開国前夜
爽やかな風が頬を撫でる。綿菓子のような雲が浮かぶ青空の今日は格好の日だろう。
数日前から甲板をいろいろな旗で飾り付け、蒸気艦の隅々まで完璧に整頓した。士官・海兵隊員・水平たちは制服を着て訪問客に全面的に敬意を表する用意を整えた。
「一日中掃除させられて腰が痛いぜ」
「俺なんて一日中磨いていたぜ。誰も気にしねえだろうにな」
「ご苦労だったな」
「ひっ、提督」
「おかげで我が艦は美しくなった」
下に降りていくと肉の焼ける食欲をそそる香りが漂ってくる。一流のシェフにより目も楽しませる色合い、そして大量の酒。このの場にはにふさわしいだろう。
1853.7
あの男と初めて会ったのは浦賀での会合が決まる前日であった。
日本人が帰り、自室で一息ついているとノックの音とともに秘書である息子がやってきた。
「父上、ご相談がございます。あなたに会いたいという日本人の男がおります。どうしましょうか?」
「誰だそれは? 全員帰ったのではないか?」
「先ほどはいなかった日本人です。ひっ捕まえると自分は次の条約締結で提督が狙われていることを知っていると言うのです。詳細を聞き出そうとしましたがのらりくらりと躱され提督に直接話すと聞きません。この時期に何か起こすのは得策ではないですし、ご意見をお聞きしたく参りました」
艦には日本人を入れないよう徹底している。乗ってきた人間はすべてカウントしている。そんな中乗り込んでくるなど相当な能力だ。それに加えこの国で英語を話せるなど珍しい。思わず興味がわいた。
「わかった。来賓室で会おう。連れてこい」
やってきたのはひょろりとした男だった。際立った特徴がなく存在感が薄い。20代にも50代にも見える。
「お目にかかれて光栄です、ペリー提督」
「お前は誰だ?」
「しがない日本人でございます」
「どうやって侵入した?」
「忍び込む技術に長けているのでございます」
「その上英語が堪能だ」
「学ばせていただきました。あなた方と話がしたいと思っておりましたので」
ここまで日本人と接触してきた私にはわかる。表情が読み取りづらいうえに二枚舌。何かを吐かせようとしても苦労するだけだ。
「御託は結構だ。私に会ってどうしたいのだ?」
「さすが提督。話が早いですね。日本上陸についてです。その際提督は狙われるかもしれません」
「私が狙われる? どういうことだ?」
男は静かに周囲を見回した。そして私の目をじっと捉えた。
「私のお話しすることは日本にとって不利益を講じる可能性がございます。人を最小限にしていただくことは可能でしょうか?」
男の眼光が異様な光を湛えた。この男は普通とは違う。私の長年の勘がそう告げた。
私は息子と3人の護衛以外は退出させた。
「これで文句はなかろう」
「お気遣いありがとうございます。お分かりかと思いますがこの国は異国人排斥の思想を持つ人間が多い。異国人であることのみで悪と断定する人がいるのです。お恥ずかしいことですがそれは国の中枢を位置する幕府陣にもおります。幕府陣も一枚岩ではございません。この機に乗じて提督の命を狙いこの商談を破断、そして異国人を打倒したことを偉業としようとする陣営があるのです」
「なんて奴らだ……」
息子の言葉に男は続ける。
「ええ私もなんて我が国の人間ながら阿呆な奴らだろうと思います。しかし阿呆な奴らは己の言い分になぜか絶対的信頼を持っており人の話を聞く耳なぞ持たないのです。だから私は提督にお願いに参りました」
「私に何を求めるのだ」
「提督に日本という国を開いてほしいのです。日本を学び、戦ではない方法でで交渉してくれるあなたに」
「ほう」
「日本が商談の場として指定してくる建物の床下に腕利きの武士が潜んでいるでしょう。何かいいきっかけを見つけたら刀を簡単にふるいます。提督は文句の付け所がない様子で臨んでいただきたい」
