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0章4節 密やかな旅路、ささやかな巡礼

 気だるげな喧騒が午後の空気を揺らした。教室は疎らに人を減らし、それぞれが少し長めの昼食時間を嗜んでいた。机一つ囲んで共感に励む者、誰よりも遅く課題に没頭する者、窓際の席で一人弁当箱を開く者。僕はガラス窓の向こう側を一瞥した。たなびく朧雲に空は覆われ、灰色とも形容しがたい色に景色を染め上げていた。ほんの少しだけ肌を刺す寒気がまだ少し先の冬を思い出させた。

「あれ、水季?」

 聞き慣れた声が僕の名前を呼び、形式的に僕は一瞥する。まさに育ち盛りの学生に相応しいカロリーの高そうな惣菜パンを片手に、東至真が真っ直ぐ僕を見据えている。すっかり見慣れた午後の景色だ。

「水季、金曜の昼休みは図書室の受付やってなかったっけ?」

「なんで君が僕の受付担当のスケジュールを把握してるんだ」

 彼は僕の机の斜向かいの窓際に腰を掛ける。僕と話すときの彼の定位置だ。彼は決して真横には座らない。それは窓の外を眺めがちな僕の視界を邪魔しないため、ということに最近気が付いた。憎らしいことに、彼はそういった細かい気配りのできる男だった。

「都合が悪かったらしいから今週は月曜日担当の人と入れ替えてるだけだよ」

「ああ、ってことは今日は各務か」

「なんで各務さんの担当スケジュールまで把握してるんだ……」

 僕が箸を進め、彼はパンを頬張る。事務的な作業を挟みながら、僕らはぽつり、ぽつりと会話を繋げる。

「気になってたんだけど、なんで各務さんだけ苗字呼びなんだ?」僕は問う。

「んん?」

「君、他のみんなは下の名前で呼んでるだろ」

「あー……」彼は歯切れ悪く答える。「各務にはなあ、名前呼び禁止令出されちゃったんだよな」

 彼は誤魔化すようにパンにかぶりつく。僕もそれ以上は特に追求せず箸を動かす。少し長い沈黙がとろりと垂れ込み、彼は些細な思索を表情に露出しながら咀嚼を続ける。

「……ま、水季になら別に話してもいいか。各務のこと」脈絡もなく彼は言う。

「なんで僕ならいいんだ」

「だって水季、こういうの別に言いふらしたりしないだろ?」

「必要に駆られれば言うよ」

「必要に駆られることもないだろ、別にさ」

 それもそうだ、と僕は息を零す。こんな世間話をする相手など彼くらいしかいない。

「俺、各務と幼馴染なんだよ。幼稚園の頃から。小中同じになるのはまあまだわかるけど、高校まで被るとは思わなかった。まあ腐れ縁ってやつだよ。それがあいつ、高校生になって環境変えたかったらしくて、俺とは距離を置くようになったんだ。昔のことは話すなって釘刺されてるし、あんま絡むなとも言われてる。馴れ馴れしく名前呼びするのもやめろと」

「そうか」僕は彼の話を咀嚼する。「で、それをなんで僕に話そうと思ったんだ」

「そりゃお前、なんというかこのくすぶる胸の内を誰かと共有したい、みたいな心の機微みたいなやつ、あるだろ」

「そういうものか」

「そういうものだよ」彼は僕の顔を覗き込むように身をかがめ、にやりと笑う。「それに読者モデルやってるような美人と幼馴染って、そりゃあ自慢の一つもしたくなるだろうよ」

「僕に自慢されてもな。読者モデルのことだって初耳だし」

「ああそうかお前、俺が話さないとそういう情報一切入ってこないもんな。あいつ読者モデルやってるんだよ、『PriMA』ってファッション誌で。これはみんな知ってるから言うけど」

