第4章‐6話
ハイデマリーとクララを伴い、ひとまずアズレトのテントに戻る。
アズレトのテントは他の通常のテントより少し広めではあるとはいえ、四人も入るとさすがに手狭だ。
しかもそのうち二人は、鎧を身に着けているわけで。
「話もしにくいしよ、とりあえず脱げ。つーかどうやって調達してきたんだよ」
「備品のテントから拝借してきました」
「大胆すぎるだろ……相変わらず肝が据わってんな」
平然と答えるハイデマリーに、アズレトが呆れたように呟く。
ともあれ、二人はテントの中で鎧を脱ぎ始めた。
ハイデマリーは一人で脱げるが、クララはハインが手伝ってようやく身軽になることができた。
脱いだ鎧を片付ける暇もなく、クララが抱きついてくる。
「ハイン、無事でよかった! もう、本当に心配したんだから」
「うん……心配かけてごめん」
お互いの顔を間近に見つめあったあと、ぎゅっと強く抱き合う。
離れていたのはたった二日足らずの間だったけれど、もしかしたらこのまま離れ離れになることも
ありうるのではと内心不安に思っていただけに、心底ほっとした。
しばらく経っても離れようとしないクララに、あっこれまたくんくんしてる……と察したものの、
心配をかけてしまった手前、この場は口には出さずに我慢することにする。
そんな二人を、胡坐をかいて座るアズレトがぽかんと眺めていた。
「めっちゃいちゃつくじゃねーか。どうなってんだよ今時の魔人は?」
「あのお二人は、ドクターがそのように特別にお作りになられましたので」
「ああ? なんでまたそんなことを?」
「人の持つ愛の研究のためだそうです」
「まだそんなこと言ってんのか? 変わんねえなあ。おいお前ら、そのへんにして一旦座れ」
アズレトに促されて、ようやく二人は身を離す。
そうして四人がテントの中で膝を突き合わせることになった。
ハイデマリーは白い長袖シャツに紺のパンツスタイル、膝丈のブーツ。
兜をかぶるためだろう、青い髪はポニーテールではなく右側の首元で一つに束ねていた。
クララは別れた時とほぼ変わらない姿で、生成りのブラウスの上に濃茶の編み上げベスト、
下はベージュのぴったりとしたパンツで、上に共布のタイトなミニスカートを重ねている。
白金の髪は、今は三つ編みで一つにまとめられていた。
「ともあれ、また生きて会えて嬉しいぜ」
「私もですよ。お元気でしたか?」
「ははっ、アンタ少し丸くなったな。まあ、お陰さんでお元気でやってるぜ」
魔人にお元気でしたかなんて聞くと、少し間の抜けた感じがする。
アズレトもそう思ったのだろう、くつくつと笑った。胸ポケットに手をやって煙草を一本取り出したが、
火を点けようとライターを取り出しかけてやめる。女性の手前、気を遣ったようだ。
「リシャとミハイルは元気か?」
「はい。リシャも今は安定していますよ。ただ、あの頃と比べると……
感情の起伏がずいぶんフラットになりましたし、味覚や痛覚もほとんど失ってしまいましたが」
「……そうか。まあ、生きてるだけで僥倖だ。
ハイデマリー。改めてあの時、リシャを助けてくれてありがとうな。感謝してる」
「いえ。私は何もできませんでしたから……」
頭を下げるアズレトに、ハイデマリーが伏目がちに頭を振る。
それを見て、アズレトの表情もぐっと険しくなった。
「じゃあ生き残ったのはやっぱり、お前らだけなのか」
「はい。結果的に三人とも、死なせてしまいました。騎士団の仲間たちも、何人も……」
ハイデマリーが俯き、正座した膝の上で、その手をぎゅっと握り込む。
ハインとクララには話がまったく見えないのだが、彼らの間で交わされるのは深刻な言葉ばかりで、
何も知らない二人が口を挟むことは憚られた。
けれど隣に座っているクララが、ハイデマリーのその手に自分の手を重ねる。
気遣わしげなその視線に気づき、ハイデマリーが儚げに微笑した。
「お嬢様、ハイン君。お二人にも、この辺りのことをお話しするのは初めてですね。
