位置さえ分かっていればその人間だけを殺す事ができる」そうして一旦噤んだ口を引き飛ばすようにして、笑みを作った。筋肉を動かしただけのそれは、感情のない声と同じものだった。

 能力者も同じだろう? と、笑みは訊ねてくる。だから裏社会は初代の魔女を禁忌としたのだ。

 目を、大輔は大きく瞬いた。第三者が扱いきれないほどの能力を秘めた子供を産み落としたために裏社会で、存在さえ探る事を禁止された女性。けれども、彼女よりもまず、気にかかった事がある。

「初代の魔女の子は、死んだんですか?」そうでなければおかしな話だ。禁忌がひとつだけというのも、可能性以上に現実としてすでに存在しているものを問題視しない事も。

 簡単に行き着いた答えだったけれど、高柳はすぐには即答しなかった。「——……、研究所の火災では、多くの能力者が死んだ」嘆息そのものを声にして彼は言うと、目を大輔から傍らにあるホワイトボードへとやった。「そもそも能力を持った子供は育てられないと、半ば親に見捨てられるようにやってきた子供も多かった。遺体の半分以上は身元不明だ。魔女の子供が生きているかどうかは分からない」

 詭弁だろう。死んでいると、確証がなければいけないのだ。

 嘘をつくのに目をそらす癖が、彼にあるわけではない。けれど、何かが書かれているわけでもない汚れたホワイトボードにただ置かれている高柳の視線は、分かりやすく大輔から目をそらしているだけのように見えた。

 しばらくして、高柳は一度瞼を伏せてから、大輔へと改めて視線を据えた。

「どちらにしても、初代の魔女には触れてはいけない。理由はそれぞれ違っても、表と裏でその約束が交わされるのは簡単だった。探そうとするものがいれば止める事、止めても探そうとするのなら実力行使も辞さない。そういう決まりだ」最後の言葉の部分にだけ、ふとしたかすかな揺らぎがあった。自嘲げに声を滲ませて高柳は続ける。「忠告するのはこれで、二度目だ。一度目の人間は、自分がどうなってもただ事実がほしいと言い切って、最後には死んでしまったな」

 背筋が条件反射的に震えた。その一度目の人物を殺したのは俺だ、とは邪推でもしなければ閃かない結論だろうに、据えられている眼差しがそっと物静かに引き絞られるのを見て、大輔はその暴論を、咥内にいつの間にか溜まっていた唾ごと喉の奥へと飲み下していた。——そう、思わせる事が肝心だ。実際に手を下すよりも、もしもを想像させることで尻込みさせ、引かせる事の方が重要だ。冷静な部分は興醒めした冷淡さで断じていて、大輔自身、その感覚のほうが正しいのだろうと思ってはいるものの、肌を粟立てた悪寒はすぐにはなくなってくれなかった。

「ところで、」と、高柳は話題を変える。こべりついた悪寒を綺麗に剥ぎ取れないままに大輔は高柳を見た。「どうして初代の魔女を探していたのか、聞いていなかったね。君がただの好奇心で、いまや都市伝説と化している彼女を探そうとするとは思えないんだが」

 視線がかち合い、そらしたのは大輔が先だった。「言えません」

 依頼人を守らなければ、とまず思っての拒絶だった。けれど言い捨てて一文字に唇を引き結んだものの、小さく小首を傾げた高柳の目が淡々と見つめてくる威圧感に次第に耐え切れなくなって結局、再び口を開いた。負け惜しみのように、苦味のある声が出てきた。「——、人に頼まれました。でも、その人も本気で初代の魔女がいるとは思ってないでしょう。ただの酔狂ですよ。だから、俺が「いなかった」と嘘をつけば、きっと依頼人も諦めてくれます」脳裏に蘇る、一億円の光景はこの際、忘れる事にした。依頼人が見せた一億円分の本気は、大輔が説得したところでそうそう消えやしないだろうとも思ったけれど、これも気づかない振りをする。

 高柳は、「そうか」と短く応じた。大輔の説明を受け入れるように頷いてから、「君はこの件から、手を引いてくれるんだね?」訊ねる口調は念押しというよりは、最終確認といった様子だった。ただ、断られるはずがないと自負しているからではない。もしそうなった時には最後の手段しかない、と覚悟を決めている問いかけだった。

 頷きかけて、半ば顎を引きかけたところで大輔は動きを止めて、上目遣いに高柳を見遣った。「条件がある、……って言ったら、聞いてくれますか?」大輔が聞く耳を持たなければ、社会的抹殺でも文字通り命を奪う事になっても仕方ない、とさっきの問いかけは暗に告げていた。そんな相手に条件も何もないのは重々承知していたけれど、微々たるものでも受け入れられる可能性があるのなら、大輔は言わなければいけなかった。

