0章5節 まぼろしよりもはっきりとした
放課後の家庭科室は雨音に爛れていた。コンロとシンクが向かい合って併設された少し狭いテーブルの前にわたしは座り、その斜向かい、可能な限り離れた位置には東至真が座っていた。
東至真に関して、わたしは恐らく、知り得る限りを知っている。しかしそれが彼という人間のほんのひとかけらであることもなんとなく理解している。
有体に言えば彼はよく好かれた。客観的に見れば端正ながら愛嬌のある顔立ちと、明るく、誰彼にも分け隔てなく接する気さくな態度、それでいて落ち着いた飾りけのない性格が、多くの人間にとって魅力的に映るであろうことは認めざるを得なかった。恐らくわたしも、彼に好意を寄せるのが本来は正しいのだろう。色恋の話題になれば、必ずと言っていいほど彼の名前を聞いた。彼に関する噂話など辺り一面に転がっていた。意図せずわたしの耳に入ることが、わたしの知り得る彼についての全てだった。
だからこそと言うべきか、少なくとも対外的には、わたしたちは十分に距離を置くべきだった。東至真と染衣雪野、この関係に一旦火を点けられれば、白い煙はいくらでも立ち上った。それはわたしたち二人が学級委員に選ばれたときにすでに前例があり、自分たちは目立ちすぎると認識を一致させていた。来る文化祭に向けてクラスの出し物に関する打ち合わせを二人で行うことになったとき、可能な限り人目につかない家庭科室を選んだのも、暗黙の了解にも似た無言の契約が交わされたからだった。
「雪野さんって案外、どうでもいいことで悩むんだね」
「そうですか?」
「『メイド喫茶』か『メイドカフェ』かなんて、どっちでもよくない?」
「よくないですよ。やることは同じでも心持ちが全然違います。憩いの場としての認識を重視する『喫茶』、もてなしの質に重きを置く『カフェ』、客視点でも印象が違ってくると思いませんか?」
「そうかあ。それなら俺は『メイドカフェ』の方がいいと思うけどね。明らかに雪野さんや各務に期待されてそうだし」
「まあ、そうなりますか……」
わたしたちのクラスの文化祭の出し物は『メイドカフェ』に多数決で決定した。やけに男子票が集中したためだった。女子の意見が尊重されない一方的な決まり方ではあったため、『無理強いはしない』『男子もメイド服を着る』という条件の元でどうにか意見をまとめることはできたが、それでも反発の火を完全に消すことはできなかった。結局のところ、わたしたちの人望を消費品のように行使する以外に手段はなかった。
「やっぱなんか、申し訳ないな」本当に申し訳なさそうに、彼は表情を曇らせる。
「でも今更変えられません。どうしてもメイド服を着たくない子には裏方に回ってもらうので大丈夫ですよ」
「雪野さんはいいの?」
「盛り上がるのならやぶさかではないです。学級委員が着なかったら示しがつきませんしね」
「肝が据わってるね……」
学級委員の仕事は、出し物の方向性や予算を事前にすり合わせること。準備期間のスケジュールを決めたり担当を割り振るのは、学級委員とは別に臨時で選ばれた文化祭委員が当日の進行まで含めて担う。それとは別で、クラスが背負う問題事の責任の所在は大抵わたしたちのもとに行き着く。わたしたちはそれをそつなく処理しなければならない。
わたしが学級委員を選んだ理由は特になかった。単にそれがこのクラスにとって都合がよかったというだけだった。影響力のある人間を上から順に二人選べば、自ずと東至真、染衣雪野になる。わたしはその法則に従ったに過ぎなかった。ただ思えば、時間的にも精神的にも余地のあるわたしには適任なのかもしれない。激務というほどではないにせよ、大抵の面倒事は学級委員に押し付けられがちだ。客観的に見ても、これに嫌気の差さない人間は少ないだろう。
