0章16節 ふたり、ひとり
今すぐにでも「ごめんなさい、昨日の天気は嘘でした」と言われれば素直に受け入れてしまうくらい、その日はときおり横切る鳥か、鳥のふりをした飛行機以外に陽の光を遮るものが存在しない、完璧なかたちの晴れ模様を蒼天に映し出していた。十月二十九日、日曜日。燦燦祭の二日目。冷めやらぬ人いきれが、摂氏三度くらい気温をごまかしていた。冬の入口を臨む十月終わりの日にしては、ずいぶんと暑く感じられる朝だった。
僕らのクラスの出し物である『メイドカフェ』は、売上という意味でも、人気という意味でも、驚くほど好調だった。染衣雪野と各務優理がメイド服を着て衆目の前に立った途端の風速は確かに象徴的ではあるが、それ以外の時間帯でも混雑を望まない憩いの場としての機能を十分にまっとうしているし、男子がメイド服を着れば、他に何をしなくともそれ自体が一つのエンターテイメントとして成立していた。『メイド』という言葉にはどこかおどろおどろしい響きも含まれているが、『カフェ』という実際的な機能が上手く緩衝材のように作用しているように見える。なかなかどうしてよくできたシステムだ、と僕は思った。
『メイドカフェ』に従事している時間帯以外、僕はおおむね暇を持て余していた。何人かのクラスメートが一緒に回ろうと誘ってくることもあったが、僕はその全てを断っていた。こと文化祭において、彼らと僕との間に根差した決して縮まることのない温度の差は、痛いほどこの身を刺していた。彼らの期待するものを返してやれはしないだろうという確信があった。互いに損をすることが火を見るより明らかな、生産性のない取引。そんな契約書にサインするわけにはいかない。僕のためにも、相手のためにも。
燦燦祭の一日目はそうやって常に一人で、特に行先も決めずに各々の催しを遠くから観察して過ごすのみだった。飛び交う視線を潜り抜け、暗く冷たい場所ばかり選んで歩き、すっかり手慣れたように人いきれに紛れ込んだ。まるで文化祭の喧騒に呼ばれてふらっと姿を現した地縛霊みたいに。
「わかってないな、そいつら」東至真は自信ありげに言う。「水季を連れ出すなら、まずは『断る方が面倒くさいことになる』という状況を作り出すところから始めないと」
「そりゃいい。君ならどうする?」
「一緒に来てくれなきゃ今すぐここで地団太踏んで大声で泣き出すぞ、って脅す」
「最悪だ」
多分かなり効く、と僕は思う。
僕らは最初の時間帯の担当を終え、更衣室で着替えている最中だった。コスプレ用のメイド服は、当然ながら男性が着用する用途で作られてはいない。耐久性に優れている分、あらかじめここまでと定められたサイズ以上の身体で袖を通すにはいささか苦労せざるを得なかった。それを脱ぐのにかかる時間も、彼が僕に約束を取り付けるには十分すぎるほど長かった。
「昨日は水季と全然時間合わなかったからな。顔合わせる機会が無さ過ぎて、仮病でも使って休んだのかと思ったぜ」
「『アフタヌーン・コーヒーブレイク』は一緒に入っただろ」
「その通り」
『アフタヌーン・コーヒーブレイク』は事前にも話し合われていた、男子がメイド服の代わりに執事服を着て接客する時間帯のことを指す。『メイドカフェ』とは区別された、一種のイベントのようなものであるということを明確に示すために、別の名称を設定されていた。一日目と二日目の午後の時間帯にそれぞれ一回ずつ開催され、担当は僕と東至真、そして宇佐美京介がどちらも担うことになっていた。宇佐美京介はさらりとした直毛の髪と太い黒縁のメガネを身に具えた、いかにも好青年という風貌の男子だ。生徒会の一員ということもあり、真面目な印象が執事という柄によく似合っているという評価のもと、彼が三人目の執事役に抜擢された。ちなみに彼はかなり根の深いアニメオタクだ。
「『アフタヌーン・コーヒーブレイク』の口コミがかなり広がってるらしい。今日は忙しくなるかもな」
