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Private EYES

 1902年、大英帝国、晩秋の倫敦。


 交差する馬車が水溜まりを跳ね上げる。泥混じりの水を受けるのももう幾度目か。

額から雫が垂れ落ちるのを感じ、手巾を取り出そうとする。袂に腕を伸ばし、空を掴む。見ればそこに長着の袂はなく、濡れた筒袖があった。

ましゃ、と堪え切れず声が漏れた。

何故、自分はここに居るのか。

何故、あの男と別れてしまったのか。

恐らくは生涯の別れと、わかっていたはずなのに―――!

雫を受けた左目が、酷く熱い。

咄嗟に拭おうとして


「目病みかね?」


 膝を曲げ、こちらの視線の高さまで自然と降りてきた男。

こちらの顔を両手で挟み込むと、左目を覗き込まれる。

「安心したまえ、私は医者の資格を持っている。眼科医を標榜したこともある。まあ廃業したがね。しかしいい目だな。一インチを優に超えているだろう。色は黒瞳……珍しい。欲しいな」

上下の瞼を引っ張られ矯めつ眇めつされる。男の両手首を掴んで引き剥がそうとするが思いの他膂力が強い。

「ん、なんだこの痕跡は」

指を瞼の内側に突っ込まれそうになって、やめろと叫び声が上がった。そうだ、この男。見た覚えがある。グレイグ教師の家の近くで何度か。教師が言葉を交わしていたのも覚えている。確か、英国人には珍しい、母国の言葉のような名前で。


「いい加減にしろ、―――土井!」


 彼の国の言語で叱責されたのが意外だったのだろう。男―――土井の手の力が緩む。力任せに振りほどいて、立ち上がる。

「若い頃にトラホームをやった名残だ!もう治ってる!」

久し振りに大音声を張ったせいか、ぜはぜはと息切れがする。

「トラホーム……。知らん病名だな。風土病か?」

そう(うそぶ)いてから、土井ははて、と首を傾げた。

「失礼だが、どちらかでお目にかかったことが」

「……Mr.グレイグに英語を習っている」

それは失礼した、と詫びた土井はこちらに向け清潔なリネンを差し出しながら


「それで前途有望な留学生殿が、どうして道でみじめったらしく蹲っていた?」


 改めて問われる。数週間―――数か月ぶりに講義ではない人との会話に何処かで箍が緩んだのだろうか。

「……朋友が、亡くなったと」

二月かけて送られてきた、あまりに短い手紙にはただそれだけが。

そうか、と応じた土井は

「それで、君はその同胞に会いたいと」

会いたいかと言えば、まだ心の整理がつかない。

「会いたいと」

先程眼球を検分された時のようにこちらに向かって手が伸びてくる。一歩身を引くと顔だけがずいと突き出された。雨の薄闇の中でも薄茶の瞳が炯炯としている。妙に強い押しに、二の句が告げなくなる。沈黙を是と受け取ったのだろう。

「ならば君を招待したいところがある。一緒にどうかね?」



 そういえば、まだ名前を聞いていなかった。と別れ際に問われた。異国の音は発音しにくかったのだろう。諦めたように土井は

「よければ君の事をアイズと呼びたい。立派な、美しい目をお持ちだから」

―――アイズ。

その言葉に、ふっと笑った。

いいよ、と答えると土井はさも意外そうに肩を竦めた。

―――アイズ―!ベースボールしようぜ!

大柄な体をぶんぶんと振り回していた在りし日の姿が思い浮かぶ。

「朋友も、俺の事をそう呼んでいたから」



 「やあ、待っていたよ。はるばるようこそ」

倫敦から馬車に揺られること半日と少し。辿り着くなり馬車の扉が勢いよく開けられる。

「荷物はそれだけかな?どれ、私に貸してみなさい」

「スパロー中佐、君がポーターの真似事を?君だって客人だろう」

土井の声掛けに、かはは、と豪快に笑ったスパロー中佐は

「客人と言っても縁戚だからね。それに、ご覧の通りの人手不足でね」

確かに人手不足ではありそうだ。正面玄関から入ったにも関わらず従僕(フットマン)の一人出迎えがあるわけではない。

 その時であった。地下に続く階段から、悲鳴が上がったのは。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」少女が必死に詫びる声と男の怒号。鞭打つような音が数度響いて