「露出が少ない上品なロングスカートタイプにすれば着たくないって子も減ると思います。それに合わせてコンセプトもクラシカルな感じにしましょう」
「いいね。それでも着たくない人が多かったら、雪野さんが入るピークタイム以外は男子メイドカフェの面白路線でいくよ。こうなった以上はもう本気でやらせる。スベったらまあ、俺たちの責任だ」
「ふふ、そうですね。じゃあ男子の時間帯と女子の時間帯で完全に分けてしまいますか」
会議は思ったより順調に進んだ。彼は要領が良かった。何事にも聡く、どんな些細なことにも真摯に向き合う真面目さも持ち合わせていた。学級委員の仕事もさっぱりとこなしてしまうくらいの余裕もあった。その隙の無さだけ見れば確かに、彼に欠点という欠点は見出せなかった。
しかし彼の真意は誰よりも霞掛かっているように思えた。そのすりガラスに触れようとわたしが一歩踏み込むと、彼は表情一つ変えず同じ動きで一歩退いた。一見嫌悪されていないように見えてその実、彼は決して心を許してはいないようにも見えた。中身すら不確かなパンドラの箱を、わたしは無謀にも開けようとしているのかもしれない。パンドラの箱、もしくはただ無秩序に詰め込まれたままのおもちゃ箱。人には必ずしも踏み込まれたくないラインというものがある。自分が自分であるための境界線、弦が切れてしまわないぎりぎりの調律。彼にもそれが無いわけではないのだろう。ただ静かに、穏やかな表情のまま、頑なに一定の距離を保とうとするその態度だけがなにか、わたしの心の冷たい壁のひびから剥き出しになった無数の小さな突起に引っ掛かった。
雨の音が強くなった。十月の秋霖にすっかり外は暗がり、気付けばわたしたちの会議は潮の引き際に凪いでいた。学級委員としてはひとまず話し合うべきことを概ね話し終えたが、お喋り好きの彼にとってしてみれば、それはお別れの合図にはなり得なかった。
「そろそろ水季の浮ついた話も聞きそうなもんだけどな。なんか聞いてない?」
「水季……夏目くんですか?」
夏目水季の名前が突如として顔を出すと、わたしはわずかに鼓動を早める。ある日の斜陽がわたしを焦がし、くらくらとした蜃気楼の中にその身を投げ出される。少しの間。騒がしい雨音に紛れた言葉一つ一つを掴み取っては舌の上で転がすと、乾いた唇の感触だけ残して、仄暗い空模様と蛍光灯のやけに強い白色のコントラストに覚醒する。
「そうそう。あいつ地味にイケメンなんだぜ。身長も高いし」
「あまり聞かないですね」わたしは淡として答える。事実として、夏目水季の話題はとんとわたしの耳には届いていない。
「そっかあ。そろそろ水季にも春が来てもいいと思うんだけどな」
「東至くんはやけに、夏目くんのことを気に掛けますね」
「やっぱりそう見えるか?」
「昼休みにお二人が話しているのは、もう物珍しくもなんともない日常風景ですから」
「……気に掛けてる、か。まあ、気に掛けてるのかもな」
曖昧な言葉だけ残して、彼は深い思索の中にその身を隠す。省察の海をくまなく巡り、新たな手掛かりを携えて、まだ見たことのないものを探しているようだ。しかしその出来事はほんの一瞬で、まばたき一つする間に、彼はいつもの飄々としながらも揺るぎない表情に戻っている。彼が探していたものについて、わたしは細部まで問い質したい気持ちに支配される。しかしわたしが一歩踏み込んでも、やはり彼は同じ側の足を一歩引くだけなのだろう。
「さて、そろそろ切り上げましょうか。東至くん、部活があるんでしょう?」
