0章1節 僕が見るもの
「君にはわたしがどう見えますか?」
それが染衣雪野に関しての、僕の最初の記憶。
「夏目水季くん」
陽が落ちる頃の河川敷。すんと鼓膜に滴るような薄甘い声色が僕の名前を呼んだ。振り向けばまず目に映るのは、輝くばかりにきらきらとなびく亜麻色の長髪。新雪のような白い肌に隠された深いガーネット色の瞳は真っ直ぐ、されどどこかうつろに僕の姿を捉えた。
「君にはわたしが――どう見えていますか?」
情緒もなく僕は答えた。
「灰色の人間」
僕が主人公の物語があるなら、それはひどく退屈なものになるだろう。
物心ついた頃からぼんやりと心に広がる虚無を自覚していた。小さい頃はまだそのことに疑問を持ってはいなかった。人並みにいた友達と人並みに遊ぶ、ただ普通の子供。何も満たされない一日を取り繕う、茶番劇のような毎日を過ごすことが人の正しい生き方で、誰もが同じ想いを抱いていると思っていた。一つ舞台の上で、あらかじめ定められた役割を、みな避けようもなく台本通りに演じるものだと。
中学生になり、思春期という青臭くも甘たるい空気に包まれながら、いつしかそれが普通でないことに気が付いた。周りが変化していくのを肌で感じ取れた。灯り一つ存在しない真っ暗な舞台に一人取り残されたかのような、そんな強烈な疎外感に襲われた。役者も観客も、元から誰一人としてそこにはいなかった。巧妙に作られた立体映像と稚拙な演目を繰り返しているだけだった。その質量のない幻影すらも、今やどこかへ消え失せてしまっていた。
それでも迎合して人並みを演じ続けた僕は、高校生になり地元を離れ、まわりに知り合いがいなくなると、途端に全てがどうでもよくなった。皮肉にもそれは僕らしさを取り戻すのと同義で、僕のオリジンとは暗く冷たい孤独そのものだった。夏目水季は地味な少年で、それは決して取り繕っているものではなく、ただそうありたいと思って自然体でいるその姿が、客観的に見ればまさしく暗めでぱっとしない陰鬱なキャラクターなのだ。それは僕の本質とは関係ないところにある本当の姿のようにも思えた。僕にスポットライトは相応しくないし、派手な柄のシャツも似合わない。目立つことは極力避けたし、テストの点数だって満点より平均点を目指した。必要以上の会話はしないし、明るいうちはなるべく日陰を歩いて、人の多いところにも近寄らなかった。僕はそうやって徹底して、青春に惑う薄甘い温度の人いきれの中に冷たく身を潜めた。
初々しい春の空気が少しずつ馴染んでからひとつ暑苦しい季節を挟み、どこか安寧を見せ始めたのが仲秋の午後の教室。この頃にもなると各々が秘めたる個を露出し始め、徐に溶け合いながらまとまりを見せた。学園生活における、いわゆるグループの形成。その化学反応にも似た現象を、僕は教室の隅で一人観測していた。
一度堕落すればすぐだった。与しない生き方は気楽で心地好く、最早戻れないほどに蠱惑的で、要するに僕はここで孤立した。自分でそうありたいと願ったから、悔いも憂いも焦りもなかった。当然、友達と呼べる存在もいなかった。僕との関係は決して知人より先には行かない。深く関わることもなければ、特に嫌悪を抱かれることもない。互いを線で繋げば、そのほとんどが無関心という限りなく無色に近い色に染まる。しかし僕が見たままのそれは、その主観性に縛られてなお際立つほど明らかに違う色を見せることもあった。
「そういえば裕太のやつ、各務にフラれたらしいぜ」
東至真は僕に喋りかける。彼は鈍感などではない。彼にとって、僕がその話題に興味あるかどうかなど些末な問題なのだろう。
クラスの中心人物、と言って差支えないほどにはこの教室において影響力のある東至真は、その多彩であろう関係性の中で相対的に見れば、明らかに僕に費やす時間が長かった。それを無関心と切り捨てるにはいささか厄介だった。彼は限りある輝かしい青春の時間をいくらか冷たい海の底に放り投げるように、決まって昼休みに僕の机のそばに来た。僕にその意図は読めない。問いただしたところで、まるで飼い猫が家具と家具の思いがけない隙間を通り抜けるようにするりと、適当なごまかし文句でその問いを優雅に躱してしまう。そして隠し事を取り立てて追及する気のない僕の性質すら、憎らしくも彼は熟知していた。だから僕は勝手に「彼にも関係性から抜け出す時間が必要なのだろう」と思うことにしていた。
