第3章‐9話
ハインを魔人にしてしまった。
夢さえあきらめさせ、家族と会えなくしてしまった。
それは自分のせいなのだと責める気持ちが、罪悪感が、いつでも心の中にあった。
あの日からずっとなんとか前を向こうとはしてきたつもりだけれど、
きっと本当の意味では、自分の心は前には進めていない。
はっ……と暗闇の中で目が開く。
真っ暗な闇の中に、クララは横たわっていた。
「ここは……?」
目を瞬かせるクララの背後で、何かが激しくぶつかり合うような物音がする。
振り向くと、そこに光があった。それは闇の中にぼんやりと丸く浮かび上がる、どこかの景色。
緑の草地と、その向こうに輝く水面が見える。
見覚えがある。これは島の西側の、ハインたちがいつも稽古をしている場所だ。
クララは立ち上がり、その景色の方へと歩いて行った。
だが近づいても、その景色の中には入ることができない。
まるで壁に映し出された映写機の映像と同じだ。
島の景色が映り、そして急にその中に、銀髪の少年が姿を現した。
「ハイン……!?」
陽光を柔らかく跳ね返して光る、銀の髪。
透き通るような空色の瞳が、クララが見たこともない鋭さを帯びて前方を見据えている。
端正な面差しには、はっきりと殴られたような跡があった。
稽古の日にはいつも着ている、上下黒の丈夫な生地のズボンと半袖Tシャツ。
どちらもあちこち擦り切れたり破れたり、血が滲んだりしている。
袖から見える腕にも鮮血の流れる裂傷や打撲傷がいくつも見えていた。
確かに彼はいつも、稽古の後は傷だらけだ。
だけどこんなに生々しい傷を見たことはなかった。そのことに驚く。
ハインは木刀を手に、ミハイルとリシャを相手に鍛錬に励んでいた。
ミハイルとリシャが入れ代わり立ち代わり、ハインと激しく打ち合う。
だがハインが優位に立つことは一度もない。
木刀でひどく打たれ、その体が地面に叩きつけられるように転がる。
立て!聞いたこともないミハイルの厳しい声が飛び、ハインが歯を食いしばってまた立ち上がる。
それを繰り返して、みるみるうちに傷が増えていく。
「や、やめて、もうそれ以上は……お願い、やめて!」
我知らず、クララは叫び出していた。
手を伸ばしても届かない、ただの映像。壁を叩くように、拳で叩く。
だが、目の前の光景は止まらない。止まってはくれない。
ザザザッと映像が乱れ、また別の映像に切り替わる。
今度はハイデマリーが映る。彼女はハインと素手で戦っていた。
矢継ぎ早に繰り出されるハイデマリーの拳や足を、ハインは必死で受け止め捌く。
しかしみるみる追い詰められ、ひどく殴られ、蹴られる。
草の上に倒れ、鼻血を流しながら苦し気に咳き込む。
だがハイデマリーは待ってなどくれない。
無慈悲とも思えるその追撃から逃れ、ハインは立ち上がり、再び立ち向かっていく。
何度、映像が切り替わっても。
何度でも、ハインは傷だらけになった。
気づけばクララは泣いていて、やめてと必死に懇願していた。
それがいったい、どのくらい続いただろう。
何時間? 何十時間? 時間の感覚などすぐに分からなくなる。
止まらない映像を前に呆然とへたり込み、涙も枯れてしまうほどに。
そのうちに気づいた。これは、レギィネイラが視たものなのだ。
その記憶を一方的に見せられている。
これらはすべて、クララには見えないところで過去に起きたこと。
止められるはずがない。これはもう既に起きてしまったことなのだ。
今にして痛感する。
戦うための訓練というものがどんなものか、世間知らずなクララは少しも分かっていなかった。
ヘイレンが、ハインが泣き言を言うところを見たことがないと言ったことの意味と、その重み。
クララの見えないところでハインは毎日、手ひどく傷だらけになり。
その傷をクララには見せまいとしていたこと。
どんなにつらい目に遭ってもクララには心配をかけまいと、笑っていたこと。
そんなことにも気づかずにいただなんて……!
