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第2章 -9話

暗闇の中に薔薇が散る。

赤い、赤い、赤い。

闇の中に横たわり身動きもできない自分を、嘲笑うように降り注ぐ。

花弁に埋もれていく恐怖に、思わず声を上げた。


「っあ……!!」


はっと目が開いた。

冷たい汗をかき、息が上がっている。

何度も瞬きを繰り返し、現実の感触を確かめていく。

ベッドの上に寝かされている。知らない天井、薄暗い部屋。窓を叩く雨の音がする。

朝なのか、夕方なのか、分からない。

ふとかすかな寝息が聞こえ、視線を移すと、すぐ傍でクララが眠っていた。

ベッドの傍の椅子に座り、ベッドに突っ伏すようにして眠っている。


彼女を起こさないようにして、慎重に半身を起こす。

ガーゼのタオルが、自分の額の上から膝の上へと転がり落ちた。

熱があったのだろうか。おそらく、クララが看病してくれていたのだろう。

彼女の肩からずり落ちかかっているショールを引っ張って、掛け直す。


体に違和感を覚え、着せられている白いシャツのボタンをいくつか開いてみた。

胸から下腹にかけてほぼ一直線に走る、ざっくりとした傷。

糸で縫い合わされているでもないその傷の上には、妙な黒い線のようなものが傷口を縫い合わせるかの如く

ジグザグとでたらめに描かれていた。よく見るとそれは、見たこともない奇妙な文字のようなものだ。

まるで傷口が開かないように、押さえているかのような。

クララの体にあったものと、ほとんどまったく同じ傷だった。


その傷以外に、体の見た目に特に変化はない。

果たして本当に人ではなくなってしまったのだろうかと、疑うほどに。

ただ、奇妙な違和感があった。何か、失ってしまったような、新たに何かが入ってきたような。

今までにない感覚がする。何かを知覚しているのかもしれないが、それがなんなのかが分からない。


永遠のような命を得るのだと、あの魔女は言っていた。

その永遠という途方もない言葉に、現実感が追いついてこない。本当だろうかとすら思う。

ぼんやりと考えながらシャツのボタンを閉じていたその時、クララがかすかに身じろぎした。


「……ハイン?」


寝ぼけ眼で顔を上げ、それが次第に瞠られていく。


「起きていたの?」

「ついさっき……俺、どのくらい眠ってた?」

「あの人の手術が終わってから、半日ほどしか……まだ起きてはだめよ」

「大丈夫だよ、もう起きれる気がする」


ハインの言葉を聞いているのかいないのか、クララはベッドの端に腰掛けると、

眉根を寄せてハインの額に手を当ててくる。そうして手のひらで熱を測り、目を丸くした。


「もう熱が下がってる……」

「熱があった?」

「とても熱かったのよ。ハインはわたしよりずっと回復が早いだろうって、

 確かにあの人も言っていたけれど……こんなに早く下がるなんて」

「あの人?」

「あの……魔女の人」

「ああ……」


魔女レギィネイラとか言っていた。

確かに、あの魔女を何と呼べばいいのかと言われると、自分も分からない。


「あの人が……ハインが目を覚ましたら、わたしたちを連れてここを出ていくって」

「出ていくって、どこへ?」

「どこへかは、はっきりとは……ただ、他の国へ行くのですって。

 もうここにはいられないから、って……」

「そうか……」

「……ええ」


クララが視線を落として頷く。

その、何か物言いたげな様子が気になった。だが彼女は口を噤んでしまう。

二人の間にしばし沈黙が下り、しとしとと雨が窓を叩く音だけが聞こえていた。

どことなく、気まずいような沈黙。

あの、魔人になることを選択した夜があまりにも凄烈で、悪い夢のようで。

夜が明けた今、何を言うべきなのか、二人とも分からずにいるのかもしれなかった。

と、急に喉から掠れた咳が出る。

そこで自分がひどく喉が渇いていることに、今になって気がついた。


「ごめん、水をもらってもいい?」

「あ……! ごめんなさい、気がつかなくて」

「いや。ところで今って朝? 夕方?」

「ええと、夕方よ。これを飲んだら、もう少し寝ていた方がいいわ」


クララが水差しからガラスコップに水を注ぎ、渡してくれる。

それを飲んでみたが、食道を過ぎると、冷たい水が腹の中を落ちていく感覚がしなかった。

やはり、体は以前とは何かが違っているのかもしれない。

そういえば、喉の渇きは感じたがあまり空腹を感じていなかった。

よくよく考えると昨日昼からは何も口にしていないのだが、不思議だ。

