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第1章 -10話

薔薇園での出来事から、約一週間後のこと。

日曜日の午後に、ハインは小さな花束を手にエーデルシュタイン邸を訪ねた。

ハイデマリーとの別れ際に言われたことなどが頭をよぎり、

もしかしたらもうクララに会わせてはもらえないんじゃないかという不安もあったが、

もはや慣例となっている裏口からの訪問を、ハイデマリーは黙って受け入れてくれた。


一旦エントランスホールで待たされ、お嬢様に確認してまいります、と行ってしまう。

いつもは確認などないまま通されるので、会いたくないと言われたらどうしよう?

という先ほどの不安が再びよぎったが……ハイデマリーはすぐに戻ってきて案内してくれた。

ホールの階段を上がりながら、彼女がちらりと振り返る。


「……正直、もう来られないのではないかと思っていました」

「僕は、もう会わせてもらえないんじゃないかと思ってました……」

「そうでしたか。あの日の話、ご家族には?」

「クララのことは、体調を崩してるとだけ。みんな心配していました。

 あれのことは、誰にも」


魔獣のことは他言無用だとはっきり言われた以上、むやみに誰かに話すことはできなかった。

家族はおろか街の人も、今でも魔獣が出たことすら知らないままだ。

領民が誰も知らないだけで、これがこの家では当たり前のことなのか?

もし二人が死にでもしていたら、もし魔獣が街に出てしまっていたら、領民が殺されたりしたら、

大騒ぎになるだけでは済まないことなのに。伯爵は何を考えているのだろう?

この一週間ほど、そんなことも含めていろいろ考えたが、子供には分からないことが多すぎた。

ただ子供にでも分かるのは、子供でも考えられることくらい分かっているはずなのに

平然としている伯爵は、とても恐ろしくておかしな人だということだ。


ただハイン自身は、そのことに対しての疑問や憤りなどよりも、クララのことが気がかりだった。

心臓の病とは言われても、それがどんなものなのかハインには分からないし、

あの倒れた時の苦しそうな様子ばかり思い出されて、ずっと心配だった。


これまで通ったことのない廊下を歩き、クララの部屋の前に案内される。

いつもはもっぱら音楽室や裏庭、キッチンでお菓子を作ったりして遊んでいたので、

実はクララの部屋に通されるのは初めてのことだ。少し緊張する。

ハイデマリーが扉をノックし、ハインが来訪した旨を伝える。

いつもならクララが自分で扉を開けに来るのに、今日は中から返事だけがあった。

その理由は、すぐに分かる。


「ハイン、来てくれてありがとう」


クララはまだベッドの上にいた。

天蓋付の広いベッドの上、端の方に枕やクッションを背もたれにして座り、

ネグリジェの上にショールを羽織っている。

いつものように微笑んでいるけれど、顔色は良くない。

あの日から一週間ほどしか経っていないのに、少し痩せてしまったような気がして痛々しかった。


「そんな顔をしないで。ね、ここに座って」

「あ……」


思ったことが顔に出てしまっていたようだ。

クララだって、こんな姿を人に見せたくはなかっただろうに。不躾だったと反省する。

クララの傍へと行き、ベッドサイドに置かれた椅子に腰かけた。


「これ、うちの庭の花だけど……」

「まあコスモスね! とてもきれい。ハインが摘んでくれたの?

 ありがとう、とってもうれしいわ。マリー、花瓶に活けてきてくれる?」

「かしこまりました」


祖父に教えてもらいながら摘んだ、濃いピンク、薄いピンク、白のコスモス。

その飾り気のない花束を持って、ハイデマリーが部屋を出て行く。

部屋は壁紙や調度品は白と薄い水色、そして鈴蘭のモチーフを基調にしており、清楚な雰囲気だ。

まだ強い秋の陽光を遮るためか、どの窓もレースのカーテンが引かれていてやや薄暗い。


「体は大丈夫?」

「ええ、もうずいぶんいいのよ。大事をとって休んでいるけれど」


ベッドの中で膝を抱えて座り、クララが微笑んだ。

それが努めて笑おうとしているものであることくらい、ハインにも分かる。

そしてその表情は、すぐに翳ってしまった。


「ハインは、怪我はない?」

「ああ、うん。僕は大丈夫だよ。クララは?」

「わたしも大丈夫。ハインとマリーが守ってくれたもの……。

 ごめんね、あの時わたしが薔薇園に誘ったせいで」

「そんなの、クララのせいじゃないよ」

「……わたし、あんなものがいたなんてぜんぜん知らなかったの……

 お父様が何をしているのか、何を考えているのか、なんにも分からないの」


そう呟くクララの横顔は、常になく憔悴していた。

彼女も魔獣の存在に、あの出来事にショックを受けている。

それも、他でもない自分の父親が原因なのだから当然のことだとは思うが……。


「わたしね……お父様とは、ほとんどお話ししたことがないの」

「えっ?」

「ハイン、お父様には会った?」

「会ったっていうか、見かけただけというか……」

「そうね、お父様が用もなく声をかけたりするはずないもの。驚いたでしょう?