「そやつらを切ればよいのでは?」
「私にはそんな権限はございませんし提督が言い出したら角が立ちます。お互いの国益のため、お願い申し上げます」
頭を下げつつも私を見つめる瞳には嘘の色は見えなかった。それにこの事実を知って私が不利になることは何もない。
「言い分は理解した。ほかに何かあるか?」
「いえなにもございません。話を聞いていただきありがとうございました」
男は一礼して風のように出て行った。はっと気づいて護衛の一人が追う。
「父上、あやつの話はどう思いましたか?」
「私も予測していたことだ。文句のつけようが無いほどに仕上げてやろう」
翌日浦賀という場所で会見が行われることが決定した。早急に士官を招集し準備を整えた。
会見当日300人の士官を集め隊列を組んだ。揃いの制服に身を包み堂々とした音楽とともに久里浜の地に足をおろした。左右には体格の良い黒人、アメリカ国旗と青色の提督旗を掲げた屈強な兵士。日本人は見たこともない光景であろう。唖然としているのが見て取れる。
応接間の戸口に護衛隊を残し幕府の人々とともに中に入った。急ごしらえなのが見て取れる。わざと足音を立てると日本人に緊張が走る。あの男の言う通り床に潜むことは可能だろうし真実を告げていたのかもしれない。
文書の交換は滞りなく形式的に行われた。無事にすべてが終わり自室に戻る。疲労とともにあふれる眠気にすべてを委ねた。
来春に来訪をすることで締結し日本を去る日ノックの音が響いた。
「誰だ」
「私です」
その声は聞き覚えがあった。あの妙な日本人だ。警戒心よりも好奇心が勝った。
「入れ」
するりと男が入ってきた。わが艦の士官服を着ている。
「何をしに来た? 寝首をかくつもりか」
「そんなつもりは毛頭ございません。この制服は少し拝借しただけですのですぐお返しいたします。それに私はお礼だけ言いにまいりました。この度はありがとうございました。」
「礼を言われることではない。自らの防御と我が国の強さを見せつける、目的を果たしただけだ」
「それでもかまいません。それでは来春またよろしくお願いいたします」
一礼すると男は去っていった。我に返り急いで追ったが男の姿はなかった。翌日その男を見た者もいなかった。
1854.3 日本再訪
複数回の会見を経て条約についての和解点が見えてきた。こちらに対する態度も変わってきて横浜に上陸し贈り物の交換や我が国の技術公開を行った。日本が行ったスモウという野蛮な行為には辟易としたがそれも心を許してきた証だと思えばかわいいものだと思える。そしてダメ押しとして会食を開きたい旨伝えると快く受け入れられた。
その夜のことだった。
艦船も静まり返った頃、ノックの音が部屋に響いた。
「誰だ」
「私です」
聞き覚えのある声がした。前回の遠征でも色濃く記憶に残っている。扉に向かって私は問いかける。
「何をしに来た?」
「提督とお話がしたく参りました」
こ奴は信頼できるのだろうか。前回の話から自国を憂いて私に協力的なことはわかっている。ただ公開を始めたとはいえ入出艦を徹底している我が艦に簡単に乗られては困る。ここは賭けに出た。
「はいれ」
扉は音も立てず空き士官の格好をした日本人の男が入ってくる。顔は覚えていないがこの眼光は記憶に残っている。
「ペリー提督、ご無沙汰しております」
ひょうひょうと言い抜ける言葉に言葉を強める。
「お前は何者だ? なぜ我が艦に簡単に乗ってこられる?」
「忍び込むことは私の生業でございます」
「なんだそれは。日本にはそんな職業があるのか?」
「もう廃れる寸前なのですが。日本では忍びと呼ばれるものです。私は開国を推進するある組織に属しております。舞台裏で暗躍し静かに死んでいく存在です」
