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第3章 -1話

汽車の車窓から見える風景が、風のような速さで過ぎ去っていく。

六月の半ば。のどかな田舎の初夏は鮮やかな緑が美しく、生き生きと輝いている。

窓を開けて直接景色を見たいが、そうすると石炭の煙で体が真っ黒になってしまうので、

窓を開けることはできない。ハインはそれを少し残念に思った。


対面の長椅子が設えられた、汽車の客室。

やや薄暗い室内にあっても、その銀髪は車窓から射し込む朝の陽光に柔らかく輝いていた。

透き通るような空色の瞳を、繊細な氷細工の如き銀の睫毛が縁取っている。

その端正な面差しは、少年と青年との狭間にある者特有の、危うい美しさに満ちている。

一番上の台襟ボタン以外をきっちりと留めた白いシャツ、濃紺のニットベスト、濃いグレーのスラックス、革靴。

性格の生真面目さを感じさせる出で立ちは相変わらずだった。


客室の長椅子に座るハインの膝には今、クララが眠っている。

肘のあたりまで伸びた白金の長い髪が、汽車が揺れるたびにきらきらと光っていた。

アメジストを思わせる薄紫色の大きな瞳は今は見えないが、けぶる様な長い金の睫毛が縁取っている。

すっとした鼻梁、透明感のある白い肌、薔薇色の唇と頬。

まだ少女然とした雰囲気をまとっているその体は、同じ年頃の子たちよりもずっと痩せていて華奢だ。

けれどハインと同じように、少女から女性へと成長していく途上の、未完成な美しさがあった。

前立ての部分に花の刺繡が施された白の長袖ブラウス。青いハイウエストのふんわりとしたロングスカートに、

編み上げの革のブーツを履いている。


対面の長椅子には、今は誰もいない。

ここには魔女レギィネイラとハイデマリーが座していたが、半刻ほど前に車内の散歩に出て行ったのだ。

するとすぐにクララが、気を失うように眠ってしまった。

たぶんそれまでは気を張って起きていたのだろう。

最初は肩にもたれていたのだが、その頭がハインの膝の上にくるように体を長椅子に横たえさせた。

こんなに勝手に体を動かしても、深く眠っている彼女は起きる気配がなかった。

クララが魔女に対して強い警戒心を抱いているのは、ハインも察している。

ハイン自身も同じように警戒はしている。だが、彼女はそれ以上だった。


一方でハインはというと、眠気はそれほど感じていなかった。

というか、この体になってからというもの、まるで疲れというものを知らないかのようだ。

少しの睡眠、少しの食事で、人だった時なら考えられないくらい動けてしまう。

それでも魔人としてはまだ完成された状態ではないのだと魔女は言う。

そんなハインとクララの差は、やはり元々の健康状態や体力の差なのだと言っていた。

クララは死に瀕した状態だった分、体の回復にも時間を要しているのだと。


―――魔人。


自分がそんな、人の摂理を超えた存在になるなんて、思ってもみなかった。

のどかな田舎町だった故郷グリーベル。そこで音楽一家に生を受け、ただバイオリンに打ち込んだ少年時代。

それが、それらを置き去りに、まったく違う道へ進むことになるなどとは。

バイオリンは今も頭上の荷物棚にあるが、魔人となったあの日からはまったく触れて弾いていない。

そんなことも今までで初めてだった。


故郷に別れを告げた夜のことを思い出す。

手術後にハインが目覚めた日の夜、魔女は二人を連れて街を出た。

深更の湖にボートを浮かべ、ハイデマリーがそれを漕いで、まずは対岸の街へと向かった。

そこから馬車を乗り継ぎ、大きな街へ出て、汽車を乗り継いで今に至る。

どうやら祖国アルテンブルク王国から遠く離れた国へと向かっているらしかった。


ハイン・ノールという一人の少年の失踪などとは違い、

領主とその娘が消えたことは、すぐに王国内でニュースになっていた。

ギュンター・エーデルシュタイン伯爵と、クララ・エーデルシュタイン伯爵令嬢。

その絵姿は新聞にも載っていたから、遠く国を離れるまではクララは顔を隠さねばならなかった。


家族に別れを告げることは許されなかった。

だが例え許されたとしても、ハインは何も告げるつもりはなかった。

こうなった以上、もう後戻りはできない。人だった日々には戻れないのだ。

ならば彼女の手を取り、今は前に進むほかはないと。

遠ざかる故郷の景色を目に、ハインは腹を決めたのだ。


その時、客室の引き戸がガラリと無遠慮に音を立てて開いた。

膝の上で穏やかな寝息を立てていたクララが、びくっとして目を覚ましてしまう。


「おや、お邪魔だったかな?」


相変わらず人の悪い笑みを浮かべてそう言ったのは、魔女レギィネイラだ。

