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1章1節 また明日も

「水季くん」

 クラシック音楽にも似た静謐なアンビエントが、まるで遠くの世界からはるばる渡ってきた残響のように漫然と鼓膜を揺さぶっていた。十二月二十九日、金曜日。ロングスカートの中でブーツのかかとを控えめに鳴らしながら、彼女は僕の名を呼んだ。なるべく声を抑えて、僕の耳にだけ届くように。

「今日はどうしてここに?」

 僕らは今日、都内のこじんまりとした美術館に来ていた。僕らの住む櫻田から電車を一本乗り、駅から十数分ほど歩いた先、小高い丘の上の静まり返った場所にぽつねんとその美術館は建っていた。敷地は広々としていて、その飾りけのない外観で、芸術を世に広めるという本質的な役割を淡々とこなしていた。日々決まったノルマで怠りなく納品する名の知れない陶芸家のように。

「芸術について、少し興味が湧いてきたんだ。直接触れれば、何か気付くことがあるかもしれないと思って」

「それはいいことですね」彼女は嫋やかに微笑む。「でも展示されてる絵に触っちゃだめですよ」

「……それは想定外の返しだな」

 冗談ですよ、と彼女は笑う。それから少し間を置いて言う。

「これから一緒に……好きなこと、増やしていきましょうね」

「そうだな」

 僕らの足音はどこまでも不揃いだった。それは僕らが、今まさに違う道を歩んでいるという確かな証左だった。僕らはこれから、違う景色を見て、違うものを好きになって、違うところを目指していくのだろう。ひょっとしたらその道程で、身体までもはなればなれになってしまうことだってあるかもしれない。未来はいつだって不確定だ。ただ不確定であることが何よりも大切なんだ、と僕は思う。

「でも初デートが美術館というのは……勤勉な水季くんらしいといえばらしいですけど、ちょっと大人っぽ過ぎるというか……なんだか逆にドキドキしちゃいます」彼女は言う。

「……デートか。正直、そんなつもりはなかった。たまたま今日の予定を君に話したら、君が一緒に行きたいと言った、ってだけだから」

「じゃあ今日はノーカウントで、初デートは後日改めて?」

「……いや」僕は少し考える。「ハードルが上がるのも考え物だな。それに君を連れ立って、デートじゃない、って言い張るのも変な話だ」

 彼女は密やかに笑う。「じゃあ今日が初デートですね。どこにでも連れて行ってください。水季くんと一緒なら……どこにだって行けますから」

 僕は彼女を見下ろす。その視線に気付いて、彼女も僕を見上げる。澄んだガーネットの視線が僕の瞳を通過して、より深い部分へと向かっていく。そこから何かを見つけ出そうとしている。僕の中に、彼女だけが知っている秘密の場所があるみたいに。

「ねえ、水季くん」彼女は呼ぶ。

「なに?」僕は応える。

「……呼んでみただけです」

 彼女はくすくすと笑う。とても楽しげに。


 それから僕らは絵画の展示を周遊した。この小さな美術館に誰もが知っているような有名なものは当然なく、名前の知らない作家の、聞いたことのないタイトルの絵ばかりが仰々しく間を置いて並んでいた。僕の造詣が浅いから知らないだけで、実際には著名なものばかりなのだろう。知らないものは、これから知っていけばいい。

 ときおり絵画の向こう側に、筆が置かれる瞬間の情景が思い起こされた。乾いた絵具の微妙な凹凸が、得も言われぬ現実感を醸し出していた。それが僕を不思議な気持ちにさせた。簡素な額縁に飾られた絵がまるで、遠い過去に繋がる扉の役割を果たしているように思えた。その鍵の掛かった扉を開くことは叶わないが、耳を澄ましてみれば、市街の喧騒、川のせせらぎ、雨と風のデュエット、もしくは苦悩の息遣いがありありと聴こえてくるようだった。

 ふと、彼女が楽しめているかどうかが気になった。僕の予定に彼女がついてきたかたちとは言え、僕が隣にいて彼女が退屈と感じる状況を、僕は許せなかった。すっかり恋をしてしまっているな、と改めて思った。未確定の感情が渦巻く中で、彼女に対する恋心だけは揺るぎないかたちを持ち始めていた。そのシルエットが明瞭になればなるほど、僕はその感情との向き合い方がわからなくなっていた。彼女という存在は、僕の心の自然な風向きを複雑に曲げていた。その行先は、彼女との付き合いの中で見定めていくしかないのだろう。

 一声掛けようと振り向くと、彼女は一枚の絵画に釘付けになっていた。僕は無言のまま、彼女に並んでその絵を見た。背の高いひまわり畑を背に、少女がその場を立ち去ろうとしている瞬間がモノクロのタッチで描かれていた。『ひまわり畑』という昭然たるタイトルが付けられていた。

「灰色のパレット」ふと、彼女はそう言う。

「よく憶えてるね」

「水季くんの大切な言葉は、一つだって忘れることはできませんから」

「まるで意味のないものだったとしても?」

「それがわたしにとって大切なものなら」

 僕は彼女に贈った言葉を、一つ一つ順番に、記憶の糸を手繰りながら思い出してみる。取るに足らないものばかりなのに、なぜか強く鮮明に思い出される。言葉を通して、僕はあらゆる時間にタイムスリップする。その終点には、煌びやかな斜陽に照らし出された彼女が立っている。

「君はそのままでいいと思う」

 僕はその景色を再現する。彼女は驚いたふうに顔を上げて、蛍光を取り込んだ一対のガーネットを僕に向ける。

「僕はそのときから君に恋をしてたんだろうな。今思えば……僕が好きになった君に、どうか変わってほしくない、っていうエゴだったんだ」

 僕は彼女を見下ろす。確かな一点で、僕らは視線を交わす。

「あの言葉だけは撤回しよう。変わっていく君を否定したくはないから」

 彼女はその言葉を聞いてから、ゆっくりと笑みを浮かべる。隙間のない、生まれたての感情が表出する。密やかに、嫋やかに、愛おしく。温かく、柔らかく、繊細に。

「わたしもですよ。水季くん」

 僕は再び、そのモノクロの絵画に目を向ける。灰色の景色の中で、確かな陽光の温度を感じる。煤けた夏の匂いがあり、古ぼけた風の囁きがある。ひまわり畑から去っていく少女がどこへ向かっているのかはわからない。それでも確かに、彼女は次の場所を目指して歩んでいる。僕には見えない景色を、その瞳の中に収めながら。


 僕らが主人公の物語があるなら、それはひどく不恰好で、他愛のないものになるだろう。それならそれでいい、と僕は思う。


 まるで灰色のパレットのような、染衣雪野に関して。

 僕らのこれからに、そうタイトルを付けた。僕の左手が、彼女の右手に触れた。

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