「おい、こら待ち給え!」

土井の声が背中に降りかかる。本来客人が入るべきでない地下へ飛び込み

「おい!あんた、何やってんだ!」

そこにいたのは麺棒を振りかざすコックと、腫れあがった頬を抑える下働きメイド(トゥイーニー)。

「悪いのはこいつなんだ!間違ったものを持って来やがって!」

床一面に散らばったのは緑色の細長い葉ばかり数十枚。

「てやんでえ、べらぼうめえ」コックと胸を突き合わせて「だからって、こんなちっちゃい女の子に手を上げてどうするんだよ!年長者なら丁寧に教えてやるべきじゃないのか?あんたはちゃんとそれをやったのか?」

身に覚えがあったのだろう、コックが怯む。その隙にトゥイーニーを立ち上がらせる。

「おい、新しいローリエを取りに行く前に、それをきちんと片付けるんだぞ。それから処分の仕方は庭師のじいさんに聞け。間違っても勝手に処分するんじゃない」

なんだよ、ずいぶん横暴だな。床に落ちた葉を一枚拾い上げようとするとまた怒号が飛んだ。

「お客人!勝手に触るんじゃねえ!そいつにやらせろ」

鋭い棘でもあるらしい。分厚い手袋をトゥイーニーに押し付ける。

終わったらちゃんと外で手を洗ってから戻ってこい!

 背中に怒号を浴びつつ地上へ戻る。

「いいんです。私が悪かったんです。ここにあるのと同じ葉っぱを摘んで来いって言われたのに、違うのを持ってきてしまったから」

純朴な様子のトゥイーニーはバケツに入った葉っぱを抱えて隣を歩く。

「ここに?」

 ええ、ほら。と彼女が示したのは肖像画。女性の背景に手元にあるのとよく似た葉を持つ枝が生けられている。バケツの中のものに比べると幾らか葉が丸いように見えた。

「ポーレット夫人だよ。残念ながら数年前に亡くなってしまったそうだが」土井が静かに歩み寄ってくる。こちらを一睨み。「なんだね君は、いきなり飛び出したりして。その無鉄砲は親譲りかね」

「だとしても婦女子に手を上げるなど言語道断だろう。この館の主人は一体何を」


「―――私が、その主人だけれども」


冷え冷えとした、老女の声であった。

「Bonjour, Madame Laurier」

土井が頬と頬を触れ合わせて親しげに挨拶を交わす。黒い帽子に黒い外套。帽子に金色の丸葉の枝が飾られている。

「この世間知らずがアイズ。―――今日の客人です。アイズ、こちらはヨランダ様だ。私はマダムローリエとお呼びしているがね。ポーレット夫人のお母様でいらっしゃる」

そう言われてみると、肖像画の女性と目の前の老女にはそれなりの相似があった。二人とも総じて線が細く、臈長けた印象を持つ。

「ようこそ、ベイリーフ屋敷へ。先生と、東洋からの留学生の方。尤もいつまで私が主人でいられるかはわからないのだけれど」

中々剣呑な一言を言い放ち、では、時間まで。とヨランダーーーここでは土井に倣ってマダムローリエと呼ぶべきかーーーが去っていったのを見届けてから土井に改めて問う。

「それで、一体何のためにここに連れてこられたんだ?」

土井は窓の外と肖像画を交互に見やりながら


「降霊会だよ。マダムローリエはずっとポーレット夫人がやってくるのを待っているんだ」


 ベイリーフ屋敷の住人は現在ただ一人、マダムローリエのみ。

 しかしここで少々ややこしい問題が存在する。

この屋敷の本来の持ち主はポーレット夫人の夫なのである。

しかも、その夫が先年死亡しているのである。

病気がちだったという夫妻の間に子供はおらず、かといって倫敦から遠い小さなマナーハウスの所有権を声高に主張する者もおらず、身寄りのない老婦人を放り出すのも忍びないという事になり、今日に至るまでマダムローリエがひとりこの屋敷で暮らしている。

