第1章 -1話
アルテンブルク王国。
音楽の都とも称される首都バルヒェットを中心として栄える、封建制度の国である。
北に峻嶮なる山岳地帯、西には穀倉地帯、東には豊かな森と湖水のある地方、南に首都。
今は戦争もなく豊かなその国の、東側に位置するエーデルシュタイン伯爵領。
そこに森と湖に彩られた小さな街、グリーベルはあった。
古くからバイオリンやチェロなどの、弦楽器の生産が盛んな街だ。
その街の片隅に、少年は生を受けた。
「先生、さよーなら!」
「はい、さようなら。また明日ね。忘れ物をしないように」
「はーい!」
子供たちが次々に年若い女性の先生に挨拶し、教室を駆け出ていく。街に一つだけの小学校だ。
ほとんどが平民であるこの街では、街中の子供たちがここで一堂に会して教育を受けている。
彼もまた、その一人だ。
「ハイン、じゃーな!」
「うん、また明日」
「今日もバイオリンのレッスンなの? 一緒に遊びに行かない?」
「ダメだって。ハインのかーちゃん、レッスンさぼったらこえーから」
「えー行こうよー」
「ごめん、また誘って」
また誘ってもらっても行けない公算が高いとは知りつつも、そう言うしかない。
教科書を詰めた鞄を手早く背負い、クラスメイト達に手を振って少年は学校を出た。
道草もせず、家へと向かって街の中を足早に歩いていく。
街路樹から零れ落ちる初夏の陽光が、彼の銀色の髪に反射して美しく輝いている。
透き通るような空色の瞳を、繊細な氷細工の如き銀の睫毛が縁取る、整った顔をした少年だ。
歩くその時でも姿勢がとても良く、生真面目そうな雰囲気が漂っている。
年は去年の冬に10歳になった。
膝丈の黒い吊りズボンに、清潔感のある白い半袖シャツ、黒い靴下に革の靴。
お古と思しき古ぼけた革のサッチェルバッグを背負っている。
彼の名前は、ハイン・ノール。
端正な風貌を除けば、いかにもよくいる中流階級の子供だった。
賑やかな市街地を抜け、やや郊外にある緑豊かな住宅地に入る。
やがて彼がたどり着いたのは、石葺き屋根の古そうな石造りの家だ。
低い生垣に囲まれた、庭木や花々がよく手入れされた庭を持っている。
初夏の今は色とりどりのダリアが盛りだった。
柵を開けて庭へと入り、丈夫な木でできた玄関のドアを開ける。
「ただいま帰りました」
「あら、おかえりなさい! ちょうどよかった、ちょっと手伝ってくれる?」
「うん」
キッチンから聞こえる母の声に応え、鞄をリビングのソファに下ろしていると、
奥の廊下から庭のダリアをふんだんに活けた花瓶を抱えた祖父・グスタフが入ってきた。
「おおハイン、おかえり」
「ただいま、おじいちゃん」
ふさふさの白いひげに縁どられた、祖父の優しい笑顔にほっとする。
「どうじゃ、もう準備万端じゃろ」
「うん、すごいや」
リビングルームは飾り付けられ、テーブルクロスもきれいなものに替えられて、
テーブルには料理や輝く燭台が並び、すっかりホームパーティの準備が整えられていた。
祖父がテーブルの中央に花瓶を下ろすと、セッティングはほぼ完了のようだ。
母の手伝いをするべくキッチンへ入っていくと、そこにはローストするための
チキン丸々一羽と格闘している母・ベルタの姿があった。
銀色の髪を編み込んでアップヘアにしている、気の強そうな空色の瞳の女性だ。
そのエプロンの裾を掴んで立っているのは、4歳になる末の妹のシャルロッテ。
フワフワした猫っ毛の銀髪をツインテールにしていて、父譲りの碧眼はぱっちりとしている。
「おにいちゃん、おかえり!」
「ただいまロッテ。ちょっと待って、手を洗うから」
満面の笑顔で飛びついてきた妹を受け止め、思わず顔がほころぶ。
井戸で汲み貯めた水で手を洗っていると、チキンにハーブとスパイスを塗りこめながら母が言った。
「帰って早々ごめんなさいね。そこにあるケーキを切ってくれる?
