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第3章 -3話

翌日の早朝。

カーテンの隙間から洩れ入る光で、ハインは目が覚めた。

東側の部屋を割り当てられたため、これからは太陽とともに寝起きすることになりそうだ。


身を起こし、まだまったく見慣れない部屋の中を眺める。

ベッドと、書き物をする机と椅子、まだほとんど何も入っていないクローゼットと本棚。

広さや家具に関しては、実家の部屋とほとんど変わりはない。

違うのは、ここが三階の屋根裏部屋なので、天井が大きく斜めになっていること。

それと照明器具が電気であることと、スチーム暖房とかいう最新設備があることも大きく違う。

さすがに今は夏に向かっているので使うことはないが、冬にはきっと重宝するのだろう。


ベッドを降り、クローゼットへと向かう。

寝る前に荷解きをして、服をしまっておいたのだ。と言っても大した数はない。

特にハインは家に戻ることができなかったため、バイオリン等以外の荷物はほぼ旅すがら調達したものばかりだ。

昨晩寝る前にミハイルが、サイズが小さくて着れないというシャツを数枚くれたので、

襟付きの黒い半袖シャツを選んで袖を通す。さすがに少し大きくて半袖が五分袖だが、着れないことはない。

肌着からはまだ、魔人になった時の傷と、レギィネイラの記した魔法の文字が見えている。

が、故郷からここまでに旅する間に、傷はだいぶ塞がってきていた。

あと半月もしないうちに完全に塞がりそうな気がする。

クララの方はどうなのだろうと思って聞いてみたが、彼女の方はやはり治りが遅いようだ。

いつものように一番上の台襟ボタン以外をきっちりと留め、黒のスラックスを履く。

クローゼットの扉の内側に掛かっている鏡で髪を整え、身支度を済ませると、部屋を出る。


廊下を挟んですぐ前の部屋が、ミハイルの部屋だ。

その廊下を進むと、家の真ん中に階段ホールがある。

談話スペースを兼ねているらしく、ソファや本棚、観葉植物が置かれてあった。

螺旋階段を降りていき、一階のキッチン&ダイニングルームへと出る。


「おはようございます」

「おはようございます、ハイン君。早いですね」

「あら、おはよう! もう起きたの?」


キッチンにはすでにミハイルとハイデマリーがいて、それぞれに挨拶を返してくれる。

ハイデマリーは見慣れたメイド服などではもちろんなく、白い長袖シャツに紺のパンツスタイルだ。

そもそもこちらが本当の彼女なのだとは思うが、ずっとメイド服姿ばかり見ていたのでまだ違和感がある。

ミハイルは今日は詰襟の白いシャツと、黒のスラックス姿だった。

他にもう一人いると聞いていたのでそれとなく姿を探したが、ここには二人しかいなかった。


「ええと、何か手伝えることはないかと思って……」

「まだ寝てていいのに。疲れてるでしょ?」

「いえ、一晩よく寝たので大丈夫です」

「真面目な子ねえ。リシャも見習ってほしいもんだわ」


ミハイルが鍋をかまどにかけながら嘆息する。

リシャ、と昨日も聞いた名前だ。部屋が二階だと聞いたし、おそらく女性なのだろうが。

まだ会いもしないうちから決めつけてはなんだが、あまり歓迎されていないのかもしれないとは思う。


「手伝ってくれるのは嬉しいけど、今日はまだいいから。

 あの子と少し散歩でもしてらっしゃいな。あ、裏庭に井戸があるから顔はそこで洗ってね」

「分かりました。ありがとうございます」


ぺこりと二人に頭を下げ、螺旋階段をふたたび上る。

よく眠れたからか、昨日よりも体が軽い。


今さらだけれど、昨日は本当にぐっすり眠ってしまったなと思い返す。

ここまで自分で思っているよりも気を張り続けていて、疲れていたのかもしれないが、

初めての場所で知らない人もいるのに、我ながら暢気すぎるのではないか?

