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第4章 -1話

四月、朝霧に包まれた春の朝。

早朝のまだ高くない陽を透かして、霧が黄金の色に輝いている。

三階建ての家の壁を覆う木香薔薇の蔓にも、虹色の露が光っていた。

美しい、そしてすっかり見慣れた、この島の朝の風景。


ハインは玄関から外に出ると、家の前の石畳の広場へと歩を進める。

昨年の秋に、彼は17歳になった。だが、その身は15歳の時からほとんど成長をしていない。

少し背が伸びて筋肉もついたけれど、体はいまだに華奢な少年のような姿のままだった。

魔女の言によれば、それは魔人となったことによる影響であり、

数年間は成長の止まったような状態が続くだろうと言われている。

ゆえに端正な面差しにもまだ、少年らしさを残していた。

寝癖をきちんと整えた銀の髪は、黄金の朝陽に柔らかく輝いている。

繊細な氷細工の如き銀の睫毛が縁取る、透き通るような空色の瞳。

姿勢よく立つすらりとしたその身にまとうのは、長袖の黒いTシャツと、

丈夫さが取り柄の黒いズボン、そして革の運動靴。

朝からランニングや筋トレをしていたため、すでにラフな格好でいる。


ただこの頃は一日中稽古をするようなことはなくなり、午前中は皆で家の仕事……

掃除や洗濯、畑や家畜の世話などをし、午後からを稽古や勉強の時間に充てるようになっていた。


「まあ、すごい霧。鐘楼の天辺が見えないわ」


後ろから遅れて家を出てきたクララが、空を仰いでそう言った。

確かに朝霧に包まれて、鐘楼の上の方は霞んで見えない。


金の糸を縒り集めたかのような、きらきらした白金の髪。

以前は腰まであり、ずっと伸ばし続けていたのだが、手入れが大変だということで、

この頃は肩下の辺りで切り揃えられるようになっていた。

金の睫毛に縁取られて星の瞬きもかくやという、輝くアメジスト色の大きな瞳。

すっとした鼻梁、透明感のある白い肌に、薔薇色に染まる頬と唇。

スクエアネックの生成り色の膝下丈ワンピースに、茶色の編み上げのベスト、

腰には町娘のようなエプロン。編み上げの革のブーツを履いている。

クララはこの春、ついこの間に16歳になったばかりだ。

しかし彼女もまた、14歳の頃とあまり変わりのない、少女然として華奢な姿のままだった。

だが魔人になったばかりの頃とは比べるべくもないほど健康的で、溌溂としている。

二人がこの島に来て、約二年の月日が流れていた。


「今日は霧が深いから、気をつけてね」

「大丈夫だよ。クララは少し離れて待ってて」


軽く両足のストレッチをし終えると、ハインは駆け出した。

地面を蹴り、高く跳び上がる。空中で身を捻って器用に三階の屋根に着地すると、

大きく斜めになっているその屋根を蹴って、さらに鐘楼に向かって跳ぶ。

鐘楼の壁にはところどころ石が突き出ているところがあり、それを掴んで壁に取り付くと、

後は上に向かって出っ張りを蹴りながらどんどん垂直に上っていく。

ちなみに鐘楼の上り方を教えてくれたのはリシャだ。

鐘楼の内部にはもちろん階段もあるが、トレーニング以外で使うことはほとんどない。

霧を抜けて一番天辺の、鐘のある見晴らし台のところまで、あっという間に辿り着いた。


「おはよう。リシャ、アンネッテ」


石造りの見晴らし台の、窓枠もガラスもない窓の部分に取り付いて、声をかける。

吊り下げられた鐘の下で、リシャが猫のように丸くなって朝から二度寝をしていた。

その彼女の隣に寄り添うように、燃える炎のようなドレスをまとった真っ赤な髪の少女が座っている。

名をアンネッテ。実体のように見えるが実体ではなく、彼女は炎の精霊だ。

幼い頃からリシャの魂に同居している精霊だといい、寄生精霊と呼ばれるらしい。

一心同体のような状態らしく、お互いの考えていることはすべて分かっているという。

リシャの刀に炎の力を付与したりして、一緒に戦ってくれる相棒的存在だ。


ちなみに普段ハインは精霊の姿など一切見ることができないのだが、アンネッテの姿だけは視認できる。