東至真は言う。確かに昨日の『アフタヌーン・コーヒーブレイク』では特筆して混雑の様相を呈することはなかった。ただ退店後のアンケートでは、高い満足度を示していたとも聞く。
「狙い通り、お前のキャラはよく刺さってる」
「僕は別にキャラを作ってるわけじゃない」
「つまりボロは出ない」彼は口角を上げる。「お前は普段通りでいい。普段通りがいいんだ。明るく振る舞うのは簡単だけど、クールを装うのは難しい。だからそういうのは俺たちに任せておけばいい。実際のところ、俺、水季、京介は、かなりバランスのいいスリーマンセルだ。少年漫画の主人公組みたいに……おっと、少年漫画は大抵男二人、女一人だったな。つまり誰かがメイド服を着ないと――おいおい、待てって、水季」
僕は無視して更衣室をあとにした。
まるでそれが単なる比喩でないことを証明するかのように、彼はあてのない旅人となって自由奔放に歩き回った。目的地を設定することなく、ただ足元に広がる道程を前に歩み、分かれ道があればサイコロを振るように平等な確率のもとで進路を変え、興味を惹く催しがあれば迷うことなく足を踏み入れた。それでいて、腹が鳴ったと思えば簡単に踵を返すこともあった。まるで規則の伴わない旅路を、僕は無感動のままともにした。特筆すべき記憶も残らなかった。僕と東至真を結ぶ基本的な原理は常に変わらない。暇がいくらか短縮されるというだけだ。
彼が人通りを歩いていれば、声を掛けられる機会も少なくはなかった。よく知る同級生、よく知らない上級生、知り合いですらない女性。彼もまた――染衣雪野や各務優理ほどではないにせよ――耳目を集めるたぐいの人種だ。彼は常ににこやかに、ときに冗談交じりに、簡単な言葉を交わした。しかし誘いは一様にして断っていた。
「行ってやったらいいのに」僕は言う。「僕なんかといるよりずっと楽しい時間を過ごせるはずだ」
彼はふらっとした笑みを浮かべる。決まって僕を諭すときに見せる表情だ。「二度言わすなよ、水季。お前は特別なんだ。どんだけ焼肉が美味くても、それはさておきデザートは食いたい、みたいなもんだよ。脂っこいもんばっか食ってられはしない。まあ例えとしちゃ正しくはないけど、そういうもんだと思ってくれればそれでいい。俺はもう昨日で十分腹いっぱいになった」
「よくわからないな」
「俺にもよくわからないさ」
声色にアイロニーを含め、彼は旅を続けた。
体育館で開催されていた『お笑いショー』がひとまず僕らの旅の終点となった。彼はずいぶんと楽しそうに笑っていた。僕は終始無言だった。彼に感想を求められると、僕はそのコントの論理性、整合性、もしくはドラマツルギーを細かく分析して所感を述べた。それがまた彼の笑いを誘った。ことのほか奇怪に聞こえたらしい。彼が楽しげにしているのなら別にそれでいい、と思う。
ちょうど『お笑いショー』が終わる頃には、『アフタヌーン・コーヒーブレイク』の時間が迫っていた。僕らはそのままの足で更衣室に向かい、執事服に着替え始めた。執事服もまた女性用に設計された衣装だったが、男装というコンセプトのおかげもあってか、節々に違和感を覚える程度で難なく着られるものだった。僕らが着替え終わった頃に宇佐美京介が合流し、今期のアニメはどれが期待できるだの、昨日夜通し読んだ漫画が面白かっただの、そんな文化祭に似つかわしくない話題に花を咲かせた。
時間が来ると僕らは並んで教室に向かい、時間通りに『アフタヌーン・コーヒーブレイク』を開始した。東至真の予想通り、昨日に比べて多くの客が座席を満たしていた。半分以上が女性客だ。男子は東至真や宇佐美京介を冷やかしに来る以外の理由で、この場所に足を踏み入れはしないだろう。もちろん僕を冷やかしに来るような人間は元からいない。
「やっほー夏目、冷やかしに来たわよ!」
