表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/27

0章23節 目を開けてみて

 初めは幻聴だと思った。ああ、わたしはついに頭がおかしくなってしまったのだろう。想像の中の彼の声が、こうもはっきりと聞こえてしまうなんて。彼を想う気持ちが臨界点を超えて、ついに幻像まで作り出してしまったのだ。そう思う一方で、頭の中のまだ冴えている冷淡な部分が、ここで彼と出会える可能性について考えていた。わたしがベランダから見た人影がまさに夏目水季本人で、彼は家に直帰するでもなく、このあたりをまだ歩いていたとしたら?それは決してあり得ない話ではなかった。むしろわたしはその可能性を求めて、こうやって息を切らしているのではないか?どちらも現実的であり、どちらも現実的でない。わたしは夢と現の間に立って、どちらに進むべきか、まだ決めかねていた。

 わたしは顔を上げて、声のした方向を振り返った。そこには見紛うはずもなく、夏目水季が立っていた。彼は深いネイビーのピーコートに、グレーをベースにしたチェック柄のマフラーを隠していた。細身のデニムパンツも黒に近い青で染められていて、遠くから見れば黒い影のように見えるであろう装いであることは確かだった。少しだけ高いところに佇んでいる、深海を見つめ返すような昏い瞳が、じっと、静かにわたしを見ていた。その視線でわたしは確信した。ああ、彼だ。夢じゃない、本物の、生きている夏目水季だ。

「えっと……」

 上手く言葉を作り出せない。こうやって会うために、彼を追いかけていたはずなのに。心臓が、まだ冷たいアスファルトの上を走り続けている。今度は心が置き去りにされている。

「……何をしてるんでしょうね、わたしは」

 わたしはあの日の言葉を繰り返し、精一杯の笑みを作る。上手く笑えているだろうか?いや、今更気にする意味もないだろう。わたしはもう、彼の前で、何一つとして上手くやれる気がしないのだ。だから不恰好でもいい。ただこうして彼と一緒にいられるのなら。

「……まあ」彼は顔を背ける。「少し一緒に歩こう。せっかく会ったんだし」

 わたしが言うよりも先に彼が提案する。いや、彼が言わなければ、わたしは一歩も踏み出すことができなかったかもしれない。返事すらできないくらい、わたしの言葉は途方に暮れていたのだから。しかしその一方でわたしの身体は、強い引力に導かれるように、迷いの一つも見せずに彼の隣に収まっていった。鼓動はまだ高鳴り続けている。早足で死に近づいている。それはわたしがまだ生きている、確かな証左でもあった。


 夜がいっそう更け込み始めていた。昼間の気温の高さはこの頃にもなるとすっかりその影を失い、冬が本来の表情でわたしたちに鋭い視線を向けていた。吐く息はほのかに白んでいた。しかしわたしは、不思議と寒さに震えることはなかった。心の奥底から溢れた熱が意識の壁を伝播して、身体の表面にまで達しているようだった。わたしたちを囲む殻の中では、少しだけ季節がずれているようだった。

 わたしたちは暗む街並みの中を並んで歩きながら、まるで水面に触れて浅いところの温度だけを丁寧に確かめるように、とりとめのないことばかりを話した。夏目くん、おすすめされた本を何冊か読み終わりましたよ。そうか。夏目くん、魚料理の美味しいレシピを見つけたんです。それはいい。夏目くん、さっき優理さんと電話してたんですよ。仲がいいね。

 ふと、どこかの家からピアノの音が聞こえてきた。古いレコードから聴こえてくるそれのように、実在感の薄い音色だった。そこには一つ一つの音をかろうじて手繰り寄せたような、最小限の意図だけがあった。まるで風のない日の小さな雲がいくつも重なるように、はっきりとした輪郭とおぼろげな境界を共有してじっと鎮座しているような、緩慢で謎めいたテンポ。乾いていて肌寒い晩秋の夕暮れを思い起こさせる、ほのかな愁いと静寂をまとわせた、単調でいて情緒深い曲調。わたしはこのメロディに覚えがあった。

「これ、なんて曲でしたっけ?」わたしは彼に聞く。

「『ジムノペディ』、だったと思う」彼は答える。

「クラシック、よく聴くんですか?」

「よく聴くよ。音楽を聴くってなったら、大抵は本を読むときとかだから。考えの邪魔にならないように」

「好きな曲……おすすめの曲、とかってありますか?」

「僕もそこまで深い造詣があるわけではないけど、君が知らなそうな曲を挙げるなら……そうだな。シベリウスの『樅の木』とか」

「『樅の木』」わたしは樅を想像する。どんな木だっただろうか?

