身のなる果てぞ、かなしかりける
序壱「九尾の狐」
遠吠えが聞こえる。
板東武者の飼い犬たちが狐を追い立てる声だ。あの狐は確かにこの地にいる。この地に住まう民を喰らい、力を蓄え、三度京に来て帝や大臣といった有力者に取り入るつもりだろう。そうなれば、国は傾き天下は乱れる。
それを阻止するために、自分はここにいる。そうすれば我らが父祖、安倍晴明の如く……尊崇され、偉大な陰陽師と認められるかも知れない。
遠吠えが聞こえる。その残響と月の明かりだけを頼りに、芒の中を掻き分けて進む。
そうして訪れた終着点。
黄金色に輝く毛並み、銀と見まがうような白い相貌、背には幾条にも分かれた尾が豊かに揺れている。
狐は優美なる獣の姿でそこに鎮座していた。
もはや人の姿を留めてはいられないようだった。取り憑いていた人間から引き剥がされ、力を失いつつある。
霊威には凄まじいものがあるものの、正しい対処法さえ講じられれば決して調伏出来ない相手ではない。
既に細工はした。この高原に点在する巨岩に式を掛け、呪詛を集約する即席のみてぐらと為した。
後はただ一言、『急ぎ急ぎこの律令の如くおこなえ』と命ずるだけで良い。
「……私の勝ちだ、九尾の狐よ」
式が稼働する。
岩が寄り集まり、狐を封じ込めていく。もだえ苦しみ、甲高い残響が耳朶を揺らす。その最後の瞬間、狐の身体が燐光に包まれた。
……何か、おかしい。
京で見たときと、いまここで対面した姿とで違和感がある。
暗闇の中にいたため、さきほどまで狐の姿をしかと確かめることは出来なかった。だが、今見えたあの姿は……
その違和感を消化しきることを待たず、白面金毛九尾の狐は岩の中に封印された。もはや獣の気配も妖の残滓も無い。後に残っているのは芒の間を風が通りぬける音だけ。すべては先ほどの言葉通り。私の勝ちだ。
なのに……。
焦燥が過った。自分がしていることには、もしかして、大きなやり残しがあるのではないか?
序弐「貴狐天王」
自分の名前も思い出せないくらい昔のことである。
少年は一人の女性と出会った。
年の頃は、これまた正確には思い出せない。ただ、元服する前のことであったから恐らくは五十年は遡るのではないだろうか。
見目麗しい女性であった。
緑や赤と綺麗な染物で彩られたお召し物と、それを引き立てる白い肌、それに対照的な艶やかな黒髪。まるでこの世のものではないかのような、浮世離れした相貌の女性だった。
引き合わせたのは少年の叔母である。
少年には母親が物心付いた時からいない。父の継室、つまり少年の義母はいた。が、彼女からすれば少年は所詮は血の繋がらない他人である。彼女に子が生まれてからは接し方にどこか余所余所しいものが見えるようになっていた。
叔母は少年を融子として後見してくれていた。子のいない彼女にとって血の分けた妹の子は愛おしいものだったのだろう。少なくとも、継母より母親らしい、とその時の少年は思っていたようだ。折に触れては彼女の屋敷へと足を運んでいた。叔母もまた、そんな少年を邪険にせず、かわいがってくれていた。
そんなある日である。彼女は少年に紹介したい人間がいる、と言い出した。
「彼女も私の猶子のひとり。高貴な方に入内した方ではありますが、貴方にとって姉にも等しい方なのですよ」と叔母は語った。
姉、と言う言葉に少年は胸を高鳴らせた。
彼に弟はいたが姉はいない。家の長子として立派な振る舞いをひたすら求められる立場の存在である。必然、甘えられる存在は居なかった。だからそんな存在がいる、なんて言われると、どうにもどぎまぎしてしまう。
当時、たった一人だけいた友人にそのことを告げると、友人は可笑しそうに笑った。
”お姉さまが欲しいの?”と。
「別に欲しいわけではない。ただ、どういう物か分からぬのだ。女御さまのいうそのお方は姉に等しい、という。だが等しいも何も。僕にいるのは弟だけだ。それも、血が繋がっておらぬ」
”武家にとって血の繋がりなどそう大事なものでも無いでしょう?お父上のお子だと言うのなら、取りも直さず貴方が家督を継ぐ”
「だが継母どのはそう思っておらぬ。弟の方が大切なのだ」
その考えは至極当然だと思う。
幼いながら、妙に分別を持っていたように思うが、これは一種の諦めだった。継母に何を望んでも仕方がない。それに継母は少年に嫌がらせやいじわるをするわけでは無かった。ただただ、冷淡なだけである。そんな彼女に何を望めるだろう?
