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0章3節 とても空虚で底が浅いものごとの一つ

「そうは言ったけど、その考えは改めた方がいいと思う」

 午前七時を少し過ぎた頃。登校するにはまだ早い時間帯で、学校へと続く河川敷の人影は疎らだった。二つ並んだ影は、僕らの足元以外には見当たらなかった。夏目水季と染衣雪野。めまいに襲われるほど異様な光景だった。

「どの考えを、ですか?」

 彼女はわざとらしく首を傾げる。僕は彼女と少しだけ距離を空けて言う。

「変な噂が立つってこと。君はもう少し自分の影響力を顧みた方がいい」

「……冷静になって考えてみたんですけど」彼女は考え込むしぐさをする。「わたしと夏目くんが噂されて何か不都合があるんでしょうか?」

「あるだろ。勘違いするなよ、君にじゃなくて僕にだ。君がどう思うかは知らない」

 彼女はむっとした表情を作ってみせる。「……その物言いは少しひどくないですか?」

「君と違って、僕はなるべく目立たないようにしてきたから」

「ふうん」

 あからさまに納得していないような生返事一つ差し込んで、染衣雪野はまるでバレエの稽古のように、もしくは走り幅跳びの助走のように、ぴょんと跳ねて三歩前に足を踏み出す。スカートが規則正しく波打って、綺麗な流線を描いてはすとんと落ちる。コマ割りすればいくつかは絵画に映えそうな所作を、僕は見て見ぬふりをする。

「夏目くんはたまたま染衣雪野に出くわしたけど、追い抜くにも追い抜けず、微妙な距離感を保ちながらその背中を追うしかなかった――これでいいですか?」

「まあありがちではあるけど」

 それ以上僕は何も言わない。その沈黙を、彼女も肯定と認める。

「ところで夏目くん、随分と早い登校ですけど……いつもこんな時間に?」

「図書委員の雑用だよ。貸出記録の確認は朝にやった方が都合がいいから」

「夏目くん、図書委員だったんですか?意外ですね」

「僕がやってて意外じゃない委員会がある?」

「まあ、確かに無いですね」

 空虚な言葉の応酬に、彼女はくすっと花を添える。別に僕の前では笑わなくてもいい、そう言いかけてやめる。僕は決して彼女の特別ではない。

「よく本を読むんですか?」

「最近は暇があれば」

「何か面白い本はありますか?」

「その質問に意味はある?」

 彼女はふらりと笑う。「無いですよ。意味があるかどうかなんて今更です。それに……別にわたしたちでなくても、意味のある会話の方が少ないと思いますよ」

「そういうものか」

「そういうものです」

 ふと頬を撫でた風が用意していた言葉まで運んでしまったかように、僕らの間に乾いた沈黙が訪れる。ホワイトノイズにも似た川のせせらぎに混ざって、ときおりアスファルトを踏みしめる硬い革靴の足音が意識の隙間に入り込む。僕はただゆっくりと歩数を数えながら、歩幅を狭めてぼやけた影を追いかける。視線がときおり彼女を捉える。サイン波を描いては揺れる髪、見えない表情一つ。僕らは再び他人になる。それから一言も交わすことなく二つの影は微妙な距離を保ち続け、校舎の玄関口で再び顔を合わせることになるまで、いっそう意味のない時間を嗜んだ。

 僕らは並んで上靴に履き替える。早朝の校内はまだ人の気配が希薄だ。だからだろうか、焦がれるような朝陽と薄暗い校舎の暗がりの境界線上に佇む染衣雪野の存在が、やけに際立って僕の視界の端に映っている。今まであったはずの同じ状況を、僕はもう思い出せない。そもそも彼女はなぜこんなに早く登校しているのだろうか?その疑問は言葉になる前に形を失う。必要以上の関わりを僕は避ける。どうあれ彼女の周りは、否応なしに人目を引いてしまう。光に合わせて影のかたちは変わるが、影は自らの意思でかたちを変えることはできないのだ。

「……ねえ夏目くん」上靴を履き終えた彼女が徐に口を開く。「図書室、一緒に行ってもいいですか?」

 僕はその提案の意図を探る。探ってみて、探るまでもないことに気付く。彼女は僕のことを知ろうとしている。その上で、ギリギリのラインまで歩み寄ろうとしているだけなのだ。僕の領域と彼女の領域が互いに押し合いながら、そのかたちの安定するところを常に模索している。化学反応の過程を見守っているようだ、と僕は思う。

「いいよ、別に。でも教室にバッグ置くなりして、あとから来て」

 それが今の僕に提示できる限界だった。


 書籍の電子化が進む中で、本の手触りや匂いを嗜むという人もいるらしい。僕に趣というものの味を確かめることはできないが、図書室に足を踏み入れた途端に姿を現す厳粛な空気感、妙な静寂、すすけた紙の匂い、そういった物質的な要素が安らぎをもたらすという感覚を理解できないわけではなかった。しかし図書室の方がいつだって僕を快く受け入れるとは限らなかった。とりわけ人のいない図書室は、見知らぬ他人と狭い密室で二人きりにさせられたかような、ひどくきまりの悪い沈黙を足元に漂わせていた。

 受付カウンターの椅子に座ってパソコンを起動すると、ずらりと区分けされた活字の羅列が映し出された。僕は一項目を上から順に照合し始めた。不規則に鳴り響くクリック音がしばらく続くと、とん、とんと整然とした足音が図書室に近づき、跳ねる亜麻色の髪を視界の隅に捉えた。一歩足を踏み入れ、暗い図書室の温度をよく確かめるように、髪を揺らしてあたりを見回していた。彼女もまた、この広い空間に拒まれているように見えた。

