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0章22節 どうしようもなく

 冬のいっそう深いところへと続く急な階段を下る日々の一節にしては、その日は普段よりいくらか気温の高い一日だった。十二月二十四日。今日という日を、世間ではクリスマスイヴと呼んでいるらしい。わたしは今までこの行事にとんと無縁だった。もちろん今年だって縁があるわけではない。しかしこの俗に言う『恋人と愛を深める一日』が、今年に限っては、否応なくわたしの意識の外縁を蝕んでいた。くだらないと一蹴することだってできたのに、どれだけ頭を振っても、脳裏に住み着いた薄暗く柔らかな塊はその場に留まり続けた。謎めいていて不可解な霧が、思考の輪郭を覆い隠して見えなくしてしまっていた。わたしはどうしようもなく一人だった。世界のあらゆる生命から切り離され、孤立した存在としてそこに定義されていた。まるで孤独が死神の住処に居候するように。

 彼に会いたい。夏目水季の会いたい。会ったあとのことなど、ひとまずどうでもいい。とにかく彼の生きている熱を感じたい。その証左を胸に焼き付けたい。単純な話だ。一言「これから会いませんか」と連絡を入れるだけでいい。よほどのことがなければ、彼も拒否することはないだろう。会いたいと言うだけ。ただそれだけでいいのに、スマートフォンの連絡アプリを開くたび、凍り付いて融通が利かなくなった電子機器のように、わたしの指は固くロックされて動かなくなってしまった。得体の知れない不可思議な力が、その先には進ませまいと、わたしの四肢を強く縛り付けていた。魂が支離滅裂にはなればなれになって、無秩序に絡まり合っているようだった。


 飾りけのないデジタル時計が無感情に夜の入口の場所を伝えていた。午後七時八分。本を読んでみても、参考書と向き合ってみても、根深く萌した息苦しさを覆い隠すことができないまま、わたしはこの日を苦い白昼夢の中で過ごしていた。食欲は湧かなかった。感情がすっかり渋滞していて、三大欲求ですらずいぶんと後ろの方で立ち往生してしまっているようだった。

 わたしは電気ポットでお湯を沸かし、晩御飯の代わりにカップ一杯のココアを作った。各務優理からの着信があったのはそのときだった。連絡アプリが開かれたままのスマートフォンが静かに震え、沈み込んだしじまにほんの少しだけ熱をもたらした。電波に乗せられた生命の繋がりが、つかの間、わたしを正しい世界へと揺り戻した。

「やっほー雪野。いま暇?」

 彼女の声にとくん、と心臓が呼応し、ほのかに温かみを帯びた何かをわたしにもたらす。密やかに、その響きが全身を巡る。

「特に予定はありませんよ。何かご用ですか?」

「いや、特に用はないんだけどね。あたしも暇だったから電話しちゃった」

「そうでしたか」

 わたしはふらりと笑う。そのまま足がもつれて不恰好に転んでしまいそうなくらい、芯の緩い声色で。

「雪野、今何してるの?」

「ココアを飲みながらゆっくりしてますよ」

「なんだか優雅ね」彼女は笑う。

「優理さんは?」

「あたしはお風呂入って、髪乾かしたりしてたところ」

 電話口からかたかたと物音が聞こえる。彼女がこうして、何かの片手間にわたしに電話をかけてくるのは今日が初めてではなかった。大抵の場合は目的もなく、ふいにぽっかりと空いた時間の隙間を埋めるように、いつだって脈絡もなくわたしのスマートフォンを震わせた。しかし今日はクリスマスイヴだ。たったそれだけで、言葉を交わすのに逐一理由が必要な気さえしてくる。『クリスマスイヴ』という言葉が、ずっとわたしの意識のどこかでひっそりと息を潜めている。