彼の世間話の多くは恋愛に関するものごとだった。まるで強靭なナイロン糸を蜘蛛の巣のごとく緊密に張り巡らせているかのように、彼の手元には多様なバラエティに富んだ色恋沙汰が引っ掛かっていた。それを一つの番組にこしらえて、つけっぱなしのラジオのように一方的な角度で延々と垂れ流していた。そこには多くの場合、日々更新されていくクラスメートの特徴も事細かに添えられていた。孤立している僕をせめて置き去りにしないためかもしれないし、単に自分が喋りたいという欲求の矛先にしているだけかもしれない。しかし僕はそれを特別嫌悪はしなかった。ただ漫然と雲の流れを目で追うよりは、いくらか時間の流れを早く感じられるからだ。
「裕太、ちょっと前に雪野さんに告ったばっかなんだぜ。堪え性がないって言うかさあ……」雪野、染衣雪野。彼がその名を口にすると、僕は頬杖をついたまま、教室の前の方の席でクラスメートと談笑している染衣雪野にいっとき視線を向ける。
染衣雪野に関して、僕が知っていることは少ない。
事実として言えることは、まずテストの成績が頗る良いということだった。夏休み前の期末テストで学年トップの点数を取っていたのをよく憶えている。テストの成績、とは決して机の上でペンを取るたぐいのものに限らず、それがあたかも当然であるかのように運動神経にも秀でていた。音楽や家庭科といった実技科目もそつなくこなし、最高評価で埋め尽くされた成績表は驚嘆と称賛の渦を呼んだ。パーツでしか他人の顔を捉えられない僕でも、その容姿が端麗であることは理解できた。その一挙手一投足も、まるで貴族教育を受けた上流階級の令嬢のように、嫋やかで隙がなかった。それが他人の目にどう映っているのかは、彼女に対する評価を聞けば火を見るよりも明らかだろう。性格に欠点の一つでもあれば彼女はまだ人間らしさを保っていたのかもしれないが、今のところ誰もそれを見出してはいないらしかった。彼女に関する醜聞などあらゆる側面で現実味を帯びなかったし、仄暗い噂が流れるようなこともまずありえなかった。
染衣雪野。誰かが言った『完全無欠の美少女』。まるで漫画の世界からでも飛び出してきたキャラクターかのような存在だった。
「よく出来たキャラクターだ」
ふとまろび出た言葉が宙を舞う。それをぴしゃりと掴み取るように、東至真は僕に視線を向ける。
「それがお前の雪野さんに対する評価ってところ?」
「評価、というか」染衣雪野に向けた視線を空に戻す。「事実に近いかな」
薄青いキャンバスの上に些細な白色を伸ばして、心地好い快晴は肌寒くなりつつある風を運んでいた。木々が彩る景色は少しずつくすんでいき、揺れる葉が奏でる乾いた報せの中で、人々は秋の到来を肌に染み込ませていた。そのさっぱりとした空の向こうに、僕は一昨日の、斜陽に包まれた午後四時過ぎの河川敷の景色を見出していた。
「君にはわたしが、どう見えていますか?」
「灰色の人間」
染衣雪野と初めて言葉を交わした。本当は忘れているだけで初めてではないのかもしれない。ただ思えばこの上なく意味のない会話を、僕は何故かよく憶えていた。
「……灰色、かあ」
彼女は少し俯いて微笑んだ。すっかり絡まってしまった緊張の糸がふいにほどけたような、ほのかに緩んだ表情だった。仮にそれが作られたものだとしても、僕には至極自然な感情の遷移に見えた。
「女の子にかける言葉じゃないですよね、それ」
「どうだろう。可愛い女の子とでも言えばよかったのかな、今のは」
「本当にそう思っているんですか?」
「そうらしい、としか」
本当に歯に衣着せないんですね、と彼女は笑った。ぽつりと零れた声が聴こえるか聴こえないかの境界線、それが僕らの距離だった。
「上手くやれていると思うよ」
僕は言った。ふらふらと揺らめく景色の中で、彼女の求める言葉を探した。それがどこかにあるような気がしてならなかった。永遠にも近い数秒を、僕らは視線でやりとりした。しかしその答えはついに見つからなかった。
「……今からすごく適当なこと言うけど」だから僕はそう注釈を添えて、考え得る限りの適当なことを言った。「君はそのままでいいと思う」
それから二日の時間が跳んで、僕らは再び斜陽の中で向き合った。四時と五時の間で針が重なる頃、僕が教室でひとり帰り支度をしているところに、彼女がその扉を開いた。すらっとした体躯がぴたりと立ち止まったまま、どこかおぼろげに揺れているようだった。夕陽が彼女を形作る色の境界線を消してしまい、淡い輪郭がなおにじんで実在性を惑わせていた。
