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第2章 -1話

森と湖に彩られた小さな街、グリーベル。

春も終わりに近づく五月のある休日、湖の周辺は新緑にきらきらしく輝いていた。

芽吹きの季節に街は活気づいて、湖の公園にもたくさんの人が憩っている。

時折強く吹く風はあたたかく、頭上の枝葉を大きく揺らした。


木漏れ日が様々に影を落とす美しい遊歩道を、ハインは駆け抜けてゆく。

昨年の冬に15歳になった彼はずいぶんと背が伸び、その姿はすらりとしていた。

春の木漏れ日を柔らかく跳ね返して光る銀の髪。

透き通るような空色の瞳を、繊細な氷細工の如き銀の睫毛が縁取っている。

その端正な面差しにも時々青年らしさを覗かせるようになっていたが、

今はまだ少年と青年の狭間にある者特有の、瑞々しい美しさに満ちていた。


一番上の台襟ボタン以外をきっちりと留めた白いシャツ、濃紺のニットベスト、濃いグレーのスラックス。

革靴をきちんと履き、斜め掛けにした古ぼけた革の鞄と、黒革張りのバイオリンケースを持っている。

生真面目さを感じさせる出で立ちは相変わらずだ。

けれど今は髪や服が乱れるのも構わず、息を弾ませて先を急いでいた。

今日はレッスンが長引いて一時間ほど押してしまったから、約束の時間はとっくに過ぎている。

それでもきっと彼女は待ってくれているはずだから。


森の奥へと進むほどに、だんだん人気はなくなっていく。

伯爵家の私有地を示す石造りの門をくぐる頃には、人影はすっかり途絶えていた。

葉擦れの音と、湖畔に打ち寄せる波の音。樹上を飛び交う小鳥の声。

陽が差し込む穏やかで明るい森の中には、今が見頃の可憐な鈴蘭が乱れ咲いている。

やがて小道の先に、伯爵家所有の黒い自動車が見えてきた。

車が停まっている場所から少し湖の方に入ったところ、水際近くの背もたれのないベンチ。

背を向けて座る小柄な後ろ姿が目に入っただけで、心臓がどきりと跳ねる。


「クララ!」


息を弾ませながら駆け寄っていくと、彼女がぱっと振り返った。

肘のあたりまで伸びた白金の長い髪が、動きに合わせてふわっと広がる。

アメジストを思わせる薄紫色の大きな瞳が、星のように瞬いていた。

その瞳を、けぶる様な長い金の睫毛が縁取る。

すっとした鼻梁、透明感のある白い肌。今日は体調がいいのか、顔色が良かったのでほっとする。

クララはこの春、14歳になったばかり。

まだ少女然とした雰囲気をまとっているその体は、同じ年頃の子たちよりもずっと痩せていて華奢だ。

けれどハインと同じように、少女から女性へと成長していく途上の未完成な美しさがあった。


今日は白の長袖ブラウスに、青いハイウエストのふんわりとしたロングスカートと革のブーツ。

膝には何か楽譜を広げていた様子だ。それを抱きしめるようにして、彼女が微笑む。

輝くような笑顔とはよく言うけれど、本当に今日も眩しいほどだ。


「ごきげんよう、ハイン! まあ、そんなに息を切らせて」

「ごめん、レッスンが長引いて……だいぶ待たせたよな?」

「大丈夫よ、気にしないで。ね、座って」


クララに勧められるままベンチに座り、はーっと長く息を吐いて、ようやく少し息を整える。

へとへとというほどではないが、レッスン終わりに湖畔までずっと走ってきたので横腹も痛む。

が、今日は半月ぶりに彼女に会える日だったので……少しでも早く会いたかった。


「ハイン君、お水をどうぞ」

「ありがとうございます、マリーさん」


いつものように車の傍で待機していたハイデマリーが、水筒からガラスコップに注いだ水を差し出してくれた。

今日もお仕着せのメイド服で、青い髪をポニーテールに結い、前髪は顔の左半分をほとんど隠している。

銀色の眼鏡の奥の、ヘーゼルナッツのような美しい色合いの榛色の瞳は、

鋭いけれど以前ほど怖いと思うことはなくなっていた。

年の頃は……相変わらず25、6歳といった感じで、あまり変わらないのがいつも不思議だ。

彼女は飲み干したコップを受け取ると、また自動車の傍へと戻っていった。

いつもこうして付かず離れず、二人の様子を監視……いや、見守るのが彼女の仕事であるゆえに。


「ふふ、乱れてる」

「え、あ……自分でやるからいいよ」


ハインの乱れた髪を整えようとクララが手を伸ばしてきたので、焦って思わずかわしてしまった。

だけど、このごろ彼女に触れられるのも触れるのもひどくどきどきしてしまうので、

なんとなく避けている部分はある。

自分で適当に髪をくしゃくしゃやっていると、横からクララがじーっと見てきて落ち着かない。


「何?」

「ハイン、また声が低くなったみたい」

「え、半月で?」

「絶対そうだわ。ね、もっと喋ってみて」

「喋ってって言われてもなあ……」


声変わりは背が伸び始めた一年くらい前から始まっていて、ハイン自身も自覚はできるくらい、

徐々に声が低くなっていっている。クララに言わせると、ここ一年でだいぶ低くなったらしい。

自分としては喉の調子が悪い日もあるので、早く終わってほしいなと思うばかりなのだが。


「じゃあ、王都でのお話を聞かせて? お兄様たちはお元気だった?」