「ええっと……メリークリスマス?こういうのって、友達同士でも言うものなのかしら?」彼女は言う。

「言うものですよ。メリークリスマス」わたしはアイロニーを声色に乗せる。「まあ、家に一人でいると、あまり実感が湧かないものですけど」

「なんだか信じられないわ。こういう日に雪野が一人だなんて。雪野の運命の人は、いったいどこで油を売ってるのかしら?」

 運命の人。「ええ、本当に」

「雪野が告白全部断ってきたのは知ってるけど……それはさておき、雪野って今さ、その、好きな人とかって、いるの?」

「さて、どうでしょう」わたしはここにいない人に対して笑みを向ける。「いる、って言ったらどうします?」

「うーん……卒倒しちゃうかも」

「それは困りますね」

 ココアを一口飲む。乾いた唇に熱がこもる。まるでそこにいて、目の前で待ってくれているかのように、わたしがカップを置くまで彼女は黙っている。

「わあ。ねえ、空見て雪野。月が綺麗よ」

「それってつまり、優理さんがわたしの運命の人になってくれるってことですか?」

「え?」少しの間。スマートフォン越しの彼女の表情を想像する。「――いや、違う、違うって!夏目漱石的なやつじゃなくて、ほんとに月が綺麗に見えるの!ちょっと見てみてよ」

 わたしは肩にかけていたストールを首元に深く巻き直して、からからと真新しい音を鳴らして窓を開く。人気店の開店時のように、列をなしていた冷たい空気が次から次へと部屋の中に入り込む。生命の余剰と地続きになった冬が、わたしの髪をほのかに揺らしながら無機質に溶け合っていく。その調和を横目に、わたしはベランダへと身を出す。小さくうずくまるような孤独の蛍光から、果てのない夜の無限へ。更け込みつつある冬の全てが、少しの隙も無い視線でわたしを監視している。

 月はすぐに見つかった。青白い光が煌々とその存在を主張して、全ての迷える人々の道しるべになろうとしている。逆さまの大海の冷たい奥底から、慈悲深い視線で啓示的にわたしを見下ろし、おぼろげになった輪郭がわたしの瞳の中で揺れている。周囲には点々とした星々を従えていて、神々の巡礼を暗示しているかのようだ。東京の夜、濁り切った冬の空に、わたしは宇宙の神秘を垣間見ている。

 吸い込まれてしまいそうだ、とわたしは思う。ぽつねんと浮かぶ一点の輝きが、全ての生命の終着点を示しているかのようだ。わたしたちは逆さまの世界に足を着けていて、いずれ正しい順序で空へと下りていく。そう思うと、地上にある全てのものが滑稽なまがい物のように見えてくる。見上げなければ見えないものだけが、本来の姿であり続けるのだ。

「本当に綺麗ですね、月」わたしは言う。

「雪野があたしの運命の人になってくれるってこと?」

「それも悪くないかもしれませんね」

「……もうっ。からかい甲斐がないんだから」

 わたしは笑う。彼女も笑う。わたしは部屋に戻り、まだ温かいココアを片手に持って、もう一度ベランダに出る。月を見失うことはない。どこにも行くまいと、広大な闇の深いところにじっと腰を据えている。

「運命の人、ね」

 彼女はいくらか慈しみを持ってその言葉を口にする。彼女も同じ月を見ているのだろう。

「中身のない言葉よね、運命の人、って。好きになった人が、実は運命の人じゃなかった……なんて普通は思わないし、思いたくもないし、仮にこの世界のどこかに、これ以上ないってくらいの人がいたとしても、出会えなかったらいないのと同じなのよ。出会えもしない人より、限りある出会いの中で生まれた恋の方が、よほど運命って感じがするわ」

 わたしは誰かの姿を想像する。ここにいない誰か。

「……その相手もまた自分に恋をする、なんてことは、ひょっとしたら奇跡に近いことなのかもしれませんね」

「でも決して少なくない人たちが、人生のどこかで、その奇跡を起こしてる。不思議な話よね」

「ええ、不思議です。……本当に」

 心臓がひどく乾くような感覚を覚え、わたしはココアに口を付ける。月は依然として、無感動にわたしを見下ろしている。たとえどんな天変地異が起ころうとも、その意味や法則を変えることはない。突然二つになることもない。無言のまま、じっと空のどこかで生きている。

