0章8節 正しい順序
各務優理という人間についてここ数日でわかったことがある。彼女はとてもわかりやすい。それこそ数日程度の観察で簡単に露呈してしまうほどに、非常にわかりやすい。彼女の感情はその表情に、その仕草に、その言葉に、彼女を司る一つ一つの要素に余すところなく表出する。それはもう明け透けに露出する。布一つ身にまとっていない剥き出しの心は、まばゆいばかりに光を放ちながら、たとえ目を閉じていたとしても意識せざるを得ない存在感をふりまいている。
各務優理は客観性の象徴とも言えた。彼女と対峙するとき、彼女の態度から人々は自身の言動を省みることになる。ただそれが正しく理解されるとは限らないし、必ずしも正しい理解こそが健全な人間関係とも限らない。彼女のそういったある種の特異性も、あるいは普遍的な自己表現の一部に過ぎないように思える。結局のところ各務優理は、ただわかりやすいだけの普通の女の子なのだ。
その日、僕は各務優理と遭遇した。それは遭遇と言って間違いない。僕らの通う応秀院高等学校の二つの最寄り駅とは全く違う方向に歩いた先、商店街通り沿いのこじんまりとした、公園とも言い表しがたい広場のベンチに座っていた彼女と目が合った。僕に限らず、そんなところにいる人間にわざわざ意識を向けることなどないだろうし、彼女にしても、通りを歩く疎らな人間一人一人を認識することはないだろう。ただその瞬間だけ、行き場のない僕の視線がたまたま彼女に向き、きまぐれに上げた彼女の顔が僕に向いた。それは本当に偶然としか言いようがないが、同時に神の啓示により定められた運命とも言えるような特別な邂逅にも思えた。
僕は足を止めた。彼女の目元はほのかに赤く腫れ、その瞳は夕暮れ前の街の景色をまんべんなく反射させていた。涙の薄膜の裏の呆けたような視線が、次の瞬間には何かの強い感情に突き動かされた。まるで幽霊でも見つけたかのような、見てはいけないものを見てしまったと言わんばかりのまんまるとした瞳が、ぴたりと僕に張り付いた。見てはいけないものを見てしまったのは、多分僕の方なのだろう。凍てついた時間の中で、やがて喉元をこじ開けるように逆流した彼女の言葉が、僕らを結ぶ線上に滞留していた沈黙を半分に裂いた。
「な、夏目……?」
「偶然だね」僕は右手を控えめに挙げる。「それじゃあ」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
嵐に吹かれるように彼女は駆け寄り、僕の右腕をがしりと掴み止めた。その感触に僕は覚えがあった。大した力は込められていないのに、僕は一歩も動けなくなった。まるで合気道の妙技を掛けられているかのようだ。彼女は高めの背を少し屈めて僕を上目で睨んでいた。その深いトパーズ色の瞳は、まるで彼女の意思を嘲笑うかのように水気に揺れ、朝の海に広がる不規則な光の反射をありありと模倣していた。留めきれない感情の奔流の中で、彼女は無言のまま僕を掴む右手の力をいっそう強めていた。
しばらく言葉を探していた様子の彼女は、やがてその作業を一旦保留し、黙ったまま僕の身体を引っ張った。されるがまま僕は引っ張られた。その感触にも僕は覚えがあった。彼女は元いたベンチにゆっくり腰を下ろすと、重く沈んだ空気に溶け出すように右手の力を抜き、そのまますっかりうなだれてしまった。
彼女はどうしたいのだろう?さっぱりわからないまま、僕は彼女に聞こえないように小さなため息を一つ零すと、人ひとり分の隙間を空けてベンチに腰かけた。彼女は何も言わなかったが、たぶん「そこに座れ」と言っているのだろう。
手持ち無沙汰に視線を上げて街の様子を眺めてみても、ときおり灯りを遮る影がよそよそしく僕らの前を通り過ぎるだけだった。誰一人として僕らに目を向けることはなかった。まるで定点カメラの映像のように、僕は一方的に景色と人々を観察していた。そこに暗示的なものは何もなく、ぴくりとも動かない人工物と、無機質に流動する人影だけが、僕らに意味を及ぼさないまま延々と流れ続けるばかりだった。
「……ねえ、聞かないの?」唐突に彼女はそう言う。
「なにを?」
「なんであたしが泣いてたのか。理由」
「聞いてほしいのなら」
「……聞いてほしいけど、答えたくない」