”へぇ。それじゃ楽しみですね”
「ああ。楽しみだとも」
友人の言葉に、少年は笑って相槌を打った。
少年がその『姉』と引き合わされたのはそれから時間も経たぬ時。
普段は宮中から出れるような身分ではないはずであり、元服もしていない武士の子供に引き合わせるためだけに出てきたということは恐らくない。だから、叔母に何か用があってのことだったのかもしれない。今となっては詳しい事情も分からぬ。
顔を引き合わせて、その美貌を見て。
凛とした声で少年の名前を呼んだ。
父のように厳しいものでは無い。継母のように冷淡でもない。
どこか、愛しむようなその声を聞いて、少年はほう、と溜息を付きそうになった。
『こんな人が、お母さまであれば良かったのに』
”へぇ”
ふと、脳裏に友人の声が鳴り響く。
”それじゃ貴方が欲しいのはお母さまなんですね”
ああ、そうだとも。そうであればどんなに良かったか。
そんな少年の思いにこたえるように、目の前の女性はどこか懐かしい、見慣れたような気すらする笑顔を咲かせた。
これは遠い昔。
彼女の声すら思い出せないくらいの、遠い過去のことである。
序参「鵺」
いまはまだ、時にあらじと月は言う。
カラ、となる音にぬえは飛び立つ
月影の照る中になくモノを見る。
一射目は囮、本命は次。
弓手はまだ時にあらじと引き絞る。
弓張月はただそこにいる。
――――らしくない、と思った。
言葉が無限にあふれ出てくる。この場は歌会ではなく、周りには歌人たちが揃っているわけでもない。聞かせる相手はおらず、そもそも句ともいえぬような句ばかり。
とても聞かせられるようなものではない。ひたすら言葉を重ねるだけでは今様にも劣る。
それでも、時折。自分でも「これは」というものが頭の中を駆け巡る。この句だけ、この部分だけ、この掛詞だけなら、あるいは歌会に出しても良いかも知れない……というものが。
ああ、やはりらしくない。
そもそも今の自分は歌人として立っているのではなく、帝をお守りする武者として立っている。
気乗りのする仕事ではなかった。こういう時に駆り出されるべきは自分のような武者ではなく、陰陽師や僧侶などであるべきだろう。
それでも、任じられてしまったからには全うしなくてはならない。その一念で、なんとかこの場に立っている。
だというのに……
いまはまだ、離すまじと指の先。飛び行く先の鳥辺野の先。
春風に雪は消えつつ吹く風の音のみそ吹く、鵺の羽ばたき。
みのなる果てぞ、かなしかりける。
ああ。また。あふれ出る。
可能ならどこかに書きつけたい。筆と短冊……いや、この際木簡でもいい。
なんとか、いまここに浮かんだ言葉だけでも―――
カラン、と。弓手から矢が離れた。
いまなら鵺を撃ち落とせるとか、いまなら外さないとか、あるいは外すかも知れないとか仕損じた時の周囲の失望とか。
鵺退治を任じられた際にわずかでも考えていたことは、今この瞬間には欠片もなかった。
考えていたことは和歌のことだけで、その片手間に自然に指を放していたのだ。
ただ、弓張月のいるに任せて。
ああ、いい。この句だけは、絶対に忘れないようにしよう――――
のぼるべき たよりなき身は木の下に 椎をひろひて 世をわたるかな
—―—木に登る方法を持たぬ自分は、木の下で椎の実を拾って生きるしかない。
—―—昇進の目途が無い私は、四位に甘んじて生きる他仕方がない。
平清盛が訊ねてきたのは、そんな和歌を詠んだ翌日のことだった。
平相国清盛入道は非常に丁寧に―――こちらが恐縮するほど腰を低くして―――私に謝罪の言葉を述べてきたのだった。
「本当に、本当に失礼をした!完全に失念しておりましたぞ。確かに頼政殿は未だ四位でございましたか。つい先ほど、卿を三位へ上げるよう推挙して参りました。卿は朝廷になくてはならぬお人だ。今後とも力を貸して頂きたい」
清盛は私の手を握り、半ば懇願するような調子ですらあった。
「そのような、過分なお言葉……もったいないことです」
「おお、では!」
「もちろん、この頼政、一族を挙げてこれからも朝廷のため微力を尽くしましょう」
そう応えると、清盛は満面の笑みを浮かべた。高齢となったもののその活力は衰えず、むしろ増しているようですらある。
武士の身で初めて太政大臣に登った人物。この世の栄華を極めた傑物。そんな相国入道の精力溢れる笑顔を眺めているうちに、ふと何かが視界の端を過った。
白く、小さな狐のような―――
「どうかされたか、頼政卿?」
「いえ……失礼いたした。何でもありませぬ」
ただの見間違いだ。自分を取り立ててくれているお方に告げるようなことではない。
……そう思うのだが。それでも狐の影が頭の中を離れることはなかった。かの御仁の背後に狐の姿が見えたのはこれが初めてでは無い。これまで清盛と顔を合わせる度に幾度となくそれを見ていた。