気を引き締めなければ。

そう思う一方で、しかし……レギィネイラはともかく、ミハイルという人物に対し、

このままずっと警戒をし続ける意味はあるだろうか?とも思うのだ。

これからおそらく当面ここで、ともに暮らすことになるのに。

それでなくても、あの人柄だ。一線を引き続けるのはすでに難しい気がしている。


ハイデマリーに対してもそうだ。

本当は魔女に仕える者だと明かされて、認識を改めるべきか悩んだが……

結局、ハインの中の彼女に対する信頼感のようなものは、ほとんど揺らがなかった。

五年間見てきた相手だし、何よりこうなってもなお、クララが全幅の信頼を寄せている。

とりあえず、自分に対してはともかくクララに関することなら、彼女を信頼してもいいと思う。


などと考えているうちに、螺旋階段を上って二階に着く。

階段の正面がハイデマリーの部屋、確かその左隣がクララの部屋だ。

扉の前まで行ってみるが、中からは物音ひとつしない。まだ眠っているのかもしれない。

起こすのも気が引けて、しばらく悩んだものの……結局控えめにノックしてみる。

しん……とした沈黙の後、一拍遅れてごそごそと音がした。


「はい……どなた?」

「えっと、俺……」

「あら、ハインなの? もう朝なのね……」

「ごめん、起こして」

「いいのよ。もうこんなに明るいんですもの、起きないと」


眠気を孕んだ声でクララが答え、ベッドを降りる気配がする。

そしてドアノブに手がかかったのが分かったが、鍵を開ける前にクララが声を上げた。


「あっ。あの、ちょっと待ってもらえる? 身支度をするわ」

「あ、うん。階段のホールのところで待ってるから」


寝起きのまま出てくるのかと一瞬どぎまぎしてしまった。

ホールのところまで戻り、ソファに座る。ソファの反対側には本棚が置いてあった。

手持無沙汰だったので、そのまま並んでいるタイトルをぼんやり眺める。

多くは推理小説のようだった。こんなの読んでたら、先が気になって眠れなくなりそうだが。

立ち上がり、手に取ってみる。紙は日に焼けて変色し、印刷はかなり古い。

内容はハインでも知っている名作推理小説だったが、奥付を見ると約七十年前の初版本だった。

驚いて他の本も確かめてみると、多くは五十年以上、中には百年近く前の本もある。

レギィネイラの趣味だろうか……? というか何歳なんだ、あの魔女は。


「待たせてごめんなさい……!」


部屋の扉が開き、ぱたぱたとクララが駆け寄ってきたので、本を戻して振り返る。

ライラック色のシンプルな五分袖ワンピース姿だった。

パフスリーブで、襟と袖のパイピングのみ紺色になっている。

腰の後ろで緩くリボンを結ぶタイプで、スカートは膝下丈。

靴はパンプスが適当なのだろうが、今は編み上げのブーツしかないのでそれを履いていた。

白金色の長い髪が窓からの朝陽にきらきらして、眩しい。


「えっと、おはよう」

「おはよう、ハイン」


クララが小さく微笑む。そこにはいつものような明るさはない。

それでもたぶん、努めて笑おうとしてくれていることは分かっている。

今のハインができることは、微笑みを返すことだけだった。


「ミハイルさんが、朝食まで散歩でもしておいでって。行く?」

「ええ、もちろん」

「じゃあ行こう」


二人して螺旋階段を降り、再び一階のキッチン&ダイニングルームへと出る。


「おはようございます」

「おはようございます、お嬢様」

「おはよう! あら可愛いわねえ」


ミハイルがクララを見るや、垂れ気味の目許を緩めて微笑む。

ありがとうございます、と言ってクララも微笑み返した。

そこにハイデマリーがすかさずやって来て、クララにタオルを手渡す。


「裏庭の井戸でお顔を洗えます。参りましょう、お嬢様」

「ありがとう、自分でできるから大丈夫よ。ね、マリー。わたしもうお嬢様じゃないわ。

 もうそんなふうに世話を焼く必要はないし、好きに呼んでくれてかまわないのよ?」

「いえ。これは私が好きでやっていることですので」


眼鏡のつるをくいっと持ち上げ、ハイデマリーが即答する。

ハインの位置からだとレンズが反射で光ってどういう表情なのかよく見えないが……

たぶん真剣な目なのだと思う。クララは少し困ったように小首を傾げていた。


「そうなの? マリーがいいなら、それでいい……のかしら?」

「もちろんです、お嬢様」


どこか満足げにハイデマリーは頷いた。

おそらく、この人はずっとこうなのではないかと、なんとなく思える。


そのあと、二人はキッチンのある裏口から裏庭へと出た。

外は深い霧に包まれており、建物や木の輪郭はおぼろで、幻想的な風景になっている。

湖の上だから、島はすっぽりと霧に包まれてしまっている感じだった。


裏口を出ると左手に、手押しポンプの設置された井戸がある。

クララは自分でできるとさっき言っていたけれど、ポンプを触ったこともないので早速戸惑っていた。

「こうやって使うんだよ」とポンプを押して見せると、勢いよく水が出てくるのを見て、

「わたしもやってみる」と言い、少し楽しそうに自分でもやってみていた。


二人して顔を洗ったあと、井戸の横の小道に沿って、家の正面へと回ってみることにした。

明るい場所で見る、赤い三角屋根の三階建ての家は、やはり大きい。

煙突からはかまどの煙が上がっていた。白壁には一面に這わせた薄黄色の木香薔薇が咲いている。

昨日と同じく、クララは立ち止まって家をじっと見上げていた。


「……もしかして気に入った?」

「可愛くて、温かい感じがして、素敵だわ。

 こういうおうち、わたしずっと憧れていたの」


ハインが聞くと、クララは見上げたままで、こくんと頷いた。

かと思うと何か思い至ったように、はっとしてハインの方を振り向く。


「ごめんなさい、そんな暢気なことを言っている場合じゃないわよね」

「どうして謝るの。いいじゃないか、クララが好きならそれで」

「そ、そう? じゃあ……ハインはこのおうち、どう思う?」

「どう……? 大きな家だなって」

「まあ、それだけ?」

「え、うーん……屋根にあれだけ傾斜があるから、冬は雪が深いのかなとか」

「そんなところを見てるの? ふふ、でもハインらしいわ」

「え? 何が?」


本当に分からなくて、くすくす笑うクララに訊ねたが、教えてはくれなかった。

どうやらクララと家を見るときの観点がずれているようなのは分かるのだが。

家に抱く感想って、いったい何が正解なのだろう?


