0章7節 君が君たり得るもの
カーテンの隙間から差し込む朝陽にまぶたの裏が白んだ。六時十八分、普段よりいくぶんか遅めの起床。わたしは夢うつつの重い身体を起こした。熱はなかった。嵐のあとの軒先を伝う水滴のように、置いてけぼりになったほのかなけだるさの残滓がそこにあるだけだった。
カーテンを開いて、軽いストレッチをした。十月十二日、木曜日、快晴。洗面台に立ち、歯を磨いたあと、ぬるま湯で軽く顔をすすいでから化粧水を薄くなじませた。濡らしたタオルで身体を拭いてから制服に着替え、髪を整えた。片側の横髪を三つ編みにして後ろに結わったハーフアップ。過去に様々な髪型を試して、最も好印象だったものの一つ。最後にヘアピンを付けて顔を上げると、いつもと変わらない染衣雪野が鏡に映った。
朝食は食パンでレタスとハムを挟んだサンドイッチと、コップ一杯の水。匂いが残るので、平日の朝はコーヒーを飲まないのが習慣だった。食器を片付けてる間にニュース番組のマスコットキャラクターが七時を報せ、わたしは意識的に身体の動きを少しだけ速めた。弁当を作っている時間はなかった。スクールバッグの中身を確認し、ハンドクリームとリップクリームを延ばしてから、わたしは部屋をあとにした。
わたしはまだ人の少ない電車に乗り、やがてごく自然に生活を司る大きな潮流と一体になった。つい昨日の出来事がまるで遠い過去の記憶のようだった。わたしが勝手に視ていた夢だったのではないか、とすら思えた。熱に浮かされた記憶はおぼろげで、わたしにはそれがひどくもどかしく感じられた。かろうじて思い出せる出来事の一つ一つがどれも疑問を含み、「ひょっとしたらそんなこともあったかもしれない」という不確定の景色だけがわたしを苛んでいた。彼と過ごす些細で取るに足らない時間に、わたしはどれほど縛られているのだろうか。
七時半を大きく過ぎた頃にわたしは教室に入った。数人の女子がわたしの姿を確かめると足早に駆け寄ってきて、まるで事件にでも巻き込まれたかのように安否を確認した。ただの軽い風邪です、心配かけてごめんなさい、わたしは決まり文句のようにそう言って笑顔を作った。その後に登校してきたクラスメートとも同じやり取りを繰り返しているうちに、その一日分の空白を埋めるように、わたしの周りに人だかりが生まれた。ただ一人、各務優理だけは、わたしが挨拶をしてもばつが悪そうに目を逸らすばかりだった。
各務優理に関して、わたしは何も知らない。
綺麗な肌、美しいスタイル、一つ一つかいつまんで描写するのも無粋なほど、彼女は間違いなくティーンたちの足元に敷かれたレッドカーペットの最先端を堂々と歩くべき輝かしい少女だった。それでいて彼女は気取ることもなく、気さくで外向的な性格は男女関係なく親しまれていた。しかしその表面上をなぞるだけでは、わたしと各務優理の関係を説明することはできなかった。不本意だが、わたしは彼女を取り巻く恋愛事情をよく把握していた。事実だけで見れば、この環境ではわたしのせいで彼女は『二番手』になりがちだった。人の好みというのはままならない。この関係に対して、わたしが何かを挟み込む余地などどこにもなかった。
しかし彼女は決してわたしに嫉妬の目を向けなかった。そこにはぼやけて滲んだ水彩のような、漠然とした掴みどころのない因果しかなかった。わたしを嫌悪しているのかどうかすらもわからなかった。彼女はいつもわたしから、もしくは別の何かから目を背けていて、ときおりわたしたちが視線を交わせば、そこにはただ一つの気まずさしか残らなかった。結局のところ、それこそが今わたしと各務優理の間に存在しうる全てで、つまりわたしは彼女の一片も理解できはしないのだった。
「彼女は君のことを嫌ってなどいないさ」
独特な喋り方で『チエさん』と呼ばれる人は言った。チエさん、まるで全身でそう喧伝しているかのような文学少女。彼女を描写するとき、単に見た目をなぞるだけでは説明できないことがいくつもあった。指先で触れただけで砕けてしまいそうな現実感の薄い儚さと、まるで夜の森に現れる精霊のようなぞくりとした神秘的な雰囲気、どちらかと言えば芸術性を象徴する表情や、哲学的概念をなぞるような所作の一つ一つ。彼女という存在はその大部分が形而上にあって、その半分も言葉で表すことができなかった。正夢の中のおぼろげな幻覚のような人だった。
彼女も図書委員であり、今日は受付担当の日だった。わたしたちは図書室の受付カウンターの内側で対話をしていた。その目的地の設定されていない旅路の道中に頭をもたげたのが、各務優理という名前だった。
