第1章 -8話
秋の足音が近づく、新月の夜。
エーデルシュタイン家の古城は黒いシルエットとなって、群青の闇に溶け込んでいる。
グリーベルの湖も、今は黒い闇を湛えているかのようだ。
その闇に紛れ、古城の地下に忍び込む一つの影があった。
地下には元々は貯蔵庫や地下牢などがあったが、今はクララの父であるギュンター・エーデルシュタイン伯爵の
研究施設として使われている。当然のことながら、関係者以外の立入りは固く禁じられた場所だ。
時間帯は深更で、今夜は居残る者もいないのか静まり返っている。
静かなゆえに遠くから何か水の滴るような音がするのが、石壁に反響して聞こえていた。
地下へ降りるまでに二箇所ほど施錠されていたが、魔法で施錠されているわけでもないただの鍵なら、
開けることは造作もないことだ。
足音を消し、気配すら闇と同化しているような侵入者は、灯りすら手にせず、
ほとんど真っ暗闇の中をまるで見えているかのように進んでいく。
事実、彼女にはすべてが手に取るように見えていた。
迷いなく石の廊下を進み、奥まった場所の一つの扉に手を掛ける。
鍵は掛けられていないどころか、扉は少し開いていた。
中に入ると、異臭が鼻を衝いた。
そしてあの水の滴るような音。
部屋の中は雑然としていた。
四方の壁にはぐるりと棚が置かれ、そこに何かの頭蓋骨や正体の分からない骨、
魔法や錬金術の触媒となる鉱石や植物、ホルマリン漬けの臓器、昆虫、鉱石、精霊などのあらゆる標本。
瓶の中にびっしり甲虫が入ったものや、黴臭そうな本なども並んでいる。
部屋の真ん中には青い液体で汚れた手術台と思しきものがあり、そこから液体が石床に滴っていた。
手術台の横には、猛獣用の檻のようなものが無造作に置いてある。
中を覗くと、腹を大きく裂かれた獣が仰向けで倒れていた。
一見すると狼のようだが、大きな眼窩は縦に裂けていて、しかも三つある。尾も三本。
体毛が青銀色なのも彼女には見て取れた。四肢は筋肉が発達し、凶悪な爪を備えている。
内臓が露出し、腹の中は正視に堪えないほどぐちゃぐちゃになっていた。
なのに、その体はまだぴくぴくと動いている。
血走った眼が、どろりと動いて彼女を捉えた。
生きている。
「……異界の魔獣ですね」
口元を覆っていたマスクをずらし、彼女が独り言ちる。
マスクの下から現れた顔はクララのメイド、ハイデマリーのものだ。眼鏡はしていない。
いつものお仕着せのメイド服ではなく、体にぴったりと添う黒い革のボディスーツを着ている。
彼女が首元に巻いたスカーフから、あの黒い目玉がひょこりと姿を見せた。
「雑な解剖だな。美しさというものがない」
「異界の魔獣を解剖して、何を調べているんでしょうか」
「知れたこと。彼奴らの不老不死、永遠の命の秘密だろうよ」
異界の魔獣。
それは異界と呼ばれる別の次元から時折現れ、人々を脅かす存在だ。
この世界の常識から鑑みると奇妙で整合性のない不可解な姿をしているものが多いが、
総じて凶悪で生命力が高く、おそらくは不老であると見做されている。
「まあ、こんな下位の魔獣を調べても何も分かるまい。そもそもこいつらは不老不死ではないしな。
不老であり不死であるのは、魔族の連中だけだ」
魔族。彼らもまた、魔獣と同じように異界からこの世界に時折現れる存在だ。
だが魔獣に比べれば出現は稀で、人々は彼らについて詳しいことはほとんど知らない。
ただ人に似た姿であること、強さにばらつきはあるものの、災害級に強いこともあること。
次元を渡る確立した方法がなく、時折できた綻びからやってくること……などが知られている。
そして両者どちらにも共通するのが、人を食糧のように認識していることだ。
魔獣は魔獣狩りを生業とする賞金稼ぎや傭兵でも対処可能だが、
不老不死と目される魔族を斃すには、教会の対魔族騎士団の力が必要だ。
「できることなら魔族を解剖したいだろうが、人の力では魔族など捕獲できるまい。
そりゃ永遠の命への可能性を求めて、望み薄でもこういう下位の魔獣をつつくしかないだろ。
もしかすると魂の在り処についても何か分かるかもしれないし? ってな」
「やはり旦那様は……諦めてはいないのですね。亡くなった奥様を、生き返らせることを」
ハイデマリーが、暗闇の中で苦々し気に目を眇める。
「まあ反魂と不老不死は、魔法使いなら誰もが一度は通る道だが……
肝心の研究の中身は稚拙としか言いようがない。だいたい不老不死と反魂は全然別物だしな」
檻の中の魔獣が、グルルと喉を鳴らしている。理不尽な扱いに抗議するかのように。
起き上がれないのは腹を裂かれているからではなく、身体の下にうっすらと光って見える
魔法陣のせいだろう。動けないように、ここに固定されているのだ。
自己修復できるはずの傷が再生しないのも、同じ理由であろう。
それを憐れむでもなく冷ややかに見下ろし、目玉が嘆息した。
「目新しいトピックスは魔獣を解剖して調べていたことくらいか。
相変わらずホムンクルスどころか、私の体を作る材料になりそうなものもないな。
いっそ魔獣になるのも面白そうだが、手足がないのはちょっとなあ」
「執務室にある旦那様の金庫を開けられれば、何か出てくるでしょうか?」
「ああ……あの魔法で鍵かけてるやつか。厳重にしてるからには余程の秘密と見えるがな。
ただ鍵を破るのはお前なら容易いだろうが、アレは物理で開けてしまうと痕跡が残る。
今の私では魔法がロクに使えんから隠蔽できんし、破ったことがバレバレになってしまうな」
「……そもそも追われる身ですし、派手な痕跡を残すのは得策ではございませんね」
「伯爵はどこで聞いたのか、私のことを知っているようだしな。
我が秘儀を求めている奴にわざわざ餌を撒いたら、面倒なことになる」
「そうですね」
お嬢様の傍にいられなくなるのも困りますし。とハイデマリーが独り言ちる。
「現状は手詰まりだな。そもそも地上の魔法文明レベルには期待するべくもないんだが」
「やはり叡智の都市に戻られることも視野に入れるべきでは?」
「ははっ、長老どもは今さら私を受け容れはしないだろうよ」
そう言って目玉はぴょんと弾むと、ハイデマリーのスカーフの中に潜り込む。
「さ、帰ろう。これ以上ここにいても実になるものは何もない」
「そうですね。お嬢様のことも気になりますし」
「最近は発作が出てないんだろ? 良かったじゃないか」
「小康状態というだけです。このままであればいいですが……」
その言葉を最後に、ハイデマリーはマスクで口元を覆う。
音もなく部屋を出ると、まるで息づく影そのもののようにその気配は闇の中に消えていった。