 お父様はいつもああなの。もちろん、わたしにも」

「いつも? 君に対しても……!?」

「いつものことなの。顔も見てくださらないわ」


顔も見ないだって? 一瞬、聞き間違いかと耳を疑う。

あの時、クララが倒れた時に感じた違和感が胸に甦ってくる。

娘を心配するようなそぶりもなく、取り乱すでもなく、ただ平然としていたあの姿。

まるでまったく娘に興味がないかのような。

あれが、いつものことだって……?

あの姿を思い出して、今のクララの憔悴した姿を見ると、腹の底からこみ上げてくる感情があった。


「……伯爵様が何を考えているのかは分からないけど、僕は腹が立つな」

「え?」

「君が病気であんなに苦しんで、そのうえ魔獣に食い殺されそうになったんだ。

 あの人は君のことをもっと心配するべきだ」

「……怒ってるの、ハイン?」

「当たり前だろ。友達が傷つけられたら怒るよ」


びっくりした顔で、クララがこちらを見ている。

まるで、自分が傷ついていたことに、初めて気づいたかのように。

かのようにではなく、おそらくそうなのだ。

それを見ていると、あの仏頂面のおじさんに対してもっと言ってやりたくなってきた。


「クララも怒ればいいんだよ」

「わ、わたしが? お父様に?」

「そうだよ」

「でも、どうやって怒ればいいか分からないわ」

「いつもみたいに、思ってることを言えばいいじゃないか」

「言えないわ……お父様はずっと黙ってるから怖いんですもの」

「じゃあ脛を蹴るとか」

「蹴るっ? そんなことをしたら痛いでしょう?」

「痛いさ。痛がらせてやればいいんだ」

「まあ!」


クララがまた目を丸くして、それからくすくすと笑った。

さっきまでのどこか作ったような笑顔ではなくて、心から生まれてきた笑顔。

しばらく、二人してくすくすと笑いあう。

そのあとで、クララが常になくおずおずと口を開いた。


「……ハインはわたしのこと、まだお友達だと言ってくれるのね」

「違うの?」

「だってわたし、あなたに隠し事をしていたわ。病気のこと……」

「友達だからって、何もかも話さなきゃいけないなんてことないよ」

「でも……あなたには伝えるべきだったと思うの」


膝を抱える手が、きゅっとリネンを握り締めている。

絞り出した声は少し、震えていた。


「わたしね、せっかくお友達になれたのに、病気のことを伝えたら、

 あなたがわたしから離れて行ってしまいそうな気がして、どうしても言えなかったの」

「……そうだったんだね」


ハインは静かにその言葉を肯う。

その言葉は、心のどこかで予期していたものでもあった。

あの日、彼女の病気のことを知った時から、ハインはずっと考えていた。

クララは大人になるまで生きられないかもしれない。

その現実はどんなに拒んでもいつか来てしまうなら。

その時が来てお互い傷つくくらいなら、それならいっそ離れてしまった方がいい、

ハイデマリーが言ったようにそういう選択肢も確かにあるんだと思う。

だけど……。


「離れないよ。クララと友達になりたいと思ったのは、僕の意思だ。僕が決めたことだ。

 その気持ちは今も変わらない。君と友達になれたこと、僕は後悔してないよ」


その涙に潤んだ目を真っすぐに見つめ、ハインは言った。

彼女の瞳が大きく瞠られて、アメジスト色の輝きに光が差し込む。

輝く星のような瞳を、きれいだなと思ったのも束の間。

その瞳にみるみる透明な涙が浮かんで、ポロポロ零れ落ちるのを見た時には、心臓が止まるかと思った。


「え、わ、クララ!?」


グスグスと泣きじゃくるクララを前に、狼狽して思わず椅子から腰を浮かせる。

どうしたらいいのか分からない。まさか小さな妹にするみたいにあやすわけにもいかないしと、

伸ばしかけた両手もあわあわと宙をさまようばかり。

困り果てて立ち尽くしていると、俯いて両手で涙を拭いながら、涙声のクララが言った。


「ごめんなさい、ただ、とてもうれしいの。とてもうれしくって……。

 うれしいときにも、涙って出るものなのね」


何度も涙を拭いながら、ようやく顔を上げてくれた。

この時見た彼女の、心が晴れるような美しい笑顔を、きっと一生忘れられない。


「ありがとう、ハイン」