「無茶苦茶だ」それから僕は少し黙ったのち、彼女に聞く。「なんで泣いてたの?」
再び沈黙が流れた。さっきよりもずっと重い沈黙だった。言葉を探しているのか、本当に答えたくないのか、僕には一向に判別がつかず、ただ黙って彼女の言葉を待つしかなかった。また時間の境目が曖昧になり、気付けば景色に茜色が差し始めていた。ひょっとしたらかなり長い間僕らはこうしたままだったのかもしれない。やがて赤みがかった光が僕らの足元に横たわる頃に、彼女は再び言葉を漏らした。
「……あたし、染衣さんのこと嫌いじゃないの」僕は黙ったまま彼女の言葉に耳を傾ける。「むしろ好き。きらきらしてて、なんか幻想的なのに、すごく親しみやすくて……あたしも、あんな女の子になりたいって夢見るくらい」
「嫌いじゃない、って言うのは?」僕は聞く。
「……冷たく当たっちゃうの。どうしても」
「嫌いじゃないのに」僕は確認してから言う。「不思議な話だ」
「……ほんとにね。初めはたぶん、嫉妬してたんだと思う。あの頃はなんだか色んなことが初めてで、あたしもなんというか、ばらばらで……とにかく、何でもかんでも持ってる染衣さんが、許せなかったんだと思う。でも心の底ではずっと馬鹿らしいと思ってた。そんなことで意固地になるなんてどうかしてる、って思ってた。だけど……あたしの方から、一歩、たった一歩踏み出せばいいのに、なぜかずっと、それができないままでいるの」
彼女はそこで息を大きく吸う。かすかに震えながら、重い空気が彼女の中をめぐっていく。彼女の言葉一つ一つに明確な決心が含まれる。それがどれだけ彼女の身を削っているのか、僕には想像もつかなかった。それでもなお彼女は、まるで身体の中に溜まり込んだ淀みを吐き出すように、地面に言葉を落とし続ける。
「……そんな自分が嫌い。本当に、どうしようもなく嫌い。泣きたくなるくらい、やるせない気持ちになる。本当にふとしたときに泣きたくなる。だから泣いてたの」
彼女は少し黙って、そこで初めて僕の方を見る。その頬はまだ温かい涙に濡れている。
「……でもまあ、見られたのが夏目でよかったかも。なんとなく、他の誰でも嫌だった気がする。……夏目だから、ここまで話せたのかも」
「それは僕に友達がいないから?」
「そうかもね」彼女はカーディガンの袖でごしごしと目元を拭ってから、力なく笑う。「あんた誰にも話さなそうだし」
「ひどい話だ」
僕がため息をつき、彼女がもう一度息を吸うことで、この世界の空気の質量にほんの少しばかりの均衡がもたらされる。小さな広場にもったりと沈み込んだ空気は、僕らの中で目まぐるしく代謝され、従来の密度を取り戻しつつある。宙を舞った言葉が木陰から、壁の裏から、街灯りの中から僕らを見守り、沈黙のそばにじっと身を寄せている。たぶん、彼女は言葉を探している。僕はそれをじっと待つ。
「……ねえ、あたし染衣さんと仲良くなりたい。どうすればいいのかな」
「僕にそういうの聞くのは一番間違ってると思うけど」僕は少し考え込む。「まあ、結局君が自分の気持ちに折り合いをつけるしかないんじゃないかな。一発で解決する画期的な方法なんてないよ」
「そっか……そうだよね」
僕は斜陽に当てられた彼女の姿を、夕暮れに華やぐアマリリスの花畑が静かな風に波打つ景色に重ねる。鮮やかな赤色が脈動を連想させ、その生命の中心に彼女がぽつねんと佇んでいる。僕はそれを遠くのどこかから見ていて、その場所にはいない。
心は心臓にある――ふと、染衣雪野の言葉を思い出した。今まさに各務優理の心臓が動いて、彼女を生かしていた。その温かな生命の象徴を前にすると、僕のどの言葉もいっそう冷ややかに感じられるようだった。熱しすぎたものを冷ましたあと、氷は速やかに溶けてなくなるべきなのだ。僕は静かにベンチから立った。調和を脅かさないよう、慎重に。
「行くの?」彼女が顔を上げて言う。
「一人になりたいんだろ」
「……うん、そうだね。なんか、色々ありがと。ちょっとスッキリした」
「いいよ、別に」
僕は少しのわだかまりを胸にしまった。収納スペースなら心の中にたくさんあった。
