0章6節 灰色の空、二十二度の沈黙
きまぐれな雨雲の切れ目に朝露が行き場を失っていた。浮足立つような不自然な暗がりが、いっそう沈黙に重く影を落としていた。拭い切れない違和が教室中に渦巻いていて、まるで災いの日の前日のような、形容しがたい畏れにも似た空気があたり一面を支配していた。いるはずの人間がいない、ぽっかりと空いた一つの席もまた、不安を誘う欠けた日常の一つだった。
「雪野さん、今日は休みなのか」東至真が言う。恐らく僕に話しかけている。
「まだホームルームは始まってないだろ」僕はそう返してみる。
結局一時間目の授業が始まるまでに、染衣雪野が姿を現すことはなかった。それはそうだ、と僕は素直に思った。
「夏目、ちょっといい?」
昼休みの時間、僕が弁当箱を閉じるのを見計らって各務優理が神妙な面持ちで歩み寄ってくる。心なしか、彼女との会話の機会が増えた気がする。
「いいよ。どうしたの?」
「本の延滞の話なんだけど」図書委員のやつね、と彼女は丁寧に補足をする。「先週の金曜から延滞してるやつの確認を頼まれたんだけどさ」
「夏目漱石の『こころ』のこと?」
「そう、それ!夏目、なんか知ってる?」
「いいや、特に何も。その日の延滞がその一冊だけだったからなんとなく記憶に残ってるだけ」一瞬だけ、柔らかな唇の感触が蘇る。「何か問題があるの?」
「うん。休日跨いで二日分延滞してるから本人に確認しなきゃでしょ。でも台帳に書かれてた名前の生徒がね、いないの」
彼女はカーディガンのポケットから小さなメモ用紙を一枚取り出して僕に見せる。『延滞確認』『1年B組』『江本慶子』『こころ(夏目漱石)』とだけ、丸く綺麗な文字で端的に書かれている。
「いない?」
「そう、存在しないのよ。『江本慶子』なんて生徒。なんなら1年B組、あたしらのクラスだよ。いないでしょ?」
「いないかも」
彼女は身を乗り出す。「かもじゃなくて、いないの。絶対」
「クラスや学年を書き間違えた可能性は?」
「そう思って先生に確認してもらったんだけど、そもそもそんな生徒、この学校に存在しないらしいのよ」
「不思議な話だ。いたずらじゃなければ」
畳んだ風呂敷を仕舞って立ち上がろうとする僕を彼女は両腕で押さえ込む。
「ねえ、これってどういうことだと思う?」彼女は続ける。
「さあね。先生に相談した方が早いんじゃないか」
「先生にはちゃんと報告しておいたわよ。この件は一応先生側で対応してくれるって。でもねえ……」
「何か気になることでもある?」
「何もかも気になるわよ。だって、意図がわからなくない?いたずらにしては地味すぎるし、本が欲しいなら、古本屋にでも行けば安く買えるはずよ」
「知らないよ」
僕は頬杖をついて空を見上げる。それ以上描写する余地のないほどひたすら濃いグレーに染まる風景。退屈な色。まるで逃げ道を塞ぐように、彼女は視界に入り込む。
「あたしちょっと自分でも調べてみるつもり。ね、夏目も手伝ってよ。どうせ暇なんでしょ?」
「君も大概暇人だな」
「拒否はしないってこと?」
「まあ……図書委員の仕事としての範疇なら別に」
「よし!じゃあまた何かわかったら教えるわね」
それだけ言うと、各務優理はそそくさと僕の前から姿を消した。通り雨みたいだ、と僕は思った。江本慶子。ともすれば明日には忘れてしまいそうな名前を、僕はもう一度反芻しておいた。
十月十一日、水曜日の午後四時。秋の長雨は予報通りに再び姿を現し、遠慮がちに景色を濡らしていた。昨日とは打って変わってずいぶんと小雨だった。
僕はある地点で帰路を右に逸れた。見飽きた道から見覚えのある道へ、一つ、また一つと小さな波の足跡を刻んだ。袖を引っ張る感覚を頼りに、交差点を右、左と曲がっていくと、やがて見覚えのあるマンションにたどり着いた。傘を閉じて十分に雨水を掃ってからエントランスに入り、整列された郵便受けを目でなぞった。一〇一、一〇二、……五〇二、五〇三、染衣。僕は立派な操作盤にその数字を打ち込み、呼び出しボタンを押した。しばらくの静寂。もう一度呼び出しボタンを押した。