マダムローリエというのは彼女の微妙な立場からつけられた愛称で、屋敷をぐるりと取り囲む樹木から採られ

 「だったらどうしてミセスベイリーフじゃないんだ?」

滔々と語る土井に痺れを切らせて口をはさむ。結局スパロー中佐が客室まで荷物を運び入れてくれ、今はそこで休憩中である。

「仏蘭西から嫁いできたからだ」

かくいう私の母もフランスから嫁いできたんだぞ。

何故か得意げな土井は窓の外を指し示しぐるりと屋敷の敷地を囲う樹木を示す。

 「あれがベイリーフだよ。君の国の言葉で言うなら」

「月桂樹」

丁度そのベイリーフの根元にできた水溜りに野良猫がやってきたところで、それを目ざとく見つけた男が放棄を振り回して追い払っている。服装から察するに、あれが庭師だろう。

「―――失礼します。マダムローリエがお呼びです。降霊会の準備が整ったとの事です」

 昼間のトゥイーニーが鯱張って呼びに来た。


 会場となる応接室はカーテンが閉め切られている。精一杯の饗応なのだろう、緑が室内に運び込まれ、あちこちに蝋燭が灯される様はまるで夜の森のようであった。

「こちらへどうぞ、お客人」

部屋の中央に据えられた机には水盆が置かれ、その真ん中にも一際大きな蝋燭が灯されている。水盆を囲うように月桂樹が置かれ、さながら小さな池のようであった。

手を、と促され、老女の手を取る。あなた達もよ、とスパロー中佐と土井を呼ぶが

「私が入ってしまうと男女同数とならないでしょうから」

と土井が参加を控えた。

「交霊会自体は何回も参加しているからね。まあ今回は見学とさせて貰うよ」

スパロー中佐とトゥイーニーも手を繋ぎ、男女交互になって円を描く。さすがに不安な気持ちになって土井を振り返る。

「大丈夫。何があっても朋友が必ず君を守るだろう」

正面に向き合う。ゆらりと蝋燭の炎が揺れて月明かりのように見える。

「ゆっくり息を吐いて、吸って」

言われたとおり、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

「呼び出したい相手を思い浮かべて」

老婦人の手は冷たいかと思いきや存外に(ぬく)く、抑揚のない声に、自然と瞼が重くなる。眠ってしまわないようににょーにょこ、にょーにょこと小声で経を諳んじる。


俺は一体誰に会いたいのだろう。

朋友に会いたいのかーーー……?

それとも十四で死に別れたおっかさんに会いたいのかーーー?


でも、もし叶うなら。

項垂れた老婦人の旋毛を見下ろす。

吸って、吐いてと間遠く、呪いのように言葉が繰り返される。

―――カランっ

硬いものが床に落ちる音がして、目を開ける。手が酷く冷える。

「奥様、奥様!」

 ぐらりとマダムローリエの体が傾ぐ。机を諸共薙ぎ倒して、床へうち伏す。

小さな瓶が床に落ちているのに気づいて拾い上げようと身をかがめる。

床に落ちた蝋燭がめらりと絨毯の上に炎を走らせる。焦げ臭い臭いを思い切り吸い込んでしまう。

くらり、と目の前が揺れる。いきなり天と地がひっくり返ったような強烈な眩暈に襲われる。胃がひくひくと痙攣し始める。耐え切れず床に転がる。

 ざばん、と水飛沫が飛ぶ。

「おい、アイズ―――おい!」

土井の呼ばわる声を最後に、ふつりと意識が途切れた。


 暗い、暗い、暗い暗い暗い

 もやもやが胸の奥に溜まって身動きが取れない。

 このままでは塗り潰されてしまう。

 誰か、誰か、誰か―――!