「でも頭ではそう単純でないことはわかってても、結局気軽に使っちゃうのよね、運命の人、運命の人って……。あーあ、あたしの前にも現れないかなあ。奇跡みたいな運命の人」

「案外、近くにいるかもしれませんよ」

「そうだといいんだけどね」

 電話口から金属質の物音が聞こえる。多分、窓を閉める音だ。彼女はもう月を見るのをやめたらしい。

「だめね。やっぱ意識しないようにしても、クリスマスってなるとどうしても変なことばかり考えちゃう」

「恋について考えるのは普通のことです」

「クリスマスに考える、ってのがいけないわ。なんか雰囲気に乗せられてる感じがして。結局あたしも恋人なるものが欲しくて、こういう日にときめきたいって想いがあるのを隠し切れないのが、なんだかなあって感じ」

「もし優理さんが今までと変わって、今年になってそういう想いが生まれたというのなら、それは後退ではなく、前進だと思いますよ」

「そういうものかしらね」

「そういうものです」

 わたしはすっかり温んだココアを一口分だけ喉に通すと、月からいっとき視線を外し、眼下に広がる街並みを漫然と眺める。すっかり下りた夜の帳が、人々の生活と明瞭な境界線を引いている。光と闇、温和と冷徹、生と死。理路整然としていて、一方では混沌としていて、確かなかたちを保ったまま絶えず流動している。とりわけ高い建物はなく、晴れて明るいうちであれば、遠くの彼方におぼろげながら小さな山を望むことができる。少し横に逸れた長い通りは、目を凝らせば遠くの突き当たりまで見通すことができる。俯いた街灯が葬列のように等間隔に並んでいて、横切る黒い影をゆっくりと明滅させている。温和と冷徹。生と死。

 そこでわたしは息を呑んで、その人影に釘付けになる。ふいに混ざり込んだ一滴の黒い絵具のような影は、どれだけ目を細めてもその詳細を確認することができない。ときおり街灯がそれを照らしても、黒一色の装いであること以外は判別できない。柔らかな塊がもぞもぞと蠢きながら、向こう側に向かって少しずつ移動しているように見えるだけだ。夢の深いところにある風景のように、何一つとしてはっきりとしない。

 わたしはそれが、夏目水季だと思った。

 なぜそう思ったのだろう?ここからでは背丈もろくに目測することはできない。男性か、女性かすらわからない。小さな子供ではない、くらいしか言えることはない。それでもとにかくわたしは、何億とある可能性の中から、それを夏目水季だと断定した。クリスマスイヴの夜がわたしに幻覚を見せているのだろうか?孤独に苛まれて、ついに頭がおかしくなったのではないか?わからない。いつだってわからないことばかりだ。恋だって、自分だって、彼だって。だからこそわたしは、この目で――他の誰のものでもない、わたしの一対の瞳で――確かめなければならない。見失ってしまう前に!

「――ごめんなさい、急用を思い出しました」

「えっ?急用?」

 わたしは彼女の返事を聞く前にスマートフォンを耳から離し、通話の切断ボタンを押した。半分ほど残ったままのココアをローテーブルに置き、ストールを放り投げて、剥ぐようにトレンチコートとマフラーをクローゼットから引っ張り出すと、わたしは急いで部屋をあとにした。