「シノビなど言うものがあるのか」
「はい、こういうのもおかしな話ですがこちらの艦は大変警備が厳しく、大変苦労しております。提督が姿を現さないのでこちらから出向くしかございませんし。私以外に忍び込める者はいないでしょう」
「私に殺されるとは思わなかったのか?」
「そう簡単に人を殺さない人だと思っております。死を見据えているといっても命は大事ですから」
男は私を見る。目をそらしたのは私だった。
「よく死ななかったな」
「生憎思ったより頑丈でしてね。提督こそお元気そうで何よりです」
「持病のリウマチが暴れだしてね、家に帰るまでは我慢してほしいものだが」
「提督には生きて帰っていただかねば。提督のミッションも終わりが見えてきたでしょう」
「まだ課題は残っているがな」
「それはもちろん。でも肝心の部分は掴んだ」
「ああ」
「会食が企画されているでしょう。準備は順調ですか?」
「ああ」
「それはよかった」
「お前は何しにきた。約束を守って顔を見せに来たのならとっとと帰ってくれ。もう満足だ」
「前回も御託を並べるなと怒られましたね」
「日本人のまどろっこしいところが嫌いだ。要件を言え」
「失礼いたしました。会食に怪しい動きがあるのですよ」
「なんだと! この後に及んでなんて愚かなのだ」
思わず声が出る。
「それは私も百より承知です。こんなところで事件を犯したら日本を攻める口実を与えるだけ、引いては我々にとっても非利益しかない。我々も反乱因子については排除しようと動いておりました。ただ愚かなやつはそんな計算も出来ず異国民は排除と陰でこそこそ動いているらしいのです。ここまで尻尾をつかめず申し訳ないです」
「わかった。警戒しよう」
「お願いいたします。会食の日は私も参加する予定です」
「お前が?」
なぜという感情が浮かんでいたのだろう、男は笑った。
「ええ、こう見えてもいろいろな顔を持っていましてね。陽気な日本人松崎が私です」
「陽気とは対極にいそうなお前がか」
「尊大に見せてうまくことを運ぶ提督と同じですよ。それでは当日はよろしくお願いいたします」
そういうと音もたてず男は部屋を出て行った。消えていった、という方がニュアンスは近いだろうか。
「これシノビなのか」
思わずひとり言葉が漏れた。
3月27日飾り付けた我が艦に船夫・下僕を除いても70人を下らない人数が集まった。これほどの日本人が集まったのは初めてである。皆物珍しそうにきょろきょろと好奇心むき出しだ。私は宴席を2つに分け私の船室に高官を、ほかの人々は後甲板で行うことにした。これであれば位によって席を分ける日本文化にも則っているし、わけのわからぬ人が紛れ込む可能性も減る。
「お集りの皆さま、今宵は大いに食べ、飲み心行くまでお楽しみください」
私が口上を述べると明るい声が飛んできた。
「さあさあ楽しみに参りましたよ!」
松崎と名乗った男が食事を前にしてこぼれんばかりの笑顔を見せた。この男があのシノビなのか? 思わず顔をじっと見てしまう。昨晩見た男に似てはいる。
「提督失礼いたしました。悪い奴ではないのですが少々にぎやかすぎるのが玉に瑕です」
高官の一人がそういうと松崎と名乗る男はペコリと頭を下げ、ちらりと私を見た。その眼光はあの光を宿していた。信じがたいが同一人物らしい。
「ああ、これは噂のシャンペンですね。やや喉で泡がはじける爽快感、ほかには代えがたい代物ですな。先生もぜひ飲んでみてください」
威厳のある態度を崩さない林大学頭もシャンペンを口に含む。表情には出ないが杯を重ねるとのことは気に入ったのだろう。
「ほかにも特上のワインに日本の方々の気に入っていただいたマラスキーノ酒もご用意しております。食事とともにお楽しみください」
