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0章19節 舞台袖でワルツを

 豊かな人音が無機質な思考の塊へとかたちを変えていく様子は、秋と冬の間にある観念的な景色の変遷によく似ていた。十一月の末日。期末試験を終えたばかりの人々はみな一様に、さながら一つの戦場を生き抜いて故郷に帰還するさなかの戦士たちのように、これから訪れる平穏な日々に想いを馳せた表情を見せていた。しかしそんな彼らを、冬は決して笑顔で受け容れてはくれない。一歩空の下へ足を踏み出せば、暴力的な寒気が無防備な身体に鋭利な刃物を突きつけてくる。不用意に外へ出てはならないと警鐘を鳴らすのだ。まるで完璧に制御されたディストピアの敬虔な官吏のように。

 図書室の受付をしている私の隣の椅子に染衣雪野が腰を下ろしたのは、四時を少し過ぎた頃のことだった。まるで雨の日の夜半に暗示的に現れる亡霊のように、気付けば彼女はそこにいた。もちろん彼女は亡霊などではない。朝陽を受けて黄金に照らされた清流のような亜麻色の髪、深いガーネット色の瞳、仄かに茜を差した新雪の肌。霞むことのないくっきりとしたその輪郭は、間違いなく彼女がその心臓に命を宿した人間であるということの証左になっていた。

 彼女はしばらく沈黙していた。その沈黙の意味するところを私は読み取れなかった。ただそれは彼女にとって、恐らく私にとっても必要な時間だったのだろう。だから私は、チエさん、と彼女が呼ぶまで、手元の文庫本に連ねられた独白を静かに目で追っていた。ホリー・ゴライトリーがへなへなになったリンゴを窓の外に放り投げたところだった。

「チエさんは、恋をしたことはありますか?」

 私はしばしその疑問にはりつけにされる。本を閉じて、その言葉を吟味する。それが正しく私に向けられた問いであるというはっきりとした確証が得られなかったのだ。それは始点も終点も見当たらない、あいまいな線上の問いだった。

「あるさ、もちろん」

 私はひとまず素直に回答し、続く彼女の言葉を待つ。つかの間の沈黙が返ってくる。思索の海に潜り、言葉の断片を拾い集め、再び浮上するまでに時間がかかっているようだ。

「恋とは、苦しみを伴うものなのでしょうか?」

 苦しみ、という単語が私たちの間を佇む空気にいくらかの重みを加える。

「私の場合はそうだったかな」

 彼女が「恋」という言葉を使ってから、常に私の脳裏には夏目水季の姿があった。私にとってそれは初めての恋だった。恋という形而上の観念を捉えるにあたって、私は私自身の感覚を強く信じていた。彼を想像すると、そこにはあるのは甘い痺れと、柔らかな苦痛だった。それを恋と仮定するのは至極容易なことだったのだ。十六年間生きてきて、まるで味わったことのない二項対立だったのだから。

 恋を終わらせたとしても、その感覚がそっくりそのまま消え去るわけではなかった。そもそも私が終わらせたと思いたいだけで、この恋はまだ続いているのかもしれない。私はまだ間違いなく彼のことが好きだし、彼を想像すれば甘く痺れるし、柔らかく苦しめられもする。これは叶う、叶わないに関わらず、恋という感情が元来持つ性質なのではないか、と私は思う。

「風に吹かれてふわふわと舞う一枚の羽根のような気分だよ」私はこの感覚を言葉にしてみる。自分のために。「心地好くもある。いつまでも地面にたどり着けないもどかしさもある。でもいざ地面にたどり着いてみても、何一つわかった気にさえなれない。そして風が吹けばまた飛ばされてしまう。落ち着きようのない気分さ」

「……羽根」彼女はその言葉の味を確かめる。

「私の場合はね。多分、恋という感覚を一般化することはできない。仮に君が誰かに恋をしたら、君はどんな感覚を抱くのだろうね」

「しています。恋」

 彼女は淡として言う。ああ、知っているさ。ずっと前からね。

「初めての恋です。電撃が走るような、って比喩は、案外的を射ているのかもしれません。恋は、わたしに強い衝撃をもたらしました。そしてそれが傷痕になって、わたしの心臓を痛めるんです。時間が経てば経つほど、濃く、鮮明に」

 彼女は胸に手を触れて言う。まるでそこに本物の痛みが宿っているかのように。

「でも一歩としてここから先へは進めないのです。扉一つ見当たらない巨大なコンクリートの壁が立ちはだかってるみたいに。わたしはいつまで……この行き場のない苦しみに耐えなければならないのでしょうか?」