それは彼女がリシャの魂に寄生しているので、半人半霊のような状態だとかなんだとか……

レギィネイラが言っていたが、正直なところよくは分からない。

彼女のいたずらっぽくきらめく赤い瞳がハインを見て、にこっと微笑んだ。


『おはようございます、ハインさん。リシャさま、起きてくださーい』

「朝ごはんだよ」

「ふあぁ……毎朝律儀な奴だなあ」


リシャが身を起こし、吊り目の碧眼をこすって大きなあくびをする。

毛先に行くほど金色に変化している真っ赤な髪は、前から見るとばさばさのボブカットだが

襟足だけが腰に届くほど長い。まだ櫛を入れていないようで、寝癖もそのままだった。

本人が無頓着なので、いつもミハイルかクララが髪をくしけずったり、世話を焼いているのを見かける。

ちなみにこの変わった髪色は寄生しているアンネッテの影響であり、彼女は本来はミハイルと同じ金髪なのだそうだ。

詰襟の白いシャツに、黒のごく短いズボン。黒いニーソックスを履き、黒いブーツを履いている。

二年経っても彼女の姿に変化はなく、相変わらず12、3歳くらいの小柄な少女のままだった。

いつものように抱いて寝ていた太刀を持って、気だるげに立ち上がる。


「僕、朝は別に食べなくてもいいんだけどな」

「今日はマフィン焼いてみたよ」

「チョコ入りのやつ?」

「そう」

「ならしょうがない、食べてやるか」

『リシャさまったら、素直じゃないですねー』

「うるさい」


窓に歩み寄りながら、リシャが不遜に鼻を鳴らす。

実はリシャにはあまり味覚がない。だから食事も、あまり気がなさそうにつついていることが多い。

味覚だけでなく痛覚なども薄いらしいのだが、それがなぜなのか詳しいことはいまだ分からないままだ。

ただチョコレートはよく味を感じられるらしく好んで食べることは、この二年で知ったことのうちの一つだった。


「アンネッテ、戻って」

『はい、リシャさま』


リシャの言葉でアンネッテの姿が炎に変じ、リシャの体に吸い込まれるようにして消える。

そしてリシャは窓に飛び乗ったかと思うと、ためらうことなく眼下に身を躍らせた。

ここから見ると霧の上に鐘楼の頭が突き出た形で、眼下はミルク色の霧の海が広がっている。

霧に呑まれて姿が見えなくなったリシャを追って、ハインも窓から手を離して霧の中に飛び込む。

目もくらむような高さから飛び降りても、今はもう怖いと思うこともない。

やがてぼんやりと石畳の地面が見えてきて、二人は次々と危なげなく着地した。

家のそばで離れて待っていたクララが笑顔で駆け寄ってくる。


「おはよう、リシャ!」

「おはよ。君も朝から元気だね」

「今日はハインがリシャの好きなマフィンを焼いてくれたのよ! ね、ハイン?」

「いや僕は別にマフィンが好きなわけじゃ」

「ふふっ、早く早く!」

「ああ、はいはい」


クララに腕を引いて急かされて、リシャがしょうがないなあというように頷いた。

なんだかんだリシャも、クララには少し出方が弱い気がする。それか言い返すのが面倒なのか。

そんな二人の後から家に入り、後ろ手に扉を閉める。


「やあ諸君、おはよう」


そこにぺたぺたと裸足で、魔女レギィネイラが螺旋階段を下りてきた。

今日は珍しくこっちで寝ていたものらしい。

左目は水色。魔法陣を有する右目には、シンプルな黒い眼帯を着けている。

肩ほどまでの灰金色の、緩やかに波打つ髪。

顔の造形は美しいのにひどく目つきが悪く、それが彼女に恐ろしいほど毒々しい美貌を与えている。

今日も膝上の黒のスリップドレスにガウンを羽織っただけという、相変わらずだらしのない格好だった。


「またそんな格好で!」

「んも~仮にも一番の年長者なんだから、ちゃんとしてよね」


クララが両腰に手を当てて怒り、ミハイルがテーブルに料理を並べながらそれに続く。

フワフワした癖っ毛の金髪に、垂れ目気味の見事な碧眼という甘い風貌。

スタンドカラーの白いシャツに黒いスラックス、黒い革靴。

やっぱり見た目は30歳くらいから変化はない。背が高く、均整の取れた筋肉のついた体をしている。


が、二人に怒られても魔女はへらへら笑うだけだ。

