0章20節 それなりの日
空に広がる濁った灰が一点の輝ける視線を隠していた。十二月五日、火曜日。気温は一桁台まで落ち、数値以上の寒さが東京に重く沈み込んでいた。空気は水気をすっかり奪われ、気付けば木々は彩を失い、季節の境目も見つけられないまま、冬は予告なく姿を現した。閉店間際の喫茶店にふらりと立ち寄るように。
今日は期末試験の答案が返却される日だった。わたしの成績に関して言えば、記憶物に関する教科に関してはほとんど満点で、数学や英語も、普段より高い点数に収まっていた。おそらく各務優理に教えていたことによって、自身にも深い理解が備わったのだろう。その彼女も、勉強会のおかげで普段より高い点数が取れたと言い、わたしに深く感謝していた。
定期試験では毎回、学年ごとに全教科の合計点が高い上位十名が掲示板に貼り出されていた。まるで王座は譲らんと言わんばかりに、一番上にはわたしの名前が鎮座していた。それは何度も見た光景だった。その場にいた知人たちがわたしに気付くと、すごい、すごいと口々にわたしを称賛した。しかしその喧騒は遠く、わたしの耳に届くまでにかたちを失った。わたしはその見慣れたはずの光景に釘付けになっていた。見逃すはずはなかった。『染衣雪野』のすぐ下にある『夏目水季』の名前を。
「ずいぶんと質問攻めにあった」
その日の夜、駅前のスーパーの一角で夏目水季と遭遇した。偶然と言うにはあまりにも運命じみていた。まるで見えざる手がわたしたちを繋ぐ細いナイロン糸を手繰り寄せたかのように。もしくは定められたスケジュールの一項目を淡々と消化するかのように。どちらにせよ、互いに前もって知らされていたかのような邂逅だった。わたしは特に驚きもしなかったし、彼も驚いている様子はなかった。
「まあ今までずっとぱっとしない点数だったのが、いきなり学年二位となれば、そりゃそうだという感じではあるけど」
「やっぱり韜晦してたんですね」
わたしたちは冷凍食品の陳列棚から野菜売り場へと場所を移す。わたしはレタスとトマトのパックを手に取り、彼は水菜と大根を買い物かごに入れる。
「でも君には及ばなかったな」
「時の運でひっくり返る程度の点数差でした」わたしは彼を見ずに微笑む。「今回は優理さんと勉強会をしてたんです。だからいつもと違った視点で勉強ができた分、点数も伸びました」
「そうか。ずいぶんと仲良くなったものだ」
「はい。おかげさまで」
少しだけ場所を変え、彼は袋詰めになったじゃがいもを一つ一つ検分する。宝石の真偽を確かめる鑑定士のように。
「それで――」わたしは少しだけ言葉を切り、言葉を整理する。「なぜ今回、ちゃんとテストを解く気になったんですか?もし高得点を取れば注目されることは避けられませんし、実際そうなりました。あれだけ夏目くんは目立つことを嫌がってたのに」
「僕にできる限りを一度、全てやってみようと思っただけだよ」彼は言う。「目立つのを良しとしたわけじゃないけど、知らないことを知らないままでいる方がずっと嫌だから」
わたしが彼の顔を見上げると、彼もまたわたしの顔を見下ろす。昏い瞳がわたしの向こう側を見つめる。吸い込まれるような、輝きのない漆黒。そこには何も映っていない。あるのは宇宙にも似た無限の暗がりだけだ。もしくは見る者をその内に閉じ込め、思慮と省察の機会を与える狭隘な牢獄のようでもある。
その視線が、目の粗い麻布できつく縛るように心臓をきりきりと締め上げる。呼吸の継ぎ目に不整合が生じ、わたしは思わず短い息を吸い込む。間の抜けた店内ソングと呼び出しのアナウンスがいっそう音量を上げ、雑踏が視界の中でぐるぐると代謝されていく。そこに致命的な時間の齟齬が生まれる。言葉もままならず、わたしは目をそむけ、袋詰めのじゃがいもを適当に拾い上げて買い物かごに入れる。彼も手元に視線を戻し、再び鑑定を始めながら口を開く。
「君にはしっくりこなかったかな」
「……いいえ」
理解はしたのです。痛いほどに。
わたしたちは特に示し合わせることもなく、自然と帰路をともにした。駅前から少し離れれば、わたしたちを照らすのは規則正しく整列した心許ない街灯と、よそよしく灯る生活の営みのみだった。月の柔らかな慈悲も、星々の明晰な啓示も、一つとしてわたしたちには届かなかった。ときおり乾いた木枯らしが、冷たいナイフで柔く撫でるように頬の感覚を鈍らせた。トレンチコートと厚いケーブルニットを介して、深い寒色の大気とわたしの体温が互いの領域を奪い合っていた。温度という代えがたい季節の明証は、わたしたちが冬に一歩足を踏み入れたことを留保なく報せていた。
わたしの分の荷物まで持つと言った彼の気遣いを、わたしは大丈夫だと言って遠慮した。ただでさえ均衡の取れない秤が、いっそう大きく傾いてしまう気がした。それからわたしたちは無言のまま道程をたどった。沈黙が、寒さに耐えかねて身を屈めているようだった。わたしは彼と話がしたかった。声でしか温められないものが確かにそこにはあった。しかし何かを言葉にしようとするたび、それを拒否するようにわたしの喉元は扉を閉じた。音にならない息がすきま風のように吹き抜けるだけだった。彼はどうだろう?何か話したいことはないのだろうか?考えたところで意味はない。ただ覆しようもない事実としてそこにあったのは、冬の冷気の中に深く腰を据えた寂寞、ただそれだけだった。
