0章21節 足並みを揃えて、道を外れないように
俺たちは互いを化かし合い、互いを暴き合っていた。俺にとって夏目水季は最も不可解な人間だったし、多分彼にとっても、俺は不気味に映っていただろう。俺たちは互いを知ろうとして、着地点の見えないシーソーゲームを続けていた。それは決して本質までたどり着くことはなかった。踏み入らないようにしたのか、踏み入られないようにしたのか。多分、それでいいのだと思う。深く知ることが、いつだっていい結果をもたらすとは限らない。安定した関係のかたちに、今更あえて手を加える必要はない。だから俺はそこで一度立ち止まった。俺が立ち止まれば、彼もまた足を止めた。彼は他人との適切な距離の取り方を誰よりも心得ていた。俺なんかよりもずっと。
「よ、水季。もうすぐクリスマスだな」
十二月二十一日、木曜日の昼休み。いつも通り窓際の手がかりに腰を乗せ、話題の足がかりを探した。すっかり板についた儀式だった。教室には二つの小さな集合と、点々とした沈黙があるだけで、その人数は両手で数え切れる程度だった。ひっそりとした空気は、外部からの喧騒に圧縮され、謎めいた異物となってそこに鎮座していた。大事な機能を失ってしまった古びた機械のように、もどかしい違和の点在する空間だった。しかしそれは存外、居心地の悪いものでもなかった。
夏目水季はすでに昼食を食べ終え、手元の文庫本に視線を落としていた。タイトルは見えないが、ページ数には少し厚みがあり、すでにその半分ほどを読み終えていた。彼は文学少年とは程遠い風貌ではあるが(もしくは俺が文学少年という言葉のイメージにいくらか偏見を抱いているだけかもしれないが)、彼が本を読んでいる光景には妙な収まりのよさが感じられた。彼の寡黙で冷徹な近寄りがたい空気感が、どこか偏屈な文豪の厭世観を思わせるのかもしれない。
「今年のクリスマスイヴは日曜だぜ。水季は何か予定はないのか?」
彼は視線を活字から離さずに言う。「予定があるように見えるか?」
「いや、わからないな。お前はもうなんというか、別に影が薄いって存在じゃあないんだぜ。すっかりな。文化祭前後からもうずいぶんと目立ってたし、お前が期末試験で学年二位を取ったのはもはや事件だったんだぞ」
「おおげさだ」
「そう、おおげさだ」俺は言う。「おおげさなくらい目立ってる」
彼は活字を追ったまま、そこにある物語とは別の情景を頭に思い浮かべているようだ。俺たちの間に少しだけ無言の間が零れ落ちる。
「色々あった」
「色々?」俺は聞き返す。
「各務さんの件もそうだし、お前や染衣さんも、ずいぶんと僕のことを気にかけてただろ」
「雪野さんが?初耳だな」
「言ってないからな」
言われなくたってわかってるさ、と俺は声に出さずに言う。夏目水季と染衣雪野が気付けばどこかに繋がりを持っていたのは気がかりだった。対外的に見れば水と油のような二人が、地中の深いところで根強く結びついているように見えたのだ。彼らを見るとき、俺の慧眼――無意識の中から他人の奥底を覗き込もうとするはた迷惑な観察眼は、こうも図太く発揮された。まるで己の半身を分かち合うみたいに、気付けば彼らは無言のままに心を深く通わせていた。それは謎めいていて、美しいかたちの繋がりだった。
「俺が思ってるよりずっと前から仲が良かったみたいだな、お前たちは」
「仲が良いわけじゃない」
「お前はそう思ってるだけってことだ」
「それは……」彼は初めて俺の方を見る。いくぶんか訝しむ目つきで。「そうと言えば、何でもありだな」
「お前は優理に対しても『別に仲良くはない』なんて言うつもりだろうけど、はたから見ればお前たちはずいぶんと仲良しだぜ。お前が認めてないだけで」
「そういうものか」
「そういうもんだ」
はらり、と彼は本のページを一枚めくる。もう二人の法で定めた境界線はすぐそこにある。思えば俺はそこで足踏みばかりしていて、ためらいなく規則の方を変えてしまうのはいつだって彼の方だった。無鉄砲なわけではないし、俺を蔑ろにしているわけでもない。彼は恐れてなどいないのだ。俺たちの繋がりがかたちを変えてしまうことを。
水季、お前は強いよ。物怖じすることなく、一人で深海に潜っていってしまう。どれだけ暗くても、どれだけ冷たくても、どれだけ未知に溢れていても。俺はお前のようになりたいんだ。他人の顔色ばかり窺うことなく、当たり障りのない関係ばかり築くことなく、もっと深いところで、誰かを特別に想い、誰かの特別になりたいんだ。どうすればいいんだろう?どうすればお前のように、先の見えない暗闇にも身を委ねることができるようになるんだろう?