誤魔化すようにわたしは、とん、とんとわざとらしく音を立てて、書類の束をテーブルに打つ。彼はたしか、バスケ部に所属していたはずだ。
「ああ、もう五時か。一応今日は出られるかわからないとは言ってるけど……まあちょっと顔出してこようかな」
「書類はわたしが提出しておきますよ」
「悪いな、ありがとう。じゃ先行くわ」
それじゃあまた明日、と言って立ち去る東至真を、わたしは同じ言葉で見送る。いっそう騒ぎ立てる雨足に囲まれ、わたしも荷物をまとめる。
「あっ」
そこでわたしは思わず声を漏らす。どうやら置き傘を家に忘れたらしい。
路頭に迷ったわたしの足は、気付けば図書室へと赴いていた。喧騒と静寂の、相反する二つの空気が正しく溶け合いながら、心地好い人音の調べと豊かな暖熱にわたしは抱かれた。装丁に固いビニールと仰々しいタグの付いた文学を開くと、カムパネルラはわたしに語りかけた。一字一句が冷たい温度となって足元に揺れ、銀河鉄道の窓際からときおり外の様子を眺めては、他人事のように一分一秒を自覚した。その繰り返しをわたしは暇つぶしと呼び、いずれ時計の針が縦一直線に揃う瞬間をただぼんやりと待っていた。
やがて人の立ち去る音があたりを漂い始めた。まるで川底の小さな石が脈絡もなく緩やかな潮流に乗るように、人々の足音に紛れ、流れるままに玄関口に辿り着いたところで、依然止むことのない雨景色にわたしは立ち尽くした。喧騒と静寂。雨風、湿った匂い、沈みゆく空気。延々と続く水滴の壁がわたしだけを否定して、ただ一歩も前には進ませまいと立ちはだかっていた。その無数の視線を、わたしは一つとして自覚することができなかった。そこにあるのは、些細なものの重なりが偶然かたちを成すに至った巨大な現象そのものだけだった。
徒に暗がる空を仰いだところでしようがなかった。買い物バッグを広げ、包み込むように鞄を収めると、それを逆さに抱えてわたしは雨天の中に身を投げた。互いに眺め合うだけだった小さな鏡像が途端にわたしの身体を暴力的に打ち始め、流れては溜まる秋の淀みがばしゃ、ばしゃと跳ねると、一息もつかずわたしの全身を侵していった。視界に映るもの全てが漠然とした輪郭の中で爛れていき、ところどころ不自然な残像を置き去りにしながらよそよそしく移ろっていった。雨粒の一つ一つが細部に至るまで見境なく滲み尽くすと、砂嵐にも似たノイズと沈んだ温度に溶け込み、そのまま少しずつわたしはこの街に消えていった。
やがて詰まる息に思考が揺らぎ始めた。一定のリズムで放物線を描いていた視界が法則性を失い始め、雨に打たれる感覚すら次第に遠ざかっていった。駅まであとどれくらいだろう?そんな簡単な問いにすら、答えを求めるのが億劫になっていた。まるで出口のない暗渠、もしくは惨めな悲劇のカーテンコール。終わったままの舞台に一人だけ取り残されたかのような孤独が、わたしの背中へ手を伸ばしてきた。追いつかれてはならない。ただその一心で、思考の断片を一つずつ雨音の中に置き去りにしながら、わたしはひたすら淀みを踏み続けた。
突然、わたしの左肩を誰かの手が掴んだ。前後すら不覚になりつつあったわたしの意識は、詰まった排水溝から大きな音を立てて水が逆流してくるように途端に覚醒し、わたしはその手を振りほどくように反射的に身体を翻した。そこでかちりと音を立てて時間が止まった。とくん、と一つ血潮が波を打つと、呼応するように雨音が遠のき、わたしの身体がいくつかある現実のうちの一つにぴたりと着地した。
そこにいるのは夏目水季だった。気付けば雨垂れはわたしを避け、綺麗な円形を描いては地面に流れ落ちていた。その円周上で彼は半身を雨に打たれながら、輪郭のくっきりとした表情をほんのりと訝しげに歪ませ、一対の瞳でわたしをまっすぐと見据えていた。