闇雲に手を振り回してどれだけそうしていたのだろう。急に視界が開ける。

 紅赤色の花を沢山咲かせた樹木の前に、女性が佇んでいる。結わずに伸ばした髪がふわふわとあたりに漂い、咲き誇る花よりも一段くすんだ色のドレスもそれに合わせて揺れる。

こちらに気が付いた女性が、腕をそっと広げるとその両腕の中に花をつけた枝が一枝顕れる。

 ―――これを、お母様に。

何処からかそんな声が聞こえてくる。

枝を受け取ろうと手を伸ばし


 「―――アイズ!アイズ!」

土井、と掠れ声で呼ぶ。

「これ、外してくれないか。酔っ払いそうだ」

気付け薬として嗅がされていたらしい酒精(アルコール)は下戸には辛い程の刺激だった。

「なんだ、折角夫人に頂いたのに勿体ない」

手巾を一払いしトゥイーニーに下げさせると、こちらの手を取って脈を取り始める。力を抜き給えよ、と言われて初めて拾った小瓶を握りっぱなしだった事に気付く。装飾の施された小瓶の中で液体が揺れている。

「開けない方がいい。君にとっては毒だ」

はいよ、と答えて瓶を土井へ渡す。

「まあ、脈は正常だな。舌を出して……問題ないな。他に吐き気は?眩暈は?」

そういえば医者の資格を持っていると言っていた。

「眩暈は少し。吐き気は問題ない。マダムローリエは?」

「今は部屋で寝まれている」

忙しく動き回っている様子のトゥイーニーは問題なさそうだ。

「スパロー中佐も客室で休んでいるよ。彼は嘔気が酷かったようだ。応接室を汚さないよう庭へ走っていったことだけは褒めてやるべきかな」

それは全く以て、ご苦労な事であった。



 さすがにこの状況では夕食など楽しめるはずもなく、食堂にはサンドイッチとデザートが用意されているだけだった。

トゥイーニーが温かい紅茶を運んでくる。

サンドイッチに口をつける気にはならず、デザートのプディングだけを引き寄せる。

今日はシェフ自慢のステッキ―トフィープディングなんですよ、と朗らかな調子で給仕をするトゥイーニー。体調に問題はないかと土井が尋ねる。

「はい、ちょっと気持ち悪かったりもしたんですけど。すぐに先生が窓を開けろって。それで水盆のお水を撒いて火も消してくださって。それですっかり良くなりました」

もう大丈夫です、と微笑むトゥイーニーに幾分か救われた気持ちになって、プディングに口をつける。

「……うまい」

もっもっと匙を動かすこちらを土井は酷く呆れた目で見つめ、自分の分のプディングもこちらへ押し遣る。

「よかったら食べ給え」

「おかわりをお持ちしますね」

トゥイーニーがキッチンへ姿を消してしまうのと、二つのプディングを食べ終えるのがほぼ同時。一息つくと、改めて今夜の不思議な出来事が蘇る。

「なあ、一体」

「何が起きているのか、知りたいかね?」








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 交霊会の夜から一夜明けて翌朝。


 再び応接室へと集められる。昨夜は神秘的な雰囲気を醸していた客間だが、今は飾られた枝がしなび、絨毯には焦げ跡があり、おまけに窓も開け放たれて酷く寒々しい。

さて、とそこで言葉を区切った土井はそこに集う面々―――マダムローリエ、スパロー中佐、トゥイーニー、そして俺を見まわした。

「昨夜起きた不思議な―――集団意識消失事件とでも呼ぼうか」

厳密には意識を失ったのはマダムローリエと俺だけだが。

「なぜ起きたのか。―――原因は、これだよ」

土井が徐に拾い上げたのは一枚の葉だった。

「これが一体何のーーー?」

スパロー中佐が何気なくそれを手に取ろうとし

「―――触るな!」

土井の鋭い叱責が飛ぶ。スパロー中佐が慌てて手を引っ込める。見れば土井は分厚い手袋を履いていた。私の、とトゥイーニーが呟いたので、おそらくは動物の解体などで使っているものなのだろう。