私の口から言ってもいいものか……ですが今、話しておくべきなのかもしれません」
「……聞かせて、マリー。わたしたちも、ずっと何も知らないままではいられないわ。
だってわたしたち、もう仲間でしょう? そうでしょう、ハイン?」
「そうだね。聞かせてください、マリー先生」
クララの言葉に、ハインも同意して頷く。
レギィネイラの魔人となり、そしてこの先も生きていく限り、きっと「関係ない」では済まされないことだ。
それにハイン自身、自分たちには関わりのないことだというふうには、もう思うことができない。
そんなふうに捉えられるほど、この二年という年月に彼らと積み重ねたものは、簡単じゃない。
痛みと、苦しさと、喜びと、切なさと。すべての感情がないまぜになった二年間。
そのすべての記憶に、クララだけでなく彼らがいるのだから。
……ハイデマリーは二人の眼差しを受け意を決したように頷き、静かな口調で話しはじめた。
「ドクターがかつて教会で魔人を作っていたことは、すでにご存じですね。
その最初の魔人は、私なのです」
・・・ + ・・・ + ・・・ + ・・・
今から三十年ほど前。
ハイデマリー・ローデンヴァルトは25歳の時に、魔人となった。
対魔族騎士団での魔族討伐任務の際、瀕死の重傷を負った彼女は、そのまま死ぬことを良しとせず、
当時教会に来たばかりで何の信用も得ていなかった叡智の都市出身の魔女、
レギィネイラ・アル=アシュラムの最初の魔人被検体に志願、初の魔人となったのだ。
「犬死にするところを救って頂き、ありがとうございました」
そうお礼を言った時の、何を言っているのかという魔女の呆気に取られた顔を、今でも忘れることができない。
ハイデマリーは元々あまり感情表現が豊かな方ではなかったが、
魔人となったことでさらに磨きがかかり、近寄りがたい雰囲気になっていった。
だが、騎士団の仲間たちは変わらず、気安く接してくれる。
子供のころ、魔族と魔獣の災禍で家族を失ったハイデマリーにとっては、
彼らの存在こそが家族のようなものだった。
やがてハイデマリーに続き、一人、また一人と、レギィネイラの魔人が増えていく。
数年後にはハイデマリーを含め、その人数は四人となっていた。
この頃、レギィネイラは聖都から遠く離れた国の、湖に浮かぶ小さな島に、隠れ家を持つようになる。
ハイデマリーと魔人たちも、休暇のたびに隠れ家作りの手伝いに赴いた。
島を留守にする間は、島の番人として作られた、ヘイレンとシャルラハが島を守ることになった。
魔女は自らに関するその多くを語ることはなかったが……この時すでに、何かを予見していたようだ。
そしてそれは、のちに的中してしまうこととなる。
さらに数年後、五人目の魔人が誕生する。
ミハイル・イグナートフ。彼が29歳の頃のことだった。
その翌年、彼の甥であるアズレト・ヴィノクロフが24歳で魔人として加わることとなる。
ミハイルは最後まで反対したのだが、最後は本人の強い希望で魔人として誕生することになった。
だがアズレトは術後の経過が良くなく、高熱もありベッドから出られないまま不安定な状態が続いた。
安定化にはしばらくかかるだろうとのことで、騎士団全体が気を揉んでいた頃。
それは突然やってきた。
すべてを喰らう闇。『悪食のアルトゥル・アル=アフマド』。
レギィネイラは彼を、そう呼んだ。
レギィネイラと同じ、叡智の都市出身の魔法使い。
二人は叡智の都市にて、お互いに比肩する者なき魔法使いだった。
だが人に興味を持ち、自らの意思で都市を出奔したレギィネイラとは違い、彼は都市を追放された者である。
それは彼が、自らの体で一つの実験を行っていることに端を発していた。
いわく―――力を持つ魔法使い・魔女を次々と喰らい、その力を我が物とすること。
それはまるでキメラだと。
そんな彼がもっとも喰らいたい力を持つ者は誰か?