母さんそういうの苦手で……ハインが切るのが一番きれいだからお願いしたいの」
「いいよ。何等分?」
「んー、10等分くらいかしら? それより多くなってもいいから」
「分かった、任せて」
「わたしもやるー!」
「ロッテは危ないからまだダメだよ」
「ぶうー!」
「その代わり、ケーキにお花やハーブを飾る仕事はロッテに譲るよ」
「わあい! やったあ!」
頬を膨らませたかと思うと途端に笑顔になる妹に微笑み、ケーキに取り掛かった。
キッチン台は高いので、まず踏み台に乗って、ケーキを俯瞰で見てみることにする。
チョコレートケーキ、チーズケーキ、リンゴのコンポートが乗ったクリームのケーキ。
母の手作りホールケーキが三つもある。最初はチーズケーキに取り掛かることにして、
まず全体のバランスを見、頭の中で切り分けてみる。
「きょうは、たんじょうび?」
小さなシャルロッテが小首をかしげた。
「今日はね、上のお兄ちゃんたちが王立音楽アカデミーに合格したお祝いなのよ」
「あかでみー?」
「うーんとね、簡単に言うと、音楽の勉強をするところよ」
「ふーん?」
王立音楽アカデミーは、音楽の都とも称される首都バルヒェットにある、選ばれた者だけが
通える学校だ。もちろん卓越した演奏技術とセンスを持っていなければ入れない。
先ごろ入学試験を受けた兄たちは、見事に一発で合格を勝ち取ってきた。
今日はそのお祝いなので、母は朝からその準備で大忙しだった。
と、今度は玄関の扉が慌ただしく開き、足音がどかどかとキッチンへ向かってくる。
「飾り付けすげーな、じーちゃん! おっ、すげーご馳走じゃんやったー!」
「フェリクス、帰ったらまずただいまでしょ」
「へーいただいまー」
「ただいま帰りました。うわ、うまそう」
「おかえり、マリウス」
表情は異なるが、全く同じとしか言いようのない顔立ちをした、二人の少年がそこにいた。
ハインよりも年上で、15歳になる双子の兄たちだ。
頭脳明晰で要領がよく割といい性格の兄・マリウスと、
いわゆる悪ガキで自由奔放だが面倒見はいい弟・フェリクス。
二人とも銀髪を肩あたりまで伸ばしていて、フェリクスだけが後ろで結っている。
ハインと同じ空色の瞳。きょうだいの中では、シャルロッテだけが父譲りの碧眼だ。
グレーのスラックスに白いシャツ、紺色のベストまで二人はお揃いだった。
背はすらりと高く顔立ちは端正で、身内の贔屓目を除いても二人は大変にモテる。
「マリウスおにいちゃん、だっこしてー」
「なんだよロッテ、俺だって抱っこしてやるぞ?」
「フェリクスおにいちゃんのだっこ、あぶないからヤダ」
「ええーなんだよー」
「ふふ、はい抱っこ。ロッテはいい子だねー」
「えへへー」
「いいなあ。僕も抱っこしたい」
「ハインはまだチビだかんなー。まっ、もーちょいしたら伸びるって!」
フェリクスに強めの頭ポンポンをされ、思わず目をつむる。むしろこれで縮みそうだ。
「おっ、ケーキうまそー! 俺の分はでっかく切ってくれよー?」
「わ、ちょっやめてよ、等分に切ってるとこなんだから」
「えー! なんだよいいだろ、おまえ器用なんだからできるって」
包丁を握る手をひょいと取って大きく切ろうとする兄を、ぐいぐい押して遠ざける。
フェリクスはいつもこうだ。呆れるでもなく、さくさくとケーキを切り分けていく。
急がないと、もうすぐバイオリンのレッスンの時間だ。
「なあ母さん、つまみ食いしていい?」
「ダメ! 絶対!!」
「ちえー」
「そりゃダメだろ」
チキンをオーブンに入れながら、語気強く答える母。
ノール家ではつまみ食いはご法度だ。なのでフェリクスは、
ケーキを切り終わったあとの包丁についたクリームを指ですくい、ひと舐めする。
「さあさ、レッスンの時間よ! 各自急いで! ハイン、ありがとうね」
「うん」
「えーもう試験受かったんだからそんな練習しなくてよくね?」