さっさと座るなり「おっうまそうだな」などと暢気のんきに言っている。

いつもの大きなダイニングテーブルの上には、今朝の朝食がすでにたくさん並んでいた。

玉葱のスープとベーコンエッグ、チーズ、ソーセージ。それと畑で採れる野菜のサラダ。

ヤギのミルクと、そのミルクで作るヨーグルト。パンと、チョコのマフィン。

何もしていないレギィネイラが一番に食卓に着き、その隣にミハイルとリシャ。

向かい側にハイデマリー、クララ、ハインが座る。それぞれいつもの定位置だった。


「神よ、今日の生きる糧をお与えくださり、感謝いたします」


食べる前のお祈りの言葉を、レギィネイラがあのやや低い声で厳かに言うが、

何度聞いても意外な気持ちがしてしまう。

お祈りが終わると、いつもどおりの和やかな朝食の時間となった。


「なあ、君たちはいくつになったんだったかな?」


唐突にレギィネイラが聞いてきて、ハインはブレッドナイフでパンを切る手を止めた。

いつものリュスティックに、ベーコンエッグやチーズなどを挟んで食べようと思っていたので。


「俺は17歳。クララは16歳だよ」

「ああそうか。クララはこの前、誕生日が来たんだったな」

「それがどうかした?」

「いや。あっという間だったと思ってな」


何かしみじみとそう言っては目を眇め、コーヒーをすする。

ここ二年で、レギィネイラとはやや砕けた口調で話すようになっていた。


「二年前、魔人として体が馴染むまでの数年間は、第二次性徴が遅れたり、

 性欲が薄い状態が続くかもしれないと話したことを覚えているか?」

「ああ、うん」

「止まっていた体の成長も、元に戻る頃だ。だんだん背も伸びるだろうし、第二次性徴も顕著になるはず。

 もちろんちゃんと性欲も出てくるだろうから安心するがいい」

「え……うん」


明らかに自分に向けて言っているなと思う。いったい何をどう安心しろと?

傍らのクララが自分のことを窺っているのにも気づいて、

ハインは曖昧な返事を返し、ニヤニヤしているレギィネイラを軽く睨んだ。

それを見ていたミハイルの方が、呆れたように溜め息を吐く。


「もう、朝からどういう話題よ。からかうのはよしなさい」

「はは、別にからかってなどいない。事実を言ったまでだ。君たちには限界まで伸びしろを持たせて作ってある。

 少なくとも今後、大人になれるかなれないかというところまでは成長できるはずだ。

 本来魔人とは、なった時点の年齢で成長が止まってしまうものだからな」

「本当? わたしはこの二年間、ほとんど身長が伸びていないの。

 もう少し成長できるかしら?」

「きっと大丈夫ですよ」


不安そうなクララに、すかさずハイデマリーが頷く。

今日も青い髪をポニーテールに結い、相変わらず前髪は顔の左半分をほとんど隠していた。

銀色の眼鏡の奥には、ヘーゼルナッツのような榛色の鋭い瞳がある。

スタンドカラーの白い長袖シャツに青いパンツという、ラフな格好だ。

彼女もまた、25歳くらいの見た目からまったく変わることはない。


「ちなみに精神の方は、体の年齢にある程度引っ張られるようにできている。

 それはリシャを見ればよく分かるだろう」

「なんで僕を引き合いに出すのさ?」


リシャは不思議そうにしているが、レギィネイラの言わんとしていることはなんとなく理解できた。

確かにリシャは、おそらくハインたちよりずっと年上だろうにも関わらず、言動に幼さがある。


「経験の蓄積や成長はもちろんするが、精神が老成するようなことはないということだ。

 精神が先に枯れたら肉体が生きていようと、それはもはや死だからな」

「そうか……それは確かに怖いね」


永く生きるということは理解していたが、そこまではまだ考えが及んでいなかったことに気がつく。

朽ちない体に、朽ちた精神。そんなことは想像するだけで恐ろしいことだ。


「さて。マリー、ミハイル。彼らも魔人になって約二年だ。体も馴染み、力も安定してきた。

 そろそろ外に出て実際に魔獣と戦うくらいのことはしてもいい頃だと思うが、どうかね?」

「あら、実地訓練ってこと? 少しくらいならいいんじゃない?