「言葉はいつだって呪いになり得る」私は言う。「だから君だけが持つ恋心との向き合い方について、私は何も言うことはできない。私が言えることは、決して他人の言葉に耳を傾けないこと。それくらいだよ」

 精神的に向上心のない者は馬鹿だ。私はその台詞を思い出す。なぜ思い出してしまったのだろう?考えるまでもない。私の心の奥底には確かに、彼女への嫉妬が残っているのだ。私は人間で、嫉妬は人間が持ち得る最も単純な感情の一つだ。規則に従って自動的に起こり、そして簡単に制御することもできずに頑として残り続ける。だからもっと大きな感情で覆い隠してしまうしかない。手入れを忘れたカーリーミントのように根深く繁殖する前に。

 私は染衣雪野が好きだ。友情よりもいくらか強く。私は純粋に、心から彼女の恋が成就してほしいと願っているし、それは夏目水季に対しても同じことが言える。この二人が運命的に、鉄製のワイヤーよりも強靭な結びつきで惹かれ合っていることを私は確信している。こんな美しい物語が他にあるだろうか?そこには混じりけのない無垢、触れがたい神秘性すらある。そして美しい物語には、やはり美しい結末が必要なのだ。恋が実るにせよ、実らないにせよ。

 邪魔なものがあるとすれば、私の恋心くらいだった。だから私は終わらせた。それが仮初めのものであったとしても、ひとまず地面に触れて、一つの結末の輪郭をかたち作る必要があった。かませ犬はかませ犬らしく、みじめに吠えて退場する。そして後腐れなく二人は結びつく。それでいい。私は主人公でもなければ、死線を漂う高等遊民でもないのだ。

「……その通りです」

 彼女は時間をかけて、空気に重く沈み込む言葉を零し出す。彼女を苛む痛みがまるで私にまで伝播してくるかのような、強い訴求力を含んだ表情を見せる。ああ、なんということだろう。私が彼女にしてやれることは本当に何も無いのだろうか?もう私が出しゃばる幕でないことはわかっている。しかし単純に一人の友人として、何も言えないと捨て置かざるを得ないことが、何よりも心苦しい。分かちがたい感情が無理やり二つに引き裂かれるようだ。私の心は今、この苦みをごまかしたいという気持ちに支配されている。さもなくばすぐにでも顔に出して、彼女を不安にさせてしまうかもしれないから。

「君が恋、ね」私はその事実を静かに反芻する。「こんなことが知れたら男子諸君が大騒ぎしそうだ」

 彼女は申し訳なさそうに笑う。「大げさですよ」

「ふふ、大げさなんかじゃないことくらいわかってるくせに」

「チエさんだって、わたしが誰を好きになったのか、わかってるくせに」

 私は彼女の意地悪じみた笑みに釘付けになる。こんな人間らしい表情を、彼女はいつしか自然と見せるようになった。私も笑ってみせる。これもまた彼女がもたらした自然の笑みだ。彼女がありのままでいられることが、私の何物にも代えがたい幸福の一つなのだ。そう思わずにはいられない。

「恋は盲目とよく言うが、君の目はむしろ冴えているようだ」

「色々なことが同時に起こりましたから。……目を閉じてなんていられません。起こること全てをちゃんと見極めないと」

「どこまでもしっかりしてるね、君は」

 彼女は微笑んでみせる。しかしその表情には、まるで清水に一滴の黒い絵具を零してしまったみたいに不可逆の陰りが差し込んでいる。わかってはいるさ。私では彼女の心の奥底にかかる雨雲を掃ってやることのほんの一助にもなれないことは。私はあくまで物語を映像で眺めているだけの視聴者の一人に過ぎない。そんなことはわかっている。わかりきっていることを、そのままのかたちで受け容れられるほど、私の心は完全な制御下にあるわけではない。ただそれだけなのだ。

「時間を取らせてしまいました。ごめんなさい。このことは……内緒で」

 彼女はまるで死期を悟った北欧の女神のように希薄な笑みを浮かべ、口元に密やかに人差し指を立てると、音を立てずに腰を上げる。違うんだ。君がそんな顔をしていいはずがない。君にはもっと、自分のために笑っていてほしいんだ。舌先が痺れて動かない。私の一挙手一投足は、積乱雲の片隅にうずくまるような白昼夢から浮かび上がることができない。彼女は立ち去る。ところどころに優雅なサイン波の残像を残しながら。放課後の薄暗い廊下の果てへと。

 ああ、染衣雪野さん。どうか自分を見失わないで。必ずそこに答えはあるから。

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