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0章17節 もう一度、初めから

 わたしは電車に揺られていた。正確には揺られていない。電車は動いておらず、外は果てのない闇のようにも、黒く巨大な塊に包まれているようにも見える。蛍光は眩しいくらいに車内を照らしているのに、視界は薄暗く曖昧だった。わたしは座席に座っていて、正面に夏目水季が座っている。他に乗客はいない。彼はわたしに視線を向け、その向こうの闇を見つめている。彼は見慣れた制服を着ている。一つ一つの色ははっきりと判別できない。わたしにわかるのは、それは色が付いているものだ、という漠然とした事実だけ。

 しばらくすると徐に彼は立ち上がる。あらかじめそういう命令文がプログラムされていたかのように、迷いのない精緻な動作で。夏目くん?その呼びかけは音にならない。彼は身体の向きを変え、そのまま後部車両の方へと歩いていく。後部車両?電車は動いていない。どちらが前で、どちらが後ろかはわからない。夏目くん。もう一度彼に声をかける。決して音にはならない。わたしは小さくなっていく彼の後ろ姿を、ただ座ったまま眺めている。

 ふと、電車に揺られていることに気付く。今度こそ電車は確実に動いている。外の景色は馴染みのある街並みを流していて、扉上のスクリーンには大きく『櫻田』の文字が映し出されている。車内は眩しいくらいに明るく、ところどころが白飛びして見える。他に乗客はいない。夏目水季もいない。電車は、夏目水季の去った方向とは逆側に進んでいる。駅に近づくのがわかる。電車が次第に速度を落とす。わたしは自分が目を閉じていることにぼんやりと気付き始める。

 わたしは目を覚ます。十一月二日、木曜日。五時四十九分。冷えた汗がシャツににじみ、全身が強い寒気に襲われる。まぶたがひどく重い。まるで何かの間違いで一本だけ一足先に芽吹いてしまった桜の木のような、得も言われぬ居心地の悪さがある。しかし身体は存外に軽い。熱もなければ、特に風邪をひいているわけでもなさそうだ。場違いな汗の温度も、次第に体温と馴染んでいく。わたしはベッドを下りて、軽いストレッチをし、朝の支度を始めた。


 この数日を漠然と過ごしていたことは間違いない。その様子は、他人の目から見ればいくらか上の空のようにも映っていただろう。わたしの頭の中ではずっと、ぼやけた視界と、その先にいる各務優理のくっきりとした表情ばかりが巡っていた。彼女の震える言葉ばかりがバックグラウンドでループ再生されていた。わたしの時間は、あの日からまだ一歩として先に進めてはいない。深刻な謎かけが、がっしりと足を掴んで離さないままでいる。

 その感情の正体を解明できていないというわけではない。ただ熱湯に触れがたいのと同じで、もう少し冷めるまで浸ることができないだけだ。いや、本当にそうなのだろうか?身を委ねれば、その先にいるのはまだ未知の自分だ。わたしはそれを知るのが怖いだけなのではないか?知らない感情に触れるというのは、そう簡単なことではないのだ。とにかく今のわたしには、考えを整理するための時間か、新たな感情を受け容れるための十分な下準備か、もしくはもっと強い力でわたしを動かすためのきっかけが必要だった。


「各務さんが君を心配していた」

 夏目水季はわたしにそう言った。午前七時過ぎ、薄暗い図書室。学校に早く着き、手持ち無沙汰となったわたしの足は、まるで運命じみた方程式の解法が、どう道筋立ててもそこへたどり着くよう仕組まれているかのように、ふらり漠然と図書室を目指した。そこに夏目水季がいることもわたしは知っていた。燦燦祭が終わり、学校生活が元のかたちへと揺り戻っていく中で、彼もまた図書委員としての職責を全うしていた。

「……わたしを、ですか?」

「なんだか文化祭が終わってからずっとぼんやりしてるって。まあ僕から見ても、考え事ばかりしてるように見える。柄にもなくね」

「一言余計ですよ」

 わたしはむっとした表情を作ってみせる。彼と話していると、不思議と自然なままのわたしでいられる気がする。頭の中で騒ぎ立てている疑問符の集合が、彼の言葉でいっせいに静まり返るようだ。彼の低い声には、多少のノイズでは簡単にかたちの変えられない鈍重さがありながら、意識の底の致命的な部分にも届き得る鋭利さが具えられている。心地好くも畏れ多い響き。それがわたしの意識の核心を柔らかく包み込んで離れなかった。

 彼はそれ以上、踏み込んでわたしに何かを聞くことはしなかった。やがて彼は小さく息を吐くと、スクリーンに釘付けになっていた目をゆっくりと閉じ、緩慢な動作で立ち上がる。文庫本を一冊手にして、本棚の方へと歩いていく。彼とロープで繋がれた付属品のように、わたしは自然と彼の後ろをついていく。