 この島の中だけで経験を積むのは限界があるものねえ」

「そうですね。頃合いだとは思いますが……」

「よし、決まりだ。ハイン、クララ。君たちは少し島を出て実地訓練に赴きたまえ」

「え?」

「はい?」


何か目の前で、ものすごいスピードで何かの議案が可決されたような。

クララと二人で目を丸くしていると、レギィネイラがニヤリと笑って畳みかけてくる。


「少し島を出て、力試しがてら世の中を見て来いと言っているんだ。

 その若さで二年もほとんどずっと島の中にいたんだ、そろそろ退屈だろう?」

「退屈すぎて体が鈍っちゃうよ。僕は絶対一緒に行く」

「ああ、リシャも一緒に行ってくるといい。お守りはそうだな……マリー、頼めるか」

「承知いたしました」


ハイデマリーが口元に運んでいたコーヒーカップを置き、一礼して肯う。

それを受けてミハイルが心得たとばかりに頷いた。


「じゃ、アタシが留守番ってことね? オッケー」

「お前も行きたければ一緒に行っていいんだぞ」

「一応レギィの護衛だって必要でしょ。だいたい生活能力皆無のくせに何言ってんの。

 一人にしたら食事・掃除・洗濯・お風呂・動物の世話とかできるの?」

「あー。それは無理だな、ふはは」


悪びれるでもなく、レギィネイラは快活に笑う。

よく考えるまでもなく魔女は、お嬢様だったクララよりも生活能力がないのだ。

いや、それよりも。突然降って湧いた話に、ハインは戸惑っていた。

これまでさんざん魔女たちに脅されてきた、外に出れば身を狙われるかもという話が脳裏に浮かび、

外に出たい欲求とともに、この安全な鳥籠のような島から出ることへの漠然とした不安があることに気づかされる。


「準備が出来しだい発て。行き先の選定はマリーとミハイルに任せる。

 その力をどう使うか考える、いい機会になるだろうよ」


やはりすべてを見透かすような水色の瞳でハインを見、魔女は人の悪い笑みを浮かべるのだった。





・・・ + ・・・ + ・・・ + ・・・





昼間の陽気が嘘のように、まだ肌寒い春の夜。

ハインはなかなか寝つけなくて、家の三角屋根の上にいた。

屋根裏部屋なので、天窓を開ければすぐに外に出られるのだ。

不安定な足場だが特に不安もなく、黒のスウェットの上下に裸足で、寝転がって星を眺めている。

雲一つない夜空には、満月に近い煌々とした月と、星々が輝いていた。

もう皆はだいたい寝静まった頃だろうと思う。自然の音以外に物音ひとつせず、静かだった。

……かと思ったその時、部屋の扉が控えめにノックされる。


「ハイン……?」


この頃は鍵をかけることもしていないので、返事を待たず、クララがそおっと顔を覗かせた。

ネグリジェの上にショールを羽織り、素足にバレエシューズを履いている。

ノックされる前から近づいてくる足音で分かっていたので、ハインは特に驚きもせず、

身を起こして天窓から部屋の中を覗き込んだ。

ベッドサイドのランプ以外の照明が落とされた部屋の中、ハインの姿が見当たらないことに

彼女は戸惑っているようだ。窓から、そっと彼女に声をかける。


「クララ、ここだよ」

「まあ、そんなところに。何をしてるの?」

「月がきれいに見えるんだ。クララもおいでよ」

「どうやって行けばいいの?」

「ベッドに乗って、こっちに腕を伸ばして」


天窓のちょうどすぐ下はベッドだ。靴を脱ぎ、ベッドを踏み台にする形で、彼女が窓に向かって手を伸ばす。

それでもかろうじて手がかかるくらいで、クララの力では自身を窓まで持ち上げるなんて無理だ。

だからハインが上から身を乗り出して、クララの脇に手を入れ、よいしょと持ち上げる。

子供のように軽々抱き上げられたクララがびっくりして小さな声を上げ、しがみついてきた。

屋根も、目で見るよりも実際の方が勾配が急に感じるので、怖がっているようだ。


「大丈夫だよ、窓枠に座って」

「待って、お願い、手を離さないで」

「離さないから落ち着いて」

「だってこのまま転がり落ちていっちゃいそう!」

「落ちたら俺が助けるから大丈夫だよ」


あくまで大丈夫だと返すハインが平静なのを見て取り、ようようクララが落ち着いてくる。

