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第1章 -7話

湖畔を渡る夏の風が、湖面に波を作る。

岸辺に水が打ち寄せるちゃぷちゃぷという音が、耳に涼し気に聞こえていた。

風は頭上の枝葉を揺さぶり、日陰の芝に眩しい光の模様を描いている。


湖畔は散歩をしたりピクニックしたりする、市民の憩いの場だ。

音楽家や愛好家が多いこの街では、楽器の練習をする場所としても親しまれており、

ハインも普段から日常的にここで自主練習をしている。

湖畔の小道を奥の方に行くとエーデルシュタイン家の本邸である古城があり、

その辺りは伯爵家所有の森となるので、関係者以外は立ち入れない場所となる。

今日は『お友達になりましょう』ということになってから、初めてクララに会う。

二人の身分差を考えるとさすがに大っぴらに会って遊ぶわけにもいかないということで、

この森に招かれたというわけだ。


今日もいつもの格好で……母は余所行きの服を着なさいと出かける前まで言っていたが、

祖父がいつものままでいいと言ってくれたので……いつもの格好だ。

膝丈の紺の吊りズボンに、清潔感のある白い半袖シャツ、紺の靴下に革の靴。

古ぼけた革のサッチェルバッグと、麦わらのカンカン帽。

バイオリンケースを下げ、足早に湖畔の小道を進む。

午後の陽光に、湖面が眩しいほどにきらきらと輝いている。

乱反射する影のような光が、ハインの銀の髪や空色の瞳を照らしていた。


奥に来れば来るほど人気がなくなり、辺りはひっそりとした空気に包まれていく。

やがて、この先が伯爵家の所有地であることを示す、石造りの門が現れた。

いったん立ち止まり、誰にも見られていないことを確認すると、遠慮がちにくぐる。

森の中は手入れが行き届いていて明るく、陽の当たる場所には小さな可愛い花も咲いていた。

代々の領主たちが家族と憩うための場所なので、東屋やベンチもあるようだ。

確かにここなら、人目は届かないだろう。

そのまま奥へ進んでいくと、小道の脇に伯爵家所有の黒い自動車が停まっているのが見えた。


「ハインー!」


自動車の傍で、クララが無邪気な笑顔で手を振っていた。

その傍には、ハイデマリーも控えている。

ここまでずっと一人だったので、ハインは少しほっとしながら駆け寄っていった。


「こんにちは」

「ごきげんよう! ふふっ、また会えてうれしい」


クララがふわっと、春風のように柔らかく笑う。

たったそれだけで、いつもの4分の4拍子に近い心拍数のテンポが乱れるのを感じた。

どうにも、どうしてか分からないけど、彼女の前では上がってしまう。

それを覚られたくはないけど、うまく隠せてもいない気がする。


「ハイデマリーさん、この前はありがとうございました」

「ああ、いえ。私は主の命を果たしただけですので。

 ……ここに着くまで、何事もありませんでしたか? 誰かに見咎められたとか」

「いえ、こっちの方にはあんまり人もいなかったので」

「そうですか。もし誰かに見咎められたら、私があなたの親戚ということに致しましょう。

 親戚が屋敷で働いているなら、そう怪しまれることもないはず」

「分かりました。よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ」


ぺこり、とハイデマリーと頭を下げあう。

その様子を、クララがにこにこして見ている。

今日は白金色の髪を、二つに分けて緩く三つ編みにしていて、

森の中は少し空気が冷たいからか、長袖の白いスクエアネックのワンピースを着ていた。

この前会った時よりも素朴な、スカートのふんわり感も控えめなものだ。

木陰の下にいても、アメジスト色の大きな瞳が星のように輝いている。


「ハイン、お友達になってくださってありがとう」

「はい、お嬢様」


普段、友達になりましょうと言って友達になるなんてことはないので、なんだか変な感じだが。

と思いながら頷くと、クララはなぜか顎に手を当て、「うーん……」と唸って首を傾げた。

え、なんだろう。何かおかしなことをしただろうか。


「お嬢様じゃなくて、クララって呼ぶのは、ダメかしら?」

「えっ? ああ、えーと……じゃあ、クララ様」

「違うの、そうじゃなくって。クララって呼んでほしいの」

「えっ。お嬢様を呼び捨てにするのは、ちょっと」


それはさすがにハードルが高すぎるというもので。

なので即座に首を振って否定すると、クララは腰に両手を当て、むーんと眉をしかめた。


「もう、それじゃお友達とは呼べないんじゃなくって?」

「でもそれは、できませ……」

「あと敬語もなし」

「えっ」

「……ダメ?」


そんな、上目遣いで聞かれても困る。

たじたじになって一歩退くと、クララが一歩迫ってくる。

困り果てて、彼女の後ろに控えているハイデマリーの方をちらりと見たが、

眼鏡が反射して目許が見えないし、黙っているので助けてくれるつもりもなさそうだ。

恐々、クララに視線を戻す。子うさぎみたいな瞳でこちらを見ていた。

ああ。見なければよかった、見てしまったら終わりだ、これ。


「うう……わかりま……わかっ、た」

「本当!?」


ええい、もうどうにでもなれ。

意を決し、ハインは口を開いた。


「クララ」

「はい!」


食い気味に返事をされて、びくっとなる。


「ふふ、うれしい! お友達に名前を呼ばれるって、こんなに幸せな気持ちなのね!」


頬を薔薇色に上気させ、花弁がほころぶようにクララが微笑む。

こんなことくらいで、こんなに喜ぶなんて。という驚きがあった。

それと同時に、かわいいな……という気持ちが胸の奥から湧いてくる。

それは妹に対するときの気持ちと似ている気がしたけれど、

その形は少しだけ違っていることを、ハインはまだ気づいていない。


「えっと……じゃあ、何をして遊ぶ?」

「あのね、かくれんぼでしょ、鬼ごっこでしょ、水遊びでしょ、それから一緒に本を読んで、

 あとハインのバイオリンに合わせて歌ったりもしてみたいの!」

「やりたいことがたくさんあるんだね」

「ふふっ、そうなの」


目を瞠るハインに、クララは口元を隠して照れたように笑った。

バイオリンケースを持ったまま器用に腕を組み、ハインは思案する。


「うーん、今日いっぺんにできるか分からないけど、やってみる?」

「ええ!」


クララが顔を輝かせる。こんなにいっぺんに色んな遊びをしたことはないけど、

できるかどうか、やってみないことには分からないし。

今日中に全部できなくても、夏はまだ終わらないから。

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