奇し(くすし)
「陰を転じて陽となる」「陰極まれば陽となる」
幼い時分の記憶を遡り、最も鮮烈にあるのは血だまりの中に倒れる父と母の姿だ。薬問屋を営んでいた我が家は丁稚を抱えるほど裕福であり、商いも順調だった。特にどこかから恨みを買っていた、という話を聞いたこともない。捕まった下手人も金銭目的の輩であると聞いた。
「そのような顔をするな、玄朔」
下手人が捕縛されたと聞いたのは、伯父からだった。両親が死に薬屋稼業が立ち行かなくなった後、自分を引き取ってくれた恩人でもある。医師でもある伯父の道三は名医と名高く、皇室をはじめ足利尊氏や毛利元就、織田信長の侍医でもあった人物だ。ただ、彼は耶蘇教を信仰しており、折に触れては『隣人を愛しなさい』と説いてくる。それが、両親を失った玄朔には心苦しいものだった。どのような薬を飲んでも、心の靄は晴れはしない。
神というものがいるのなら、何故父様と母様はあのようなむごい死に様だったのですか。二人とも、皆に慕われていたはずだ。少なくとも、見ず知らずの野党などに襲われていいわけがない。
喉元まで出かかったその言葉を押し殺す玄朔の心の内など察したかのように、伯父は微笑みを浮かべていた。
『医は仁術』その言葉を体現したように、伯父は実直な人物であり門下生皆に慕われていた。幼き頃は自分も伯父の後を追い、見よう見まねで問診の真似事のようなものをしていたことを記憶している。孫に男児の居ない伯父がそれを見て自分の後を継がせようかと冗談めいて言うのに対し、父は「やめてくれ」と苦笑いを浮かべていた。ただの戯れのような会話だ。だのに、その記憶を辿るのが身を切るかのように辛い。父に咎められているような、そんな夢を繰り返し見るようになったのは曲直瀬家に身を寄せるようになってしばらくしてからだ。そんな状況で曲直瀬家の家業を手伝うことなどできるはずもなく、十四の時分には玄朔は立派な極つぶしとなっていた。
「結局、玄朔様は坊ちゃまでございますからね」
逃げるように曲直瀬家が所有する薬草畑に入り浸っていた玄朔に、管理を一任されている少女 音羽は呆れたように言った。音羽はここに来る前、女衒に売られそうになっているところを道三に助けられたという。貧しい漁村で育ったという音羽は、薬草畑を逃げ場にする玄朔をいつも辛辣な揶揄を含んだ言葉で迎える。いささか無礼な態度ではあるが、飾り気のないその言動は玄朔にとって丁度良かった。
「薬問屋で何不自由なく優しい父様と母様に育てられた坊ちゃまには分からぬ世界かもしれませんが、あっしが育ったのは貧しい漁村でしたからね。三軒隣の家では飲んだくれの父親に殴られて育った姉弟がいる。隣の家の兄様の実の父親は海で漁に出たきり、今の父親は二番目で妹とは血がつながっていない。そういう場所でした。耶蘇教の『隣人を愛せ』という教訓は、他人から良くしてもらうための最低条件だと思ってますよ。あっしはね」
「そんなものか」
「その方が、受け入れられるってもんでしょう」
呆れた声を返しながらも、薬草に水をまく手は止めない。尤も、両親に売られここよりほかに行くところのない音羽には受け入れるという選択肢しかないのかもしれないが。
「さてと」
反応のない玄朔を横目で見ながら音羽は溜息を吐く。
「あっしは旦那様に呼ばれているので、そろそろ行きます。ここにいるつもりなら、ついでに水撒きの続きをお願いしますね」
断れるはずのない玄朔の手に、音羽は水桶と柄杓を握らせてそう言った。
「あ。それから、畑の奥には胡菜様がおります。くれぐれも喧嘩ふっかけんといてくださいよ」