その体から余計な力が抜けてきた頃合いを見計らい、窓枠へと座らせた。


「ハイン、いつもこんなことをしてるの?」

「寝つけないような時はね」

「本当に落っこちても平気なの?」

「大丈夫、クララもちゃんと助けられるから」

「ハインったらすごいこと言ってるのに気づいてる? ここ三階の屋根の上よ?」

「……そういえばそうだ」


クララの言葉に思わず苦笑する。言われて気づいたけれど、確かに以前の人だった自分なら

考えられないようなことを、いつの間にか平然と言ってしまっている。

ここ二年で自分の中の感覚や常識が驚くくらい書き換わっているのを、感じずにはいられない瞬間だった。


「それで、こんな時間にどうしたの。何かあった?」

「ううん。ただハインと少しお話がしたくて……ね、もう荷造りしてる?」

「いや、まだ。急な話だったから、何を持っていけばいいのか……着替えだけあればいいかな?」

「ふふ、さすがにそれだけじゃ困るんじゃない? 明日マリーに聞いてみましょう。

 わたし、買い出し以外で外に出るのって久しぶりだから、ちょっと緊張するわ」


そういえば、ハインは短期間の訓練で外に出ることは幾度かあったものの、

クララはこの島に来てからというもの、ほとんど外には出ていない。

新聞に絵姿まで載ってしまった元伯爵令嬢の身だからというのもあったからだが……。

一時的にとはいえ、いきなりこの島を離れることへの不安はハイン以上だろう。

しかも力試しだとか魔獣と戦ってこいとか言っていたし。

……と思っていたのだが。


「でもね、ちょっとワクワクしてるかも」

「え? そうなの?」

「だってきっと見たことがない、経験したことがないことがたくさんあるでしょう?」


クララはきらきらした笑顔でハインを見上げてくる。

ワクワクかあ、その発想はなかった。

驚いたが、ある意味クララらしいと妙に感心してしまう。


「クララはすごいな……」

「あら、ハインが一緒だからよ? だからわたし、何も怖くないの。

 あ、さっきはちょっと怖かったけれど。ふふ!」


自分で言っておいて思い出したのか、クララは口元に手を当てておかしそうに笑った。

さっきのクララの怖がりようを思い出して、ハインもくすりと笑ってしまう。

その微笑みの余韻を残したまま、クララが言った。


「ハインは、少し不安なのね?」

「うーん……うん。どうしてこう、すぐバレちゃうかな」

「だってハインは正直だもの」


そんなに顔に出しているつもりはないのだが、どうしてもクララには隠せないものらしい。

それならもう、正直に胸の裡を打ち明けてしまおう。ひとつ息を吐き、ハインは口を開いた。


「実を言うとさ、外に出るのは少し怖いんだ。俺は戦うことがあんまり得意じゃないから」

「そうよね。わたしもそうだもの。戦わなくていい選択肢があるなら、そうしたいわよね」

「うん……」


頷くハインの隣で、クララが唇に人差し指を当てて少し考え込む。

ややあって何か閃いたのか、ぱっと振り向いた。


「ね、いっそ戦わない魔人を目指すっていうのはどう?」

「え?」

「だってわたしたちには、武器よりも先に言葉があるもの。

 もっと相手と対話することを考えてもいいんじゃないかしら?」

「そうだね。それは俺もそう思うよ」

「もちろん、言葉で通じない人もいると思うの。わたしのお父様がそうだったみたいに……。

 でも、戦うのは最後の手段にとっておけたら、って思うの。

 そうしたら、いつか本当に戦わなくてもよくなるかもしれないわ。……なんてね?」

「うん。そうできたら、すごくいい」

「でしょう? それでね、ふふっ。戦わなくなったハインはお菓子屋さんになるの」

「え、お菓子屋さん? 俺が作るの?」

「ええそう。わたしはハインの作ったお菓子をお客さんに売る係をするわね」

「あははっ。じゃあもっとお菓子作りの練習もしないと」


ハインは自分が不安を抱えていたことも忘れて笑っていた。

クララに言われると、そのとおりになりそうな気がしてくる。

彼女のこういうところが、とても好きだ。突拍子もなくて、前向きで。

二人ならできるかも、とか現実はきっとそんな甘いものじゃきっとない。