平清盛の背後に狐を視るようになったのはいつのことか、保元の乱の頃のことか、平治の乱の頃のことか、それよりももっと前、山法師のご神体に矢を射かけたという噂を聞いた頃だったか……あるいは、顔を合わせた一番最初の頃からだったろうか。
いつ頃かは定かでは無い。数少ない顔合わせの機会に一瞬だけ、何か狐のようなモノの姿を垣間見ることがしばしばあって……でも、それは見間違いだろうと意識から除外していた。よしんば見間違いではなかったとしても、それを指摘できるような立場にいなかった。
相手は権勢を欲しいままにする平家の棟梁。こちらはつい先日まで官位では大きく水を開けられていた大内守護に過ぎなかった。今現在でこそ従三位に上がり公卿に列せられたが、その公卿に取り立ててくれたのが清盛なのである。そんな大恩ある人物に対してそのような指摘をするのは讒言や誹謗中傷にも近いことだった。
「お久しぶりでございます、頼政殿。いや、源三位とお呼びした方がよろしいでしょうか」
「うむ……いや、いつも通りで良い。そのようにかしこまられるとむず痒い」
「では頼政殿と……いや、しかし公卿に列せられるとは。これからは私のような木っ端陰陽師ではまともに口を利くことも叶いませんなぁ……」
陰陽師は困ったような笑みを浮かべながら頭を下げた。
安倍泰成。彼は朝廷の陰陽寮に使える陰陽師であり、かの有名な安倍晴明の子孫でもある。
しかし、家柄に反して彼の自己評価は驚くほど低かった。彼の知識や実力は疑いようがない。もっと堂々としていればもう少し出世したのではないか……と常々思っていた。
「そう卑屈になるな。私が今、このような地位に就けたのはそなたがいたからでもあるのだ。鵺のことは覚えていよう?」
近衛天皇の御代の頃のこと。帝は夜毎、鵺という怪異に苦しめられていた。その退治を任じられたのが自分だった。
「ああ、もちろん覚えておりますよ。思い返せば随分と嫌がっておりましたなぁ」
確かに嫌だった。自分の仕事は帝に仇為す反逆者や盗賊のような相手……形のあるものを退治することであって、姿も形も見えない怪異を相手にするのは法師や陰陽師の仕事だろうと考えていた。
「私を推挙したのはそなただと聞いたぞ。……いや、今更怒っているわけではない。むしろ感謝しているということだ」
近衛帝を苦しめた鵺、そして二条帝を苦しめた鵼。そのいずれもを退治したことで美福門院からの信頼を厚く得ることができ、それ故に美福門院縁の帝たちからも信頼された。
「鵺の件に関しては前例がありましたからな……それに頼政殿はかの源頼光の子孫ともあれば、怪異を退治するのに適任と考えたまでのこと。私のしたことなど微々たるものです」
「……まぁ、よい。とにかく今、膳を持ってこさせる。まさか公卿の用意する酒を飲めぬとは言わぬだろう」
「もちろんでございます」
高盛りの米、山鳥や魚介、唐菓子と豪華な食事が並んでいく。これも公卿の地位に無ければ用意することも出来ない馳走と言えた。
ささやかな宴が進むと泰成の様子も幾分か打ち解けてきて、共通の昔話やら思い出話に耽った。
美福門院とそのゆかりの人々、京を揺るがした数々の政変、その影に現れた怪異……そしてその中でのし上がった平家の公達について。
歳を取った、と思った。
積み重なった過去ばかりが増えて、現在や未来の話は数少なくなった。自分は七十の後半を越し、泰成も五十の年齢に達している。自分もこの陰陽師も、今が打ち止めだと理解し始めている。これ以上は望むべくもない。今いる立ち位置が自分に出来た最善なのだ……と。そんな諦念が会話の節々に過っていた。
「……さて。頼政殿」
ひとしきり酒食が済んで思い出話も尽きようという頃。陰陽師が呼び掛けた。
「過分なもてなし、御礼の申し上げようもございませぬが……しかし、思い出話に花を咲かせるためだけにお呼び立てするなどということはありますまい。本題はなんでございましょうか」
「わかるか」
「ええ。陰陽師を呼ぶとなれば、何か気がかりなことがあってのことでしょう」
「うむ。いや何、気がかりというほどではないのだ。しかし……」
言葉が詰まる。ことは平家の棟梁、相国入道清盛に関することだった。おいそれと語るべきことではない。下手に語れば讒言にも取られかねないようなことである。
「何、心配することは御座いません。頼政殿の頼みとあらば安部泰成、京での最後の仕事として微力を尽くしましょう」
「……最後?」
「ああ、ええ……言っておりませなんだか。近々、京を出ようと思っておりましてな」
「それはまた何故?安倍家の嫡流とあらば、京におれば安泰だろうに」
当人は末席だの木っ端だのと卑下しているが、安倍の氏長者の実子ともなればその庇護も陰陽寮での仕事もあるはずだった。