「……夏目くん?」染衣雪野のくぐもった声が応える。機械越しでもはっきりとわかるくらい弱々しい調子で上ずった声を出す。「……え?夏目くんが……なんで?」
「休んでたなら悪かった。調子はどう?」
「えっと、まだあまり……」
「ご飯は食べたの?」
「……朝から何も」
「それじゃあ今から食材持ってくるから。見られたくない物でもあるなら隠しておきなよ」
機械音声が困惑の色を示す。「……ちょっと待ってください。これからうちで料理でもする気ですか……?」
「そのつもりだけど」
「一人暮らしの女の子の部屋に上がって……?」
「相手が君じゃなきゃ遠慮する」
「あのですね……というか、なんでわたしが一人暮らしなの知ってるんですか……?」
「昨日の帰り道で君が言ってたことだよ」
「……憶えてないです……」
「昨日の君はずいぶんと上の空だった」沈黙の音を聞いてから、僕は続ける。「とにかく今から食材を持ってくる。ついでに僕の分の晩御飯も済ませるつもりだから。調理器具はちゃんとある?」
「一通りはありますけど……」
「他に何か持ってきてほしいものとかは?」
少し沈黙がある。「……じゃあ風邪薬を。熱に効くやつで。買いに行けないので……」
「わかった。それじゃあまた」
雨足は少しだけ控えていた。僕は傘を開いて、マンションを後にした。
それから近くのスーパーで必要なものを一通り買い、僕はもう一度あのマンションを目指した。この頃になると雨は一度上がり、閉じた傘は湿ったまま、空を見上げればときおり思い出したかのように置き去られた雨粒がぽつりと僕の顔を打つ程度だった。三度目ともなればすっかり道を覚えてしまい、特に足を止めることもなく目的地に辿り着いた。もう一度彼女の機械音声を聴き、オートロックの先でエレベーターに乗った。僕が五階に着くのと同時に五〇三号室の扉が開かれ、彼女がこっそりと顔を出した。亜麻糸の束がさらりと流れ、薄膜の張ったガーネットが僕の顔をしずしずと見つめていた。
「あの……こんにちは」
彼女は言う。普段は後ろ髪に結ばれている特徴的な三つ編みもなく、その日の彼女の髪は一本一本、全てが重力に従うままだらりと垂れ、その重みに引っ張られるように猫背のまま、薄手の毛布の中にか弱くうずくまっている。その頬はしっとりと紅潮していて、垂れ込んだ目元で僕を見上げる姿は、普段の凛とした佇まいから打って変わって、親元を離れた動物の子供を彷彿とさせるような薄弱さを主張している。
「調子はどう?」
「朝方よりは良くなっていますが……まだ本調子ではないです」
「入って大丈夫?」
彼女は僕を訝しげに見上げる。「駄目、って言ったらどうする気なんですか……?」
「薬と、適当にすぐ食べられる物だけ渡して帰るよ」
「……じゃあ、入ってください。ここで帰したらわたしが悪者みたいです」
「帰ってほしいなら別にそれでも構わないけど」
「いえ、そういうわけじゃないんです。……ただちょっと、まだびっくりしてるだけで」
そうか、と僕が返事を一つ返すと、促すように彼女は身体を翻す。僕は靴を脱ぎ、用意されたスリッパに履き替えて彼女についていく。
「……先に言っておきますけど」彼女は振り返らずに言う。「夏目くんじゃなかったら、入れてないですから」
「僕も君じゃなかったら入らない」僕は彼女の後ろ姿を見たままそう返す。
一般的な1LDKのこじんまりとした間取りは、一人で住むには少し広すぎるような気もした。生活感の無さがそれを助長していた。単色のカーペットの上にローテーブルと座布団一つ、それをテレビモニターが眺めているだけのリビング。カウンタータイプのキッチンには洗ったばかりの食器が整然と並ぶばかりで、調味料類も全て棚の中に仕舞われているのか、無駄なものは一切置かれていなかった。最低限生きていくことのみを目的にしたかのような、ひどく殺風景な空間。まるで彼女の心模様を端的に描写しているようだった。