「僕の知らない世界だ」

「だろうな」

 少し眉を傾いで笑うと、彼は再び思索的な表情を浮かべる。彼の感情には明確な上限と下限が設けられていて、定められたテリトリーを踏み越えて表出することもなければ、その真意を量ることも難しいが、考え事をしているときに限って言えばわかりやすい人間だった。思えば彼はさんざん他人の噂話に花を咲かせるくせに、自身の浮ついた話は決して持ち込まなかった。人当たりが良くて容姿にも恵まれている東至真自身が、色恋沙汰の渦中から外れているとは思えない。彼には自身の歩むべき未来が随分と先まで視えているようだ。時折すれ違う人たちに会釈一つ返してやることはあっても、決して立ち止まることはしないのだろう。自身に関する出来事など、彼にとっては些事なのかもしれない。

「君は案外、わかりやすいな」僕は思った通りのことを言う。

「ん?今俺のことからかった?」

「事実を言った」

 楽しげな彼の表情が鼻につき、僕は視線を落として白米をつつく。僕が何を言っても、彼は決して嫌な顔をしない。手ひどく否定しても、彼はにやにやと見透かしたような表情を浮かべるだけだ。僕の本心であると同時に本質でない言葉の形式をどこか理解しているように思える。憎らしいほど正しい距離感を常に守っている。

「水季は好きな子とかいないのか?」唐突に彼は言う。

「いるように見えるか?」僕は視線を下げたまま言う。

「見えないから聞いてるんだろ。お前は隠すの上手そうだし」

「隠してると思うなら聞くなよ」

「でも俺は隠し事一つ話したぞ」

 僕は小さくため息をつく。「それは各務さんの隠し事だろ、どちらかと言えば」

「言えてるな」

 惣菜パンの最後の一口を投げ込むと、彼は腰一つで跳躍し、ビニールの包装を手の内で丸める。僕に背を向け、見えない表情で一つ、誰に届くわけでもない言葉を宙に放つ。

「ま、俺はあいつがちょっと心配なだけだよ」


 椅子を引く音、紙をめくる音、足音。奇妙な賑わいが、図書室に広がる不自然な空気感を演じていた。放課後がまだ新鮮さを残している時間帯は人の往来が多く、疎らに話し声も聞こえてくる。静かな場所という機能はいくらか失われているが、僕らは特にそれを咎めることはない。夏が暑く、冬が寒いのと同じで、場所が持つ性質はある程度の規則性の上で絶えず循環している。もう少し待てば、この場所もすっかり静寂の中に腰を下ろしてしまう。

 大抵、僕の行動の一つ一つに理由は伴わない。図書室に足が赴いたのも、何か一つのほんの些細なきっかけがバタフライエフェクトのように作用して僕を動かすに至ったに過ぎない。帰りがけに特徴的なスパイスの香りを感じたから、今日はカレーにしよう。ラッキーカラーが青だから、青線の入った靴下を履こう。彼と話をしたから、彼女の様子でも見てみよう。その程度の心持ちで簡単に塗り替わってしまうほど、僕の持つタスクは常に未確定の状態で列を成している。

「あれ、夏目?」

 僕が図書室に数歩足を踏み入れると、受付に立っている各務優理(かがみゆうり)が僕の存在に気付く。彼女はちょうど本の貸し出しの対応を終えたところで、下ろしかけた腰を何事かと言わんばかりに再び上げて、コップ一杯の真水に驚きと困惑を一滴ずつ垂らしたような微妙な表情を僕に向ける。

 各務優理に関して、僕が知っていることは少ない。

 東至真の幼馴染で、読者モデルをやっている。この情報を今日得るまで、彼女の存在は謎に包まれたままだった。端正な顔立ち、長めのまつ毛、十分に手入れがなされているのであろう健やかな肌。女性にしては高めの身長と、その芯が細くすらっとした体躯と、決して控えめでない胸元が、彼女のシルエットに美しい曲線を描いている。鮮やかなインナーカラーの目立つ深いカーネーション色のウルフカットは、彼女の動きに合わせて陽気なフラメンコを踊る。薄いピンクのネイルはかたちが良く、飾りけがない。ときおり覗かせる耳元の真っ赤なピアスがアクセントになって、彼女という人間の存在感を存分に際立たせている。立ち振る舞い一つ切り取ってみれば確かに、雑誌のページの一つや二つ容易に飾れる雰囲気を、彼女はそのお気に召すままに従えている。