「……そうですな。悪い卦が出た、と申しましょうか。このまま京にいては大きな禍がある、と」
「そなたの父や兄弟たちも京を出るのか」
「いえ……あくまで私が出した卦でございます。父も兄も政争にあけくれて、こうしたことには気を配っておりませんから。私の言うことを聞くなどと言うことは無いでしょうな」
「その、なんだ。陰陽師というのは星を詠み、未来を見るのだろう」
「微々たるものではございますが」
「知った上で、それを阻止することは出来ぬのか」
例えば貴族にほどこす泰山府君祭のように。あるいはもののけを退ける祭文のように。方違えの指南のように。災厄を回避するのが陰陽師たちには出来るのでは無いのか。
「我々に出来るのはあくまで星の運行の観測と天命の予測に過ぎません。式神の行使もあくまで理に沿ったもので御座います」
しかし陰陽師は蛙を指一本触れずに殺したり、呪詛によって他者を病に掛けるようなことも出来ると聞く。十分驚くべき、理から外れた力のように思えるのだが……目の前の陰陽師には自分が納得が行っていないことが分かったのだろう。困ったように言葉を続けた。
「そうですな……頼政殿は和歌をお詠みになられますでしょう。この世界の美しさや哀しさを歌い上げ、人々の心を動かすことが出来る。……では、なぜ語る言葉すべてを和歌にはしないのでしょうか」
「それは……それでは普通に話すこともままならぬだろう」
「五七五七七の音に合わせて区切ればよいではありませぬか。その音律に従って無限に言葉を重ねれば、それは和歌になるのでは?」
「しかるべき時、しかるべき格式に則って歌って初めて意味があるのだ。先の句に下の句をどのように返すか、あるいは過去の歌をどのように踏まえるか……敷島の道は、ただ音律に言葉を載せれば良いというものではない」
……そこまで言って、ああ、と合点が行った。歌は力を持っている。他者の心を動かす。時にはそれによって自分のように出世することもある。だが、万能では無いのだ。
「そのとおりです。格式や前提によって限定されているから和歌は力を持つ。同じように、我々の使う術も限定されているがゆえに力を持つのですよ。理を識らぬ方には万能に見えるだけです」
もっとも、と泰成は嗤った。
「あるいは我らが父祖、安倍晴明のような陰陽師であれば。天命を覆す芸当も出来たのかも知れませぬが……さて、すっかり横道にそれてしまいましたな」
どうぞ、お話をお聞かせ下さい……と促してくる。確かにすっかり話が逸れた。逸れることを望んでいた節すらある。ただ、いつまでもこうしているわけにも行かないだろう。意を決して、自分の抱く違和感を言葉にすることにした。
「……ある方とお会いする時のことなのだがな。狐が見えるのだ。ふとした瞬間、とても小さな狐が。だからといって何か害があるわけではない。ただ、なんとなく気にかかるのだよ。あれがなんであるのか、陰陽師であるそなたなら知っているのでは無いかと思ったのだが……」
陰陽師は始め、顎に手を添わせて思案している様子だった。しかしある瞬間、目を見開いてその身を戦慄かせ始めた。
「……頼政殿!まさかとは思いますが……その狐、金色であったりはしませなんだか!?」
「ああ。確かに。まるで黄金のように輝いていたが……」
「尾は!?尾に奇妙な点は見受けられましたか!?」
「う、うむ。三叉……いや、二叉かくらいに分かれていたように思う」
次の瞬間、肩に衝撃が来る。泰成がつかみかかってきた。衣服を隔てて、自分の老いた肩に枯れ枝のような指が食い込むのを他人事のように感じていた。
「その方は!その狐を見たというのはどの御方にです!」
鬼気迫る表情だった。誤魔化しは効かない。きっとこの男は、例えこの場で私を殺してでもその名前を知ろうとするだろうと思えた。
「……平清盛。先太政大臣、相国入道殿だ。いつのころからは覚えておらぬ。だが思えば、ずっと昔からあの御方の影に狐が見えていた気がする」
捕まれていた肩がふっと楽になる。その名を聞いて、泰成は虚脱してへたり込んだ。ただ、瞳はギラギラと見開かれている。
「清盛入道……となれば屋敷は六波羅。……隣には六条河原がある!屍体の入手は容易、あそこに憑いていたのであれば、力はいくらでも蓄えられる!」
ああ、なぜ気が付かなかった!なぜ、なぜなぜ……!泰成は問いを繰り返しながら、拳を自分の身体に叩きつけていく。悲鳴のような声にぞろぞろと家人たちが集まってくるのを「少しばかり酔っただけだ」と追い返さなくてはならなかった。
家人に水をもってこさせると、そのまま人払いをした。
この男はおそらく何かを知っていた。そしてそれはおいそれと余人に聞かせるべき話ではない。
「……陰陽師。そなたは何を知っている」
「頼政殿は、待賢門院であった璋子様という御方を覚えていらっしゃいますか」
