0章18節 魂の一部を交換する
「そういえばさ、どうして雪野はいつも敬語使ってるの?」
「お気に召しませんか?」
「ん-ん。単純な疑問」
各務優理は華奢な指先を器用に動かして、ピンク色のシャープペンシルをくるくると回転させている。その鮮やかな残像が豪奢な惑星の断層を思わせる。十一月十二日の日曜日。ひどく殺風景なわたしの部屋で、二人はローテーブルに広げた参考書と対話していた。
数日前、撮影の仕事が忙しくて期末試験の勉強が間に合わないと、彼女はわたしに泣きついてきた。泣きついてきた、と言うと可愛げに聞こえるかもしれないが、彼女はかなり切羽詰まっているようにも見えた。曰く、学業のかたわらで読者モデルの仕事を続ける条件として、常に一定以上の成績を維持することを約束しているらしい。一定、というのがどのくらいの多寡なのかはわからないが、そう言われればかなり切迫した問題のようにも聞こえた。
週末に二人で勉強会を開こうという提案をわたしが二つ返事で承諾したのは、ひとえに彼女のためだけではなかった。むしろ多くの割合においてわたし自身のためだった。間違いなく恋心と呼べる感情が萌してからというもの、ずっとわたしの内には初夏の雨雲のようなじめじめとした生ぬるい塊がどっしりと腰を据えていた。とりわけ一人でいるときに、それはわたしを強く苛んだ。まるで孤独が内鍵を掛けて引きこもってしまったみたいに、わたしの冷たいままの心は常に人熱を求めていた。
こと彼女との会話は、わたしの胸の痛みを大いに和らげてくれた。彼女がそばにいるだけで、多くの雑念を吸収してくれた。わたしの心をその声色で温かく包み込み、その視線で柔らかく見守ってくれた。孤独に耐えられなくなったわたしの心臓が、これから始まる冬の寒さに耐えられるようになるまでのしばらくの間、彼女の存在が必要不可欠に思えた。
わたしの部屋を見た彼女は、少しの驚きを見せつつも、特に深く言及をすることはなかった。ストイックだとかミニマルだとか、そういうありふれた解釈をしたのだろう。ただわたしは自身の本質について、すでに彼女に隠し立てすべき段階にはないように思えた。そもそもそんな問題はもはや、期限切れの契約書のように有効な意義の一つも持ち得ないものだ。産声を上げた多くの感情が、今や本質そのもののかたちを大きく変えてしまっているのだから。
「わたしの母が家でもずっと敬語を使ってたんです。わたしに対しても。わたしはそれを聞いて育ったから、敬語を使わないというのはどうしても、収まりが悪いというか、息が詰まるというか、妙なもどかしさみたいなのを感じてしまうんです。変なのはわかっているんですけど」
「変じゃないよ、別に」彼女は言葉を遮る。「敬語なのも含めて、雪野って感じがするし」
「でも距離を感じると思われるところはあるかもしれません」
「それはまあ、そうかもね」彼女は頬杖をついて、にっこりと微笑む。「でも雪野を前にすれば、たとえ何を差し置いてもお近づきになりたいと思うのが普通よ」
わたしは一つわざとらしく咳払いをし、続けますよ、と言ってペンを握り直す。彼女も生返事一つで参考書に向き直る。しかし視線はころころと同じところを繰り返し転がり、手の動きも緩慢だ。どうやら集中力が切れ始めているらしい。デジタル時計は十二時を少し過ぎた時刻を表示している。雲の切れ目から見え隠れする陽の視線がときおり何もない部屋を見渡し、まるで夢の外縁に広がる水面に揺蕩うような心地好いまどろみをわたしたちにもたらす。景色の隅々に濁った水滴が垂れ落ち、物と物の境界があいまいににじんでいく感覚がある。時間をかけて緩やかに白昼夢へといざなう魔法にかけられているみたいだ。ペン先を紙に滑らせる音すら、その呪文に聞こえてくる。彼女が大きくあくびを漏らすのを契機として、わたしは白色のシャープペンシルをそっと置いた。
「ちょっと休憩しましょう。お昼ご飯食べますか?」
彼女は身を乗り出す。「えっ、雪野の手料理!?食べたい!」
「そんな大それたものじゃありませんよ。サンドイッチを作るだけです。どうせおやつとか買ってきてるんでしょう?」
「あー、えっと……」
彼女は頬を掻いて目を逸らす。脇に置いてあるコンビニのビニール袋からはスナック菓子の包装が見え隠れしている。製菓メーカーのマスコットキャラクターが、正体を暴かれた共犯者のように居心地の悪そうな視線をわたしに向けている。別にわたしは警察でもなければ、あなたを責めるつもりはこれっぽっちもありませんよ。
「お昼は軽いもので済ませちゃいましょう」わたしは微笑みながら言う。