左目は水色。魔法陣を有する右目には、シンプルな黒い眼帯を着けている。

肩ほどまでの灰金色の、緩やかに波打つ髪。

顔の造形は美しいのにひどく目つきが悪く、それが彼女に恐ろしいほど毒々しい美貌を与えている。

スレンダーな体をさらに引き立てるような、体にぴったりとした黒いシャツとカーキ色のパンツ、

丈夫そうな革のブーツを履いている。今はハーフ丈の外套のフードを目深に被っていた。

客室に入るなり、ハインの目の前にどっかと腰を下ろし、足を組む。


クララが自分を警戒しているのを知っていて、わざわざ戻ったことを知らせるために、

故意に大きな音を立てて扉を開けたのではないかと思えた。

親切心なのか嫌がらせなのか、判断に苦しむところではあるが。

起こされたクララの方は、自身がハインの膝で寝ていたことに気がつくと、慌てた様子で身を起こした。


「ごめんなさい、わたしったら……」

「気にしないで寝ていいよ」

「そんなわけにはいかないわ」


まだ眠そうな目をこすって、クララは首を振った。

迷惑をかけると思っているのだろうか、本当に全然かまわないのに。

そう言おうとしたその時、遅れてハイデマリーが客室に入ってきた。


青い髪をポニーテールに結い、相変わらず前髪は顔の左半分をほとんど隠している。

銀色の眼鏡の奥には、ヘーゼルナッツのような榛色の鋭い瞳がある。

動きやすいパンツスタイルの旅装姿で、コートを羽織り、革のブーツを履いていた。

腰に下げたホルスターと右の太腿には、銃を一丁ずつ携帯している。

彼女だけはただの旅人というよりは、賞金稼ぎか傭兵のような出で立ちであった。


「お嬢様、私の膝をお使いください」

「いいの、本当に大丈夫だから。わたしったら気を抜くと眠ってばかりなんだもの……」

「お体が回復するまでは自然なことです。どうぞ、お嬢様」


ハイデマリーがレギィネイラの隣に座り、自分の膝を示す。

というかそれでは、残ったハインとレギィネイラが自然と隣り合って座る羽目になるのだが……。

それをいち早く察したレギィネイラが、実に面白そうにニヤニヤしながら聞いてきた。


「ハイン君、じゃあ私と座るかね」

「ダ、ダメ!!」


常にない勢いで強く否定して、クララがぎゅうっとハインの腕にしがみつく。

どうやら彼女はレギィネイラがハインに接近することに、必要以上に敏感になっている。

クララから見れば、ハインは魔女によって今の状況に巻き込まれた立場になるゆえに、

また何かされるのではないかと、気が気ではないのだろうとは思う。

それが分かっていながら……この魔女は本当に人が悪い。

ハインは嘆息し、レギィネイラを軽く睨んだ。


「あまり、からかわないでもらえますか」

「おーやおや、怒られてしまった」

「それに関しては自業自得かと」

「マリー、お前は誰の味方なんだ?」


そもそもお前が膝枕するとか言い出すからだな、などとレギィネイラは言っていたが、

ハイデマリーは何を言われてもどこ吹く風という顔をしている。

まあおそらく彼女は魔女とハインが隣り合って座ることになろうが、どうでもいいのだとは思うが。

魔女に剝き出しの警戒心を向けるクララにしがみつかれたまま、ハインは口を開いた。


「あの。レギィネイラさん」

「うん?」


魔女レギィネイラが、隻眼をぱちくりと見開いた。

かと思うと、いきなり呵々大笑する。


「はっはははは! 『レギィネイラさん』ときたか。君は本当に育ちがいいんだな。

 私にさん付けなんてしたくもなかろうに?」

「……では他に、何と呼べば?」

「くっくっく……そうだなあ、レギィネイラ様とかでも構わないぞ?」


からかうなと言った端からからかう姿勢を見せる魔女の脇腹を、ハイデマリーが肘でつつく。

冗談じゃないか~と唇を尖らせて、魔女は長い足を組んで座り直した。


「まあ冗談はさておき、私の名は裏社会では知られていてね。外でその名を呼ばれるのは不都合がある。

 レギィとでも呼ぶがいい」

「じゃあ、レギィ。どこに向かっているのか、そろそろ教えてもらえますか」

「ふむ。私は敵が多くてね、世界中に隠れ家があるのだよ」


唐突に、そんなことを言う。

それはそうだろうなとしか思えない発言だったが。


「これから向かうのは、その隠れ家の一つだ。

 手狭ではあるが、君たちを連中から匿い鍛えるには打ってつけの場所だろうと思うよ」

「鍛える?」

「そうとも。私はこれから君たちを鍛えるつもりだ」


ハインの疑問に、腕組みをした魔女が不遜に頷く。


「君たちは魔人として生まれたばかりの、言わば雛鳥だ。

 いかな魔人であろうと、雛鳥のうちは満足に力を発揮することはできないのだよ。