「これから帰るんですか?」
とん、とんと上靴を鳴らしながら歩を進め、彼女は僕に話しかける。物怖じしないふうで、どこか探りを入れているようにも見える。
「ああ」
僕は短く返す。それから少しの間。グラウンドから遠く、ぼやけた喧騒がやけに大きく響く。僕はスクールバッグのチャックを閉め切り、彼女は少し離れた位置で立ち止まる。謎めいた柔らかい塊が、そのくらいの大きさで僕らの間に腰を据えているようだ。
「……一緒に帰りませんか?」ふと彼女は言う。そのとき、恐らく僕は少し訝しげな表情を見せたのだと思う。彼女の表情もまた、鏡写しのように同じかたちを見せる。「嫌、ですか?」
「嫌じゃないよ。でも僕と歩くと、変な噂が立つんじゃないか」
彼女は首を傾げて笑う。「子供じゃあるまいし」
「どうだろうね」
彼女は密やかな微笑みを浮かべたまま俯く。まるでその視線の先に打ち捨てられた白紙の台本でも転がっているかのように、一対の瞳が憐憫な色で、その一点を見つめている。
「……この前夏目くんはわたしに、『そのままでいい』と言いました。その真意を知りたいんです。多分、夏目くんにもわからない真意」
「僕にもわからない真意」僕は繰り返す。
「夏目くん。わたしとあなたは同じです。どうしようもなく……だからこそ、その言葉がずっと胸に引っ掛かっているんです。それは自分の内から出てきた言葉のようにも思えて……その実、なにか言い訳するようにも聞こえて。わたしはその意味を知りたいんです」
気付けば彼女の視線は、僕の顔をまっすぐに捉えている。僕の中を屈折して、その向こうに無限に広がっている茜色の空から何かを見出そうとしている。
「僕のことを知れば、その答えが見つかると?」
「……はい」
「見つからないよ」僕は無感動にそう答える。「見つからない。そんなその場しのぎの適当な言葉なんて、忘れてしまった方がいい」
スクールバッグを肩にかけ、僕は彼女の横を通り過ぎる。ところどころ引かれたままの椅子に人の気配を感じる。そこに生と死の冷徹な対比がある。残酷なまでに明瞭な温度の差がある。僕らは亡霊だ。亡霊に思索は必要ない。人のふりをした僕らに、たどり着ける場所なんてないのだから。
「夏目くん」彼女が呼びかける。僕は振り返らず、いっときだけ足を止める。「わたしは諦めません。わたしのことも、夏目くんのことも」
「そうか」
僕は教室を後にした。グラウンドから遠くぼやけた喧騒がやけに、大きく響く。
東京の夜が、僕の心の隙間にひっそりと帳を下ろした。一日の後片付けを終えたあとの剰余を埋めるように、僕はベッドの上で読みかけの文学を開き、その独白に黙って耳を傾けていた。すぐに活字が揺らめき始め、視線が同じ場所を往復し始めた。一字一句を確かに意識しながら、ふと我に返ると物語の知らないところで立ち尽くしていた。気付けば今日の終わりを告げる鐘がけたたましく鳴り響いているようだった。閉じた本をベッドの脇に置いて、僕はそのまま微睡の中へと滑り降りていった。
夢と現の境界線上には染衣雪野が立っていた。煌びやかな斜陽に溶け出した時間は、その不可逆性を遵守したままどろりとした得体の知れない何かになって、とりとめのない記憶とすっかり混ざり合ってしまっていた。ただ一つ、彼女の佇まいだけが、確かな形を保って僕と対峙していた。終着点のない視線が僕をまっすぐ見据えながら、彼女はいまだに何かを訴えかけていた。その音にならない言葉は、ついに一つとして僕に届くことはなかった。
「夏目くん!」
雲一つ見当たらない青空に朝陽が染み渡っていた。緩やかな川の流れはきらきらとその陽気を映し出し、生温い空気が馴れ馴れしく身体の周りにとぐろを巻いた。十月六日、金曜日、午前七時の河川敷。水滴の跳ねるような声が僕を呼び止めた。聞き慣れた、されどどこか聞き馴れない声。
「おはようございます」彼女は言う。僕は並び立った少女に訝しげな表情を向ける。
「……おはよう」僕は言う。彼女はそれに満面の笑みを返す。
夏目水季と染衣雪野に関して、互いの関係に一つの始発点を設けるなら、この日、この瞬間だったのだろう。僕の人生に彼女が現れた。彼女の人生にも僕が現れた。それだけが僕らの間にぽつねんと、されど確かに存在する唯一の意味だったように思える。ともあれどこか奇妙な、明らかに普通でない、それでもなおごくありふれた学校生活が始まったのだ。