 染衣雪野は真後ろから近付くと、僕の視界に滑り込む姿勢でパソコンの画面を覗き込んだ。水源に近いところを流れる清流のようなさらりとした彼女の髪が、僕の腕を滑らかに撫でた。すみませんと一言、垂れた髪を耳に掛けると、彼女の横顔が間近に映った。まだ誰も足を踏み入れていない新雪のようなきめ細やかな肌に、ほんのりとした茜色を密やかに差していた。暗い図書室の中でもぼんやりとした輝きがあって、まるで生命の温度をつまびらかに形容しているようだった。そこには豊富な神秘性すらあった。その表面上をなぞるだけなら、多くの人間が魅了される理由を嫌でも理解してしまうほど、彼女はどうしようもなく美少女なのだろう。しかしやはり、僕にはこの景色を叙事的に描写する他なかった。

「これは今、何してるんですか?」彼女が僕を見て言う。

「貸出記録の確認。まずは昨日時点で延滞してる記録を探す」

「はい」

「延滞してるやつが見つかったら、まずは本当に本が返されていないか直接棚を見て確認。記録漏れの可能性もあるから」

 彼女は無言のままうなずく。

「で、まだ返されてないのを確認したら延滞リストに追加。二日延滞で委員が直接本人に確認を取りに行って、それでも返さず一週間以上延滞したら校内放送で呼び出しになる」

「今日の分の延滞はありましたか?」

「一件だけ」

 そう言うと僕は立ち上がり、本棚の方へと歩みを進める。当たり前のように彼女もついてくる。柔らかな足音が二つ床を鳴らす。図書室は相変わらず、僕らの存在を否定するように静まり返っている。

「毎朝夏目くんがこれをやってるんですか?」

「ああ。特に担当が決まってるわけじゃないけど、まあ暇だからね」

 生活、科学、生物。ジャンルを区別する標識を『純文学』で左に曲がり、その少し奥で留まる。

「本の場所、全部覚えているんですか?」

「まさか。本のジャンルだけ見て、あとは五十音順で探すだけ」

 か行から整然と羅列された本の背を指でなぞると、無機質な装丁と他人事のようなタイトル、冷たくなった著者名が僕を見下す。もうここにはない想いが恣意的に並ばされ、暗く静かな図書室の隅でその時を待っている。僕は順序の間違えた本を一冊抜き出し、軽くほこりを払ってから、正しい位置に置き直す。

 視界の端でふと、宝石のように煌めく瞳が静かに僕を覗き込むのを確かめる。それは次の瞬間には蜃気楼のように消えている。かすかな衣擦れの音、仄かな甘い香り、息遣い。早朝の図書室では、全ての気配が生まれたままの姿で空気中を伝わる。小さな生命の断片の一つ一つをかき集めて、僕は彼女の存在を認識する。

「夏目くん」「……夏目くん」

 続く言葉を待った僕を、同じ音で彼女は繰り返し、細い指で僕の肩にそっと触れる。恐る恐る、実直に。それは温かいようで冷たく、柔らかいようで硬い。相反する多くのものが、指先でせめぎ合っている。徐に振り返ると、影を踏むばかりの距離で彼女が僕を見上げている。意味を示さない表情、予定調和のような静寂。その綺麗な瞳の奥には何も映っていない。ふと彼女が僕のネクタイを引っ張る。強くも優しく、落葉が水面を揺蕩うようにただ自然と、茜色の肌が僕に迫る。

 そして僕らはゆっくりと唇を重ねる。柔らかな感触が、僕の口元を温かに潤す。かすかに触れた胸元が鼓動を共有する。甘美なリズム、生命の秘奥。その足並みが揃うことはなく、ただ他人事のように互いの命の残り時間を数えている。とくん、とくんと、染衣雪野が静かに生きている。少し高めの体温と、ほのかな甘い香りが直に伝わってくる。耽るようなしじまと、形而下の接触をひたすらに関わりと表す無機質な空間の中に溺れ、僕は身動き一つとれなくなる。止まった世界にはりつけにされて、かたちのない空気の檻に閉じ込められる。彼女の閉じたまぶたがただ静かに僕の少し向こうを見据え、その長いまつ毛が触れそうな距離を佇む、永遠か刹那かもわからない時間に僕らは二人息を止める。生と死が向かい合って佇んでいる。斜陽がじっと僕らを焦がし、その温度だけが二人を観測している。

 どれくらい時間が経ったのだろうか?やがてまた時が息を吹き返し、すう、と彼女は空気を飲み込む。持ち上げた彼女のかかとが床に触れると、握った手を離して一歩足を引く。華奢な指先が薄桃色の唇を静かに撫で、その口元から淡として空っぽな言葉を零す。

「……やっぱり、何も感じませんね」

 彼女は少し目を逸らす。艶やかな頬色は相も変わらず、ただ秋の朝陽だけを映している。

「……なんというか」僕は言葉を選ぼうと試みる。「君は向こう見ずの馬鹿だ」

 むっとした表情でただ一言、朴念仁と単語を漏らした彼女に、僕は傾いだ首元で返事をした。午前七時、その半分を少し過ぎた頃。恐らく耽美な無感動を、僕らはともに享受した。

 『こころ』はどうやら、まだ返却されていないらしい。

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