 一度の手術で完成体になれるわけでもない。力が体に馴染むにも、少し時間が必要だ。

 何よりまずは生きてゆくため、己の身を守るすべを学んでもらわなくてはな。

 何せ君たちには、この私の持てる叡智と技術のすいが詰まっている。

 それはクララの父のような連中からすれば、垂涎物の宝に見えるのだよ。

 取っ捕まって体を暴かれて死にたくなければ、まずは身を守るすべを覚えることだ」


魔女がハインを見て、その顔にうっすらと意味ありげな笑みを刷いた。


「二人共だが、特に君だ。血反吐を吐かせてでも魔人として戦えるように鍛えさせてもらう。

 今までの生き方は捨ててもらうぞ。覚悟はいいかね?」

「そんな勝手なこと……!」

「……分かった。なんだってやってやる」

「ハイン!」

「ははは! いい返事じゃないか」


ハインの叩きつけるような答えに、レギィネイラが愉快そうに笑う。

クララは気色ばんでいたが、今は頷くほかはないとハインは考えていた。

否を言ったところで、世間も知らない子供が二人だけで生きていけるわけもないのだ。

魔女の思惑がどうあれ、今は否を言うつもりはなかった。


「夕方には目的地に着くだろう。まあ焦らず、君も休んでいろ」


結局答えはまたはぐらかす。これ以上は聞いても無駄そうだ。

そもそも休んでいろと言われても、対面にこの魔女がいるのに、体はともかくこれでは気が休まらない。

自分もだが、特にクララが……。

今もじっと黙ってレギィネイラの一挙一動に神経を尖らせているクララを見て、そう思う。


「少し出てきます。行こうクララ」


クララの手を取り、展望室にでも行こうと立ち上がる。

そこの方が、少なくともここよりは彼女が休めるだろう。

ハイデマリーの「気を付けてください」という言葉に頷き返し、二人は客室を出た。




二人の足音が遠ざかるのを確認し、ハイデマリーが口を開く。


「なぜあんな、憎まれるようなことばかり言うんです?」

「なんだ、呆れているのか」

「あんな年端もいかない子をからかうんですから、当然です」

「いやあ、面白くてついな」


ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべるレギィネイラ。

まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだ。むろんそれだけではないとは思うが……。


「私は愛されるのも憎まれるのも好きなんだよ。お前も知っているだろ?」

「それはそうですが」

「好き勝手やっている私が憎まれる、当然のことじゃないか」


そう言っては、実に楽し気に声を上げて笑う。

何を考えているのか、長年仕えていても未だに度し難いところのある人物だ。

しばらくはこの調子で見守るしかないかもしれない。ハイデマリーはそっと嘆息した。





・・・ + ・・・ + ・・・ + ・・・





汽車から乗合馬車に乗り継いで、一時間ほど。

陽が傾きかけた夕方に、一行は目的地である街に到着した。


ベルトイア共和国という、祖国アルテンブルク王国からは西に遠く離れた国。

雪を戴いた峻険な山脈に囲まれ、丘陵地が多く、緑なす牧歌的な光景が広がる国だ。

一行が馬車から降り立ったのは、その国の南に位置するクローチェという小さな町だった。

驚いたことに、故郷の湖に勝るとも劣らない、いやもっと大きな湖が眼前に広がっている。

街の姿や建物の感じは違うけれど、似ている。故郷グリーベルと。

湖のそばまで連れてこられ、ハインとクララはただ黙ってその光景を眺めていた。


「うちのボートはあるのか?」


レギィネイラの声で我に返る。

見れば色とりどりのボートがたくさん係留された桟橋があった。

ハイデマリーがそこで歩き回り、ボートの側面に書かれた文字などを確認しているようだ。


「ここに来る途中でミハイルと連絡がつきましたので、おそらく用意してくれているかと。

 ……ああ、あれですね。お嬢様、ハイン君、こちらです」


そこには一対のオールがセットされた、木製のボートが一艘係留されていた。

側面は白く塗られていて、目印なのかヤギとニワトリのシルエットが描かれている。


「これで島に渡るぞ」


島? 確かにそう聞こえた。

が、見たところ小さな島はあれど、建物がありそうな島は見当たらない。

思わずクララと顔を見合わせてしまった。


「すぐに分かるさ。まあ乗りたまえ」


そんな二人の反応が面白くてしようがない、というふうにそう言って、

レギィネイラはニヤリと笑った。

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