「これが原因だ。これが何だかわかるか?―――Rose Laurel。庭に植わっているだろう」

「はい!そうです!一本だけ植わっています」

視線で促されてトゥイーニーが勢い込んで答える。

「一見何でもなく見えるがこいつは猛毒でね。外つ国では死亡事故もあるくらいだ。直接口にするのはおろか、この葉っぱが落ちた水を飲んで中毒症状を起こした事例もある。燃やした灰の処分にさえ困るような奴でね。当然燃やした時に出る瓦斯だって吸い込んだら危ない。主な中毒症状は、眩暈、吐き気、嘔吐」

 それは、昨夜ここで起きた不可思議な症状と、完全に一致していた。

「そして、厄介なことにこの葉っぱ、何かに似ていないか?」

「―――ベイリーフに、よく似ています」

そう答えたのはマダムローリエで。

「とても、よく似ている」

 ほら、とマダムローリエは胸元を飾る金の枝のブローチを外して隣に並べた。自分の名前と同じローリエ―――ベイリーフのブローチを。

「もしかしたらベイリーフを集める間に混ざってしまったのかしら。それで昨日、私がうっかり水盆を倒して、蝋燭も一緒に倒れて。その時に火がついて、燃えた―――発生した瓦斯で気分が悪くなる者が出てきた。そういう事なのかしら……?」

「端的に言えば、そういう事になるでしょう。なんにせよ、不幸な事故です。重篤な症状の出る者もいなくてよかった」

 俺はスパロー中佐と顔を合わせた。それなりに苦しい思いもしたし、怖い目にもあった気がしたが、別に命に障りがあるわけでもなさそうだし、それにこれ以上自分たちが騒ぎ立てると、この家の人達を謗る事になってしまう。

 「昨日のプディング、あれをもう一度ご馳走してくれるなら許します」

俺がそう言うとトゥイーニーがあからさまにほっとした表情をする。きっとこの部屋の装飾も彼女と庭師の二人で拵えたのだろう。

「腕によりをかけて作って貰えるよう、シェフにお願いしてきますね」

朝用の軽やかなプリントのお仕着せを翻し、トゥイーニーが駆けてゆく。

「あえて言うなら、今後は装飾を見直した方が良いかもしれませんね」

「ええ、そうするわ―――もう、交霊会自体考えものなのかもしれないわ」

「何をおっしゃいます」くわりと目を見開いて土井がマダムローリエに迫る。「せっかくの未知との遭遇の機会を台無しにして」

「でも、もう皆様を危険な目に合わせる訳には」

「何、装飾を変えればいいんです。装飾さえ変えれば―――!」



 これ以上マダムローリエと土井をくっつけておくとマダムローリエの体調が悪くなりそうだったので、引き剥がして庭を少し散策させてもらう事にした。

ベイリーフの並木を抜けて、一本だけあるというローズローレルを見せて貰う。

「これ、夾竹桃じゃないか」

本国でも植栽にされているのをたまに見かける。

「もともとは支那の原産だというからな」

はーッと息を吐いた。そんな恐ろしいものが町中に堂々と植えられているなんて知らなかった。

「妻にも娘にもよく気を付けるように言っておこう」

何でも終わり良ければ総てよしとしてしまうような細君である。

「何、君妻子があるのかね?」

「三十を幾つも過ぎた男にそれを聞くのか?」

そう答えると、土井は更に衝撃を受けたような顔をした。

「留学生だというから、その髭は格好つけの付け髭だと思っていた……」

がっくりと項垂れている土井にカイゼル髭をちょっと摘まんで、したり顔で笑ってやる。

「妻は易や何やらに傾倒していてね。幻覚で幽霊を見たなんて言ったらさぞ面白がると思うよ」

 はて、と土井は顔を上げた。幻覚?と問われたので頷き返す。

「ローズローレルの中毒症状に幻覚はないはずだ……君は、いったい何を見たんだ?」

え?と今度はこちらが聞き返す番だった。確かにこんな風な木の下でか細い声でこちらを呼ばわる女性が居て、線の細いその姿は

「え、え、ええ、えええ、えええええーーー」

土井がこちらの肩を掴む。

「ついに本物を捕まえた。君、もう一晩付き合い給え。朝までゆっくり話を聞こうじゃないか」



 其は誰もが寝静まった夜更けに、ひっそりと行動を介した。灯りをつけるような愚は犯さない。なぜならここは其の庭も同然だからだ。歩数を数えながら階段を下り、キッチンへ。