まだその現実に直面さえしたことがない今は、その厳しささえ何も分かっていない。

それでも未来には、そうできる可能性があることを信じたかった。


「いざというときに戦える力を身に着けておくのは、大事だと思う。

 でもいずれは、誰かと争ったり戦ったりしなくてもよくなるといいな」

「じゃあ、二人でがんばってみる?」

「そうだね」


微笑みを交わしあい、どちらからともなく手を繋ぎ、指を絡めた。

ハインの左胸に、クララが頬を寄せてくる。心臓に近い場所。

クララはよくこうしてくるけれど、心音を聞くのが好きなんだろうか?

分からないけれど、それで彼女が安心するのならと、ハインは何も言わない。


「ね、キスして?」

「いいよ」


ハインの方が少しかがんで、クララに口づける。

ひとときただ触れるだけのキスを受けて、クララがうれしそうに微笑んだ。

けれどそのあと、少しだけ残念そうに小さな溜め息をつく。


「ああ、わたしがもう少し背が高かったら! そうしたら、いつでもハインにキスできるのに。

 座っていてもこんなに差があるんですものね」


立っていても座っていても、クララの頭はだいたいハインの肩辺りまでしかないのだ。

座っている時に彼女からキスしようと思うなら、膝を立てないとならない。

が、こんな足場の悪いところではそれもできないので、やむなしというか。

ハインはこの二年で少しだが身長が伸び、筋肉もついてきているが、

それはハインの方が運動したり鍛えたりしているからという理由もあるのだろう。

でもクララは14歳の頃とほとんど変わっていないし、小柄だし、体もとても華奢で薄い。

だが朝にレギィネイラが言っていたように、これからはお互い少しずつ変わっていくのだろうか?

クララが身長が伸びて、彼女が言うように自分からキスできるくらいになったのを想像してみる。


「うーん……そんなふうになったら、俺はちょっと困るかもな」

「まあ、どうして?」

「だってクララのことだから、ほんとにいつでもどこでも急にしてきそうだし」

「あら! さすがわたしのことをよく分かっているのね」


しっかり見抜かれていたというのに、クララは少しも悪びれる様子もない。

なぜかうれしそうにくすくすと笑うのを、半目になって見やる。


「やっぱりする気なんだ」

「もちろん」

「そんなことされたら心臓がもたないよ……」

「ふふっ。ハインったら、かわいらしいことを言うのね?」

「……クララが思ってるより、俺は君を好きだからね」


明らかに面白がっている彼女に、少し意趣返しがしたくなったというか。

ストレートにそう言うと、繋いだままのクララの手がぴくんと震えた。

分かりやすく頬を赤らめ、拗ねたように唇を尖らせる。


「急に、そういうことを言うのはずるいわ」

「だってクララがからかうから」

「ハインがその気なら、わたしだってくんくんしちゃうんだから!」

「え、うわ! やめて!」


逃げ場のない屋根の上で、がば!と抱きつかれて匂いを嗅がれそうになって慌てる。

最近は匂いを嗅いでくることを、くんくんすると表現するようになっていた。

そのくらい当たり前になりつつあるのが怖いが、だからって慣れるものでもないというか。

だが引きはがそうにも足場が不安定だから危ないし、結局なすすべもなく、くんくんされてしまう。


「もー……」

「ふふ。ハインもくんくんしてもいいのよ?」


諦めて脱力していると、クララが上目遣いにこちらを見ていたずらげに微笑む。

そんなこと、ハインにできるわけがないと分かっていて言うのだ。小悪魔のような所業だ。

せめてもの抵抗をこめてそっと額にキスすると、彼女がくすぐったそうにかわいい声で笑った。

月光の下なのに、その笑顔が眩しく思えてハインは目を細める。


「ね、見て。お月様に手が届きそう」

「うん」


クララが月に手を伸ばす。一緒にその月を見上げる。

島の外に出たら、しばらくこんなふうに過ごす時間はないかもしれない。

なんとなくそれを予感して、穏やかな月夜、二人は眠たくなるまでただ寄り添いあっていた。

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