僕は適当なところに鞄を置くと、買い物バッグを持ったままキッチンに入り、冷蔵庫や棚、炊飯器の中を物色し始めた。すでにあるものと、今ここには無いものを頭の中で整理していった。ふとリビングを一瞥すると、染衣雪野が毛布の中でうずくまりながらじっとこちらを見ていることに僕は気付いた。
「君は部屋で寝てるといい」
「いいえ、ここにいます」彼女はもぞもぞと蠢いて座り直す。「……お話をしていた方が気が休まりそうです」
「そうか。アレルギーはある?」
「特にないです」
計量カップで米をすくい上げ、それをボウルに流し込むと、薄く浸るくらいに水を張ってから指先で慎重にかき混ぜ、頃合いを見て水を捨てる。それを三度繰り返し、ざるに移して水を切る。手ごろな鍋に移し、適量の水と少しだけ鶏がらスープの素を入れ、先に火にかけておく。
「……夏目くんは優しいですね」ふと彼女は、ぼんやりとした声色で僕に語りかける。「わざわざうちに来て、ご飯まで作ってくれるなんて。昨日だって、わたしを傘に入れてくれて、家まで送ってくれました」
僕は少し間を置いて答える。「どうだろうね。優しさとは少し違うんじゃないかな。昨日あんな様子で、結局学校も休んだんだから。一人暮らしならなおさら様子くらい見に行くべきだと思うし、食事一つ満足にできない状況なら手を貸してやるべきだとも思う」
「普通はそこまで親身になれるものではありませんよ」
「……僕はやるべきだと思っただけだよ。いつだってそうだ。単に優先度の問題なだけ。普通の人だって、ずぶ濡れの人を見かけたら傘に入れるべきだと思ってるし、お腹が減ってる人がいるならご飯を作ってやるべきだと思ってる。困ってるであろう人間を助けるべきだと思うのは普通だ。ただそれよりも優先度の高いやるべきこと、やりたいことが常にある、というだけ。僕にはそれが無い。それだけの違い」
「ふうん……」
彼女の生返事がふわりと宙を舞う。鍋の中身がひと煮立ちしたのを確認すると、すり下ろした生姜を入れてから軽く混ぜ込み、そのまま弱火にして蓋をする。
「……じゃあ、他の女の子にも同じことをするんですか?」
「さあ。でもさっきも言ったけど、君じゃなかったら一人暮らしの女の子の家になんて上がらないよ」
「……それ、わたしになら何をしてもいいと思ってるってことですか……?」
「言っておくけど、先にキスをしたのは君の方だからな」
彼女は口を尖らせてみせる。それから穏やかな表情を一つ見せて、少し呼吸を整えながら俯く。
「……確かにわたしの方かもしれませんね。夏目くんになら何をしてもいいと思っているのは」
「ひどい話だ」
「……はっきり言えば、わたしは自分の女性的な魅力を自覚してます」少し間を置いて、彼女は脈絡もなくそう言う。「当たり前です。わたしがそうありたいと思った姿なのですから。みんなに好かれる、素敵な女の子。だから、わたしの一挙手一投足が、ときおり男の子を惑わせてしまうことも……知ってるんです。そこから目を背けちゃだめで……向き合わなくちゃいけなくて。それこそひどい話です。わたしの方から誰かを好きになるなんて……ありえない話なのに。だから慎重に距離を保たなければならないんです。……深く傷つけてしまわないように」
僕は黙って野菜に包丁を立てる。長ネギ、大根、きゅうり、トマト。彼女が紡ぐ言葉の節目の静かな沈黙に、まな板を鳴らす音が響く。
「……でも、夏目くんはいくら距離を詰めても、決して動じない。まるで幽霊みたい。確かに触れられる距離にいるのに、なんの感触も残らない……。何もかも受け容れてしまうのに、何一つ返ってこない。多分それが、とても安心するんです。……だからでしょうか。なんでもかんでも、気付けば深く踏み込んでしまう……。夏目くんといると、なんというか、初めてのことばかりで……ひょっとしたらこれが、普通の女の子の、普通の青春なんじゃないのかな、って思うんです。わたしは……夏目くんを介して、そういう失ったものを手に入れようとしてるのかもしれません」