首を捻りつつもそのまま小道を歩いていくと、分かれ道に行き当たる。

どうやらこの小道は家の周りをぐるりと円状に取り囲んでいるらしかった。

坂を下る道を行けば島に上陸した西の桟橋へ、円状の道を行けば、小さめの二階建ての家と鐘楼がある。

そのまま円状の道を行き、二階建ての家と鐘楼の裏手を通って、三階建ての家の南側に出た。

南側には別棟が建っており、そこは風呂になっている。


「お風呂、すごかったわ。ね、ハイン」

「ああ、あれはびっくりしたな……」


昨晩ここの風呂を使ったのだが、何式と言えばいいのか……とにかくやたらに広い空間だった。

タイル張りの浴室の広さもさることながら、半月形の大きな浴槽があり、そこに浸かって入る形になっていて、

風呂と言えば小さな浴槽に沸かした湯を入れるか、シャワーしか知らなかったので、本当に驚いた。


しかも同性と一緒に入ることになっていて、いきなりミハイルと一緒に入ることになり、

それも戸惑いひとしおだったわけだが……まあ、慣れるしかないのだろう。

そのときミハイルが「アタシって喋り方はこんなだけど、心は男だから安心してね!」と言っていた。

つまりあの喋り方や仕草は趣味……ということでいいのだろうか? 深くは聞けなかったけれど。

ちなみにミハイルによるとレギィネイラは風呂好きで、ここの設計も彼女の肝煎りなのだとか言っていた。

つくづくよく分からない魔女だが、その知識の広範さは素直にすごいとは思う。


別棟を通り過ぎると、三階建ての家の裏側に戻ってくる形だ。家の裏には物置と小屋が建っている。

その横には物干し竿がたくさん立っているので、洗濯物を干すところだと分かる。

そのさらに奥の方、島の東側に向けて、柵で囲まれた畑があるのが見えた。


「まあ、ハイン見て。ヤギさんがいるわ。あら、ニワトリさんも」


小屋の前の柵で囲まれたところに、白と黒のヤギがのんびり草を食んでいた。

角の大きさや太さからいって、おそらく黒がオスで白がメスではないかと思う。

白いヤギの足元には小さな白い子ヤギが一頭いるのに気づいて、クララがかわいいと目を輝かせる。

ニワトリは茶色い羽根をしているのが数羽いるようだ。

ヤギとニワトリは小屋は別だが、同じ柵の中で暮らしているらしい。


と……そのとき、ふと左の方から視線を感じたような気がして、目を向ける。

ミルク色の霧に包まれた畑の向こうに、ポツポツと木立が立ち並んでいて、

その木立の間に、朝陽を浴びてぼんやりと浮かび上がる影があった。

それが二頭の大きな獣だと気づき、ハインは反射的にクララを背中に庇う。


「どうしたの、ハイン?」

「何かいる……」


クララもその姿を認めて、びっくりしたように口を噤んだ。

一瞬、幼い頃に襲われた魔獣のことが脳裏をかすめて身構えたが、

二つの獣の影は静かに立ってこちらを見たまま動かない。

やがてふいに、一頭が霧の奥へと消える。

そしてもう一頭も、それを追うようにゆっくりと去っていった。


「何かしら……?」

「分からない。でも、襲ってくるような感じじゃなかったな」


なんとなくの感覚だが、敵意というものが感じられなかったというか。


「あ、いたいた! 二人とも、朝ごはんよー!」


いきなりの大声に、びくっとしてしまった。

立ち並ぶ物干し竿の中をやってきたミハイルが、きょとんとした顔で首を傾げた。


「どうしたのそんな顔して。なんかいた?」

「え、あ、今なんか大きな獣みたいなのが……」

「獣? ああ! うんうん、びっくりしたわよね。

 でも安心して、あれはあなたたちを取って食ったりしないから」