また、映像が切り替わる。
ひどく打たれた傷が癒えるまで、草の上に寝転んでいたハインが起き上がる。
あちこち痛そうにしながら立ち上がり、歩き出しかけて足を止める。
家の方ではない、草むらの中に分け入っていき、そこで何かを摘んだ。
小さな、白い草花。何それ?と近くにいたリシャが問う。
分からない、花の名前なんてぜんぜん知らないんだ。ハインが苦笑した。
ただ、クララは好きだから。そんなことを言って手折る。
もらったことを覚えている。ハルジオンの花。ハインに名前を教えた。覚えるよと彼は笑ったこと。
また、映像が切り替わる。
あれは雑木林の中に二人で見つけた、小鳥の巣だ。
雛が孵って、かわいい小さな声で鳴いていた。その巣を狙って、大きな蛇が木の枝を這っている。
それを見つけたハインが、恐れるそぶりもなく蛇をそっと掴んで枝から引きはがした。
そして巣からずいぶん離れた場所まで連れて行ってから放す。
物好きだな。放っておけばいいのに。またリシャの声がした。
でも雛が食べられちゃったら、クララが悲しむから。ハインが言う。
ああ、この間、雛が無事に巣立って二人で喜んだばかりだ。
また、映像が切り替わる。
クララが喜ぶから。
クララが悲しむから。
クララが好きだから……。
何度、映像が切り替わっても、彼はクララのことばかり口にした。
傷だらけな自分のことにはかまいもしないのに。
彼はクララのことばかり気にしていた。
クララが自分を責めている間にも、彼はずっとクララを想ってくれていた。
心配をかけまい、悲しませまいと、一人で戦い続けていた。
ひたむきとさえ言える、その想い。
「わたしは……本当に、何も見えていなかったのね。
あなたがどんなにわたしを想ってくれているか、
どんなにわたしを愛しんでくれているか……考えようともしないで、
自分を責めることでずっと現実から逃げていたんだわ」
ああ、なぜ今まで、気づくことができなかったのだろう。
クララは俯いて目を閉じ、涙を流した。
「あなたはずっとわたしを想ってくれていたのに。
あなたのその想いが、ずっとわたしを生かしてくれていたのに……
ごめんなさい、ハイン……ごめんなさい」
クララはすすり泣き、己の左胸を押さえる。
そこにある、魔女がかけたベルベットローズの魔法。
この魂は、心は、記憶は。今、彼の想いだけで存在することを許されている。
クララは顔を上げ、映像の中のハインを見つめた。
「あなたがわたしにくれたもの……それがきっと愛なのね。
わたしもあなたが好き。あなたが好きなの。あなたが望むならわたしの全部をあげる。
この気持ちが愛なのか、わたしにはまだ分からないけど……」
クララは泣きながら微笑み、映像の中のハインに語りかけ続ける。
現実のハインには、決して言えないことを。
「もしもいつか、あなたにもういらないって言われる日が来て、
この魔法が成就しなかったとしてもかまわない。わたし、最後まであなたを好きでいるわ」
魔女の言ったように、その時はこの世界から消えてしまうだろう。それでもいい。
今、彼の想いによってここにこうして存在していられる、そのことだけが真実だ。
その真実だけでかまわない。そこに憎しみなどいらない。
映像の中のハインの頬に手を添える。
そうしてクララは、涙を流しながら微笑み続けた。
……ベッドの上で眠るクララの頬に、涙が流れる。
それをレギィネイラは黙って見ていた。
「……それが君の答えか」
三階建ての家の、クララの部屋だ。
時間はすっかり真夜中になっている。月明かりが、クララの白い頬を照らしていた。
ハイデマリーたちにここに運び込ませ、魔女はベッドの傍の椅子に座り、
夢と現実の狭間の空間に閉じ込めた彼女の精神に、ずっと干渉し続けていたが……
指を鳴らしてその魔法を解く。
「お嬢様がドクターを憎むようなことはきっとありません。
お嬢様はきっと、あの父親のことでさえ憎んでなどいないはずですから」
「そうなのだろうな。実に健気で危うく、愚かで可愛らしい生きものだ」
暗闇の中、部屋の入り口付近に控えているハイデマリーの言葉に答え、レギィネイラは息を吐いた。
愛されること、憎まれること。そのどちらも、レギィネイラは好んでいる。
それだけでなく人の見せる感情のそのすべてが興味深く、好きだ。