 胸元に忍ばせた物がカシャリと音を立てる。

 大丈夫だ、直接触らなければ何とも

 「―――行ったぞ!」

なんだ、と思う前に顔面に強い衝撃。

ついで後頭部に何かがぐりり、とのめり込む。

 「こんな暗闇の中で一晩中待っておけなんて、ひどいじゃないか」

「という割には、見事な投げ技だったな。さすがバーティッツの国だけある」

「……これだけは嘉納先生に仕込まれたんだ」

頭の上で暢気な会話が続く。

 何か、何か言い逃れる手段はないものか。そうだ、間違えて生けられているのを見つけて処分するとか、何とかーーー

「ローズローレルの葉をローリエの中に紛れ込ませようとでもしたかね?それとも水がめの中に落としておこうとも?ああ、楊枝として使わせるのもいいかもしれないな」

こちらの考えを見透かしたように、頭上から声がする。いっそ愉快とでもいうように歌うように男は早口に言い切り

「その前に、問おう―――お前はいったい誰なんだ?“スパロー中佐”」

スパロー中佐と呼ばれていた男は観念して全身を弛緩させた。



 いつの間にか知らぬ『縁戚』が家を出入りするようになった。


 すでに幾つかの冤罪事件を手掛けていた土井の元へそんな依頼が来たのはこの夏の事。


 自分達は外つ国から嫁いできた身故にそんな縁戚は存在しない。婚家に確かめるも、いるかもしれないし居ないかもしれないと曖昧な返事。

警察に相談しようにも警察では『孝行な甥御さんではありませんか』と話を聞いて貰えやしない。

そうこうしている内に古くから使える使用人は一人、二人と屋敷から姿を消していく。長年勤めてきたレディースメイドが全く身に覚えのない冤罪で屋敷から追放された段になり、いよいよ屋敷から人払いをする事にした。今後屋敷に残るのは通いの庭師とシェフ、それに新しく雇った下働きメイドのみ。これが自分で守れる精一杯の人数である。

何かわかる事はないかと交霊会で亡くなった娘を読んで尋ねてもみたが、何の答えも得られなかった。

何か起こる前にどうか、『縁戚』の正体を突き止めてくれないか。


「……そもそも、どうして交霊会で娘に聞いたらわかると思うんだ?」

事のあらましを聞いても、腑に落ちないのはそこだ。

「逆に聞こう。どうして君は何もわからないと思うのかね?」

「いや、だって」

「ありえない事を排除し切っていない以上、真実の可能性だってあるだろう」

 そうして土井は降霊会が開かれるベイリーフ屋敷に出入りするようになる。

 しかし、時を変え、登場人物を変え、慎重に取り計らうも『縁戚』は尻尾を出さなかった。


 ある日、こちらから誘い出すのはどうでしょうか?とマダムローリエが切り出す。策はこちらで用意してあります。先生に迷惑をかけるような事は一切起きませんから。ただ、先生は降霊会の参加者として来てくださればいい。


 「という訳でスパロー中佐と呼ばれていた男はスコットランドヤードに引き渡しました。遅かれ早かれその正体も、目的もされるでしょう」

 ベイリーフ屋敷逗留三日目の朝。

さすがに降霊会の余韻はなくなっている。ただ一つ、机に生けられたローズローレルの枝以外は。もうそれを隠し立てする必要はなくなったのだ。

 「私の治療はここでおしまいという事になりますな。マダムローリエ」

 朝日の差し込む応接室で、老婦人は静かに頷いた。

「ありがとうございました、先生。これで冤罪をかけられていた使用人達も戻せるでしょう」

それまでの何処か弱弱しい老婦人ではなく、確固たる屋敷の女主の表情をのぞかせるマダムローリエ。でもそんなことになったらあの甲斐甲斐しく働いていたトゥイーニーはどうなってしまうのだろう。