ちぎったレタス、薄く切ったトマト、小さく割いた市販のサラダチキンにバジルペーストを塗り込んで食パンで挟んだだけの簡素なサンドイッチを、彼女は心底美味しそうに頬張った。気付けばわたしはこの『美味しい』という感情を素直に共有できるようになっていた。この真新しい感情は、わたしの胸に豊かな温かみをもたらした。つまりこれが嬉しいということだろう。確証はない。ただ焦る必要もない。生まれたての心なら、時間をかけて育めばいい。
軽食を済ませると、わたしたちは勉強会を再開した。基本的には彼女のわからないところをわたしが都度教えるという形式だ。彼女は設問の入口で路頭に迷うことが多かった。しかし出発地点の方向と、分かれ道に突き当たったときに考慮すべき法則を与えてやるだけで、彼女はすんなりとゴールまでの道程を選ぶことができた。その要領の良さは、教える側としてもいくぶんか楽しさのような何かを感じさせるものだった。それもまた未確定の感情だった。わたしが勉強を教える中で、彼女もまた多様な心の在り方をわたしに教えてくれた。総じて言えば、退屈しないとはこういうことなのだろう。それが多分、冷たい安寧と引き換えに得た実直な人間らしさの一部だ。
「雪野なんだか最近、すごく楽しそう」
ふいに彼女はそう言う。簡単にはペンを持ち直さないと言わんばかりに両手で頬杖をついて、その内に安らかな微笑みを携えている。心の底に湛えられた密やかな熱が、隠し立てすることなく頬の表面に露わになってる。
「以前のわたしは楽しそうに見えませんでしたか?」
「そう見えなかったというか、どうにも見えなかったというか……なんというか、感情の起伏みたいなのが、きれいさっぱり均一なかたちで並んでる、みたいな」
それはある意味で正しく、またある意味で間違っているように聞こえる。当然と言えば当然だ。人の印象を一から百まで説明する言語なんて、その本人にしか持ち得ないのだから。そしてその本人でさえ、自分を一から百まで理解できる保証なんてどこにもないのだ。
「今は優理さんがいるからですよ」
優理さん、という響きにわたしはまだ慣れていない。声に出すたびに舌の痺れを覚えて、上手く発音できていたか不安になる。わたしがごまかすように意地悪じみた笑みを浮かべてみると、彼女は驚いたように赤らむ顔を浮かばせる。数秒ほどその言葉を吟味するようにわたしの顔を見つめたあと、再び手のひらの中に頭を収め、してやられたと言わんばかりのむっとした表情を横にそむける。
「……そういうことを言ってるんじゃないの」
「でもこうやってお部屋に招いて勉強会なんて、わたしも初めての経験なんですよ。それどころか休日に友達と遊ぶって経験も、思い返してみればそんなに多くはないんです。自分から誘うこともありませんでした。……そういう意味ではやっぱり、わたしは他人と距離を置いて、あまり踏み込ませたくはなかったんでしょうね」
「でも今は違う」彼女はにこりと笑う。「そうでしょ?」
その通りかもしれません、とわたしも控えめに笑う。
それから期末試験の日まで、時間の合間を縫っては彼女と肩を並べて参考書を開いた。彼女にとっては、わたしに教えてもらうというよりも、勉強できる時間に勉強するきっかけを作れるということに価値を見出しているようだった。わたしもわたしで、他人に勉強を教えるという行為の中に多くの発見があった。そしてやはり何より、彼女が隣にいるだけで、わたしの胸の内に迷い込んだ不和は一時的に移住者たちの喧騒に紛れた。
その反動とでも言うように、孤独はよりいっそう深く、昏く、冷たいものになっていった。それはたびたびわたしを落ち着きのない思索へといざなった。そこは足元すら見えない羊水の海の底、もしくは人のいない惑星の大気圏の外縁。聞こえるのは耳なじみのない比喩ばかり。果てのない暗がりの中で、時間も身体も、止まっているのか動いているのかすらわからない。とりわけ東京の夜は、もったりとした黒い塊となって、わたしの心の空白の部分にどろりと流れ込んだ。
わたしが人熱を求めるたび、そこには他の誰でもない、夏目水季の姿があった。しかし彼を想像すると、その影はいっそう遠く、すっかり手の届かない場所まで離れていってしまった。そのたびわたしは緩やかなめまいと優しい痛みに苛まれた。確かな質量を持った薄甘い雨雲に肺の隅々まで満たされているようだった。わたしはこの胸の苦しみの起因するところを見つけなければならない。孤独はどんなかたちであれ、わたしをどこにも連れて行ってくれはしないのだから。