後が面倒なのでこういうことはせんといてください、と以前たしなめられたことを思い出し苦笑する。それを同意の証と受け取ったのか、音羽はそのまま踵を返し行ってしまった。
胡菜は今年十三になる女子で道三の孫娘だ。道三の影響もあり耶蘇教を信仰している彼女は、薬草にも興味があるのかよくこの畑にやってくる。彼女の何が悪いというわけではないが、玄朔は胡菜が笑うのを見るたびにどことなく据わりの悪い気分になっていた。それ故か、ついひねくれた口をきいてしまう。これは、自分が失ったものを全て持っている胡菜へのやっかみかもしれなかった。
「玄朔さま?このようなところでどうしたのです」
しばらくぼうっと佇んでいると、突如声をかけられる。次の瞬間、胡菜は何かを思い出したように表情を硬くした。以前、耶蘇教の教えを説く彼女に苛立ち、桶に残った水をわざと胡菜の居る方に撒いたことを思い出したらしい。
「このようなところ、か。それに関しては、お前も人のことは言えまい」
「わ、私は良いのです。おじいさまからも許可はいただいております」
「許可を得ているとは言えども、叔父上も茶や花の稽古を袖にして薬草畑に通い詰めているとは思わんだろうよ」
ある程度の年になったら、女子は教養として茶や花、三味線や筝、料理を教養として身に着ける。なのにこの胡菜と言ったら、そういった芸事の稽古を避けては幼い頃からこの薬草畑に入り浸っていた。その件に関し、伝え聞いているはずの伯父は鷹揚に笑っているらしいが胡菜の母は渋い顔をしていると聞いた。年頃の娘がこれでは、さぞかし嫁の貰い手に苦慮することだろう。肩を竦め、わざとらしく鼻で笑えば分かりやすく胡菜は口を尖らせる。
「いざとなれば、音羽さまと共に薬草園の主としておじいさまの家の後を継ぎまする。ですので、私に花嫁修業のようなものは不要です」
捨て台詞のようにそう告げると、胡菜はふいと踵を返して畑の奥の方へ行ってしまう。ひとまずは揉め事にならなかったことに安堵し、玄朔も水撒きを始めた。
「玄朔様。あっちは嫁に行くことになりました」
次の日、薬草畑に行くと音羽からそう告げられた。
「そうか。相手は」
玄朔から言えるのはそれだけだ。縁談を決めたのは道三なのだろう。だとしたら、玄朔ができることは何もない。音羽の幸せを祈るのみだ。一方音羽は昨日相手と会うて来たのを思い出したのか、頬を赤く染めている。
「ノ貫様と言いまして、千利休様の門下生をしております」
「それは善きことだ」
幸せそうに笑う音羽は、今まで見たことがないほど穏やかな顔をしていた。今まで苦労した分、幸せになるといい。そんな願いにも似た感情と共に音羽を見る。
「して、式はいつになる」
「式は半年ほど先になります。それまでは準備でこの薬草畑への足は遠のきますが、なぁに心配されますな。わっちの代わりは胡菜様がしっかり努めてくださるそうです」
「それはめでたいが」
確かに自然な流れではあるが、玄朔には手放しで喜べる事態でないのは確かだ。音羽の代わりに胡菜がこの畑を管理する、ということは自分にとって息をつく場所がなくなるという事態を意味する。この先の行く末を思い溜息を吐くと、音羽はそんな原作の心の内など見透かしたように笑った。
「いい加減、逃げるのは止めて自分の心に素直になりませ」
「心?」
音羽の言の葉の意図が分からず思わず問い返すと、彼女は意味深に笑う。
「玄朔様は結局、嫌うことで向き合うことから逃げているだけですからね。選ぶことができるのは、幸せなことですよ」
「そうか」
何のことを言われているのかいまいちわからず曖昧にそう返すと、なぜか音羽は頬を染める。
「ノ貫様に言われたのですよ。この縁談を飲むも退けるもわっちの意思に任せる、とね。もちろん退けたとて、わっちに損のないよう取り計らうから案ずるな、とまで言ってくださって。そこまで笑って言われたら、もう惚れるしかないでしょう」