「一言で表すのは難しいけど……なんというか、静かな情動、みたいな曲だ。硬くて、思慮深くて、密やかなのに強く濃い、静かな情動」

「静かな情動」

 わたしは彼の言葉を繰り返し、その味をよく確かめる。『ジムノペディ』はまだ聴こえている。


 まるでずっと前から今日の予定が決まっていたかのように、わたしたちは示し合わせるまでもなく、まっすぐと駅の方へと向かっていた。通りを抜けて、駅前広場へと顔を出したわたしたちを迎えたのは、高くそびえる一木に飾られた、ひっそりとしたイルミネーションだった。寒色の煌びやかな豆電球が枝の先から先までぎっしりと敷き詰められていて、数え切れないほどの豪奢な視線で背を丸めた通行人たちを見守っていた。冷え込んだ暗がりの中で仰々しく輪郭を浮き彫りにして、その心許ない存在を声高に主張していた。その佇まいはまるで、店舗の隅に売れ残った高いおもちゃのようだった。その着飾られた一本の木だけが、この街で独りクリスマスイヴを彩っていた。わたしたちの住む櫻田は決して大きな街でもなければ、こういった華やかなイベントのたぐいには鈍感なのだ。だから足を止めてこの場違いな装飾を眺めるような人も、わたしたち以外には見当たらなかった。

「綺麗ですね」

 わたしは言う。彼は特に何も言わない。少し高いところで、中身の見えない表情を浮かべているだけ。

「周りからは……わたしたちは、恋人のように見えてるのかもしれませんね」

 頬がほのかに熱くなる。心臓は不思議と落ち着いている。

「かもね」

 彼は深い谷底の緩流のような声でそう言う。それからしばらくわたしたちは沈黙する。イルミネーションの光がわたしを冴えた夢の中へといざなう。やはりわたしは頭がおかしくなってしまっていて、初めから彼とは出会えていなかったのではないか?そう思うほど、おぼろげな現実に強いめまいを覚える。隣を見るのが怖い。もし彼の姿がそっくりそのまま消え去ってしまっていたら、わたしはもう二度とこの夢から覚めることができなくなるかもしれない。

「腹が減ったな」

 夜に溶け込んでいくわたしの心を、彼の一言が揺り戻す。わたしは隣を見る。彼もまた、視線に気付いてわたしを見る。

「……わたしも。まだ晩御飯食べてなくて」

 わたしは笑う。根源から湧き出したものに手を加えずに。

「じゃあそろそろ帰ろうか」

 そう言って背を向ける彼の横に、わたしは再びすんなりと収まった。


 同じ道をたどっているはずなのに、その帰路はまったく別の景色をわたしに見せた。夜の端に浮かぶ点々とした温い灯りは、どこか憐憫な目をわたしに向けていた。わたしは視線を返すこともなく、二足の靴と、ときおり足元に姿を現すもう一組のわたしたちばかりを見下ろしていた。瞳の奥には燦燦としたイルミネーションの光がまだ残っていて、意識の奥底の暗がりの中で、それはぼんやりとした煌めきを放っていた。遠くで木々が揺れるノイズがときおり思い出したように鳴る以外には、放送時間外のラジオのように浮足立った無音だけが流れ続けていた。『ジムノペディ』はもう聴こえてはこなかった。

 わたしたちの歩幅は、列車が継ぎ目を乗り越えるリズムによく似ていた。その車窓の向こう側には色褪せた記憶が広がっていた。曖昧な温度、逆さまの世界、甘い朦朧。熱に溶け出したものが刹那、時間の流れを遡行して、はっきりとしたかたちを作り上げていた。湿ったアスファルトの上で、カムパネルラが独白を読み上げていた。幽霊、熱帯魚。不確定のものばかり。わたしは変わらないものを求めて空を見上げた。たった一つの月はまだ確かに、輝く視線でわたしたちを見下ろしていた。その青白い光が、ロウソクの火のように静かに揺らいでいた。

「見てください、夏目くん」わたしは指を高く掲げる。「今日は月が綺麗ですよ」

「本当だ」彼は言う。「星もよく見える」


 わたしたちは分岐路へと戻ってきた。たどり着いた、と言う方が正しいのかもしれない。運命じみた邂逅の始発点、もしくは終着点。その中心でわたしたちは向かい合った。寄り添う距離を少しだけ離れて。

 彼の表情はおぼろげだった。無感情と言えば無感情だし、強い感情に支配されていると言えば、まさしくその通りにも見えた。答えが無限にある謎かけのようだった。しかしそのどれもが正しくないことも、わたしはよく理解していた。それがわたしのよく知る彼の姿そのものなのだから。

「明日の終業式が終われば、もう冬休みです」わたしは言う。

「ああ」

「冬休みに入ったら、しばらく会えなくなってしまいますね」

「学校ではね」彼はピーコートのポケットからスマートフォンを取り出す。「連絡一つでいつでも会える」

 わたしは笑顔を返す。意味の一切を含まない、空っぽの笑み。それはわたしにとっての、一つの区切りの合図でもある。何の区切りだろう?わたしにはそれがわからなかった。ものごとには始まりがあれば終わりもある、というごく単純なたぐいのものなのだろう。昨日が終われば今日が始まり、今日が終われば明日が始まる。ただそれだけ。

「それじゃあ、また明日」

 わたしはそう言い、彼の返事を待たずに背を向ける。街灯が俯いたまま帰路を照らし出して、わたしをあるべき場所へと導いている。晩御飯は何にしよう?豚肉が残っていたはずだから、まずはそれでレシピを探してみようか。ああ、その前に優理さんに突然電話を切ったことを謝らければ。そんなことを考えながら、わたしは今日の終わりへと向かって一歩足を踏み出す。

 そのとき、誰かがわたしの手を握った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