それは自らに比肩するただ一人の魔女、レギィネイラに他ならなかった。
ゆえに彼は、只人の社会に紛れ込んだレギィネイラを、ずっと探していたのだ。
当時、魔女レギィネイラこそは当代最強の魔法使いであったろう。
アルトゥルはその彼女を直接狙うのではなく、その頃まだ従騎士であったリシャを攫って行った。
それを知ったアズレトは怒り狂ったが、彼はまだとても動ける状態にはない。
同じく嚇怒に燃えるミハイル、そしてハイデマリーと三人の魔人を連れて、レギィネイラは彼を追った。
もちろん、仲間を攫われた騎士団も共に動いていた。
アルトゥルがわざとらしく残した痕跡を追い、ついにとある国の廃城に辿り着く。
月の明るい夜、地獄のような光景がそこにあった。
それは魔人とも呼べない成り損ないとしか言えない、哀れな人のなれの果て。
おそらく近隣の町々から攫われ、無理やり魔人の手術を施され、適合できなかった人たち……
うめく死体のようなその者たちと戦わされることになったのだ。
そしてリシャもまた、アルトゥルに手を加えられ―――たった12歳で魔人にされていた。
その上、自我を失い狂った獣のような、狂化と呼ばれる暴走状態に陥らされており、
仲間に牙を向ける彼女ともまた、戦わざるを得なかったのだ。
アルトゥルが彼らを示し、お前を真似て作ってみたぞと笑った時。
レギィネイラもまた氷のような怒りの笑みを向けていた。
廃城の塔では、レギィネイラとアルトゥルの、人智を超えた戦いが繰り広げられる。
筆舌に尽くしがたい超弩級の魔法の数々、禁呪の数々の応酬。
その眼下では、騎士団が魔人とも呼べない魔人たちに必死で立ち向かっていた。
成り損ないのようであっても、その強さは只人には脅威だ。共に戦った騎士団員たちが何人も斃れた。
そして、アルトゥルによって魔人にされたリシャ。彼女を止められたとして、そのあとどうなるのか。
生きられるのか、正気を取り戻すことができるのか……それは分からない。
だがリシャに仲間を、騎士団員を殺させてはいけない。
その思いから、ミハイルとハイデマリー、三人の魔人たちは必死に彼女と戦った。
だが狂化し、潜在能力をすべて引き出された状態の彼女はあまりに強く、戦いは熾烈を極める。
まるで地獄の底さながらの戦いだった。
そんな中、レギィネイラとアルトゥルの力は、拮抗しているかのように見えていたが……
その均衡は突如崩れる。
アルトゥルに喰らわれた数多の魔法使いたちが、その力を強制的に呼び起こされ、
多重に展開された大魔法が一気にレギィネイラに降り注いだ。
ハイデマリーたちを含む地上で戦っている者にも、その攻撃は及ぶ。
ハイデマリーは騎士団に撤退を指示したが、すべてが間に合うはずもない。
咄嗟にレギィネイラがとった行動は、身を挺して防御魔法を展開することだった。
だが超弩級の大魔法を多重に受けては、いかな魔女といえど到底一人ですべてを守り切ることなどできない。
レギィネイラを含め、その場に怪我を負わなかった者はいなかった。
特にレギィネイラの払った代償は大きく、両腕を失い、半身を抉られた姿で塔から墜落するように落ちてきた。
そして魔力すら尽き果て、血を吐き、動けないレギィネイラの目の前で。
彼女を庇う傷だらけの魔人たちを、アルトゥルは一人、また一人と殺していった。
怒りもなく、愉しむのでもなく、ただ邪魔なものを取り払うように。
もはや一刻の猶予もなかった。
重傷を負った最後の魔人が、ハイデマリーを叱咤する。
レギィネイラを連れて逃げろと。
その彼が殺された瞬間。
レギィネイラは自ら、己の身をバラバラに吹き飛ばした。
魔法陣を刻んだ黒い右目が、膝をつくハイデマリーの前に転がってくる。
「この目にはな。私のすべてが詰まっているのだよ。もしもの時には……」