どんな感情を向けられたとて、魔女にとっては知的好奇心をくすぐる以上のものではなかったはず。
だから二人を魔人にしたことで二人から恨まれても構わなかったし、むしろそれを望んですらいた。
二人を魔人にし、二人の人生に多大な干渉をした自分は、充分に憎まれるに値するはずだと。
二人だって、そうした方が楽だったはずだ。
大切な人が苦しむ姿を見つめ続け、支え続けるよりも、苦しみを与えた者を憎む方が。
己を責め続け、悩み悶え苦しむよりも、誰かのせいにして憎む方が。
だが結局、二人はそうしなかった。
愚直なほどにお互いの姿を見つめ、今また、苦しみの中から立ち上がっていくのだろう。
「ああ。君たちは本当に愚かで……なんて愛おしいのだろうな」
美しく、眩しいものを見るように、レギィネイラは目を眇める。
彼らを見つめてきた五年の間、魔女は何度もそうして二人を見てきた。
あの時――――。
なぜあれほどまでにあの時、あの父に怒りを感じたのか。
そもそもなぜあの時、この娘の命を助けたのか。
分かっている。レギィネイラはただ許すことができなかったのだ。
死の影に怯えながらも、お互いの姿から決して目を逸らそうとはしなかった彼らの五年間を。
レギィネイラが愛した、得難く美しいその時間を、あの父が灰に帰す行いをしたことが。
二人の行き着く先を見たいという、その欲求を満たすため。
ただそれだけのために、魔人となった二人。
健気で、かわいそうな二羽の雛鳥。
ああ、だが、果たして本当にそうだろうか?
それだけで終わるつもりだろうか?
いいや、いずれこの手から逃れて、きっと羽ばたいていく。
囚われることなく、振り返ることなく、魔女の想像を超えてどこまでも遠くへ。
その日を楽しみにしている己がいることに、魔女は苦笑した。
「ふっ……くっくっく。私らしくもない」
口の端を歪め、皮肉気に笑う。
レギィネイラはようよう立ち上がり、ベッドを見下ろした。
魔法を解いたからか、クララの涙はようやく止まったようだ。
ずっとすすり泣いていたものが、今は穏やかな寝息に変わり始めている。
「後は頼むぞ」
黙して肯うハイデマリーの肩を叩いて。
満足げな笑みを浮かべる魔女は、静かに部屋を出て行った。
・・・ + ・・・ + ・・・ + ・・・
眩しい光で、目が覚める。
カーテンを透かして届く陽光が、クララの横たわるベッドに差し込んでいた。
その光の強さから言って、もうだいぶ陽が高いのではないだろうか。
驚いてベッドに身を起こす。きちんとネグリジェを着て寝ていた。
着替えた記憶も、ベッドに入った記憶もない。
あるのは昨日、魔女と話した記憶と……
「っ……」
つきんと頭痛がして、こめかみを押さえる。
その瞬間、膨大な記憶が一気に脳内にあふれ出てきた。
魔女に見せられた、数々の記憶。そのすべてが。
あれは夢などではなかった。魔女が意図してクララに見せたものだ。
クララ、私を憎め。
レギィネイラはそう言っていたけれど、クララの心の中に今も憎しみはない。
あるのはただ、ハインに対する新たな想いだけだった。
「お嬢様、おはようございます」
「マリー!」
ハイデマリーが洗面器とタオルを手に入ってきて、ベッドの横の椅子に座る。
そして机の引き出しに入っている手鏡を取り出すと、渡してくれた。
長年共にいる彼女は、何も言わなくてもクララの求めていることを察してしまう。
「まあ、ひどい顔!」
手鏡を覗き込み、思わず笑ってしまう。
泣きながら寝ていたのは、起きた瞬間から自分でも分かっていた。
ひどく泣き腫らし、目の周りが赤くなっている。
ハイデマリーの持ってきてくれた洗面器で顔を洗うと、タオルでそっと水気を拭った。
「ありがとう、すっきりしたわ」
「お召し替えなさいますか?」
「うん。自分でできるから大丈夫よ」
そうしてベッドを降りた瞬間だった。唐突に、部屋の窓ガラスがコツコツとノックされる。
ハイデマリーがカーテンを開けると、閉じた窓の向こうにリシャがいた。
ここは二階なのにと驚いたが、そんなことは彼女には大した問題ではないのだろう。
ハイデマリーが窓を開けると、リシャが西の方を指差して教えてくれた。
「二人が帰ってきたよ」
「えっ?」
その言葉に窓に取り付き、彼女が指差す方向を急いで見やる。