「あーうん、元気は元気だったけど、フェリクス兄さんが……」


そうして、ハインはこの半月の間の出来事を話し始めた。

王都に行っていたのは取りも直さず、ハインの王立音楽アカデミーの入学試験のためだ。

王都バルヒェットにはハインの兄である双子のマリウスとフェリクスがいるため、

試験に合わせて家族で会いに行こうということになり、留守番を買って出てくれた祖父を残し、

馬車と汽車を乗り継いで一家は王都へと向かった。


18歳でアカデミーを卒業した兄たちは、今は20歳になり、それぞれ高名な作曲家に師事している。

アカデミー卒業後は一度も帰省していなかったため、久しぶりに会えると皆喜んでいたのだが……

実際、滞在中は家族水入らずで過ごしたし、兄たちの案内で王都を観光したり、

ハインは兄たちの指導を受けて試験に臨んだりと、まあ色々あってそれは良かったのだけれど。

グリーベルに帰る前日、王都のレストランでの食事中に、事件は起こった。


『な、なんですって? 聞き間違いかしら? もう一度言ってちょうだい、フェリクス』

『だから、俺はもうあのオッサンに師事するのやめたんだって』

『やめたって、どういうことなの?』

『ん? そりゃあ無職ってことだよ、母さん』

『む……無職ですってええええ!?』


レストラン中に響き渡る悲鳴とともに母が卒倒し、父と自分とで慌てて両脇から支えた。

どうやらフェリクスは師事していた作曲家と反りが合わず、一年も前にやめてしまったということらしい。

今は流れのバイオリン弾きとして、国内外の酒場やらで気の向くままに弾いているとかなんとか。

その後は、意識を取り戻して顔面蒼白で怒る母、のんびりとなだめる父、我関せずのマリウス、

飄々としたフェリクス本人、ケラケラ笑っているシャルロッテ、おろおろするハインという、

地獄のような家族団欒になってしまった。


「まあ……! フェリクスお兄様って、ちょっと破天荒な方なのね!」

「ちょっとどころかめちゃくちゃ破天荒な人だよ、あの人は」


目を瞠って妙に感心するクララに、ハインは苦笑した。

でもあの迷いなく自由に飛び込んでいける姿は、少し羨ましくもある。


「それで、試験の方の手応えはいかが?」

「うーんどうかな……今の俺にやれるだけのことは、やったと思うけど。

 でも兄さんたちみたいに一発で合格できるような気がしないっていうか……」

「あら、ハインならきっと大丈夫だわ! わたしが保証してあげる!」


握った両手を振って、クララが力強く言ってくれる。

試験を受けるべきか迷うハインに、受けるべきだと強く言ってくれたのはクララだ。


「……うん、ありがとう」

「ふふっ。受かったらお祝いしましょうね!」

「受からなくたって……」

「あら、だめよ! 作曲家になるのはハインの夢でしょう?」


言いかけたハインの言葉をさえぎって、明るい笑顔でクララは言う。

彼女は決して言わせてくれない。

本当はアカデミーになど行かず、君の傍にいたいという、その言葉は。


ふいに二人の間に沈黙が下り、春の風が枝葉を揺らす音だけがする。

このところ、おそらくはお互い思っていて、でも口には出さずにいるけれど。

あとどのくらい、二人一緒にいられるのだろう。


「あ!」


急に強い風が吹いて、クララの膝にあった楽譜が一枚飛ばされた。

咄嗟に手を伸ばしたタイミングが重なった瞬間、二人の頭がごちんと音を立ててぶつかる。


「いっ」

「きゃっ!」


顔を上げると、お互いの顔がすぐそこにあって、息が止まった。

隣り合って座っていたので、元々距離が近かったせいもあるだろう。慌てて離れる。

楽譜を取ろうと立ち上がりかけていたので、二人でベンチを挟んで立つ感じだ。

お互いぶつけたところを押さえて、互いの顔が真っ赤になるのを互いに見ていた。


「あ、えと、大丈夫……?」

「大丈夫よ! あの、わたし、石頭だから!」


クララがぱたぱた手を振ってそう言ってから数秒間、二人はしばらく固まり。

やがてどちらからともなく噴き出した。


「あはは。クララが石頭とか、そんなの初めて聞いた。痛かっただろ?」

「ふふっ、あはは! 嘘よ、とっても痛いの! あはは!」


箍が外れたみたいに二人で笑っていると、ハイデマリーが無言でやってきて、

水で濡らした布をクララがぶつけた箇所だろう、おでこの横辺りに当てる。

ハインは少し痛むだけでどうということはないけれど、クララは放っておいたら腫れるかもしれない。

と、ハイデマリーも思ったのだと思う。


ふと、さっき捕まえた楽譜をずっと握っていたことに気づいた。

捕まえた時に強く握ってしまったので、少しくしゃくしゃになってしまっている。

皺を伸ばして整え、クララに返すと、布を当てられながらにこにこしてお礼を言ってくれた。

その笑顔を見ると嬉しいのに、胸のどこか奥の方が苦しくもなる。

それがどうしてなのかを、ハインはもう知っていた。


今日も何も言えないまま、想いばかりが募っていく。

また、夏が巡ってくる。

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