隠れ家を作っていた頃、レギィネイラがふとそう話してくれた時のことが、脳裏に蘇った。
目玉を掴んで立ち上がるや、ハイデマリーは走った。
怪我を負い気絶したリシャを抱えたミハイル、生き残った騎士団員とともに、その場から遁走したのだ。
結果的にアルトゥルは、レギィネイラを喰らうことができなかった。
その目玉にこそ、レギィネイラの力のすべてが移されてあったのだから。
そこからは騎士団を離れ、アルトゥルの目を逃れる彷徨の日々の始まりだった。
レギィネイラが予見し、用意してくれていたあの島に、ミハイルとリシャと共に隠れ住んだ。
だが、共にこの島で隠れ家を作った魔人たちはもういない。
たくさん用意した部屋も、ほとんどは空き部屋になってしまった。
リシャは目を覚ましてからもしばらくの間、自我を失って生ける人形のようだったが、
寄生精霊アンネッテの健気な呼びかけによって、しだいに正気を取り戻していった。
だが正気を取り戻しても、感情の起伏はずいぶんフラットになってしまったし、
味覚や痛覚もほとんど失ってしまったが、ミハイルが何年もかけて根気よく世話をした。
そうしてようやく今のような、会話をしたり生活を営んだりと、人らしい一面を見せるようになったのだ。
レギィネイラは目玉だけの姿となり、その尊厳をすべて奪われてしまった。
本人は悲壮感など見せず、「これはこれで楽だな」などとケラケラ笑っていたが。
以前のように自在に魔法を使うこともできず、触れることも眠ることも食事を摂ることもできない。
自己表現のすべてを奪われたと言っても過言ではないその日々は、退屈というだけでなく、
つらく悔しいものだったはずだ。
そんな月日が、何年も過ぎて。
ミハイルとリシャは時折、生活費を稼ぐために外に出て魔獣退治などをするようになり。
ハイデマリーは魔女の体となりえるものを求め、島を出て彼女と旅に出るようになる。
たまたま立ち寄った田舎町、グリーベル。
そこで錬金術医であるギュンター・エーデルシュタイン伯爵の噂を聞きつけて、王都バルヒェットに向かい。
そうしてハイデマリーは伯爵邸のメイドとなり、まだ赤子だったクララと出会うことになるのだ。
・・・ + ・・・ + ・・・ + ・・・
ハイデマリーの、独白のようなすべての話を聞き終えて。
テントにはしばしの静寂が降りる。遠くからは騎士たちの笑い声が聞こえていた。
「……本当なら、ミハイルとリシャをあなたの元に帰すべきだとは思っていたのですが。
もしあの男に動向を知られては、何が起こるか分かりませんでしたので……」
「いや。それは仕方ねえよ。それに……アンタらと一緒にいるってのは、
あいつら自身が決めたことなんだろ」
アズレトのその言葉を、ハイデマリーは沈黙によって肯った。
その彼女の手に手を重ねたまま、クララがそっと呟く。
「……マリー」
「はい」
「ごめんなさい、何を言っていいのか……言葉が出ないわ。
でも、だからレギィは、わたしたちを鍛えると言ったのね。一人でも身を守れるようにと」
「その通りです、お嬢様」
ハイデマリーが静かに頷く。
彼らがあんなに真剣に、二人に戦うすべを叩き込んできた理由……それがようやく分かった。
ハイデマリーもミハイルも、そしてレギィネイラも。
目の前で大切にしていたものが失われていくのを見せられ、そしてただ逃げるしかなかったならば。
それはどんなに無念だっただろう。
だがハイデマリーは過去の惨劇に捧げるかのように、ひととき瞑目し。
ふたたび目を開けたときには、その瞳に強い光を宿らせていた。
「お二人を、あのような無惨な目に遭わせるわけにはまいりません。
私たちは二度とあの時を繰り返したくはないのです。ですから、おつらいでしょうが、
魔人として生きていかれる以上……なんとしても強くなっていただかなくてはなりません」
「……なるほどな」