「今日の当番はあたしが入れ替わりで入るって話じゃなかったっけ?」彼女は不思議そうに僕を見て言う。

「合ってるよ。それはさておき、僕もやっておかなきゃいけないことあるから」

 そう、と淡泊な返事一つ残し、彼女は椅子に腰を下ろす。その方便半分を彼女は気に掛けることもなく、手持ち無沙汰の視線を落としてはぱらぱらと文庫本のページをめくる。

「夏目ってさあ、普段何してんの?」唐突に彼女は言う。

「特に何も」

 彼女は訝しげな表情を見せる。「何もってことはないでしょ……部活は?」

「入ってない」

「ふうん」

 僕はファイルを開いてページをめくる。彼女は意味もなく文庫本のページをめくる。互いに紙を滑らせては、しばらく言葉のない会話に花を咲かせる。すきま風のように図書室の人音が僕らの間に入り込むと、この沈黙がいくらか不自然なもののように感じられる。彼女も同じことを思ったのだろうか、脈絡もなく口を開く。

「……ってか何やってんの?」

「だから何も」

「違う違う、今。今やってるそれ」彼女が僕の手元のファイルを指差す。

「文化祭の準備で資料をまとめて借りる部活の確認。あとで蔵書の確認も」

「……図書委員ってそんなこともやんの?」

「まあ、本の貸し出しに関することなら大体」

 一度、彼女は視線を落とす。陽気に跳ねた髪先がきょろきょろとあたりを見渡しながら、着崩したカーディガンの袖から少し顔を覗かせる指先は行き場なく紙の上を右往左往する。絵に描いたように逡巡する様子を、僕は視界の端で見守る。

「……あたしもあとで手伝うよ」彼女は言う。

「急ぎでもないし、忙しいなら無理しなくてもいいけど」

「別に、あたしも帰宅部だから暇な日は暇だし。図書委員の仕事、大体任せっきりだったから。……こういうの、疎かにしたくないの」

「意外と真面目なんだ」

「ちょっと!意外ってなに?意外って」

 彼女は身を乗り出して、不満げな表情を僕に向ける。そこには親しみの色も混ざっている。失言だったかと思ったが、どうやら怒ってはいなさそうだ。一人の生徒が受付に本を持ち込んだのが一つの区切りとなり、彼女が対応しているあいだに、僕はその場を抜けて本棚の方へと歩いていった。


 ふと斜陽が目を焼いて、反射で視線を逸らした。時計の針は四時半を手前にじっと佇んでいた。

 図書の貸出の受付は原則として四時半に終了する。それ以降の対応に義務は発生しない。この時間になると図書室はもっぱら、イヤホンに耳を閉ざした三年生たちが大学受験に向けた自習に励む空間になった。その法則が突然変わるわけでもなく、今日も参考書を睨む生徒たちの鳴らす音だけが図書室の空気を揺らしていた。

 僕が図書委員を選んだ理由は特になかった。必ずどれか一つは委員会に入る義務があったため、文章と接する機会が多いであろう図書委員を選んだに過ぎなかった。特筆して不都合はないが、結果的に言えば小説を読む上で何か利点を得られたということもなかった。もっとも、どの委員会を選んでも目立ったメリットが得られるわけではない。むしろ何ら不都合もなく、目立った活動をするわけでもない図書委員は、僕にとってみれば天職とも言える選択に違いなかった。この半年の活動を通じて僕はそう確信していた。

 本棚の整列を抜け出そうとした僕の左手の裾を誰かが引っ張った。反射的に僕は振り向いた。そこには見覚えのある女子生徒が立っていた。その黒いショートヘアを揺らして、強気なつり目で僕を見据えていた。