見覚えのある分岐路で彼は方向を変えた。一瞬だけ振り返り、それじゃあまた明日、と言った。それからすぐにわたしに背を向け、歩幅を変えずに歩み出した。彼の一連の動作を、静寂から切り出した氷像のように、わたしは不動のままで眺めていた。待って。行かないで。わたしは夏目くんに話したいことがあるんです。話さなきゃいけないことがあるんです。わたしの声にならない言葉は、彼には決して届かない。足元はアスファルトに凍み付いたまま、一歩として前に踏み出すことはできない。手を伸ばそうとしても、巨大な空気の壁に阻まれてしまう。
彼の後ろ姿が見えなくなるまで、ついにわたしはそこに立ち尽くすだけだった。引き伸ばされた夜の闇、沈み込んだ冬の冷気、考え事に耽る街灯の光、他人事のような生活の営み、そこにある全てが無言のままに見て見ぬふりをしていた。役者が舞台を下りて人に戻るように、全てが終わったあとでわたしの身体はようやく自由を得た。人のまま再び舞台に上がることはなかった。
わたしは帰路を少しだけ遡り、小さな公園に足を踏み入れた。高く掲げられた時計は七時の少し前を示していた。がらんとした暗がりの中に生命の気配はとんと感じられない。枯れた木々はくたびれた指を空の闇に伸ばし、錆びた蛍光灯はこくりとうなだれていて、悲劇の一幕を演出するように青白い光をぽつぽつと落としている。冷たい遊具はひっそりと気配を殺し、注意深くわたしの動向を監視している。人の気配を察知して、沈着していた孤独がわたしの足元に這い寄ってくる。
わたしは高鉄棒に目を向ける。当然、そこに懸垂をする夏目水季の姿はない。忙しないウィンドブレーカーの音も聞こえてはこない。冷え切った鉄の塊が何事かとわたしを見返すだけで、彼の片鱗の一つすら拾い上げることはできない。わたしはそれを確かめて、公園の中を横切り、少し奥まった場所のベンチに腰を下ろした。前と同じ位置、彼の隣。当然、そこにも彼はいない。手を当ててみても、温もりの一つさえ残ってはいない。
あの日の記憶が、遠い昔のとりとめのない一日のようにぼんやりとしている。輪郭に水彩を重ねるように、掴みどころのない景色を映し出している。しかし隣を見つめれば、そこにははっきりとした彼の姿がある。まっすぐを見据えながら、いっときの言葉を紡いでいる姿が、まざまざとその場に再現されている。飾りけのない端正な横顔、しっとりとした黒髪、灰色のウィンドブレーカー、白いラインの入った黒色のトラックパンツ。意識の深層から浮かび上がった確証のように、そこに彼がいる。そしてその追憶の中にさえ、わたしはいない。
ふいに喉元にもどかしい感覚が蘇る。視界がかたちを失い、途端に息苦しくなる。トレンチコートの上からぎゅ、と胸元を握りしめると、生温かい何かが一つ、二つ、頬の上を伝っていく。心臓が耐えがたく痙攣し、全身に鈍い痛みを伝播している。呼吸が規則を大きく乱し、たびたび肺がわたしに強く訴えかける。数えきれないほどの雨粒がぼろぼろと、力を込めた手の甲に零れ落ちていく。これは涙で、わたしは泣いている。なぜ泣いているんだろう?
「……夏目くん」
そこにいない人に問いかける。返事はない。
「夏目くん。なぜでしょうか?あなたがこんなにも愛おしいのに、わたしはこんなにも苦しい。伝えたい想いがたくさんあるのに、あなたを前にすると、たったの一つとして言葉にならない。ねえ、なんで?」
置き去りにされた言葉たちがぼろぼろと溢れ出てくる。返事はない。
「……わかってるんです。わたしは怖いだけなんです。あなたの隠された真意を知るのが、怖いだけ。わたしの想いに、あなたが応えられないとしたら?そう思うと胸が張り裂けそうになる。……わかってるんです。それが恋をするということだって。でもあなたの想いが暴かれなければ、わたしは知らないままでいられる。そう思ってしまう自分もいるんです。
わたしはあなたに約束をしました。あなたのことを諦めないって。その気持ちは今でも変わりません。わたしはあなたのことを知りたい。あなたの全てを知りたい。でも知れば、あなたとの全てが終わってしまう。知りたくない。終わらせたくない。
……ねえ、夏目くん。わたしはどうしたらいいんですか?」
返事はない。行き場を失った言葉がしんと凍り付いた空気の中に溶け込み、夜の訪れを報せる透明な狼煙となってダークブルーの果てへと消えていく。不敵な笑みを浮かべた青白い月も、今やどこか知らない世界へと旅立っている。古くなった吐息は曖昧な温度だけ残して、次の瞬間には別の何かにかたちを変えている。嗚咽ばかりが、もったりとした塊になってその場に残り続ける。それさえも、沈着したそばから夜のしじまに吸収されていく。
「夏目くん。あなたのことが好きです。どうか知らないで。どうか、応えないで」
返事はない。