僕は商店街をそのまま進み、大きな書店に入った。僕の住む街には年季の入った古本屋しかなく、目当ての本を探す場合はわざわざここまで足を運ばなければならないことが多かった。僕は文学のコーナーに立ち、数多の作家に見守られながら、頭の中のメモ書きを頼りに羅列されたタイトルをなぞっていた。
「おや、奇遇だね。夏目水季くん」
突然、しんと水面を揺らすような静かな声が僕の名前を呼んだ。振り向くと、同じ学校の制服の少女がそこに立っていた。色素の薄い肌、銀色の長髪、深い藍色の瞳。その表情はどこか優雅で、そこはかとなく脆い。全体的な容姿の印象はまさしく『希薄』という言葉で表せられる。彼女の周りには温度というものがなく、物質的な概念はどれも蜃気楼のように手応えがなかった。その古い洋画のワンシーンを投影したような佇まいが、大いに実在性を惑わせていた。実体そのものがどこかの遠い世界に置き去りにされているようだった。
僕は少し記憶をたどったのち、注意深く彼女の名前を呼ぶ。「小池さん」
「ふふ、私のことをそう呼ぶのも、もはや君くらいなものだね」
僕はもう一度記憶をたどる。「チエさん、だっけ」
「そう。私はチエさん」
「そう呼んだ方がいい?」
「いいや。君の自由にするといい」
「そうか……困ったな。自由とはある種の束縛だ」
「面白いことを言うね」彼女は軽く声を弾ませる。「じゃあ私のことは変わらず『小池さん』と呼ぶといい。一人くらいは違う呼び方をするというのも、詩的で悪くない」
彼女は一歩前に足を出して僕の隣に並び立つ。そこには奇妙な浮遊感が漂っている。真っ直ぐ立っているのが不思議なくらい、彼女の芯はあいまいだ。それでも彼女の姿勢は綺麗で、各務優理にも引けを取らない高めの背丈が美しい曲線を描いている。その表情は多くを語らない。まるで人形のよう、という言葉が彼女のために作られたものだと思わされるほど、精緻にデザインされた薄い微笑みを密やかに浮かべている。
「君は文学をよく嗜むのかい?」彼女は僕を見上げて言う。
「まあ多分、人並み以上には。最近は古めの有名な文学を手当たり次第読んでる」
「殊勝な心掛けだね。今の時代にわざわざ生の本を買いに来るというのも」
「どうも」僕は彼女を見下ろす。「君は見るからに本好きという感じだ」
「人を見かけで判断しちゃあいけないよ」彼女はゆっくりと笑う。「まあ、その通りだけどね」
僕は棚にすし詰めにされた文庫本を一冊抜き取る。サファイアの瞳がそれを眺めながら、そのタイトルを確かめて彼女は言う。
「『それから』。夏目漱石に興味があるのかい?」
「いいや、特に。さっきも言ったけど、今は有名文学を適当にさらってるだけだよ。夏目漱石の三部作ならまず真っ先に挙がるからね」
「『三四郎』はもう読んだということかい?」
「つい最近に。感想を求めてるならやめた方がいい。僕の感性は事実をなぞる以上のことができないから」
「それは残念」彼女はふらりと笑う。「君がそう言うのなら聞かないさ。でも覚えておくといい。読後の感想に高尚も低俗もないのだよ。解釈は読者の数だけあるものだから」
僕は再びタイトルの整列をなぞる。その様子を彼女は興味深そうに眺めている。彼女の仕草一つ一つ全てに何かしらの意図が含まれているように感じられ、僕は少しやりづらさのようなものを覚える。彼女は僕を注意深く観察している。僕をくまなく検分して、その人となりを見極めようとしている。まるで箇条書きの梗概に次々と注釈を加えているみたいだ。
「ところで君はどの本を買いに来たの?勝手な印象だけど、君はこのへんにある本ならもう全部読んでいそうだ」僕は誤魔化すように彼女に話しかける。
「ふふ、本当に勝手な印象だね。知らない本ばかりだよ。私は暇があればふらっと本屋に立ち寄って、知らない本を適当に買うのが趣味でね。そうやって運命の出会いというものに期待しているのさ」
「そうか」僕はタイトルをなぞりながら質問を続ける。「今までいい出会いはあった?」
「運命的と言えるものは無いかな。結局、有名になる著書には相応の理由があって、有名にならないものにはそれがない。そのへんの感受性に関しては、私は至って平均的なのだよ」
「そういうものか」
「そういうものさ」