「心配しなくとも、今働いてくれている者たちは継続して雇いますよ。メイドも数が足りないし、シェフの作るプディングは絶品ですからね」

それを聞いて安堵する。

 「私からもう一つだけ。マダムローリエ―――何故娘さん―――ポーレット夫人はこの屋敷にローズローレルを植えたと思いますか?」

「もう娘は亡くなって何年にもなります。今更その真意を?」

「知りたくないのですか?」

「……それは、自ら命を絶つため、そうではないの?」

若くして病でなくなったというのなら、それはきっと苦しい思いをしたはずだ。

「だって、あんなに沢山血を吐いて。まるで喉の奥が破れてしまったように」

突然雷にでも打たれた様に老婦人が叫んだ。今も末期の娘の姿が見えているのだろう。朋友の最期の姿を、その想像を禁じえない自分と同じく。


「そんな事、ない―――!」


震える手を掴んで握りしめる。

「絶対、あなたの娘さんはそんな事を思ってなかった!」

もし朋友と同じ病気であったとしたら、

毎日毎夜毎分毎秒、襲い来る死の恐怖確かにあったはずだ。

それでも最後の刹那まで、彼はーーー

気の利いた事など何一つ続かず、ただ降霊会の夜のように、老婦人の手を握り続ける。強く握り込まれた手は酷く冷たく。あの夜確かに温かった温度を返すように。

 「何の科学的根拠もないのですが、彼の言う事は、私も正しいと思いますよ。あれは、貴女の為ですよ。マダムローリエ」

 この上なく、優しい顔と声で土井が続ける。

 「ああ、勿論貴女に命を絶って欲しいとか、後を追ってほしいとか、そういう事ではなくてですね。貴女は心の臓が悪くてらっしゃるでしょう」

 「ええ、でもその話をしたことがありましたかしら?」

「フラ・コン・デ・セルの小瓶―――そう、アイズが拾ったものだ。を持ってらっしゃいました。失礼ですがそんなにコルセットで締めている様子も見られませんので、妙だと」

年齢もあるのか、マダムローリエはゆったりとした衣服だ。

「部屋にはブランデーが置かれていました。気付け薬がこんなにもあるのなら何か事情があると考えた方が早い」

 そして、と土井はローズローレルの枝に手を伸ばす。分厚い手袋は昨日から拝借し続けているようだ。

ぽきり、と枝を折る。暫く待っていると白い樹液が滲み出てくる。

「ローズローレルと言うのは実に厄介な代物で。毒薬でもあるのですが、これは強心剤にもなるのですよ。何かあった時に、お母上の命を救う為に。自分亡き後も、お母上を護る為に」