「当たり前だ。忘れたくても忘れられるものか」
白河院の愛姫にして、鳥羽院の女御。非常なる美貌の持ち主だった。その一方で、嘘か真か鳥羽院との間に設けた皇子は皆、白河院との子だったなどという噂もある。
……だが何より印象深かったのは、彼女を基点とした呪詛騒動だった。
あれは近衛帝が即位したすぐ後のこと。待賢門院が美福門院を呪詛したという噂が洛中を駆け巡った。
日吉社と広田社で行われたという美福門院を標的とした呪詛の首謀者が待賢門院に仕える女官だったというのである。
「”ながからむ心も知らず黒髪のみだれてけさはものをこそ思え”……そういえば堀河殿もあの事件では呪詛に関与しているという汚名を被って出家されたのだったな。良い歌人であったからよく覚えている」
「その呪詛事件の調査を、美福門院より承ったのが私でした」
「……何?」
「当時、父は安部晴道一派との間で土御門邸を巡る訴訟に持ちきりでした。兄たちも他の安倍傍流や加茂家と陰陽博士や天文博士の座を巡って政争が絶えず……ゆえに、若輩の身だった私がその勤めを果たすことになったのです」
泰成の声の調子に苦み走ったような悔恨と、若き日々を懐かしみ華やぐような複雑な色が滲んでいく。
「陰陽師として初めての大きな仕事でした。私は持ちうる知識を尽くし、呪詛を掛けたものの正体を探ろうとしました」
「……探ろうとした?では、璋子様が呪詛を放ったのでは無かったのか」
「その段階ではどなたが、とも言い切れませなんだ。噂はある。美福門院と近衛の帝の御身体に病の相が出てもいる。ただ、誰がその犯人かを判別は出来ていなかったのです」
「では、誰が」
「結論を申しましょう。呪いの源は確かに璋子様でしたが、彼女は術者ではなかった。モノノケに憑かれていただけです」
泰成は待賢門院と面会し、その場において真言でもって待賢門院の内に巣喰うモノを追い払うことに成功したのだという。
「……それが、狐だと?」
「唐の文献に従うなら、かつて紂王を誑かした白面金毛九尾の狐、あるいは仏の許しを得て人の死後の魂を喰らう諸天が一柱、荼枳尼天。国と法を滅ぼすことに特化した呪いの権化。……御身はそれを既に目にしているはずです」
清盛の背後に垣間見えたものの姿が脳裏にひらめく。小さく、白く、金色に輝いた美しい狐の姿。その尾は……
「……いや。いや、違う。そなたは九尾と言ったな。私が視たのは二尾だった!であるならば、モノノケが憑いてるとして、そなたが言うのとは別のものなのではないのか!?」
自分でも吃驚するくらいに大声が出た。清盛に憑いたものが、それほどまでに悪しきものであって欲しくない……そんな思いが胸の底にあった。
「あの相国入道だぞ!誰にも隔てなく、朝廷の中立と安寧を護ってきた!そんな御方に、国を滅ぼすことに特化した呪いが取り憑いている?馬鹿なことがあるものか!そもそも、そなたはそれを祓ったのではないのか!?」
「……璋子様から九尾を追い出した後、私は何とか調伏しようと試みました。真言、祭文、式神……あの頃の私が持ちうるあらゆる手段を用いました。しかし、その霊威はあまりに強く仕留めきることが出来なかった」
下野国で多くの尾を持つ狐が領民を食い殺しているらしい……という噂を聞きつけたのはそれから一月ばかり経った頃のことだった。
「私は一も二も無く下野は那須ヶ原へと向かい、現地の武者の助けを借りてかの狐を石の中に閉じ込めることに成功しました。彼の狐のほとんどは今もそこで責め苦を味わっていることでしょう」
「……そうだろう。やはり、調伏したのだな?では」
やはり今、入道に憑いているモノは別のモノ……と言おうとしたところを陰陽師は遮った。
「七尾でした」
「……は?」
「七尾です。京で視た時は九つあった尾が、那須で視た時には七つしか無かった。おそらくかの獣は、尾を分けることで力のみならず存在をも分けることが出来る。数千年の時を生きる天魔ならば、それくらいのことも可能でしょう」
泰成は怪異を取り逃したのだ。その失態を深く悔悟し、なんとしても取り除かねばならぬと使命感に駆られた。
「それ以来、私はかのモノノケの残りを見つけ出し調伏することだけを考えて生きてきました。そのためだけに星見や式神の研鑽を重ね、様々な呪法を学んできた。父や兄たちからすれば邪道を歩んでいるように見えたことでしょう。しかし、そうしなければ国が滅ぶ。誰かがやらねばならぬならば、それは自分が行うことこそ天命であると……」
しかし、見つけることは出来なかった。出来ないまま、徒に時間だけが過ぎていった。
「……先ほど申し上げた悪い卦とは、まさにこのことです。もはや、あの怪異を止める術は無い……先日、そのような卦がでました」
泰成の言葉は淡々と室内に響いた。その口の端には血が滲んでいた。