ハイデマリーの言葉に相槌を返したのは、アズレトだ。
彼は腕組みをして、しばし考えていたが。すぐにハイデマリーを見、こう言った。
「なら、俺から一つ提案がある」
「なんでしょうか?」
「こいつを俺に預けてくれ」
「えっ?」
アズレトがハインを指差し、クララが驚いて声を上げた。
思わず声が出てしまった口元を押さえてハインの方を見、次にアズレトの方を見る。
「あの、預けるってどういうことなの?」
「言葉通りだよ。俺がこいつを預かって、騎士団で鍛えるってことだ。
ハイデマリー、分かるだろ。今のままじゃ、鍛えるにしても限界があるんじゃねえか?」
「それは……」
唐突すぎる提案に、ハイデマリーは続く言葉をすぐに見つけられなかったようだった。
が、アズレトの碧の目は真剣だ。ハインに対して冗談めかして言っていた時とは違う。思わず固唾を呑んだ。
ハイデマリーは顎に手を当て、じっと考えていたが……小さく頭を振ると、ハインを見た。
「ハイン君。君が決めてください」
「俺が?」
「ドクターならきっとそう仰るでしょうから」
確かにこんな時レギィネイラなら、「君が決めろ」と言うだろう。
……強くなるため。そのためだけを考えれば、アズレトの言う騎士団で鍛えてもらうというのは、
願ってもない選択肢なのではないかと思う。
だがその場合、おそらくハインは一人で騎士団に赴くことになる。
そうなれば必然的にクララとは離れ離れになってしまうだろう。
ちらりと傍らのクララに視線を移す。
不安げな眼差しでハインを見つめている、彼女を見た時。
ハインにはどうしても、クララを置いて行くという答えを出すことはできなかった。
「俺は、やっぱり……」
そう、答えかけた時だった。ふと気づく。なんだろう。地面が、小刻みに震えている?
そう思っている間にも、振動はどんどん大きくなる。刹那、ズズン!と突き上げるような衝撃が来た。
小さく悲鳴を上げるクララを反射的に抱き寄せる。地震?いや違う、これは……
「来やがったか」
アズレトが刀を手に立ち上がり、荒々しい足取りでテントを出ていく。
クララをハイデマリーに預け、ハインも急いでその後を追う。
外に出ると野営地はすでに蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
夕食後の弛緩した空気は跡形もなく消え去り、騎士たちが臨戦態勢を整えて走り回っている。
それもそのはず。彼らがしきりに指差す方向を見て、ハインは思わず息を呑んでいた。
「なんですか、あれ……!?」
「ははっ! すげえデカさだな」
森の東の方向。それを見て、アズレトが呆れたように笑う。
満月を過ぎたばかりの明るい夜、月光に照らされて黒い切り絵となった森の木々から、
鳥たちが鳴きながら一斉に夜空に飛び立つ。そこに、白く巨大なものが見えた。
白銀に輝く、人に近い形をしたずんぐりとした姿。巨人、と形容するのが正しいだろうか。
次元の歪みを押し広げながら、半身が既にこちらの世界に入っている。
そしてもう一方の足も地面を踏んだ。また、突き上げるような衝撃が来る。
体がすべて出てしまうと、虹色に揺らめく次元の歪みはガラスが砕け散るように霧散して消えた。
「うろたえるな、陣形を整えろ!」
よく通る声にはっとして見やると、隊長であるマルスランが指示を飛ばしていた。
あの優美な片手剣を携え、微塵も動揺を見せずに堂々と歩いてくる。
その麾下約60名の騎士団員が、素早く装備を整えて続々と彼の元へと集結する。
槍と盾を携えた騎士たちが前列にずらりと並び、その後ろに片手剣を携えた騎士。
ローブを着た魔法使いが10名程度と、十字の刺繍が縫い取られた制服の聖職者たちが10名程度後方に控える。
しかし百戦錬磨と思われる騎士たちも、庇を上げて呆気に取られたように巨人を見上げていた。