「延滞している本があったんですか?」

「いや、今日はなかったよ。代わりに元々延滞してた本が一冊返ってきた」

 生活、科学、生物。ジャンルを区別する標識を『純文学』で左に曲がり、その少し奥で留まる。その道程をわたしは憶えている。彼が書籍のタイトルを指でなぞり始めると、わたしのたなごころに彼の体温が蘇ってくる。鉄骨のような体幹、平坦な拍動、乾いた唇の感触。あの日の今、ここで行われたことが、瞳の奥にありありと再現されていく。止まった時間、動かない温度、亡霊二人。魂ごとそっくり過去に引き戻されてしまったかのように、わたしはそれを追体験する。わたしたちは分かちがたく密着して、体温を一つにする。互いの命の残り時間を数える。まぶたを閉じて、彼の姿を想像する。夏目水季。わたしと同じ人。正体不明の特別。

 その刹那、どくんと大きく波打つ、確かな心臓の悲鳴を聞き取った。その痛みに身体が一拍わずかに跳ねて、わたしはふいに息を短く吸い込んだ。胸のあたりからじわりと熱が広がっていくのを感じる。身体のあらゆる部分で血管が躍っているのがわかる。血液が尋常ならざる速度で全身を巡り、あっという間に耳の先まで煮え立つ熱を伝えた。鼓動が、強くわたしに何かを訴えている。わたしは少しの間だけ、呼吸のしかたを忘れる。

「染衣さん?」

 彼の冷え込んだ声色が、わたしの意識に硬い杭を打つ。目の前の彼の存在が、すっかり空白となったわたしの思考の中に流れ込んでくる。わたしは顔を上げることができない。彼の顔を見ることができない。どんな表情をしているんだろう?想像するしかない。そして想像しようとするほど、心臓が痛いくらいに悲鳴を上げる。

「あ、えっと――」

 何か言わなければ。そう思うほど声が出なくなってしまう。拾い上げた言葉が次々と指の隙間から零れ落ちてしまう。胸がどくどくと高鳴る。指の先まで痺れて動かなくなる。静寂が耳をつんざく。冷静にならなければ。わたしは息を大きく吸い込み、高熱で機能不全を起こした思考に新しい空気を吹き入れる。

「ごめんなさい、ちょっと、用事を思い出したので……先に帰りますね」

 そんな取るに足らない決まり文句だけ残して、わたしは小走りでその場をあとにする。足は正常に動く。今はそれだけでいい。振り返ることなく廊下を駆け、階段を下りたところで一度立ち止まる。深呼吸を繰り返し、どろりとかたちを失いつつある思考をすくい上げ、核心的なポイントをかいつまんでは一つ一つ繋ぎ直していく。心臓の内壁から金属製のバットで打ち付けられるような暴力的な鼓動が、いまだにわたしの全身を揺らしている。頬は高い温度を保ったまま、耳の先まで強い熱に侵食されているのがわかる。

 冷えた手で頬に触れる。わずかに湿り気を含んだ柔らかな肌が指先に吸着する。そこにはただならぬ温度差がある。心の奥底にくべられた薪が思いがけず炎を上げて、抑えきれないまま身体の表層にまで火先が達してしまうように。熱は思考の底まで達し、ぐつぐつと脳漿を沸騰させている。破裂さえも恐れんばかりに心臓は膨張を繰り返している。

 わたしは深呼吸を続ける。あらゆる情熱がやがて冷静へと帰着していくように、頬の温度は初冬の朝に馴染み、胸の痛みは鳴りを潜め、思考の大きな塊は静かに撹拌されていく。つかの間の意識の彷徨は、混じりけのない澄んだ残響とともに、次第に終着のない記憶へと沈み込んでいく。その景色の先に夏目水季の姿がある。わたしは真新しい感情を具えて、彼の佇まいをありありとかたち作る。今度は違うたぐいの痛みが、鈍く、鋭く、わたしの胸を締め付ける。その痛みは苦しくもあり、心地好くもある。生きた痛みの感触がある。

 景色が明るくなる。耳なじみのない比喩がそっくり消え去り、視界の隅々まで色付いていくのがわかる。その色は判別できない。判別できなくてもいい。それはただの枠に過ぎない。だからわたしは勝手に灰色のパレットで描く。愛おしく、丁寧に。そして心の中で、その色彩のない人の名前を呼ぶ。夏目くん。夏目水季くん。

「これを恋と呼ばずして……何と呼ぶんでしょうね」

 わたしは口に出してそう言う。わたしに向かって正しく伝えるために。

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