0章24節 僕と君、星々、灰色の光
彼女は笑った。
その笑顔の向こう側には何もない空間が広がっていた。そこはひび割れた荒野でもなければ、無限の静寂が続く海底でもない。コンクリートを四角くくり抜いただけの、出口も入口もない無機質な部屋だ。そこでは何も生まれない。変化も訪れない。だからこそ、ものごとの終着点には相応しい場所だった。
彼女はそうやって笑った。
だから僕は手を握った。その手を、今ここで握らなければ、彼女はどこまででも遠くへ歩き去ってしまうように思えた。そのままもう二度と会えないような気さえした。僕は彼女の手を握った、ほとんど反射的に。彼女と同時に、僕も混乱していた。心と身体の歩幅がずれていた。しかし僕の頭は驚くほどすんなりと冷淡になった。いつだって起こるかもしれなかった現象が、たった今起きた、ただそれだけだった。僕は言いたいことをその手に込めた。染衣雪野さん。そこで終わりだと言うのならそれで構わない。それなら僕だって、今ここで終わらせよう。その先がどうなろうとも。
彼女はまず、自身の手にまとわりついたものの正体を確認した。それが誰かの手であることを確認した。事務手続きを丁寧に処理するように、その視線は腕を伝っていき、やがて僕の顔へとたどり着いた。夏目くん?深紅の瞳がそう言った。ひやりとした静寂が、月に照らされていっそう深く根を張り巡らせた。
「染衣さん」
僕は彼女の名前を呼ぶ。言いたいことは決まっているのに、続く言葉が出てこない。夢の中から覗くようにおぼろげに、彼女はじっと僕を見ている。黙ったまま僕の言葉を待っている。
痛いくらいに心臓が叫んでいる。でもこれは多分、死神の足音ではない。何かが向こう側で扉を叩いている音だ。そしてその何かは決して悪いものではない。この扉を開けば、僕はここを抜け出して、新しい場所に足を踏み入れることができる。僕の知らない世界へと。難しいことじゃない。言えばいいだけだ。言わなければ。今ここで。
「染衣さん。僕は君のことが好きだ」
飾る必要はない。言葉に盛大なイルミネーションなんていらない。
「これは恋だ。間違いなく。もう僕は、この気持ちを見ないふりなんてできない」
不恰好でも、無愛想でも、退屈でも。これが僕のありのままなんだ。
「染衣さん。君を独りにはしたくない。願わくば……その隣にいるのが、他の誰でもない、僕であってほしいんだ。これから先、君がどこへ行こうとも、ずっと」
開けた扉の向こうから強い風が吹き込んでくる。僕の身体の周りに滞留していたものが瞬く間に吹き飛ばされ、床に置き去りにされたままの言葉が次々と舞い上がる。それぞれが意味を持ち、独立し、僕の意志の向こう側へと旅立っていく。古いものから新しいものへの変遷。その出来事は一瞬で、気付けば不気味なほど深く沈み込んだ静寂がそこに座っている。
夜の海の波打ち際を注視するように、僕は彼女の顔を見る。驚きとも困惑ともとれない表情で、呆然と僕を見上げている。そこから何も読み取ることはできない。僕は思わず視線を逸らしてしまう。もう何も言わない。言えることならいくらでもあるが、言いたいことは全て言い終えた。一方的な言葉だ。それはある種のエゴとも言える。途端に僕は、ひどく居たたまれない気持ちに全身を支配される。後悔はない。でも逃げ出したい。彼女の言葉を想像すればするほど、それを聞くのが怖くなっていく。永遠に近い場所に腰を据えている時間が、少しずつ、確実に、僕の心臓を重く冷やしていく。
手を離そうとした僕の手を、彼女は咄嗟に両手で掴み直す。柔らかく、少し小さな手で、力強く。たなごころは温かく、指先は冷たい。そしてわずかに震えている。僕は彼女の顔を見る。彼女は、僕の手を見ている。僕と繋がっている部分を見定めて、そこから何かを見出そうとしている。
ふと、月明かりが彼女の瞳の中でぐるりと周遊すると、両方の目元から同時に、一滴ずつの涙がこぼれる。頬を伝う水滴が、ときおり強い光を反射させる。ゆっくりとしたまばたきが、また数滴の涙を押し出す。彼女は大きく息を吸うと、僕の顔を見上げる。灰色の街灯ばかりが彼女の肌を青白く染め上げ、ひときわ目立つ色で頬に艶やかな茜を差している。満杯の容器に水を注ぐような止め処ない涙の奔流が、そこに轍を残す。瞳が夜露のように濡れ、とりとめのない光をその内に宿している。そこでは多くの感情が雑多に揺らめいている。眉を寄せ、震える視線でしたたかに僕の目を見つめる。まるで何かを問うように。
「嘘じゃない」僕は答える。僕のために。彼女のために。「何度だって言う。僕は君のことが好きだ」
その言葉が契機となり、彼女は再び大きく息を吸うと、両手で掴んだ僕の右手を強く引っ張る。抗いがたい引力に身を任せて、僕らの距離はすっかりゼロに等しくなる。彼女は僕の背中に手を回し、顔を胸元にうずめて、力強く僕を抱きしめる。その身体は小刻みに震えていて、簡単に壊れてしまいそうなくらい脆いのに、決して折れることのない硬い芯が深くこの世界に根差している。緊密に繋がった鼓動が、大きく、ゆっくりと、扉を叩き合ってる。柔らかくて温かい華奢な命が、密やかに血液を巡らせている。とくん、とくん、と。
「いいんですか……?」
彼女は震える声を振り絞り、少しずつ息を吐き出す。まるで大きな感情が狭い弁に詰まっているみたいに。
「本当に……本当に、わたしは、夏目くんを好きになっても、いいんですか?」
僕は彼女の身体を抱き返す。右手を背中に、左手を頭に。冷えた指先に彼女の絹糸のような髪が細やかに絡まる。彼女の中に沈んでいくようにその感触を確かめる。厚いトレンチコートの上からでも体温が伝わってくる。彼女の存在を、なるべく強く感じ取る。冬の寒さも、夜の暗がりも、孤独の震えも、もうそこにはない。今まさに、僕の手の中にあるものは、僕の目に映るものは、たった一つの愛おしい生命だけだ。
「願ってもないことだよ」
僕は真新しい感情をそのまま言葉にする。心臓がじわりと熱を持つのを感じる。心地好く、繊細で、温かい。この身に覚えのない感覚に僕は名前を付ける。恋、恋愛、恋慕。
「ありがとう。僕を諦めないでいてくれて」
僕らにそれ以上の言葉は必要なかった。彼女は僕の中にうずくまったまま小さく嗚咽を吐き出し、僕はその振動を心に染み込ませた。輝くばかりの月明かりも、今だけは僕らには届かなかった。そこにあるのは、僕らの身体と、たった一つの扉。この世界の出口、もしくは次の世界への入口。何かの終わりであり、また別の何かの始まりでもある。その扉はもう開かれている。あとは一歩踏み出すだけ。でももう少しだけ、このままで。
星の見える夜。僕らは分かちがたく一つになった。