 ただ一つだけ植えられた木。

 応接室からも、客室の窓からも、おそらくキッチンからも。屋敷中から見えるその木。

を老婦人は暫し黙ってその断面を、乳のように溢れる白い樹液を眺めていたが、やがて土井に向き直る。


「ありがとう、先生。そしてその助手の方も」


俺は土井の助手でもなんでもなかったが、そこは今回ばかり黙っておく事にした。婦女子に手を上げるなど、言語道断だが、婦女子を泣かすのもまた言語道断なのだ。


 また馬車に揺られて倫敦まで半日と少し。オックスフォード・ストリートまで辿り着いたところで解散である。折角なので、このままグレイグ教師の所に寄っていく事にする。

 土井、と。おそらくは二度と会う事のない謎多き男へ問いかける。

「一つ俺からも聞いていいか?」

「なんなりと」

「貴方はマダムローリエ―――彼女が発作を起こして倒れるふりをするってわかってたんだよな。夾竹桃を燃やすと有毒な瓦斯が出るってことも」

「さよう」

「あれを使ったら人を殺せると、スパロー中佐が知れば、すぐさま行動に出る事も」

「痺れを切らしているようだったからな」

それは一体どちらが、だ。

「水をかけてすぐに瓦斯が消えるように、水盆まで用意して」

天と地が引っ繰り返る様な凄まじい眩暈。思い出してえずきそうになるのを堪えた。

「ならば、俺やあのトゥイーニーは死んでも良いと思ったんだな」

言葉にすると感情が後から後から黒く溢れてくる。

「俺が、東洋人の、留学生だったからかーーー!」


「そんな事は、決して、ない」


それまでどこか飄々としていた土井が初めて強い口調で遮る。

「言っただろう。何かあっても朋友が必ず君を守るだろう、と」

「……ぁあ」

目を見開く。

彼が亡くなったのは九月の事。今は十一月の終わり。

そして土井は


『何回か交霊会自体は参加している』


マダムローリエもそれを理解している様子で。

『ようこそ、ベイリーフ屋敷へ。先生と、東洋からの留学生の方』

俺は留学生だとも、東洋人だとも一度も自己紹介していない。東洋の人間であることは流石に判るだろうが、母国語ではなくこちらの国の言葉でずっと話し続けていた。

「まさか、土井のところに」

 それには土井は答えず外套のポケットに手を突っ込んで

「君を朋友と思うのは君の国の人間だけじゃないと、そういう事さ」



 男は今は潰れた診療所の机で書き物をしていた。毎月の原稿の締め切りが、もう迫っているのだ。と言っても内容は既に書き終えていて、あとは推敲を残すのみである。幾つかの詳細をまだ整えていなかった。

あと少し、と言う所になってふと冒頭の台詞をまだ直していなかったことを思い出す。そこに彼自身の言葉を閉じ込めたままにしていたのだ。

 「さすがにそのまま名前を使うのはどうかな……(スパロー)。確か似た鳥がいたな……カラザーズと言ったか。それにしておこう。階級も一つ上げて中佐から大佐に……『カラザーズ大佐の逮捕から、彼はずいぶん退屈しているようだった』と」

そして最後に題名を書き記す。

彼の国には美しい山があると聞く。それと同じ名前の花もあると。

―――屋敷の名前は『ウィスタリア荘』で統一のこと

メモにそう書き添えると最後に

表紙に書き加える。

『ウィスタリア荘(The Adventure of Wisteria Lodg)』

そして表で待機する小間使いを呼び

「さあ、これをストランド・マガジン編集部へ」

はあい、と小間使いの少年は元気に駆けていき

「ああ、ちょっと待ってくれ。やっぱり題名を変えたい」

猫のように駆けていく少年を呼び止める。



 「―――先生」

帝国大学英文科教授室。

「先生、―――先生!」

賑やかな足音と共に同僚が駆けてくる。ぬくい微睡みの中で猫みたいにしていた男は音の鳴る方をゆっくりと振り返る。

「先生、英国からの船便が届きましたよ。ほら!」

じゃーん、と取り出されたのは『ストランド・マガジン』

はあ、と雑誌を表紙だけ眺めて、またうつらと夢の中に戻ろうとする。

「先生、起きてください!寝ないで!ホームズですよ、ホームズ!」

「知らん、読んだこともない」

日差しは温く、痛み続ける胃がそれだけで癒される。

「先生、倫敦に二年も留学されて、あんなに御本もお持ち帰りになられて、なのにホームズはお読みになったことがないんですか?」

食い下がる同僚に、ああ、と答えて目を閉じる。

「先生はお嫌いですか、ホームズ」

「いいや」一度目を開ける。大きく眼光鋭いと言われていた両の目も、年を経て少し丸く細くなってきた。

「いいや、嫌いではないよ。ホームズは。―――私は彼をよく知っている」

―――アイズ!

正岡とは違う響きで、呼ばれた名前。

「私は彼の、朋友だからな」

夏目先生?と不思議そうに問われたが、もうそれに応える義理はない。

猫のように両手を香箱に組んで、今度こそ目を閉じた。





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