陽の光にきらきらしている湖に、こちらに近づいてくるボートが見えた。
もう桟橋に着こうとしている。ハインとミハイルが帰って来たのだ。
「お嬢様!?」
ハイデマリーの声を背中に聞きながら、クララは急いで部屋を飛び出していた。
裸足のまま寝間着のままで、髪すら梳いていないことも忘れて、螺旋階段を駆け下りていく。
家を飛び出し、素足で家の前の石畳の広場を駆け抜け、小道に出る。
草が揺れる丘の上から見下ろすと、ちょうど桟橋に降り立った二人が見えた。
「ハイン!」
大きな声で呼ぶと、彼が弾かれたように振り向いた。
遠すぎて顔が見えない。それがもどかしくて、クララは丘の小道を駆け下っていった。
小石が痛いとか感じる余裕もない。ただ、彼に早く会いたかった。
ハインが驚いて、彼もこちらに向かって走り出す。
が、クララがまったく勢いを減じないのに気がつくと、立ち止まって慌てて両手を広げる。
「クララ……わっ!?」
「ハイン!」
迷わずその腕に飛び込んだクララを、ハインがしっかりと抱き留めてくれた。
そしてそのまま一時どうにかこらえていたけれど、勾配のついた足場だったせいもあり結局こらえきれず、
抱き合ったままクララもろとも後ろに倒れ込んでしまう。
「あいてて……クララ、大丈―――」
「おかえりなさい、ハイン! 会いたかった……とっても会いたかったの……!」
「え? ど、どうしたの」
会えた瞬間、ハインに抱きしめられた瞬間、自然と涙があふれてしまった。
倒れた自分の体の上で泣くクララを見て、わけも分からないままハインが狼狽している。
彼を困らせてはいけないと思うのに、愛おしい気持ちとともに涙があふれて止まらなかった。
「え、寝間着なの? こんな薄着で外に出たらだめだよ、体が冷えるよ。
しかも裸足じゃないか。クララ、クララ? 何があったんだ?」
ハインが身を起こし、膝の上で泣いているクララの顔を覗き込む。
たぶん、泣き腫らした顔をしているのにはすぐに気づかれてしまっただろう。
「どうしたの、何かあった? レギィに何か言われたとか?」
心配そうな顔をしているハインに、首を振る。
ハイン、ハイン、とただ何度も名前を呼んで、その首にしがみついた。
ぽかんとしている様子のハインの横を、あらあらと小さく笑いながらミハイルが通り過ぎていく。
一人残されたハインの手が、所在なさげにクララの背中に添えられた。
その温かさに、胸がぎゅっと苦しくなる。
「ハイン、ハイン……ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「わたし、わたしね、やっと分かったの」
「ん?」
優しい声で聞き返して、ハインがしがみつくクララの体をそっと離す。
穏やかな空色の瞳が、膝の上ですすり泣くクララを見つめ、言葉を待ってくれていた。
「あなたが……あなたがどんなに、わたしを想ってくれていたか。
あなたもとてもつらかったはずなのに、何も言わずにそうやって、いつもわたしを気づかってくれたこと……
わたしにはとても返しきれないくらい、たくさんの心をくれていたこと……やっと、やっと分かったの」
嗚咽まじりに、必死に声を絞り出す。
ぽろぽろと涙をこぼすクララを見つめるハインが、驚いたようにその瞳を瞠っていた。
「ごめんなさい、ハイン。わたしと一緒に来てくれて、ありがとう……
わたしは、あなたにそう伝えないといけなかったんだわ」
「クララ……」
ハインが茫然として呟く。
そしてしだいに端正なその顔を、どこか泣きそうに歪め、微笑んだ。
「そんなこと、謝らなくていいんだよ。言ったろ?
君が生きてここにいる、一緒にいられる。俺はそれだけで幸せなんだ」
「ハイン……!」
また、涙があふれてしまう。
どうしてあなたはそんなに優しいのだろう。
どうしてそんなにわたしを好きでいてくれるのだろう。
わたしも同じだけあなたに気持ちを返すことができるかしら。
あなたを本当に、幸せにすることができるかしら。
今、わたしを幸せにしてくれているように……。
「ほら、もう泣かないで」
ぎゅっと抱きついてくるクララに苦笑して、その背をハインの手が優しく叩いた。
泣きじゃくるクララを抱きかかえ、ハインが立ち上がる。
そうして、二人を待つ人たちがいる家へと、ゆっくりと歩き出した。