 更け込みつつある冬の夜に身を乗り出し、わたしは長い通りを駆けていた。来訪者を検分する原住民のように、くすんだ色の街灯がわたしを注意深く見下ろしていた。足元を右往左往する影が、忙しない赤色灯のようにわたしに警鐘を鳴らしていた。今更追いかけたって追いつきはしないのではないですか?そもそもあの影が夏目水季だという証拠はどこにあるというのですか?移りゆく景色よりも速く、様々な問いかけがわたしの中を駆け巡った。それでもわたしは足を止めなかった。重い冷気が全身にまとわりつき、すぐに息が上がった。大きな氷を飲み込んでしまったみたいに、ときおり乾いた空気の塊が肺を詰まらせ、呼吸の間隔を大いに乱した。一歩踏み込むたびに筋繊維を一本ずつ裁断するみたいに、わたしの足は少しずつ動きを鈍らせていった。夢の中で思うように走れない感覚に近づいていた。

 通りを最奥まで見通してみても、黒い影を見つけることはできなかった。わたしがマンションの階段を駆け下りている間に別の路地へ入っていってしまったようだ。どこで、どっちに曲がったのだろう?彼が道しるべに少しずつパンくずを落としながら歩いていない限りは、そんなことわかるはずもない。しかしわたしの頭は妙に冴えていた。家だ。彼の家を目指せばいい。彼が外出しているのなら当然、最終的には彼も自分の家を目指す。わたしも彼の家を目指せば、必ずそこで会えるはずだ。彼がわたしよりも先に家に着かない限りは。

 しかしわたしは、ここから一度しか行ったことのない彼の家への順路を知らなかった。わたしの家から駅に向かう道中のとある分岐路を、駅とは違う方向に曲がる。その先ですらおぼろげな記憶が頼りだ。増してここから、全く知らない道を通って最短距離で目指すなんて無謀だろう。住所もわからなければ、地図アプリも使えない。

 わたしが家を出るときには、その人影はすでにずいぶん遠くを歩いていた。もしここから彼が家まで正しい道のりを歩いて帰っているとしたら、もう考えている時間すら惜しい。迷ってはいられない。わたしは踵を返し、彼の家とわたしの家を結ぶ分岐路を目指した。

 わたしは一心不乱で駆けた。ときおりすれ違う人の顔を一瞬見て、夏目水季かどうかだけ確かめた。そのたび物珍しそうな視線が返ってきた。ランニングの恰好でもないのに息を切らして必死に走っていて、ずいぶんと不恰好に見えただろう。構うものか。世間体なんてどうでもいい。わたしはもう、愛されるために生きる『染衣雪野』じゃない。人並みに笑って、人並みに泣いて、人並みに恋をする、どこにでもいる普通の女子高生なんだ。

 目的の分岐路にたどり着くと、わたしは足を止め、膝に手をついた。大した距離を走ったわけではないのに、身体に尋常でない重みがのしかかっていた。思い出したように血液の巡りが速度を上げ、みるみるうちに全身を火照らせた。気温のせいだろうか?服装のせい?それとも気持ちの問題?とにかく彼に会いたいという想いから、身体がすっかり置き去りにされてしまっていた。肉体と魂を繋ぐ紐が伸びきって、気付かぬうちに千切れてしまっていたみたいだ。

 わたしは何をしているのだろう?と息を整えながら思う。こんなことをしなくたって、連絡アプリを開いて、会いたい、と一言送るだけでいいじゃないか。ずっとそうだ。たった数秒の作業で、焦がれるようなわたしの願いはひとまず果たされるのだ。なぜしない?なぜできない?わからない。わたしには何もわからないんだ、最初からずっと。心も身体も散り散りになって、どれがどこに、どう繋がっていたのか、一つとして判別することができなくなっていた。元の正しいかたちすら思い出せない。いや、正しいかたちなんて元からなくて、ここにはもう脈絡もない些細な断片しか残っていないのかもしれない。

「夏目くん――」

 覚えがある。わたしが豪雨に打たれていたあの日。孤独に打ちひしがれ、雨音に存在を消していくわたしを、心ごとばらばらになって逆さまの世界に溶け出していくわたしを、彼は大きな手と、その一言で、はっきりとした温もりの中へと揺り戻した。

「何してるの?」

 静かな声が聞こえる。

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