「各務さんは染衣さんに歩み寄った。君に同じことができないなんて、僕は思ってないからな」
記憶の中の彼が答える。どうして彼はそう思うんだろう?いや、どうしてだとか、どうすればだとか、そんな些細な理由はもう必要ないのかもしれない。一言だ。たった一言が、脈絡もなく俺を少し先へと運んでくれる。そのあとは滑り落ちていくだけだ。ろくに制御も利かないまま。
「なあ」言葉が、柔くも重く、冷たい床に着地する。「お前、雪野さんのこと、どう思ってるんだ?」
彼が俺を見る。深い漆色の瞳に、心の奥底の致命的な部分まで覗かれているのがわかる。まずはこの疑問の出所を注意深く精査しているようだ。その目に見られると、自分が何かとんでもない悪事を隠しているような気分になる。
「どうって?」
あくまで俺は足を引かない。「気付いてないなんて言わせないぞ」
染衣雪野は夏目水季に恋をしている。確信的にそう言える。上手く悟られまいとしても、決して大きな潮流には逆らい切れない。恋とはそういうものだ。もがくほど深く沈んでいく底の見えない沼と同じなのだ。そして俺が気付いているのであれば、彼が気付いていないはずがないという確信もあった。恋よりもずっと些細で取るに足らない感情でさえ、彼は逐一丁寧に汲み取ってしまうのだから。
「逆にどう見えてる?」彼は言う。
「どうとも見えてないから、実際のところどうなのか知りたいのさ」
「どうとも見えてない」彼は活字に視線を戻す。「つまりそれが答えだよ」
それが答え。俺はその言葉の意味を図りかねる。どうとも見えていないのが彼の答え?それは俺に対する皮肉か、もしくは彼自身に対する皮肉か。本当にそのままの意味でどうとも見えていないのか、どうとも見えていないことに別の本質が隠されているのか。活字の表面を泳ぐ彼の視線からは何も読み取ることができない。彼もまた、それ以上の答えを持ち合わせていないように見える。
ただ一つ分かることは、そこに彼なりの誠実さが含まれているということだ。一歩深いところに潜れば、彼もまた同じように沈む。いつだって一番しっくりくる距離のところに彼はいる。嘘もごまかしもなく、実直に。この答えは、それを端的に表している。
「お前は本当に掴みどころがないな」俺は困ったように笑う。
「それは僕が一番思ってることなのかも」
「でも本当に大切なことからは決して目を背けない。そうだろ?」
「向き合うときが来るってだけだよ。多分」彼は言う。「時間は一秒だって止まりはしないし、心にも完全な停止はない。状況は刻一刻と変わり続けていて、いずれどこかで必ず巡り合わせが訪れる。そのときが来れば、どうであれ見て見ぬふりはもうできない。本当に大切なことってのはそういうことだ」
多分な、と彼は念を押す。視線は活字の先にある何かを見据えている。その言葉の中には、俺を諭すような意図も含まれているように思える。お前にもいずれそのときが来る。だからお前の今も、過去だって卑下する必要はない。そう言っているように聞こえる。考えすぎだろうか?
「お前は……」
そこで俺は一度言葉を詰まらせる。肯定、否定、疑問、どれもこの場にはそぐわないような気がして、喉元で取捨選択をしているうちに、角のないぶつぶつとした軽石のような言葉だけがその場に残る。ああ、これはいつもの俺だ。そう思うと、心臓の動きがいくらか軽くなる。皮肉にも。
「……そうだな。まるでずいぶん先が見えてるみたいだ。占い師みたいに」俺は言う。
「まるで、ね。実際は一歩先すら見えちゃいない。だからとりあえず踏み出してみるしかない。占い師だって、明後日の晩飯までは当てられない」
そういうものだ、と彼は言う。そういうもんか、と俺は笑う。なんだか空回りした気分だ。しかしこれがいつもの俺なのだ。ふらふらしていて、捉えどころがなくて、地に足が着かない。ひとまずはそれでいいのだろう。人はそう簡単には変われない。もっと長い時間をかけて、少しずつ、自分の変化に気付かなければならない。そしてそれが軽んじられるものではないことを、いずれ確認しなければならないときがやってくる。答え合わせをするべきときが。
彼の言葉は、そう解釈するのが正解なのだろう。だから一旦、成り行きを見守ってやろうじゃないか。見紛うことなく、彼自身が、今まさにその境界線に立っているのだから。