「そ、そうか」
このご時世、縁談を女性の方から断るのは難しい。その事実を踏まえると、ノ貫の発言は確かに男前そのものだ。目の前で鼻歌を歌いながら薬草に水を撒く音羽を見ながら、玄朔は秘かに溜息を吐いた。
音羽の婚儀が取り行われたのは、最後に言葉を交わしてから六月後。ある晴れた大安の日のことだった。茶の湯を嗜むノ貫に合わせ、茶室で行う茶婚式なるものになるという。茶婚式は①濃茶手前②夫婦固めの儀③誓詞奏上④親族固めの儀 からなる。音羽の親族として出席するのは 道三、道三の妻・絲、玄朔、胡菜の四人である。
あれ以来、薬草畑には足が向かず胡菜とも会うていない。だからというわけではないが、儀礼用の着物を身に纏い頬に紅を乗せた胡菜の姿を見た時は 美しさに息を呑んだ。
「玄朔さま。お久しゅうございます」
声を聞き、それが胡菜だと分かった時 漸く我に返ることが許される。
「あ、ああ。久しゅうな」
動揺を悟らせぬようそれだけ言うと、可笑しそうに胡菜は微笑った。
「何が可笑しい」
「いえ。今日はいつものように憎まれ口は利かないのだな と思うたら、何やら拍子抜けしてしまっただけでございます」
「私とて、場は弁える」
「まぁ」
口元を袖で隠し、年相応の少女のように笑う胡菜を直視するのがどうにもできず、玄朔は誤魔化すようにそっぽを向く。突如高鳴り始めた心の臓の音が、心なしか煩かった。
茶婚式は、和やかな雰囲気で始まった。濃茶手前では通常茶人なる人物が茶を立てるのだが、今度は新郎のノ貫がその役を譲らず、彼の人が茶を立てる役目を担った。
「さぁさぁ奥方殿、そなたを思うて点てた茶だ。新たな船出に言祝ごうぞ」
そう言って、茶を飲み交わす。互いを見て微笑みあう二人は、どこから見ても仲睦まじい夫婦であった。
異変が生じたのは、誓子奏上の際であった。室内にもかかわらず、どこかで乾いた音が聞こえた。
「音羽殿!」
次いで、ノ貫が崩れ落ちた音羽を支える。その光景を見て、ようやく先程の乾いた音は音羽の手から紙が零れ落ちた音だと気づいた。
「退け!」
呆然としている玄朔を押しのけ、道三がノ貫の腕の中にいる音羽を診る。
「案ずるな。胡菜、炊事場に行き、黄粉を分けでもらえ」
「承知しました」
うろたえている自分をよそに、胡菜は茶室を出ていく。
「玄朔、呆けている場合ではないぞ。新しい茶碗を用意せい」
道三の言葉を気付けとして、玄朔も未だ使われていない茶碗に手を伸ばす。
「絲、胡菜が胡菜が戻ってきたら茶碗に黄粉と湯を入れ、茶筅で攪拌せよ」
「分かりました」
胡菜が戻ってきてからの動きは速かった。絲が攪拌した黄な粉を湯で溶かしたものを、道三はノ貫に器ごと渡す。
「音羽に呑ませられるか?」
「無論」
言うなり、ノ貫は器の中身を煽って音羽の唇に自らのそれを重ねる。喉元が動いたのを確認して、道三はようやく胸をなでおろした。
「それでは皆様方、これより私と音羽は別室で休んでくる。皆はどうぞこのまま親族固めの儀を続けてくだされ」
音羽の呼吸がもとに戻ったのを確認すると、ノ貫は音羽を横抱きにして茶室の皆にそう告げる。
「承知した。だが、小康状態とはいえ未だ油断はできぬ。親族固めの儀を終えたら私もそちらへ向かわせてもらう」
固い意志を持った声で道三が告げる言葉に、負けず意思のこもった表情でノ貫は頷く。残された者は皆、粛々と親族固めの儀は行われた。
「ノ貫さまは、あのような事態があっても悠然とされていましたね。流石です」
「いえいえ、無骨者で困っております。音羽様がしっかり手綱を握ってくれているようで、助かっておりますよ」