そう言ってミハイルは、小屋の前の柵を開け放った。

ニワトリが我先にと飛び出していき、ヤギがゆっくりとそのあとに続く。

ミハイルも動物も平然としているので、あれは襲ってくる類のものではないらしいが……。


「さ、朝ごはんにしましょ。リシャも、隠れてないでいい加減出てらっしゃい」

「……別に隠れてなんかない」


すたっ!と音がして、ハインとクララの背後にどこからともなく誰かが降り立った。

驚いて振り向くと、そこにはなんとも小柄な人物が立っている。

察するにヤギの小屋か、その隣の倉庫の屋根の上にいたのだろうと思えた。

歳の頃は12、3歳くらいの少女だ。

詰襟の白いシャツに、黒のごく短い半ズボン。黒いニーソックスを履き、黒いブーツを履いている。

瞳はミハイルと同じ碧眼で、垂れ目のミハイルとは逆に吊り目だった。

髪が特徴的で、前から見るとばさばさのボブカットだが襟足だけが腰に届くほど長い。

その髪は真っ赤な色をしていて、毛先に行くほど金色に変化している。

背丈は本当に小柄で、クララの頭がハインの胸辺りだとすると、そのさらに頭一つ分は小さい。

見たこともない装飾の、おそらく鞘に納められた剣だと思うが、それを抱いていた。

小柄なのに己の身長に匹敵するほどの長い剣だ。どうやって扱うのだろう。

ミハイルとはまったくの真逆の無表情で、見た目からはツンとした印象を受ける。


「嘘おっしゃい。ずっと隠れて見てたくせに」

「おかしな素振りをしないか見張ってただけだ」

「するわけないでしょ、あのマリーが連れてきた子たちなんだから」

「マリーは信頼してる。でも僕が彼らを信用できるかどうかは別問題だ」

「もう。いいから、自己紹介くらいなさい」


ミハイルがそう言って、片手を腰に溜息を吐く。

が、リシャと呼ばれた少女の立場なら、警戒するのは至極まっとうなことなのではないだろうか。

お互いまだ会ったばかりで、何者なのかさえ分かっていないのに。

ハインもまだ心の中では身構えている状態だし、

すぐに人の懐に飛び込んでくるミハイルが特別なんじゃないかと思う。

……しかしハイデマリーに対する全員からの信頼感には、改めて感心するばかりだ。

ミハイルに背中をポンと叩いて促され、少女は渋々といった風情で口を開く。


「僕はリシャ。リシャ・ヴィノクロヴァだ」

「この子はアタシの姉さんの子でね。姪っ子なの。

 ごめんねえ、初対面の人にはどうにも警戒しちゃって。仲良くしてやってね」


二人並ぶと、確かにどこか似通っているような気もする。

リシャの髪は真っ赤だが、毛先の金髪の色はミハイルと同じだ。

目許はまったく違うけれど、瞳の色も同じ色をしている。服装の雰囲気も同じだし。

彼女の自己紹介を受け、ハインもぺこりと礼を返した。


「ハイン・ノールです。よろしくお願いします」

「わたしはクララ・エーデルシュタインと申します。

 仲良くしてくださいませね」

「…………」


クララが微笑みかけると、それをじっと見てはいたが、リシャは何も言わずにぷいっと踵を返した。

そのまま振り返りもせずスタスタ歩いて、キッチンの裏口の方へ行ってしまう。


「ま、ちょっと猫みたいに気難しいところはあるけど、悪い子じゃないのよ。

 徐々に慣れてくると思うから、あんまり気にしないでちょうだいね」


ミハイルはそう言って笑ったが、ちょっとだろうか?

本人には現状、仲良くしてくれる気がまったくないみたいに見えるのだが……。

何をどうすれば仲良くなれるのか、ハインにはまったく思い浮かばなかった。

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