「フェリクス! そんなんじゃ授業についていけないわよ!」
「へいへーい、行ってきますう」
「そうそう、帰りにお父さんを連れて帰ってきてね。今日はお祝いなんだから」
「はーい」
踏み台から飛び降り、ハインも兄たちに続いていったん部屋に戻った。
ハインの部屋は妹と共同だ。部屋数は限られているので、兄たちも二人共同で部屋を使っている。
ゾーン分けが厳しく、床に敷いたそれぞれのラグが境界線らしいが、お互い越境してはよく揉めていた。
ハイン達の部屋は自分と妹それぞれのベッド、机と椅子、共用のクローゼット、共同で使う本棚。
本棚にはハインの教科書と楽譜などの他は、ほとんど妹の絵本やぬいぐるみが詰め込まれている有様だし、
なんなら部屋も半分以上ファンシーな色味と世界観になりつつあったが、
部屋に対するこだわりが薄いハインはあまり気にしていなかった。
鞄から教科書を出し、入れ替わりに楽譜を詰め、バイオリンケースを持ってすぐに部屋を出る。
三兄弟はそれぞれキッチンで牛乳とおやつのクッキーをかじると、
ゆっくりする間もなく家を出たのだった。
・・・ + ・・・ + ・・・ + ・・・
午後三時、午睡するにはもってこいの昼下がり。
グリーベルの街の中を、バイオリンケースを片手に三兄弟が連れ立って歩いていた。
メインストリートである商店街を抜けてどんどん行くと、瀟洒な高級住宅街が見えてくる。
そこに貴族の音楽教師だった先生が住んでいて、三人は父親の伝手で幼い頃から師事していた。
街路樹が光を透かして白く輝く石畳の歩道を歩きながら、フェリクスが盛大な溜息をつく。
「あーーーこれから三時間もレッスンとかありえねー」
「三時間くらいすぐだろ」
「そうだけどさー、試験もパスしたしもうすぐ夏休みだし、
ちょっとくらい休んでもよくね?」
「そのちょっとでどれだけ鈍るか、おまえだって分かってるだろ」
分かってるけどー!と、バイオリンケースを持ったまま器用に手を頭の後ろで組んで歩くフェリクス。
その隣を背筋を正して品良く歩いていくマリウス。
相変わらず対照的だなあと思いながら、二人の兄の背中を追って歩くハイン。
「てかさー母さんの言うままアカデミーの入学試験受けちゃったけどさ、
俺って一体何になりたいんだ!? 俺は一体どこに向かってるんだー!? って思うわけ。
おまえ思わねーのマリウス?」
「俺は作曲家志望だからな。おまえと違ってちゃんと考えてるし」
「ペッ! 優等生め!!」
「はいはい優等生です。他に悪口ないのかよ」
「ない! ぐうの音も出ない! 俺はなんっにも考えてない!」
「いや考えろよ」
「ハイン、おまえもよく考えろよ! 次はおまえだぞ、入学試験!」
「え!? あ、うん」
急に振り返ったフェリクスに話を振られて、びくっとなった。
やれやれという顔でマリウスが嘆息する。
「少なくともハインはおまえより考えてるよ。なあ?」
「そうなの? ハインおまえ、将来何になりたいとかもう決めてんの?」
「決めてはないけど……父さんみたいに作曲したいなって、思ってる」
「ほら、おまえより考えてる」
「え、ウソ!? 俺だけ!? てか二人とも作曲家志望なのかよー!」
そこは父親の影響も多分にあると思う。
ノール家の父親は、この街にあるたった一つの劇場の座付き作曲家の一人だ。
幼い頃から何度も劇場に足を運んで父の仕事を見てきたし、影響を受けるのも当然といえば当然のことで。
仕事が立て込むと家に帰ってこれなくなり、今日も劇場に泊まり込みで仕事をしているので、
帰りに迎えに行ってほしいと母に頼まれたわけだが……。
前を歩く兄二人の後を歩きながら、ハインはぼんやり考えていた。
個性の全く異なる兄たちは、演奏の持ち味も全く違うが、それぞれに天才だと言われてきた。
だけど天才という言葉を裏打ちする努力を二人がしてきたのも知っている。