「それで最初にキスは、何もかも間違えてる気がするな」
「……いっそあそこで、好きにでもなってしまえたら良かったんですけどね……」
余計にややこしくなってしまいました、と言って彼女はか細く笑うと、毛布をかけ直して小さくうずくまった。まるで幸福な夢でも視ているかのような柔らかな微笑みを呆然と浮かべていた。それが意識の表面に薄く伸びたまますっかり乾いてしまった感情の余韻なのか、壊れた蛇口から少しずつ零れ続ける自我の残滓なのか、僕には判別が付かなかった。僕らの価値観は違う法則の中でかたち作られていて、その法則に説明書はない。ただ一つわかるのは、『互いがなんとなく同じに見える』というぼんやりとした解釈の中にある、もどかしさを含んだ憶測だけだった。同じに見えて、全く別。ただそれを再確認するために、常にいくつか煩雑な手順を踏む必要があるのだ。
それからしばらく僕らの間に沈黙が続いた。彼女はテーブルに身体を預けたまま、目を細めて僕を眺めるばかりだった。次の瞬間にはぐっすりと眠っていそうな、そんな呆けた様子をときおり確かめながら、僕は調理を続けた。全てのメニューが揃うまで、大して時間は掛からなかった。
「できたよ」
僕は手頃なお椀によそったお粥を一番最初にリビングへ持っていく。気付けば彼女は目を閉じている。眠っていたのかどうかはわからない。僕の一声にゆっくりと目を開き、重い仕草で身体を起こす。
「……いい匂いです」
「熱いから気をつけて」
それから一つずつテーブルに料理を並べる。白米、鶏肉のみぞれ煮、大根の煮物、たらの煮付け、インスタントの味噌汁、色々な野菜を適当に混ぜたサラダ。最後に箸を二組持って、僕は彼女から見て直角の位置に腰を下ろす。
「こっちからも適当につまんでいいよ。胃に優しい煮物料理を選んだから。お粥もまだ残ってる」
「お気遣いありがとうございます」
彼女はレンゲでお粥をひとすくいすると何度か、ふー、と息を吹いてから口に運ぶ。左手で口元を隠しながら熱そうな仕草で、仄かに白い息を零しながら咀嚼する。しばらくそれを繰り返しながら、やがて彼女はごくりと喉を動かす。
「美味しいです」彼女が僕を見て言う。
「別に気を遣わなくてもいい」彼女を見ずに僕は応える。
「普段からこんな料理を?」
「ああ。不味いものはなるべく食べたくないからね」
彼女はたらの煮付けに箸を伸ばす。身の切れ目にそって刺し込み、小さな断片をすくい上げて口に運ぶ。左手を添え、それを咀嚼しては飲み込む。
「……美味しいのは本当ですよ」彼女は言う。
「そりゃどうも。君は普段どうしてるの?」
「必要な栄養から逆算して食材を選んで、あとは最低限不味くならないように調理しているだけです。……わたしも不味いのは嫌ですから」
彼女は鶏肉に箸をつける。これも美味しいです、とわざわざ言う。一口お粥を流し込んだ後、大根を食べる。美味しい、と言う。壊れたメトロノームのように、彼女の熱を帯びた不規則な言葉のリズムが夢と現実の境を右往左往する。少し開いたカーテンからは夜の帳が覗かせ、まばゆいばかりの部屋の灯りとすっかりはなればなれになってしまっている。まるで漂流した客船のように互いの孤独に寄り添いながら、無機質に進むデジタル時計の数字をよそに、僕らは意味のない時間をただゆっくりと享受する。
それから僕らは余すことなく夕食を平らげる。僕は手を合わせて食器を下げ、彼女も手を合わせて風邪薬を飲む。あとで自分でやる、と言った彼女を制止して、僕は食器を洗う。一つとして色も柄もない真っ白な皿を一枚ずつ、普段よりいくぶんか丁寧に。それが終わると、僕は改めてローテーブルのそばに腰を下ろす。先程と同じ、彼女から見て斜め前の位置。
「お腹いっぱいにはなった?」僕は彼女に言う。
「もう少し食べたい気分ですが……今は十分です」
「何か作り置きでもしておこうか?」