帰り際、両家はそんなことを言って笑う。それを見ながら玄朔は、どこか居たたまれぬ思いを抱いていた。
「本日は大変でしたね」
玄朔の袖を引き、胡菜が耳打ちしてくる。どうにも、彼女の気遣いが今の玄朔には心苦しかった。
「お前は大活躍だったな」
「すべては、おじいさまがいたからこそでございます」
「そうか」
それは慰めには程遠い、どこか焦燥感を覚える感情だった。音羽が倒れた時、胡菜も絲も道三に支持されたように機敏に動いた。気が動転して思考が一時停止していた未熟な自分とは違う。
『玄朔様は結局、嫌うことで向き合うことから逃げているだけですからね』
こんな時なのに、音羽の言葉が脳裏に蘇る。
「逃げた結果がこの様か」
なんて無様だ
自分で自分を嘲ると、眦に涙が浮かぶ。
「玄朔さま、大丈夫でございますか」
驚いて手拭いを差し出す胡菜の優しさを受け取るのは何か違うような気がして、玄朔は自分の袖口で涙を拭った。
「それで、これは何の企みだ?」
後日、音羽の容態を診にやってきた道三は呆れ顔で二人を見る。
「おやおや。結局、あれから玄朔さまは人が変わったように医術の勉強に勤しんでいるのでしょう。だったらいいではありませぬか」
「まさに、雨降って地固まるとはこのことですな。良かった良かった」
暖簾に腕押し、糠に釘というように音羽とノ貫は鷹揚に笑っていた。あの時、別室に休まされた音羽の懐から出てきたのは甘草だった。この甘草という薬草は咳や喉の痛み、胃の不調や皮膚の炎症を抑える優れものであるが、副作用として高血圧やむくみ、手足のしびれや頭痛、手足に力が入らなくなるなどの症状が出ることがある。おそらく、この娘は夫婦固めの儀の際、自らの飲む茶に甘草の粉薬を混ぜたのだろう。薬草畑を管理していた音羽なら、甘草を手に入れることも容易い。
「せっかく良い縁に恵まれたんだ。むざむざその手を放すようなことをするでないぞ」
どんな薬でも用法により毒にも薬にもなりえる。一歩間違えれば死ぬことだってあるのだ。それほどまでに人の命は脆く儚い。ノ貫はともかく、それが分からぬ音羽ではないはずだ。しかし、音羽は道三の言外の意を受け取ったのか否か、どうにも分からぬ表情をしていた。
「ありがとうございます、道三様。ですが私はもう十分なのです。親に売られ、地べたを這い蹲って生きるほかなかったわっちを道三様は救い、生きる術を与えてくださった。衣食住や慈悲を恵んでくれただけでなく、こうしてわっちにはもったいないほどの伴侶に引き合わせてくださった。そんな道三様や曲直瀬家のためにわっちは恩返しがしたかっただけでございます」
そう言うと、音羽は首を垂れる。そんな音羽の肩を叩き、ノ貫は頭をかいた。
「音羽もこう言ってることだし、許しちゃくれませんかね。軽率だったことは認めます。やり方は間違ってたかもしれませんが、音羽なりに考えあってのことだと思うんで」
「ノ貫殿。此度の事態で音羽は死ぬやもしれんかったし、この先後遺症が残るやもしれん。それでも良かったと申すのか」
責めるような口調で問うが、ノ貫は観念したように笑う。
「そん時はそん時です。死ぬまで一緒にいますよ。俺ァ、こいつと夫婦になると決めたんですから」
「そうか。そなたらは既に良い夫婦であろうよ」
音羽は良い男に嫁いだ、とすっかり毒気を抜かれた道三は呟いた。
―医は仁術。医の処方に偽りがあってはならぬ。この世に生まれ出た生命をおろそかにするな。生命の根っこに手を加え蘇生させ得るのは、医師の腕と技、それに己の意志しかないのだ。
完
参考文献:『医の旅路るてんー曲直瀬玄朔と聖医父曲直瀬道三篇ー』
服部忠弘著
星雲社
2015.11.28