 クラスメートの一人、柚原要(ゆずはらかなめ)。各務優理の親友であり、各務優理に勝るとも劣らぬスタイルの良さと、泣きぼくろを携えたきつめの視線に魅了される男子も少なくない、という東至真の主観的評価だけはよく憶えていた。彼の話の大半はすきま風のごとく耳をすり抜けるような色恋沙汰ばかりで、彼女の詳しい人柄はよく知らなかった。ただ実際に対峙してみると、彼女についてわかることは少なくなかった。彼女の表情は一筋縄ではいかない圧を湛えていて、簡単には踏み込ませまいとする心の固さを感じさせた。その佇まいが、鉄骨を深く差し込んだような強固な芯を持つ自我を主張していて、それはきつさというより、どちらかと言えば揺るぎない自己に起因する、がっしりとした信頼を携えていた。常態的な彼女の意思は、少なくともナイフのように冷たく尖った危ういものではないことは、その視線で深く理解することができた。多くの点において彼女は実直に見えた。

「優理、上級生に絡まれてる」

 彼女はその口元に立てた人差し指をそのまま受付の方に向け、特徴的な低めの声を抑えながら僕に言う。棚の陰からその方向に目を向けると、一人の男子生徒が受付カウンターを挟んで各務優理を前に談笑している様子が映る。上級生かどうかは一目では判別できないが、そこにいる目的が本を借りるためでないことだけはわかる。ただここからでは各務優理の表情もよく見えず、「絡まれてる」という状況の説得力を感じられない。

「わかった。邪魔しないようにする」

 そのままこの場を抜け出そうとする僕の腕を、彼女はぐいと引っ張る。

「助けてやってって言ってんのよ!どう見ても優理困ってるでしょ」

「なんで僕が」

「こういう手合いは男チラつかせた方が断然効果あんの」

「誰のためにもならないんじゃないかな、それ」

「いいから行ってきて。ジュース奢ってあげるから」

 有無を言わさぬ強いまなざしが眉間を貫き、僕はため息一つ零す。まあ、と僕は心の中で副詞を挟む。各務優理はまだ図書委員としての業務中で、その業務の妨げになっているとしたら、そもそも本の貸し出し以外の目的で受付を占拠しているのだとしたら、それは図書委員として注意すべき事案ではあるだろう。まあ、そういうことにしておこう、と僕は心の中で、誰に届くわけでもない言い訳を垂れる。

 わかったよ、と柚原要に言い残すと、僕は重い足取りで受付に近付いていく。次第にその状況が解像度を上げていく。各務優理は視線を遊泳させながら、行き場のない指先を絡ませては上の空を仰いで、ときおり心にもない愛想笑いを浮かべている。非常にわかりやすく困惑している。それは絵に描いたように露骨に居心地の悪さを示していて、誰だってこの表情を見れば様子がおかしいことを察するだろう。しかし彼女の目の前にいる人間は、それを気にかける様子もない。恐らく彼にとって、各務優理の気持ちなどどうでもいいのだろう。それは僕にだってどうでもいい。ただ客観的に見れば、それは愉快な光景とも言えないのだろう。

「あ、夏目……」

 僕の存在に気が付くと彼女は張り付いた笑顔を少しほぐし、縋るような視線を送る。僕はわざとらしく首を傾いでは目を逸らして、ファイルの適当なページを開いて彼女に歩み寄る。

「各務さん、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど」

 僕が彼女に話しかけると、件の上級生が割り込むようにすかさず間に入る。「それさ、今じゃなきゃダメ?優理ちゃん今オレと話してんだけど」

 彼は輝くばかりの陽気を放ちながら、整った目元で気持ちばかり挑戦的な色を見せて僕を睨む。目立って飾りけもなく、表情にはいくらか自信を表出していながら、一見すれば嫌味ったらしさは感じられない。モテるんだろうな、と僕は思う。