 若干、高柳の表情が引き締まる。「大樹の事か?」

「そうです」緊張。拒絶。ささやかな元上司の変化を感じ取り、大輔も居住まいを正す。「大樹の捜索願を受理してください。受理してくれるなら俺は、初代の魔女の事を諦めます」

「大樹は成人している。子供の行方不明ならまだしも、成人した人間の捜索願はあまり重要視されない。大人は知恵も働くから、自分から失踪したのだとすれば警察が発見する事は困難だ。その点は君も、知っているだろう?」

 額縁通りに聞き入れれば提出しようとしていた捜索願の届けを断念せざるおえないような質問に大輔はあっさりと頭を打ち、けれど条件自体を引っ込める気はまったくない事を感じ取ると、高柳は言葉を続けた。淡々とした声だった。「それに、大樹が失踪したのは模擬魔術事件の真っ只中だ。——逃げ出したんだと、思っている人間がいないわけじゃない」

「だからって受理するのを拒むのは違うでしょう?」

 身内の恥を不特定多数に広めたくないために捜索願を引き下げる大智の行為と同じだ。

「——……、分かった」置かれた間の割りに、他愛ない応え方だった。「君の弟の捜索願は受理しよう。君の兄にも邪魔はさせない。その代わりに君自身は今後、初代の魔女に関わらない事を約束してほしい。初代の魔女だけではない、君に彼女の捜索を依頼した人物とも関係を絶つ事。いいね?」

 でなければ、命の保証はしない。言葉の形をした見えない刃の切っ先を鼻先寸前に突きつけられたような心地で、大輔は神妙に頷いた。もとより、門前払いされる事も覚悟の上で切ったカードなのだから。「分かっています。約束は、守ります」

 真摯に応えた大輔の姿勢をそのまま鏡で写し取ったかのような生真面目な面持ちで高柳は頭を打つと、ふと硬く引き締まっていた顔の輪郭を柔らかく崩した。この部屋に入り彼が口を開いてから始めて目にしたと実感できる、心からの笑みだった。

「さて、じゃあもう話す事はない」言って高柳は自身の手首にある腕時計に目を落としてから、大輔の肩越しに背後の扉へと視線を投げた。「君としても、そろそろここを離れないとまずいだろう。君の兄は優秀だからパトロールをサボって早く帰ってくる事はないが、寄り道をする事もないからな」

「じゃあそうします」大輔は立ち上がった。さすがに警察署の中で鉢合わせたら、街中での遭遇よりも面倒は格段に増える。模擬魔術で強引に逃げ出すわけにはいかないし、かといって減らず口で周囲の注目を集めたくもない。

 高柳に頭を下げ、背中を向けていた扉のほうへ体を翻した時だった。

「そういえば、君にひとつ聞いておきたい事があったんだ」とかけてきた声に引き止める類の強さはなく、どちらかといえば世間話の続きのような他愛ない響きだった。真剣味も感じられない声音に肩越しに顔だけを振り向けると、高柳は首を傾いで口を開いた。「その後、体の調子はどうだい? 能力障害の影響は大丈夫だろうか?」

 大輔は体ごと改めて高柳に向き直ってから頷いた。「大丈夫です。特に問題はありません」

「病院にはちゃんと通っているのか?」高柳の視線がそっと静かに大輔の体の線を撫でる。

 通ってなんていない。そんな時間と金があるのなら、費やすべき対象は自分ではない。そう決めて半年前に、自分でも意外なほどにあっさりと切り捨ててしまった事を改めて親身に問われると、自分で下した結論をそのまま口にする事は出来なかった。思わず言葉を探すように、目を高柳から天井へとそむけてしまっていた。

 空いた間とそれた目が、高柳にとっては何よりのヒントだっただろう。ふいにしかめられた顔を見る限り、本人が望んでいた答えからは程遠かったようだけれど。「通っていないのか? 警察を辞めてから半年間、ずっと?」

 息をつき、視線を落として真正面に高柳を据えてから、応えた。自分のしている事は正しいのだと主張する、頑なな声が出てくる。「あれは単に、能力がなくなっても普通に生活出来るようにっていうリハビリ目的の通院です。根本的に、なくなった能力が戻ってくるわけじゃない。通う必要性を感じなかったら辞めました」

 短い嘆息が高柳の口から落ちた。「能力者は突発的な事態に遭遇した時、能力に頼る傾向がある。その能力がなくなっている状態でリハビリも受けずに放置しておくのは危険だ。かすり傷で済む事が大事に発展する場合もあるんだよ?」

 分かっている。その説明は十分に、リハビリを辞めると主治医に告げた時にもされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