「何してるの?」
そんな純粋な疑問を零すと、彼はずいと円の中に踏み込みわたしに身を寄せる。大きな傘の下に二人収まると、首が痛くなるような距離でわたしたちは呼吸を交わす。彼の昏い瞳は含みを持たずに、ただ無機質で冷たい視線をわたしに落としている。ふと鼓動が一拍湿った音を立てると、心臓のあたりがじわりを熱を持ち始め、止まった時間がゆっくりと動き出していく。
「何をしてるんでしょうね、わたしは」
どこにもたどり着けない嘲笑を一つ見せて、わたしはすとんと肩を下げる。ため息一つ見せたあと、彼は鞄からタオルを取り出すと、放り投げるようにわたしの頭にかけ、大きな手でわしゃ、わしゃと少し乱暴に、布越しのわたしの頭を撫でる。されるがままわたしは視界を揺らす。雨音がうるさいくらい大きくなる。
「……ありがとうございます」
「駅まで送るから、駅に着いたら身体も拭いておきなよ」
「……はい」
それからわたしたちは肩を寄せ合って、雨が降りしきる景色の中を並んで歩み始めた。アスファルトを穿つより大きい音で傘の上の水滴がばたばたと跳ねると、傘の下ではうずくまるような妙な静けさが広がった。その中でわたしは、時間を掛けてゆっくりと鼓動を落ち着かせた。ときおり互いの肩が擦れ合った。華奢で細長い彼の体躯は、一方でがっしりと硬い鉄筋が通っているようで、触れるたびどこか畏れ多いような、まるで他人事のような気持ちをわたしに抱かせた。押し引きの利かない、亡霊にでもなったかのような気分だった。
わたしたちは一言も言葉を交わさなかった。絶え間ない雨音が、わたしたちの代わりに談話を広げているようだった。少しずつ感覚が明晰さを取り戻すと、現実がわたしに重力の在り処を教えるように、次第に濡れた服の重さと身体の冷たさに足取りが悪くなっていった。彼は何も言わずわたしに歩幅を合わせた。ト書きのない行間を読むすべを失い、わたしはただやみくもに視線を落とした。絶え間なく描かれる紋様と揺蕩う逆さまの世界、不揃いのローファー二足。一、二、三、四。一歩一歩を自覚しながら、どこまでも惑う街並みを過ぎていった。
気付けばわたしたちはぎらぎらとした蛍光色のタイルを踏んでいた。普段使っている駅が、この日はまるで別世界への入口のように映った。絶え間なく鳴り続ける足音、どこへ向かうでもないアナウンス。長い映画を観たあと、席を立つ瞬間の淡い立ちくらみのようなめまいが、一瞬だけわたしを襲った。ばさり、と彼が傘に付着した水滴を掃う音が、わたしの世界が焦点を得るための一つの足掛かりになった。足元が正しい重みを確かめると、すっかり閉ざされていた言葉の門が徐に開かれた。
「こんなにびしょ濡れで電車に乗ってもいいんでしょうか……」
「まあ、ちゃんと絞って拭いたら大丈夫なんじゃないかな。最悪僕が壁になるよ」
「わたしを守ってくれるんですか?」
「君から他の乗客を守るんだよ」
駅のホームのベンチでわたしは一息つく。タオルで身体を拭きながらふと、込み上げた寒気にくしゃみをすると、わたしは肩をすぼめてばつの悪い笑みを作る。そんなわたしを彼は黙って見下ろしている。相も変わらず無感情な顔つきに、わたしはどこか安心感のようなものを覚える。あの日を同じだ。もたれかかりたくなるような孤独と孤独。触れることなく寄り添う二人ぼっち。彼は何を思っているのだろうか?駅のホームに二人、わたしたちはまだ取り残されている。
「駅はどこで降りるの?」彼は問う。
「『櫻田』です」わたしは答える。
「それじゃあ家まで送っていくよ。僕も同じ駅だし」
わたしは驚いたふうに彼を見上げる。彼は変わらぬ無表情でわたしを見下ろしている。そこから何も読み取ることはできない。