「すいません、ちょっと急ぎで。今日の受付ももう終わるので、用があるなら明日以降で」僕は言う。

「受付終わるなら仕事も終わりっしょ?もう一緒に帰ろうよ、優理ちゃん」

「先生に頼まれた仕事なので、ちゃんとした理由じゃないと」

 「先生」という単語に眉をぴくりと歪ませ、彼は不機嫌そうに顔を逸らす。君の番だぞ、と言わんばかりに僕が各務優理に目配せすると、彼女ははっとした表情を見せ、慌てて口を開く。

「……えっと、ごめんなさい、あたし、まだちょっと仕事しないと。今日はちょっと遅くなりそうね。ね、夏目!」

 早くやっちゃわないと、とわざとらしく声を弾ませ、彼女は強引に僕の腕を掴むと、その手を引いてずかずかと歩き出す。僕はされるがまま彼女の後ろをついていく。無茶なくらい広い歩幅で、ただの一度も振り返ることなく、そのまま逃げるように本棚の陰に入る。暗がる足元に奇妙な静寂が広がり、歴史に囲まれた僕らは徐に向かい合う。僕は彼女の言葉を待つ。彼女はゆっくりと胸を上下させ、その手を離さないまま、茜差す頬が僕の顔に向いては俯く。大げさな息遣いと遠く静かな喧噪が耳元をくすぐる。やがてその口が恐る恐る開くと、ほのかに震える声で彼女は何かを言おうとする。

「夏目くん、ナイス!」

 陽気な声がそれを遮る。僕の視界の先の本棚の陰から柚原要がひょこ、と顔を出して親指を立てる。各務優理はその声に呼応するようにびくりと肩を揺らし、まるでふいに熱いものを触ってしまったかのように反射的に僕の腕を放り投げる。カーネーション色の髪をふわりと浮かせては瞬くように振り返ると、彼女はその顔を見て上ずった声を上げる。

「か、要!?」

「困ってる優理を見かねて、アタシが夏目くんを派遣したのよ!」

「そ、そうなの?」

 目を丸くして向き直る各務優理に僕は逸らした視線とため息一つで応え、彼女はそれを肯定と受け取る。はあ、と胸を撫で、全身の力を足元から垂れ流すように各務優理は本棚にもたれかかる。張り詰めた空気がどろりと溶けて地面に広がっていくようだ。

「まあ、そっか。夏目って進んでこんなことする感じじゃないもんね」各務優理は言う。

「失礼だな」

「ごめんごめん、ありがと、夏目」

 僕をなだめるように彼女は眉を曲げて微笑んだ。その表情は、普段より少しだけ深いところにある世界の風景を映し出しているように見えた。


 僕らは件の上級生がいなくなるのを見計らってから受付へと戻った。「まだ玄関口で待ち伏せされてるかもしれないから様子を見てくる」と言って柚原要は先に図書室をあとにしていた。時針が五時を回る前、パソコンと向き合っていた各務優理がふと身体を反らせたのを業務終了の合図とした。どうやら機械に若干弱いらしい彼女に、貸出記録の整理作業のノウハウだけ共有して、相変わらず僕は手持ち無沙汰に野暮用と向き合っていた。図書室の人の数は目立って増えることもなければ減ることもなく、僕らは大いなる歯車のごく一部、たかだか数十分という一瞬を漠然とやり過ごしていた。

「いつもはもっと時間掛かってたのに、お陰様で早く終わったわ。ありがと夏目」

「今日は貸出も少なかったから」

 彼女は肩をすぼめる。「誰かさんのせいでね。はあ、疲れた。三十分もつまらない話聞かされるなんて」

「大変だね」

「夏目はそういうことないの?あんたって、その」彼女は少し言葉を切る。「……よく見たら顔もいいし、告られることも多そうなもんだけど」

「君がそう思うのなら、僕の顔を見る物好きが少ないってことじゃないかな」

 彼女は苦笑いをする。「妙に納得できる客観的評価ね……」

 他愛のない会話の果てに、いっときの沈黙が訪れる。彼女はゆっくりとしたリズムで、スカートの上から音を立てずに太ももを叩いている。彼女の中では、ラジオのジングルが流れている最中なのかもしれない。