月光を浴び、白銀の雪のような細かな光をきらきらと反射するその巨体。
生き物のように筋肉と骨の凹凸めいたものはなくのっぺりとして、指すらもなく、腕も足もつるりとしている。
シンプルな姿で、頭部には赤く大きな宝玉のようなものがたった一つだけ、そこに埋め込まれたように付いている。
宝玉からは根を張ったような黒い血管めいたものが縦横に走っているようだ。
口はない。魔獣なら、捕食のために口があるのが常なのだが。
しかし何よりその大きさだ。森の木々をはるかに超え、鳥が飛ぶような高さまである。
「魔族兵器だ」と口々に言う声が周りから聞こえてきた。
「魔族兵器ってなんですか……!?」
「よく分かんねえが最近、稀にいるんだよ。魔獣でもねえ、ああいうのが。
魔族が作った兵器だって話だが、どこまで本当なんだかな……って、マルス!」
「神官部隊、前方に防護結界を展開!」
巨人の頭部にある赤い宝玉が、淡い燐光を放ち始めている。
アズレトの警告の声とほぼ同時に、マルスランが叫んでいた。
ニコレットを筆頭とした聖職者たちが、聖書を開き神への祈りの言葉を唱える。
それとほぼ同時に、巨人の宝玉がチカッとまばゆく光った。
一条の赤い光が野営地に向かって放射され、きらきらと輝く光のベールのようなものに弾かれる。
弾き返された赤い光線が森に放たれ、一瞬間を置いてすさまじい勢いで爆発した。
衝撃波すらも光のベールに阻まれてここには届かなかったが、地響きは伝わってくる。
ここからはかなり離れているというのにこの衝撃だ。魔法というレベルを超えている気がする。
しかも遠くからは複数の獣の鳴き声も近づいてきていた。
どうやらまたあの魔獣の群れが、巨人と一緒に出てきたらしい。
巨人といい魔獣の群れといい、明らかにこちらを敵だと認識している。
危機が迫っていることを肌で感じていた。
「あ……あんなの、倒せるんですか?」
「あのデカさだし骨は折れるだろうな。ま、やるしかねえよ。
こうなっちまったからには仕方ねえ、この隙にお前らはさっさと離脱し……ん?」
アズレトが最後まで言い切らずに、ハインの後方を見やる。
野営地の中が、にわかに騒がしかった。まさかあっちからも新手が?
身構えたその時、ハインの目に飛び込んできたのは銀の毛並み。巨大な銀の狼……ヘイレン!?
野営地の中を疾駆してくると、困惑する騎士たちを飛び越えて、だんっ!とハインの目の前に着地する。
さらにその背中に跨った人物を見て、度肝を抜かれた。それは赤い髪の―――
「リシャ!?」
「久しぶりだね、兄さん」
愕然と叫ぶアズレトに対して、極めて淡々とリシャが応える。
スタンドカラーの白いシャツに、黒のごく短いズボン。
いつものように黒いニーソックスを履き、黒いブーツを履いている。
背中にフードがついたサイズが大きめの黒いジャケットを羽織り、太刀を肩に担いでいた。
ポカンとしていたアズレトがはっと我に返り、焦った様子で駆け寄る。
「バカおまっ、なんでここに」
「久しぶりに会ったのにバカはないんじゃないの?」
ヘイレンの背から、ひらりっとアズレトの傍らに飛び降りるリシャ。
周囲の戸惑いやざわめきなどどこ吹く風で平然と、ヘイレンをべしべし叩いてハインに示して見せる。
「ほら、ヘイレン持ってきてやったぞ」
「あ、ありがと……」
反射的に礼を述べたものの、戸惑いを隠せない。見ればヘイレンの目も泳いでいた。
たぶんリシャに無理やり押し切られてここまで来たのだろう。心なしか巨体を縮こまらせている。
そしてこの騒ぎを同じく茫然と見ていたマルスランが、遅れて我に返り、ふらふらとこちらに近づいてきた。
「待て。その姿……まさか、リシャ・ヴィノクロヴァか……!?」
「やあマルスじゃないか。君も久しぶり」
「君……君、生きていたのか……!」