「各務優理さんは、決して簡単に他人を嫌悪するような人ではないんだよ。機嫌が悪く見えるのはもっぱら、自分自身のことに対してばかりだ。それは君もよくわかっているはずだよ、染衣雪野さん。君はよく他人を観察していて、常により深く他人を知ろうと努めている。敏い君なら彼女がそんな態度を取る理由の根本的な要因にも気付いているはずだ。君はそこから決して目を背けたりはしないだろう。ただ彼女が君を避けるという行為に至る過程が、君の思っているものとは少し違うのかもしれないね。君はいくらか自罰的すぎる。ある意味では自尊的とも言えるね。各務優理さんは君が思っているよりずっと優しくて、どうしようもなく愚かで、とにかくまとまりがないんだ。そんな彼女から見て君はどう映っているのだろうね。ここから先は君自身で想像してみるといい」
君のためにもね、とチエさんは付け加える。彼女の言葉は叙事的でいてその実、目の眩むような暗喩に満ち溢れている。気をつけて耳を傾けないとその本質を零してしまう。
「……なんとなくわかったような、まだわからないような、そんな感じです」わたしは率直に言う。
「それでいいんだよ。私は各務優理さんではないし、君もチエさんではないのだから」
わたしはしばらくそこに座ったまま図書室の様子を眺めた。チエさんもただ静かに文庫本のページをめくっていた。まるで森の中の古い小屋にいるようだ、とわたしは思った。草木から漂うどこか懐かしい匂いと、絶え間なく葉の擦れる音だけがそこにはあり、ときおり遠くで鳥が一斉に羽ばたく音に我に返ったと思うと、誰かが本の貸出の受付に来ていることに気付く、そんな夢と現に惑う景色が垣間見えた。彼女はまるでわたしたちより一段階上の次元に腰を据えているようだった。肉眼では見えないどこかの惑星にその実体があって、わたしたちのことを全て見透かしているような気さえした。まさしく読者のように。退屈な物語を熱心になぞる敬虔な読者。
「もう一つ聞いてもよろしいでしょうか、チエさん」わたしは言う。
「なんなりと」
「チエさんには、わたしがどう見えているのでしょうか?」
「ずいぶんと難しい注文だ」彼女はそう言って笑うと、ふむ、と一呼吸置いて言葉を整理する。「静謐で、優雅で、厳格で、何事もそつなくこなしてしまう完全無欠の美少女。そんな一般的評価に違わない印象を私も持っているよ。ただ一つ、君は誰にも理解し得ない完全な孤独を持っていたように見える」
「……完全な孤独?」耳慣れない言葉をわたしは反復する。
「そう、完全な孤独。超越した精神性を持つ芸術家に、真の意味での理解者が存在し得ないのとよく似ている。なぜそう見えたのか、正直私自身にもよくわからない。他人との関係性を完全に断つことはできないという私の仮説に、確かに君自身が反証となっていたんだ。それは興味深かったが、実のところ今の君はそうには見えないんだ。私の勘違いだったのではないか、と思うほどさっぱり、何らかの契機に君の孤独はかたちを崩してしまったようだ。でも、そっちの方が自然なのさ。それはごくありふれた、誰にでも存在し得る平凡な孤独なのだから」
「……孤独、ですか」
「私にはそう見える、というだけだ。あくまで私の主観だよ。話半分に聞いてくれ」少し間を置いて、チエさんは続ける。「ただし他人の主観というのは、時に本人すら自覚できない真意に辿り着いてしまうこともある。その良し悪しはさておきね」
彼女の言葉を、わたしは黙って反芻した。完全な孤独。わたしにはその意味を理解できた。生まれた頃から身体の一部として、ずっと心臓のあたりに存在していたものなのだから。だからこそ、今はかたちを崩してしまったと言うチエさんの言葉に疑問を抱かずにはいられなかった。なぜ彼女にはそう見えたのだろう?
いや、理由など明白だ。わたしが夏目水季と出会ったから。それは避けようもなく明らかなのだ。わたしはこの無限に続く螺旋階段の出口、もしくはどこかへ続く入口を、彼という存在に見出していた。確かにそれは、無限に続くと思われていた冷たい孤独への終止符とも言えた。それまでただ淀みなく書類仕事をこなすだけだったはずの毎日が、今は咲いては散りゆく桜景色のように忙しなく移ろっていた。いっときも休むことなく、一日も無為にはならず。そんなわたしの生き急ぐような時間の流動を、チエさんはすっぱりと見抜いているようだった。今も確かに存在する心の穴を、彼女は「誰にでも存在し得る平凡な孤独」と言った。「本人すら自覚できない真意」とは言い得て妙だ、とわたしは思った。それこそがわたしと夏目水季を繋ぐための、数少ない手掛かりの一つなのだから。
「どうかな。何か君の心の琴線に触れる話ができたのなら幸いだが」チエさんの言葉が、わたしの意識を省察から現実へと揺り戻す。
「それはどうでしょうか」わたしはそう返す。触れるべき琴線は、わたしの心には張られていない。
「まあ、何か君の役に立てたのならそれでいいさ」
ありがとうございました、と礼を言ってわたしは立ち上がった。また来るといい、いつでも暇だからね、とチエさんは言った。表情一つ変えずに。