「夏目ってさ、別にみんなが思うほど怖い人じゃないんだね」彼女は言う。

「僕は怖いと思われてるのか」

「話題に出しづらい感じはあるよ。なんというか、他人を寄せ付けないオーラはめっちゃ出してるよね。実際避けてるでしょ?」

「避けてるかもね」

「なんで避けてるの?」

「わざわざ接する必要がないから」

 彼女は少し考える。「あたしとも?」

「君はずいぶん、ずかずかと踏み込んでくるタイプだ」

「押しに弱い、ってことね」

 彼女が笑みを零すと、そこで一度滞留していた言葉が霧散する。紙を擦る音が遠く、なおも大きく耳を撫でる。波打ち際の一幕を瞬き、少しだけ目の前の景色に想像する。半分隠れた月、さらりと砂を撫でる濁った海水、足跡を消しては咄嗟に渇く、その瞬き。

 ふと、波打ち際の片隅が、月に照らされて黄金色に輝く。否が応でも意識せざるを得ない瞬きに、僕らは予定調和のように視線を向ける。亜麻色の清流が揺らめいて、受付の前に足を止める。

「ごめんなさい、まだ本の貸し出しってできますか?」

 穏やかな声色がしんと空気を揺らす。静寂を象徴しながら、染衣雪野が書籍一冊を添えてそこに立っている。それが平穏極まりない風景ならば、彼女がぽつねんと立っているだけで一枚の絵画にできるのだろう。人の多いところではいっそう、彼女の特異性は際立って見える。ただ眺めるだけなら豊かな立ち振る舞いは、その実まるで遠い世界のとりとめのない映像のようにも見える。その奇妙な距離感に惑い、少しの間沈黙が流れる。

「あ……ごめん、受付、もう終わってるから」

 各務優理が歯切れ悪く視線を逸らすと、陽の入りかけの空気が少しだけ重く沈み込む。ほのかに間の悪い沈黙一つ挟んで、そうですか、と眉だけ下げて染衣雪野は立ち去ろうとする。ちょっと待って、と僕はそれを制止する。

「いいよ別に。さっきまで受付できない状態だったから」

「いいんですか?」染衣雪野はきょとんとした表情を見せる。

「わざわざもう一回来るのも手間だろ」

 僕はそう言うと本を受け取り、バーコードの読み取り機を短く鳴らして、貸出台帳に名前を記入させてから本を渡す。一連の動作を手早く事務的にこなす。

「返却期限は一週間だから」僕は言う。

「はい、ありがとうございます」

 丁寧にも軽い会釈一つ挟み込んで、染衣雪野は僕に微笑みかける。僕は無表情を返す。夢か幻か、蜃気楼に紛れるように立ち去る後ろ姿を二人で眺めながら、その重苦しい空気をともに飲み込む。各務優理は終始、居心地の悪そうな沈黙に耽っていた。

「僕も苦手だ」誰に投げかけるわけでもなく僕は言葉を漏らす。

「いや、あたしは、別に……」

 はあ、と彼女は大きく息を吐くと、行き詰った重い倦怠がどろりと零れ出す。彼女の態度はとてもわかりやすい。柔らかい薄紙のように、口先一つで息を吹けば表に裏にぺらぺらとなびいてしまう。途端に宙を舞い、不規則な動きで彼方へ飛んで行ってしまう危うさもある。今もまだふわふわと、地面に付くか付かないかの高さで彷徨している。僕が黙ってその様子を眺めていると、やがて彼女は不自然に強くのしかかる重力に逆らうように、その身体をゆっくりと持ち上げる。

「あたし、そろそろ帰るね。要からも連絡来たし」

「ああ」

 それじゃあまた明日、と各務優理だけがそう言った。煮え切らない笑顔だけ残したまま。

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