この大きな傷も……服の上から傷に触れてみるが、やはり少しも痛みはない。


「この傷、どうして痛くないんだろう」

「……あの人が言うには、この文字のようなもので一時的に痛みを感じないようにしているのですって。

 こんな痛みには、今のわたしたちはきっと耐えられないだろうからって……」

「むちゃくちゃな話だな……」


荒唐無稽としか思えない話だ。でなければお伽噺の中の出来事のような。

子供の頃クララとよく読んだ、魔女の物語。あんなことが自分の身に起こるなんて思ってもみなかった。

少なくともこれまで魔法などというものとは無縁に生きてきただけに、なおさら。

ベッドの中で立てた自分の膝にもたれるようにしながら、息を吐く。

コップをベッドサイドのテーブルに戻し、クララに視線を向けた。


「クララは? 体は大丈夫?」

「え、あ……わたしは、大丈夫よ」

「傷は痛まない?」

「ええ……。わたしたちのこの傷も、いずれは消えるのですって」

「そうか、よかった。君に傷が残ったらどうしようかと思ってた」

「そんなこと……!」


クララは叫ぶように言いかけたが、それ以上は言葉に詰まり、ハインから目を逸らす。

そのまま俯いて、両手で顔を覆ってしまった。

そうしてようよう絞り出された声は、小さな雨音にすら搔き消されそうなほど、かすかに震えていて。


「こんな時まであなたは、わたしの心配なんて……分かっているの?

 ご家族はあなたがいなくなって、今頃とても心配しているはずだわ。なのにもう帰れないのよ。

 あなたの大切な家族も、あんなにがんばっていたバイオリンもアカデミーも……

 わたしは、あなたの人生をめちゃくちゃにしてしまったのに」

「違う、クララのせいなんかじゃない」

「やめて……!」


ハインの言葉を振り払うように、クララが首を振る。


「お願い、優しい言葉をかけないで。わたしにそんなことをしてもらう資格なんかない。

 だって、あなたからすべてを奪ってしまったのに、それなのに、わたし……」


顔を覆っていた両手が、次第に力を失って膝の上に落ちる。

その手の上に、華奢なおとがいからぽたぽたと涙が滴った。


「わたし……わたしね、あのとき、うれしかったの。

 あなたがわたしと一緒に来てくれるって、そう言ってくれたとき。すごくうれしかった。

 あなたはすべてを捨てなくてはいけなかったのに、喜んでいたのよ。ひどいわよね」


声を震わせて、まるで懺悔する罪びとのようにクララはそう言った。

静かな部屋に、弱まってきた雨の音と、彼女の嗚咽とが響く。

ハインは彼女をじっと見つめ、首を振った。


「ひどくなんかない」

「嘘よ。ひどくないはずないじゃない」

「君がうれしいと思ってくれたのなら、それでいいんだ。

 だって俺は、君といられるだけで幸せなんだから」


手を伸ばし、俯くクララの頬に触れる。

彼女がおずおずと顔を上げ、涙に濡れた薄紫の瞳が、ようやくハインを見た。


「もう一緒にいられないと思ってた。二度と会えなくなっても諦めなきゃいけないって。

 でも、どんな形であれ、もう一度君といられる。俺にとって、それ以上に幸せなことなんてない」


ハインの透き通るような空色の瞳からも、音もなく一筋の涙が流れた。

ようやく実感したからかもしれない。

己が失ったものの大きさと、ふたたび彼女と生きられるという喜びを。


「すべてを捨ててなんかない。君がいる。

 君が生きていてくれてよかった。俺にはそれだけでいいんだよ」


この先のこと、永遠のような時間のことを考えると、怖くて体が震えてしまいそうになる。

それでも、ハインは微笑んでいた。

怖いのに、目の前に彼女がいるだけで幸せだった。

彼女の、アメジストの星のような美しい瞳を見つめる。

その瞳からは、大粒の涙が後から後からこぼれ落ちてくる。

どうかもう泣かないでほしい。

彼女の頬を濡らす涙を、優しい手つきで拭った。


「だから、これからのことを考えよう。二人一緒に生きていくために。

 この先に何があったとしても、俺は今度こそ最後まで君の傍にいるよ」


それは愛と呼ぶには幼く、恋と呼ぶには切なる想い。

もう泣かないでと願ったけれど、彼女のその瞳からはふたたび涙があふれた。

クララが飛びつくように首に腕を回して、抱きついてくる。

その小柄な体を受け止めて、しっかりと抱きしめた。


窓を叩く雨の音は、いつの間にか静かになっている。

雲の切れ間からは夕陽の残滓が降り注いで、穏やかに二人を照らしていた。






第2章 了

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