言葉も忘れて、ただ彼女の笑顔に見惚れる。

そのとき、コンコンと小さなノックの音がした。

クララが返事をすると、ティーセットを乗せたワゴンを押してハイデマリーが入ってくる。

そこでようやく現実に返り、ハインは遅ればせながら慌ててポケットの中のハンカチを探った。

白地に紺の、ウィンドウペンチェック柄のハンカチだ。


「これよかったら使って」

「ふふ、ありがとう」


クララが嬉しそうにハンカチを受け取ってくれた。

涙を拭う彼女をハイデマリーがちらりと見たものの、何も言わない。

正直、彼女を泣かせたと怒られるんじゃないかと思ったのは事実だ。

なんとなく居心地悪い感じのまま、椅子に座り直す。


ハイデマリーがベッドサイドの小さなテーブルに紅茶の入ったカップと、

クララにはマグカップに入ったホットミルクを置いた。

それから、コスモスを活けてくれた透明なガラスの花瓶も。


「ありがとうマリー。とってもきれいね、ハイン」

「あ、うん。これ、おじいちゃんが庭で育てた花なんだ」

「まあおじいさまが? お花が好きなの? 他にはどんなお花が咲いているの?」

「え、え? なんか黄色い花とか白い小さいのとか……名前が分かんない、ごめん」


決まり悪く頬を掻くと、クララが「あら!」とおかしそうに笑った。

彼女に笑顔が戻ったことにほっとして、眩しくそれを眺める。


「ね、そういえば、ハインはあの時のマリーを見ていたでしょう?」

「ん?」

「あの時の、助けに来てくれた時のマリー! わたし、あまりちゃんと見られなくて残念だったわ」

「そんな残念がるようなことではございません、お嬢様」

「でも、僕もびっくりしました。ハイデマリーさんてすごく強いんですね」

「お恥ずかしい限りです」


一歩退いてベッドの傍に立っているハイデマリーが、ぺこりと一礼した。

と、急にその鋭い瞳がハインの方を見たので、さっきのこともあり内心びくっとする。


「それより私はハイン君に驚かされました。あの状況で、逃げずに立ち向かったのですから」

「そう! そうなの、ハインがいなかったらわたし、きっと食べられちゃってたと思うの!

 ハイン、あの時は本当にありがとう。あなたはとっても勇敢な人だわ」

「いや、僕は、何も……」


勇敢だなんて言われて、顔が赤くなるのが自分でも分かる。

今思うとあの時は、クララを守ることで頭がいっぱいだっただけだ。

しかも何かができたわけじゃないし。そんなふうに褒められると恥ずかしくなる。


「ハイン君、本格的に鍛える気はありませんか? 私が稽古を付けて差し上げますよ」

「え……!? い、いいです」


妙な圧を感じて、慌てて首を振った。これは彼女なりの冗談なのだろうか?

冗談にしては目が笑っていないような。いや彼女は元々笑わない人だけれど。冗談……だよな?

心を落ち着けようと、紅茶のカップを手に取る。


「あのね、ハイン。わたし、あのとき思ったことがあるの」

「ん?」

「この人のお嫁さんになりたい、って!」

「ぶふぉ!!」


飲もうとしていた紅茶を、思いっきりカップに吹き出してしまった。

熱いわむせるわでひどい有様のハインに、クララは容赦がない。


「ね、お嫁さんにしてくれる?」

「ちょっ何言って、無理だよそんなのっていうか、え!? あの時そんなこと考えてたの!?」

「あら! 生きるか死ぬかの時だからこそ、だわ!」

「ええ!?」


友達からお嫁さんって飛躍しすぎじゃない!?

びっくりして言葉が継げず、ちらりと傍らのハイデマリーに助けを求めたが、


「いけませんお嬢様、お嬢様にお嫁さんはまだ早すぎます!」


いや論点そこ? みたいな言葉が飛び出しただけだった。

なおもクララが食い下がり、ハイデマリーが彼女を押しとどめ。

紅茶のカップをそっとテーブルに戻し、ハインは小さく苦笑した。

クララに無茶を言われて困ったり焦ったり、でもそれが不思議と心地良くもあり。

君が笑ってくれるなら、そんな日々も悪くないと思える。


己の胸に芽生えかけた感情の名前を、ハインはまだ知らない。






第1章 了

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