「いえ……さすがにそこまでお世話になるわけにはいきません」
「じゃあ余ってる食材はこの家に置いていくけど、大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。いずれ勘定します」
「別にその必要はないけど、君の気が済まないのなら飲み物でも一本奢ってくれたらそれでいい」
それじゃあこれで、と言って立ち上がろうとする僕のシャツの袖をふと、くるんだ毛布から覗かせた細い指で彼女は引っ張る。僕が黙ったまま彼女を見ていると、少しの間を置いて彼女は顔を上げる。朝のニュース番組の動物を特集するコーナーでこんな表情を浮かべた子犬を見たことがある。どこか不安げで、そこはかとなく悲しげな表情。
「もう少しだけ……ここにいてくれませんか?」
澄んだガーネット色の瞳が僕を見上げる。そこには僕の怪訝な表情が映っている。僕はその意図を問おうとしてやめる。どうせ理由なんてないのだろう。
「別にいいよ」僕は上げかけた腰を下ろして言う。「どうせあとは風呂にでも入って寝るだけだ」
「……ありがとうございます」彼女は僕の袖を離し、目を触られたかたつむりのように滑らかな動きで再び毛布にこもる。「今日は夏目くんに感謝してばかりですね」
僕はスクールバッグを開き、中から小さな文庫本を一冊取り出した。それからしばらく、ときおり僕がページをめくる音だけが何もない部屋を巡った。彼女はテーブルに伏せたまま顔だけをこちらに向けていた。活字を追っている僕に、その表情の細部まではわからなかった。次へ、次へとページをめくると、ふと沈黙にいたたまれなくなった鼓膜が、ほのかに上がった彼女の呼吸を捉えた。熱を帯びて湿った、柔らかく安らかな息遣い。海辺の小屋の古い窓から望む夜の波打ち際のように、ゆっくりと正しいリズムを刻むアンビエントが、まるで僕を夢に誘っているかのようだった。僕はページをめくるついでに彼女を一瞥した。彼女はただ静かに目を閉じていた。幸福な一日の終わりに安らかな寝息を立てる子供のように、無防備な寝顔を見せながら。
行き先のない清流に揺蕩うようなぼんやりとした時間がしばらく流れた。意識が沈んで消えてしまわないように物語をなぞるうちに、僕は最後の一文に辿り着いた。ストレイ・シープ、ストレイ・シープ。その言葉の余韻を確かめながら時計を見た。九時三六分。僕は本を閉じて彼女を見た。依然として眠ったまま、その姿勢を少しだけ崩し、より深く夢の中へと落ちているようだった。起こすのも忍びないほど安らかな表情を見せていたが、この姿勢のままリビングで夜を過ごしてしまったら治るものも治らないだろう、と僕は思った。
「染衣さん」僕は彼女の肩を揺らす。密やかな熱のこもった毛布の中に隠された柔らかく脆い身体は、ともすれば簡単に崩れてしまいそうで、僕はすぐに揺らすのをやめ、もう一度声だけを彼女に伝える。「染衣さん」
彼女は静かに目を開く。生死の遷移の、思いがけず安らかな様子を、彼女は鷹揚に逆行する。すう、と一つ大きく息を吸うと少しだけ身体を起こし、寝ぼけた瞳で僕を見つめる。しばらく見つめ、そのあとひとつ伸びをし、ひとしきり目を掻いたあと、満月のように丸い瞳をもう一度僕に向ける。まるで動物でも観察しているようだ。身体だけすっかり現実に馴染んだまま、まだ心の半分くらいは夢の中にいるのだろう。
「いい時間だから、僕はそろそろ帰るよ」僕は言う。
「あ……はい」彼女はふわりとした返事をする。
スクールバッグを持って立ち上がり玄関へ向かうと、彼女もおぼつかない足取りでついてくる。夢の出口へと向かうみたいに。
「引き留めてごめんなさい」彼女は言う。
「いいよ、別に。熱はどう?」
「お陰様でだいぶ楽になってきました。明日には治ってると思います」
「そうか」僕はドアノブに手を掛けてから言う。「それじゃあまた明日」
「はい、また明日」
僕はドアを開けた。雨は降っていないが、外は随分と暗く、寒くなっていた。