「どこに残りの二尾が潜んでいたのか、あと少し早く分かっていれば、あるいはやりようがあったやも知れませぬ。しかし、もはや天命は定まりました。私に出来ることは何もありません」
風の声が聞こえた。ざわざわと、何かが蠢くような不吉な音と共に涼風が吹き込んでくる。普段であれば風雅に思えたそれも、泰成の話を聞いた後では嵐が訪れる前の湿った前兆のように思えてならない。
「……ずっと、考えてきました。呪いには術者が必要です。誰が呪いを行使していたのか……翻って、誰が呪いを行使する動機があるのか。無念の内に亡くなった悪左府や讃岐帝、立太子されなかった皇子たち、あるいはその周囲の人間……様々な可能性を考えてきましたが、どれもしっくり来ませなんだ。ただ、相国入道が術者であるとするならば、すべてに筋が通ります」
「……どのように」
「この数十年の政変や乱によって、もっとも得をしたのは誰か。それは平家でしょう。狐の目的は璋子様に取り憑いて院を誑かしたり美福門院や帝に呪詛を掛けることではなく……それによって朝廷に不和を為し、乱や戦を引き起こすことこそが目的だったのです。そうすることで、平家が名を挙げる機会を作り出してきた」
「結果論だ、それは!」
「……頼政殿。何故先ほどからそれほどまでに相国入道を庇いなさるのですか」
「それは……」
「狐が視える……と、相談したのは貴方です。その結果に危惧を抱いていたからこそ、私に相談したのではありませんか。結果論、と申しましたな。こちらの台詞です。頼政殿は望む結果が出るまで陰陽師や卜者に相談し続けるおつもりか」
返す言葉も無かった。
果たして、自分はこの陰陽師にどのような答えを求めていたのか……吉祥の証、瑞獣、あるいはただの気のせい……そう言って貰えることを、望んでいただけなのだろう。
「……長居を致しました。酔いに任せての暴言、お許し下され」
「いや……そなたの言うとおりだ」
「そろそろお暇いたします。……もう、会うことはないでしょう」
「京を出ると言ったな。どこまで行く」
「東国まで下ろうと思っております。九尾討伐の折に世話になりました上総介殿の伝手がありましてな。腐っても安倍の嫡流です。こちらにいるより引く手数多となりましょう。なにより、あちらなら殺生石の監視もこちらより容易になります」
「……そうか」
「では、これにて」
泰成は深く頭を下げると、背を向けて去って行った。この日が、安部泰成と会った最後の日となった。
治承三年の11月。
その後清盛と再び顔を合わせたのは従三位となって、一年が経とうとしていたころだった。
福原から数千の騎兵を率いての上洛……八条殿に詰めているという話を聞いて直接話をするべく訪れたのだった。
物々しい雰囲気を醸し出す陣中にあって、清盛は表面上、柔和な笑顔で出迎えた。
「おお、よく来てくれた頼政卿。あれからお変わりありませんか」
「ええ。もっとも、最近は身体の衰えを感じることも多くなっております」
「いや、なに。こうして直接来て顔を合わせられるのですから、まだ元気なものでしょう」
「……入道、此度の上洛は」
「ええ。重盛と盛子の遺領についてです。院があのような横暴をされるとは思いませなんだ。きっと反平氏の近臣の入れ知恵でしょう。私としては穏便にことを済ませたいと思っていますが……」
この年、後白河院に寵愛されていた白河殿盛子、そして清盛の長子である重盛が相次いで亡くなっていた。どちらの遺領も実質的に没収され、通例ではあり得ない人物に相続されている。清盛の兵を率いての上洛は、そのれへの抗議の意味も含まれている。……いや、もしかすると、こうして行動することで子供たちを失った悲しみを紛らわそうとしているのかも知れない。
「清盛入道」
「うん?」
「ひとつ、お聞きしたいことがあるのです。よろしいか」
「なんですかな」
「入道は……璋子様という方を覚えていらっしゃるか」
その名前を出すと、清盛は虚を突かれたような顔をした。やがて、相好を崩して笑う。
「もちろん。懐かしい名です。美しく、才気に溢れ、なにより優しい方だった」
「親しくされていたのですか」
「……と言っても幼い頃の話です。私も璋子様も祇園女御の猶子でありましたからな」
白河院の晩年、その寵を受けていた女性である。宣旨は受けていなかったため、正式には女御では無いのだが、もっぱら祇園女御として名が通っていた。
……都に流れる噂には、清盛という人物は白河院と祇園女御との間の御落胤というものがある。さすがに、ただの噂に過ぎないとは思うものの、多くの人がそう信じるだけの状況があったのだ。
「私にとっては姉のようなもの、と。女御に言われて随分と嬉しかった記憶があります。私には実母がおらなんだ。弟や妹はいましたが、それも腹違いばかり。信頼できる兄姉という意味では、あるいは弟の頼盛などよりも好ましく思っていた気がします」