「まあね。それにしても君が隊長とは。同期として鼻が高いかも?」
「冗談抜かしてる場合か! リシャ、こいつら連れてさっさと行け!」
「やだね。せっかく面白くなってきたのに、じっとしてらんないよ」
鯉口を切る澄んだ音が響き、リシャが抜刀する。長い鞘を放り投げると、唇をぺろりと舌で湿した。
さっさとやろうよと言わんばかりだ。なおもアズレトが口を開こうとしたそのとき。
「こうなったら仕方ありません。共同戦線といきませんか?」
「ハ……ハイデマリーさん……!?」
クララを伴い、テントから姿を現したハイデマリーを見て、さらにマルスランが愕然となる。
彼はリシャともハイデマリーとも旧知の間柄のようだ。
アズレトが額に手を当てて「あーあ」と天を仰ぐ。
が、ハイデマリーはもう腹が決まっているのか、その顔は平静そのものだった。
「お久しぶりです、マルス。立派になりましたね」
「ハ、ハイデマリーさん、が、なぜここに……!? それに彼らはいったい……」
「話は後です。お互い生き残るため、この場は協力しましょうと言っているんです」
「だってよ。どうすんだマルス。俺らはお前の判断に従うぜ」
そんなことを言い合っている間にも、ふたたび巨人があの閃光を放つ。
またあのベールによって阻まれるが、衝撃がすさまじく地を揺るがした。
ニコレットが「隊長! 長くは持ちません!」と叫ぶのが聞こえる。
「っ、分かった。今はとにかく、あれを何とかするのが先決だ」
「ははっ! そうこなくちゃな!」
アズレトが笑い、バシッ!と思いきりマルスランの背を叩いて彼の目を白黒させる。
かと思うと、刀を掲げて大声で叫んだ。
「おい野郎ども! 助っ人が来てくれたぜ!!」
その声にどよめきが起こった。それは戸惑いと歓迎が混在する声だっただろうが、
アズレトはすかさず近くにいた騎士の剣を取り上げ、それでもって彼の持つ盾を何度も叩く。
けたたましい音が鳴り響くと、戸惑いの中、誰かがそれに応えて同じように剣で盾を叩く音がした。
それは次々に伝播し、野営地中がその音と、己らを鼓舞する雄叫びの大音響に包まれる。
「ははっ、血が騒いできやがった! 行くぞ、お前ら!」
アズレトがギラギラした笑みで鯉口を切り、刀の鞘を抜き放つ。
そして駆け出す彼の背を、リシャが迷わず追って行った。二人の姿が、あっという間に夜の森に消える。
マルスランは何も言わずそれを見送ると、その肩に掛けていたコートを脱ぎ捨てた。
「各部隊、陣形を整えて魔獣の群れを迎え撃て! 後方の魔法使いと神官に近付けさせるな!
あの巨人は私とアズレト、増援部隊で引き受ける! 以後はクロヴィスが指揮を執れ!」
「了解!」
クロヴィスが敬礼し、即、指揮を取るため駆け出していく。
そしてマルスランの険しい目が、残されたハインに向けられた。
「……君も、魔人なのか?」
「はい。黙っていてすみません」
「いや、その話は後だな。君はどうする」
「俺も一緒に行きます」
頷いたその時、ハインの名を呼ぶクララの声が聞こえた。
駆け寄ってくる彼女と、しかしゆっくりと話をしている暇はなさそうだ。
「クララ、マリー先生とここにいて」
「待って、ハインはどうするの?」
「役に立てるか分からないけど、アズレトさんたちと行ってみる」
「あれと戦うの……!?」
怯えた顔でちらりと巨人を見上げるクララに頷き返し、ハイデマリーの方を見る。
彼女は既に両手に拳銃を握り、肩にはライフルを掛け、臨戦態勢を取っていた。
「マリー先生、クララをお願いします」
「了解しました。二人とも、お気をつけて」
ハイデマリーの言葉に目礼を返すマルスランとともに、踵を返す。
その背中に、クララの声が飛んだ。
「っ……気をつけてね!」
「ああ! 行こう、ヘイレン!」
振り向いて彼女に手を振り、ハインはヘイレンを伴って森へと駆け出した。