僕らは並んだ位置を変えないまま、互いに黙ってタイトルの羅列を目で追った。その一つ一つに歴史があり、その本が持つ意味の全てが単語、もしくは短い文に乗せられていた。ここには数多の世界が無体に詰め込まれていて、餌を待つ雛のように僕らの手が伸びるのを待っていた。丈夫な翼を得て、この本棚から飛び立つ日を夢見ているようだった。それをエゴで以て僕らは選ぶ。とても罰当たりなエゴだ。タイトルに乗せられた想いの一つ一つが、今も僕らを恨めしそうに睨んでいた。
ふとその指先が自然な引力で吸い寄せられるように、彼女は一冊の本を抜き取った。運命の一冊になるかもしれないそれを大事そうに両手で持って、徐に僕に向き直った。
「それじゃあ私はこれで。三部作は是非とも後期まで読んでくれたまえ。願わくば、次は君の感想も聞いてみたいところだ」
僕が何かを言う前に彼女は背を向けた。その後ろ姿はどこか、すでに満足げに見えた。
雑誌コーナーへ足を運ぶと、真新しい彩がずらりと僕の前に立ちはだかった。目の痛むような鮮やかな配色の中で、人々が整然と並んではその美貌を競い合っていた。持ち場を争うように様々なフォントの文字がぎっしりと敷き詰められ、声高々に自らの領分を主張していた。情報の大群が押し寄せては僕を取り囲み、口々に呪文のような宣伝文句を投げかけた。その言葉の高波の中に溺れながら、僕はようやく『PriMA』の文字列を見つけ出した。表紙の女性が不思議そうな表情で僕を見つめていた。彼女は決して何も言わず、言われた通りの仕事を淡々とこなしていた。
僕はその雑誌を手に取ると会計を済まし、書店を出て、暮れなずむ街模様の影を踏んだ。小さな広場にはもう誰もいなかった。大事なピースを失い、おぼろげな記憶の断片ばかり取り残された景色がただぽつねんと、音もなく存在していた。そこに人がいなくとも、誰に必要とされずとも、時計は一秒一秒を正確に刻んでいた。心なき物の、確かな哀切がそこにはあった。僕が視線をそらすと、誰にも観測されない空間がまた一つ、その存在を消失させた。
家に帰ると、僕は一息ついたあと、『PriMA』の封を解き、漠然とページをめくっていった。すっかり見慣れた姿を探した。僕は読者モデルのことは全く知らなかった。毎号のように掲載されるものなのか、まれに仕事を頼まれる程度のものなのか、そもそも頼まれてやるものなのかどうかすらわからなかった。今月号に彼女が載っているとは限らない。それでも僕はこの雑誌を手に取った。僕は恐らく、各務優理のことを知りたくなってしまったのだろう。その理由はわからなかった。強いて言えば、その理由の方が知りたかった。
いつかの染衣雪野の言葉を思い出す。彼女は僕を知ることで自分を知ろうとしていた。多分、今でもしている。思えばあれからまだ一週間しか経っていないというのに、あの日彼女に投げかけた言葉を翻して、今や僕は各務優理を知ることで自分を知ろうとしていた。
僕らの周りではめまぐるしく風が吹いていて、車窓から見える都会の景色のように、瞬く間に世界が塗り替えられていた。その一瞬すら確かめる暇もなく新しい空気が取り込まれ、関係性の波に押しつぶされては数多ある自我に溺れていった。その忙しない時間の奔流の中で、いつしか僕は自分を見失っていた。それはもとより取りこぼしていた本質を改めて見つめ直すのと同義でもあった。染衣雪野と出会ってから、僕の知らぬ間に色々なことが変わってしまっていたらしい。それをたった今、僕は自覚した。
半分を少し過ぎた頃に、僕はページをめくる手を止めた。見慣れたカーネーションのウルフカットが目に留まった。落ち着いた色合いの街並みを背景に、薄手のコートを着崩した各務優理がそこには立っていた。それが彼女独自のスタイルなのだろうか、その着こなしは普段の姿にもよく似ていた。しかしそれでいて、記憶の中の彼女と、今僕の目に映る各務優理は、まったく別世界の人物のようにも見えた。それは大人びた化粧や服装をしているから、というだけでは決してないのだろう。彼女の異なる一面は、紙の中でしっかりと、一人の人間として成立している。僕はそれを不自然だとは思わなかった。これが各務優理の、自身がそうあるべきと決めた姿なのだ。
僕は一通りページをめくったあと、雑誌を閉じてテーブルに置いた。古風な街並みの余韻だけ残されたまま、表紙の女性が変わらず無言で僕を見つめていた。