松崎が先陣を切って飲めや食べれやと盛り上がり始め、堅苦しい雰囲気から宴の態をなしてきた。
甲板の席も持ち上がり始めたらしい。心地よいアメリカ音楽をかき消すようなにぎやかな声が響いてくる。
松崎を筆頭に飲み食いしこちらの日本人も気持ちがよさそうである。
「皆さま、夜風にあたりにいきませんか? ショーも用意しております」
「なんと! それは見逃せません! ちなみにそちらにお酒はございますか?」
「もちろんですとも」
松崎が小躍りをしながら甲板へ登っていく。
「さあさあ皆さまも」
好奇心は抑えきれず皆松崎の後ろをついていく。
春のまだ冷たい風が頬を撫でる。酒の入った体には気持ちよいだろう。
甲板ではバンド音楽が演奏され、ベテラン士官とちょんまげ姿の和服の日本人が一緒に踊っている。なんとも滑稽であたたかい。
「さあさあ皆さま、ニューヨークで公演しても大喝采のエチオピア一座によるショーですよ」
日本人たちが集まり物珍しくショーを眺め始めた。黒人に扮したショーはわかるのかと思ったが黒人音楽とともに行われるショーは受けがよかった。片手に酒があったのもよかったのだろう。
「こりゃ珍しい、先生も笑っていらっしゃる」
「私だって笑うときくらいある」
声のあるほうを向くといつもむっつりいている林大学頭笑までもが笑っている。
日が暮れると飲みや踊れや大宴会の様子を呈してきた。だんまりむっつりだと思っていた者たちがこんなに陽気に騒ぐのは意外であると同時に同じ人であることを感じた。
宴もたけなわ、それぞれが退艦の用意を始めると松崎が両腕を首に絡めてきた。しこたま飲んで酔っ払ったのか眼光もなりを潜めている。
「提督~、このような宴をありがとうございます。日本とアメリカの心は一つ!」
「ペリー提督申し訳ございません。さあ帰りますよ」
私に絡む松崎を同じく酒でフラフラの同僚たちが何とか自分たちの船に乗せる。自船に帰っていく顔はだれもかれも上機嫌だ。
日本人の最後の船が去っていくのを見届けて礼砲を放った。礼砲の音が消えると艦船にはいつもの静寂が戻ってきた。
翌日条約の諸点について調印するために上陸した。迎えに現れた日本人や役員たちはいつもより厳粛な顔立ちをしていたのはおそらく昨日浮かれすぎたことによる反省だろう。120%思い通りにとはいかなかったが合格ラインにはたどり着いた。
その夜、またノックが響いた。扉を開けるとあの男がいた。
「入れ」
「失礼いたします」
「昨夜はやってくれたな」
男は苦笑を浮かべた。
「失礼いたしました。陽気な日本人でしたでしょう?」
「ああ、松崎というのは本名か」
「私の名の一つです。この生業にはいくつも名が必要なのです」
「変わったやつだな」
「そうですね。昨日は何事も起きず心をなでおろしております」
「私の艦で事件が起こることなどありえない」
「そうですね。昨日の宴で判明したこともございました。重ねてお礼申し上げます。もう提督にお目にかかることはないでしょう。危害が加わることもないかと思います。」
「そうか」
沈黙のとばりが落ちる。口火を切ったのは男だった。
「酒の席とは言え、私が提督に向けた言葉に嘘はございません。私はあの宴で我々は共に生きられると思いました。あなたが日本に来てくれてよかった」
私は右手を差し出した。男は私の右手を握った。それは血の通っている温かい人の手だった。
様々なことがあった私の航海は1955年4月に幕を閉じた。日本遠征記をまとめるにあたり、あの奇妙日本人―松崎と名乗った男のことを思い出した。あ奴は日本の記録に残ることはないだろう。ならば私が残してやろう。とびきり陽気な日本人として。そっと日本に向けてシャンペンを傾けた。