「入道。もしや貴方は、本当は母が欲しかったのではありませんか」
「……驚きました。前にも似たようなことを言われた記憶がありますぞ。……ええ。そうだったような気もします。私にとって彼女は、こういう人が母だったら良かったのに……と、そういう想像をさせる美しい方だったのです」
沈黙が染み入る。
自分でも唐突で場違いに思える問いを発したことに後悔は無かった。
本来であれば、上洛の是非や後白河院との今後の関係などについてもっと語るべき場面だ。しかし、自分はまったく別の問いを発したし、清盛もそれに生真面目に応えている。少し前であれば、もっと遠慮や恐れを持っていたかも知れない。この人物の気分を害さないよう、踏み込まないように……と。しかし、今の自分にとって問うべきことを問わねばならないという使命感のようなものが過っていた。
「もうひとつ、お聞かせ願えるか」
「今日の源三位は随分とお喋りでいらっしゃるなぁ……いや、もちろん。なんなりとお話しましょうぞ」
「入道は、狐を見たことはおありか」
「動物の狐、という訳ではないでしょうな。祟ったりする方の狐でしょうか。うーむ。そういう話なら三位殿の方がありそうだが」
清盛は唸りながら、扇で頭をぐりぐりとほぐして思案する。無いのならそれで良かった。むしろあって欲しくない気持ちがあった。”私には思いつかない。むしろ鵺を退治した頼政卿には狐退治の話もあるのではないですか?”と。そう言って貰えれば……
「ああ、でも、ひとつだけ。幼い頃に奇妙な体験をした記憶があります」
しかし、そんな願いは打ち砕かれてしまった。
「まだ年若い頃、山で狐を見かけて、それを弓で追ったことがありました。中々すばしっこいヤツでしてな。頼政卿ほどでは無いにしろ、私もそこそこ弓矢の訓練はしていたつもりだったのだが……片足にかすらせるのがやっとで。それでも、ようやく茂みに追い込んで、さぁ捕まえてやろうと踏み込むと……そこには、高貴な出で立ちをした女人が座り込んでおられた」
清盛はその姿を見て、追い掛けていた狐だ、と直感した。女人も清盛の姿を見て、命乞いを始めたのだという。
「高貴そうな出で立ちでいながら、またその命乞いが必死な様相で……”殺さないでくれ””自分は何でも貴方の願いを叶えてあげられるから、どうか見逃して欲しい”と。その姿を見て、つい笑ってしまいました。いえ、相手にとっては笑い事では無いのでしょうが、仏心を解さぬ幼い頃の話ですゆえ」
「……それで、見逃されたのですか」
「ええ。子供心に可哀想に思ったのでしょう。殺しませんでしたよ」
「なんと願われた」
「うん?」
「狐は願いを叶えてあげられる、と言われたのでしょう。その代わりに入道は狐を殺さなかった。ならば、願った何かがあったはず」
「忘れました」
清盛は問いを遮るように答えた。
「もう、遠い昔の話ですからな」
……目眩がする。
清盛の姿がぼやけて、二重に映し出される。その肩には、やはり尾が二つに分かれた金色に輝く小さな狐がニヤニヤと嗤って立っている。
もはやするべきことは決まった。あの陰陽師風に言えば自分の天命は定まっている。
清盛の元を辞し、近衛河原沿いの屋敷に帰ると、すぐに側近の渡辺唱を呼びつけた。
「渡辺唱、参りました」
「唱、俺は出家する」
「……は?殿、いま何と」
「出家だ。入道する。あとは仲綱に任せる」
「なんと、急な……」
「急なものか。俺はもう七十五だぞ。それとだ。以前から高倉宮より遊びに来るようにとの誘いがあったろう」
「はぁ。無視しろと仰せになられておりましたが……」
「行くぞ。今宵赴くのに支障は無いかと宮にお伺いの使いを立てろ」
「……殿、それは」
唱にもようやく指示の意味が分かり始めてきたようだった。出家、不遇を託つ高倉宮との接触……慌ただしく、唐突に思えるこれらの指示。それらの意味するところが。
「するべきことを為す。そのための準備だ」
源三位頼政が出家したのは治承三年(1179)の11月28日のことである。状況から見て、同月の清盛によって後白河院が鳥羽殿に幽閉されたことがきっかけになっていると考えられる。
吾妻鏡によれば頼政は翌四年4月9日の高倉宮以仁王との会見で「入道源三位頼政卿、平相国禅門を討ち滅ぼすべき由、日者用意の事あり」と平家討伐と即位を促す進言をしたとされる。
同4月から5月にかけて、以仁王による挙兵を促す令旨が各国に触れ回った。
これが治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦とも呼ばれる内乱の端緒となる出来事であった。
当初、平家一門は頼政が以仁王に呼応しているということに気づいていなかったという。
以仁王の陰謀が発覚したのが5月15日。