ハインにとって二人は憧れだし、目標でもあるが、その二人でも王立音楽アカデミーに行けば、
さらなる天才たちを前に自身と対峙していかなくてはならないのだ。
そんな場所に、兄ほどの才能もない自分が行けるのだろうかと、どうしても考えてしまう。
「ハイン、おまえは他にやりたいことができたら、俺たちに言えばいいんだよ。
一緒に母さんを説得してやるから。フェリクスみたいになる前に言うんだよ」
「おい、一言余計だぞ!」
「でもそれでも挑戦するなら、俺たちはおまえを応援するからね」
「ったくよー。でもま、そーいうことだ」
「うん……ありがとう、兄さん」
マリウスに優しく頭をポンポンされ、フェリクスに背中をばしばし叩かれ、
正反対のスキンシップに苦笑いする。
正直、まだ10歳の自分がどんな道に進むのかは考えても実感がないけれど、
知らず知らずのうちに感じていた不安が、兄たちの言葉で和らぐのを感じていた。
――――――― ♪
「ん? ピアノの音だ」
ふと聞こえてきた音色に、フェリクスが首肯を巡らせる。
ポーン、ポーンと、リズムよく鍵盤を叩く音がしていた。
続いて、その音に合わせて音階を調整する、歌声。
その歌声があまりに可憐で可愛らしかったので、三人とも期せずして足を止める。
三人は瀟洒な高級住宅街の中の小道に差し掛かっていた。
この辺りは傾斜がついていて、坂道になっている。
何度も通った道だが、今見上げているこの家からピアノや歌声が聞こえたのは初めてだ。
他の家より少し大きな、だが別段華美でもない、白い壁に紺碧の屋根のお屋敷。
背の高い黒い鉄柵に囲まれていて、手入れされた大きめの庭が見える。
ここからは生垣に囲まれて見えないが、裏にもそれなりのスペースがありそうだ。
ハイン達がいる小道に面した二階の窓が開け放たれ、そこから音が聞こえているようだった。
「ああ、ここって確か領主様の別邸だよね」
「別邸? じゃあ本邸は?」
「おまえ本気で聞いてるのか? あそこの湖畔にある古城に決まってるだろ」
「あーあれ。人住んでんの?」
背後を振り返って指を差したマリウスが、フェリクスの言葉に呆れ顔になる。
一帯は高台になっているので、ハインでも背伸びすれば湖面と古城がよく見えた。
城といっても、これもまた華美さはない。尖塔を持つ、石造りの古ぼけた城だ。
「最近、お嬢様と一緒にグリーベルに帰って来られたんだって」
「え、お嬢様? めっちゃ可愛いって王都で言われてたっていう?」
「そうらしいね。見たことないから知らないけど」
「じゃああれって、お嬢様の声ってこと? うわー絶対可愛いじゃん」
「お嬢様って、まだ小さいって聞いたけどな……確かハインと同じくらいな」
「そんなちいせーの? んじゃ後十年くらいしてからでいっか」
「俺たちの身分でお近づきになれるわけないだろ。伯爵令嬢だぞ、住む世界が違う」
そう言ってマリウスが歩き出し、分かんねーじゃんそんなのよーとか言いながらフェリクスが続く。
兄たちに続こうとしたその時、窓の方から微かな音がした気がした。
なんだろうとハインが振り返ったその時。
開け放しの窓からそおっとこちらを窺っている少女と、しっかり目が合ってしまった。
窓の高さと身長が合わないのだろう、窓枠に手をかけて、顔だけをのぞかせている少女。
光そのもののようにきらきらと輝く白金の髪に、好奇心旺盛そうな大きな瞳。
ふっくらとした頬と唇は薔薇色。遠目で分かるのはそのくらいなものなのに、
一目で目が離せなくなるくらいの美しい少女だった。
その少女がハインに向かって屈託なく、にこ!と微笑みかけてくる。
「……はっ!?」
可愛すぎて一瞬、時が止まっていた。
我に返ると、慌てて少女に向かって会釈をする。
それから、先に行ってしまった兄たちの背中を追いかけて急いで駆け出した。
途中、気になって一度だけ振り返ってみたが、
少女がまだこちらを見ていたのかどうかは、分からなかった。




