表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/27

0章2節 わたしが見たもの

「君にはわたしがどう見えますか?」

 それが夏目水季に関しての、わたしの最初の記憶。

「夏目水季くん」

 陽が落ちる頃の河川敷。圧し潰されそうな胸の痛みを取り繕って彼の名前を呼んだ。振り向けばまず目に映るのは、表情と言うにはいささか固すぎる人形のような顔。漆塗りの昏く沈んだその瞳は、わたしを見ているようでその実、決して何も見てはいなかった。

「君にはわたしが――どう見えていますか?」

 眉一つ動かさず彼は答えた。

「灰色の人間」


 わたしが主人公の物語があるなら、それはひどく不愉快なものになるだろう。

 物心ついた頃からぼんやりと心に広がる虚無を自覚していた。小さい頃はまだそのことに疑問を持ってはいなかった。人並みにいた友達と人並みに遊ぶ、ただ普通の子供。何も満たされない一日を取り繕う、茶番劇のような毎日を過ごすことが人の正しい生き方で、誰もが同じ想いを抱いていると思っていた。一つ舞台の上で、あらかじめ定められた役割を、みな避けようもなく台本通りに演じるものだと。

 中学生になり、思春期という青臭くも甘たるい空気に包まれながら、いつしかそれが普通でないことに気が付いた。周りが変化していくのを肌で感じ取れた。灯り一つ存在しない真っ暗な舞台に一人取り残されたかのような、そんな強烈な疎外感に襲われた。役者も観客も、元から誰一人としてそこにはいなかった。巧妙に作られた立体映像と稚拙な演目を繰り返しているだけだった。その質量のない幻影すらも、今やどこかへ消え失せてしまっていた。

 それでも迎合して人並みを演じ続けたわたしは、高校生になってもなお、わたしの知らないわたしであり続けた。何かに動かされる心の在り方をわたしはとにかく知りたかった。そのために他人が必要だった。他人を繋ぎとめるためのあらゆる努力を惜しまなかった。幸運なことに生まれ持って得た容姿はどうやら多くの人間にとって魅力的に映るらしく、それをありがたく思わない日はなかった。注目を一身に受けながら『染衣雪野』の名を他人の心に刻み続け、わたしは嫌な顔一つ見せず多様な想いを受け止めた。憧憬、羨望、嫉妬。他人から向けられるあらゆる感情を、わたしは形だけで認識した。それらがどういう文脈を持つのか、言葉だけで理解した。決して触れられないものに手を伸ばし続けた。誰かが揶揄した『完全無欠の美少女』。流れ着いた先に待っていたのは、そんなつまらない空っぽの『わたし』だけだった。

 彼の存在に気が付いたのはほんのつい最近だった。きっかけも脈絡もなく、ただ偶然、夏目水季と目が合った。深海に沈むような黒い瞳がわたしを見た。見ているようで、見ていなかった。ただ視線がそこにあるだけ。何の感情も介在せず、彼の視界にはただ意味もなくわたしが立っている。それがなんとも心地好かった。彼が視線を空に戻すまで、わたしは一歩も動けなかった。彼に興味を抱くことはなかったが、その理由だけは知りたくなった。


「君にはわたしが、どう見えていますか?」

「灰色の人間」

 わたしを一切見ない彼はその実、わたしの本質を一目で見抜いていた。誰も気付かなかった胸の穴を、彼だけが見透かした。癖で緩んだ頬を隠すためにわたしは俯いた。

「女の子にかける言葉じゃないですよね、それ」

「どうだろう。可愛い女の子とでも言えばよかったのかな、今のは」

「本当にそう思っているんですか?」

「そうらしい、としか」

 本当に歯に衣着せないんですね、とわたしは笑った。ぽつりと零れた声が聴こえるか聴こえないかの境界線、それがわたしたちの距離だった。

「上手くやれていると思うよ」

 ふわふわと言葉たちが空を泳ぐ中、彼は脈絡もなくそう言った。その言葉の深いところに、隠された意味があるような気がしてならなかった。永遠にも近い数秒を、わたしたちは視線でやりとりした。しかしその答えはついに見つからなかった。

「……今からすごく適当なこと言うけど」彼はそう注釈を添えて、多分すごく、大切なことを言った。「君はそのままでいいと思う」


 その言葉がわたしに焼きついた。それは研ぎたてのナイフのようでもあり、取り返しのつかない傷痕をわたしの心に残した。そこに痛みはなかった。ただ息もままならないほど胸を締め付ける感覚だけがわたしを苛み、事あるごとに難解ななぞかけを一段一段に刻んだ冷たい螺旋階段へとわたしをいざなった。重い足取りの思考が足元もおぼつかないままゆらゆらと彷徨しては、零れ落ちた何かが赤々と煌めいてわたしをあるべき場所へと導いていた。そこは恐らく出口であり、入口でもある。延々と続く抽象的な景色、顔のない人々、とりとめのない記憶。朦朧としながらぼやけた視界を揺らすと、次の瞬間には耳なじみのない比喩が別の意図を持ち始めていた。意味のあるものとないものとが複雑に混ざり合っていた。そんな白昼夢の中でひたすら、わたしはその言葉の意味を渇望した。


 十月六日、金曜日、午前七時の河川敷。偶然、夏目水季を見かけた。その後ろ姿がひどく特別なもののように思えた。出口、もしくは入口。彼がどれだけわたしを否定しようとも、その背中に手を伸ばさずにはいられなかった。乾いた血管に真新しい血液が巡り、全身で活き活きと朝陽の照らす景色を描写し始めると、わたしたちが出会う直前、その最後にもう一度、彼の言葉が心臓で反響した。君はそのままでいいと思う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