同21日に出された園城寺攻略の大将の一人として頼政が指名されていたという記録が残っている。
22日に郎党を率いて園城寺に入るまで、彼の謀反は気づかれていなかった。
それほどまでに頼政は深く信頼されていたのである。
頼政の挙兵の動機については諸説あり、近衛天皇と二条天皇の大内守護を務めていたため、平家一門が擁立した高倉天皇や安徳天皇といった系統の違う天皇に仕えることを良しとしなかったというものや、そもそも挙兵の準備などしておらず、ただ仏教に篤く帰依していたために以仁王が匿われている園城寺への攻撃命令に反してなし崩し的に乱に加わったとする説もある。
いずれにしろ、平家政権において従三位という高位にあった頼政が挙兵に応じた理由に関しては、よく分かっていないというべきかも知れない。
「泰成」
あの夜。背を向ける陰陽師に、最後に一言だけ、問いを投げかけた。
「本当に、やりようはないのか」
「と申しますと」
「例えば……例えばの話だ。俺が清盛を殺したらどうなる。九尾の狐も祓われるのか」
聞く人が聞けばただでは済まない発言が、驚くほどすんなりと口を吐く。先ほどまでの躊躇はどこにも無い。
「……難しいでしょうな。入道の肉を切ったところで、狐はまた別の者や場所に憑くことができます。あの獣を祓うには霊的な手段が必要となる」
「そなたは……協力してはくれぬのだろうな。良い。分かっておる。俺が聞きたいのは、俺自身にどのような手段が残されているかだ」
「ひとつだけ。かつて鵺を退治された際の弓は残っておりますか」
残っていた。あれは我が源氏に伝わる宝弓。鵺退治という大勝負のために持ち出したものなのだから。
「銘がついておりましたな」
「雷上動……大仰な銘とは思うが」
あの弓の来歴は源頼光にまで遡るらしい。頼光は夢で楚の荘王に使えた養由基の娘に出会い、そこであの弓を手に入れたのだという。
「その弓であれば、あるいはやりようがあるやも知れませぬ」
「……なんだと」
「因果は盥のふちを回るもの……仏道を歩むものが嘯く言葉ですが、上手くものを例えております。そして、これは陰陽の道にも言えること。この世に起こるあまねく出来事は円を描く。十干と十二支、二十四節気の巡り。あらゆるものごとはこのように、盥の縁を回るが如きものです。星が一周すれば、かつて起こったことが再び起こる」
「つまり、かつて怪異を殺した弓であれば、九尾の狐とやらも退治できると?」
「ええ。それに……時に、頼政殿の名を唐風に読むとどうなります」
「源頼政だが……」
そういった瞬間、あっと声が出た。
「頼政と雷上。この音の一致こそ天命の現れに思えます。私はその霊威を鵺退治に利用できると考え、御身を推挙しましたし、現在にいたるまでずっとそのように思っておりましたが……あるいは、狐を殺すことこそ真の天命なのかも知れません。かの弓はあなたのために名付けられた。あるいは、あなたはかの弓を用いるために産まれたのやも」
真の天命。
これなのか。七〇を越して、不遇を託ってきたこれまで。最後の最後にお情けのように公卿となり、これ以上どうしようもないと諦念していた自分に……真の天命なるものがあったというのか。
息が荒い。血が滾り出している。自分がするべきことがあるなどと告げられて、年甲斐も無く興奮している。
「……今度こそ、お暇させて頂きます。板東の果てで、せめて武運と長久を祈っておりますよ」
そういってかき消えた陰陽師の声は自分の内心とは対照的に冷めきっているように聞こえた。
治承四年5月26日。
以仁王と共に園城寺を脱出し南都へ向かう道中、以仁王は弓矢が直撃し落馬したところを捕まり、その場で首を撥ねられた。
頼政は平等院まで追い詰められ、堂内で自害。郎党の渡辺唱によって介錯されたという。
辞世の句は
埋もれ木の 花さく事もなかりしに 身のなるはてぞ かなしかりける
雷上動が使われたかどうか、そしてその行く末について貴族の日記はもとより、平家物語や各種の説話文学においても語られていない。
平清盛は養和元年(1181)に高熱を出して病没。
栄華を誇った平家一門は寿永二年(1185)の壇ノ浦合戦で決定的な敗北を迎え滅亡している。
そこに狐が絡んでいたかは定かはでは無い。
しかし『源平盛衰記』など文芸の世界では清盛は貴狐天王や荼枳尼天といった狐に縁のある神を信仰しており、その外法を行ったがゆえに栄華を誇りつつも一門は一代で滅びたのだ……と語られている。
陰陽師・安倍泰成は名前以外の史的な記録は現代に伝わっていない。
しかしながら鎌倉幕府の発足に伴い、東国の武者に不足していた格式高い儀礼や国家の卜占の役割を京から下った陰陽師が担ったという証拠は史料に散見される。
あるいは東国に赴き、那須において殺生石の監視に一生を費やしたとしても、不思議は無いと思われる。