「……いいんですか?」
「わざわざ傘を買うのももったいないだろ」
「それもありますけど……わたしと相合傘なんて、夏目くんなら絶対嫌がるのに」
「まあ、嫌だけど。さっきまでずっとしてただろ。今更だよ」
彼は淡としてそう答えた。それ以上はわたしも何も言わなかった。回送列車があらゆる音をかき消し、続くアナウンスが遠く響き渡った。それが終わると次は雨の音がいっそう強くなった。いつまでも周波数の合わないラジオ、上映が終わった後の映画館。喧騒と静寂。人の声も鼓動もノイズにかき消された。今なら何を言っても彼には聴こえない気がした。それでもわたしは何も言わなかった。言いたいことなど、初めから何一つとしてなかった。
やがてそのざわつきを上書きするように、各駅停車の列車がわたしたちを迎えに上がった。車内の人影は疎らだった。彼が先に足を踏み入れ、右側のドア口前のスペースに身体を預けた。わたしはその反対側を位置取り、手すりを握って、なるべく身体がどこにも触れないように立った。三歩ほど離れた距離を置いてわたしたちは向かい合っていた。わたしは彼を見た。彼は窓の外を見ていた。揺られては静まり、ときおり人の往来に視線を落として、四度目の停車で『櫻田』の標識を確かめた。ドアが開くと、示し合わせたかのようにわたしたちは並んで降りた。ひたすら無言のまま。
改札を抜けると、大雨が景色を変えずにわたしたちを迎えた。彼は黙って傘を開くと、無表情でわたしを一瞥した。鞄が入ったままの買い物バッグを両腕で抱えて、わたしは彼に身を寄せた。彼が左で、わたしが右。
あっちです、とわたしが左を指差すと、彼は何も言わずに歩き出した。傘から出ないように、わたしはうずくまって彼に続いた。まるで二人、遠くの知らない世界に行ってしまったかのように、過ぎゆく人々の行進がうつろなままにぼやけては消えた。傘の中と、傘の外。アクアリウムを泳ぐ熱帯魚、ときおりそれを眺める人。雨も、街も、今はわたしたちと無関係のふりをしていた。
「夏目くん」ふと、わたしは彼の名前を呼ぶ。
「ん?」彼はゆっくりと文鎮を置くような短い返事をする。
「心って、どこにあると思いますか?」
彼は少し考えてから答える。「脳かな」
「わたしは心臓にあると思います」
「なんでそう思うの?」
「命そのものだからです」
「ずいぶんと単純な答えだ」
「大事なことって、案外大して複雑じゃないんですよ」
「死んでるようなものだ、と言いたげだ」
「ふふ、そうですね」わたしは諧謔を含んで笑う。「ひょっとしたらわたしたちは今、あの世を歩いているのかも」
「そうだな。君は早く寝た方がよさそうだ」
わたしは彼の袖を引っ張って、そこの交差点を右です、と声に出さずに伝えた。それからの会話はよく覚えていない。とある銀河鉄道の話はしたかもしれないし、好きな映画の話をしようとして、一つの返事で終わってしまったような気もする。とりとめのない記憶の一つ一つが雨粒に吸収されて、冷たいアスファルトの上に広がっていた。温度すら曖昧になって、わたしは再び意識を浮遊させた。彼に取り憑く幽霊となって、ふわふわとあたりを漂っていた。ときおりぐるりと世界が一周して、彼以外の全てがかたちを崩していった。その様子をほのかに心地好い夢想の中から眺めていると、気付けばわたしは見慣れたマンションの前に立っていて、広い傘の下には彼だけが取り残されていた。
「なるべく暖かくして寝なよ。タオルは返さなくていいから」
それじゃあまた明日、と言って彼は立ち去った。わたしはその場に立ち尽くしたまま、何も言わずに見送った。甘い朦朧の中で、その後ろ姿をまぶたの裏に隠しながら。