というわけでもないようだ。『アフタヌーン・コーヒーブレイク』が始まってすぐ、各務優理と染衣雪野が、なぜか物々しくレインコートに身を包んで教室に姿を現した。どうやら単に客として様子を見に来ただけらしい。僕が二人席に案内すると、彼女たちは脱いだレインコートを椅子の背に掛けて腰を下ろした。
「そのレインコートは?」僕は聞く。
「昨日、一緒に文化祭回ろうと思ったら散々な目に遭ったのよ。今だってこれで身を隠してても何回か話しかけられたんだから」各務優理はそう言い、染衣雪野は困ったような笑みを浮かべる。何が起こったのかは大体検討がつく。身体中にパンくずを塗して鳩の群れの中を歩くようなものだろう。
「注文は?」僕は聞く。
「うーん、どうしよう。雪野はどうする?」
「わたしはブラックコーヒーとクッキーで。長居はしないのでコーヒーは少なめでお願いします」
「じゃああたしもそれで。砂糖だけ頂戴」
雪野。それは真新しくもよく馴染んだ言葉の響きに聞こえる。昨日の間に、彼女たちにどんな契約がもたらされたのだろうか?いや、これは契約ではないのだろう。単に不和が是正されただけで、これが彼女たちの本来あるべき関係のかたちだ。ほつれた糸を一から紡ぎ直すのではない。仕切り板たった一枚を取り払ってしまうだけでよかったのだ。
各務優理が思い出したように手招きして耳打ちすると、染衣雪野も身を乗り出して耳を傾ける。さながら秘密を分かち合う女たち。絵画にすれば、そういうタイトルが付くに違いない。内容は喧騒に紛れて聞こえないが、特別内緒にするような話をしているようにも見えない。ただその距離を楽しんでいるだけなのかもしれない。失われた時間を取り戻すように。
「あーあー、ずいぶんと仲良くなっちゃって」後ろから東至真が僕の肩に肘をついて、僕の気持ちを代弁する。彼がにやにやと視線を向けると、各務優理はむっとした表情で睨み返す。「うっさいわね。あんたはお呼びじゃないのよ」
「こわいこわい。水季、注文はなんだって?」
「二人ともコーヒーとクッキー。コーヒーは少なめで、砂糖が一つ」
「オーケイ。じゃ接客頼むぜ」
東至真は僕の背をぽんと叩いてその場をあとにする。その後ろ姿に「調子いいんだから」と柔い恨み言一つ零したまま、各務優理は改めて僕に向き直る。
「ねえ、夏目。これ終わったら時間ある?」
「真との約束を放り出していいなら」
真、という言葉の響きを一瞬だけ確かめて、彼女は続ける。「いいわよ別に、あいつとの約束なんて」
「ひどい言い草だ」
「まあ、大事な用なら遠慮するけど」
「体育館でやる軽音部のライブを見に行きたいらしい」
あら、と染衣雪野が声を零すと、彼女たちは顔を見合わせる。
「『ウイシス』でしょ?あたしたちも行きたいのよ、それ。でも昨日みたいになったら困るじゃない。ぞろぞろと大勢引き連れていくわけにもいかないし。だからあんたを連れ添っていくの。ボディーガードとしてね。あんた圧あるし、隣で睨み利かせてれば多少はマシになるでしょ。東至もいるってならまあ、不本意ではあるけど好都合よ」
僕は鼻でため息をつく。「ずいぶんと仰々しい話だ」
「あたしたちだってそう思ってる」
「レインコートを着ていけばいい」
「体育館につくまでは着ていくわよ。それはさておき、ね」
「……まあ」僕はカウンターの先でコーヒーを淹れている東至真を一瞥する。「いいよ、別に。目的が変わるわけでもないし。あいつも断りはしないだろ」
「決まりね」
各務優理はぎゅ、と眉を寄せて笑い、染衣雪野も目を細めて微笑む。僕は「他の客が待ってるから」と理由を付けて、その居心地の悪い空間をあとにした。
それからの時間は至極淡々としたものだった。客が増えても特にやることは変わらない。注文を聞き、注文を届け、少し会話をする、ただその繰り返し。話すこともほとんどマニュアル通りで、文化祭での目的を聞いてから、その話題をあてどなく広げていくのみだった。何が楽しいのだろう?僕は心底そんな心持ちで接していたが、彼ら(ほとんど、彼女ら)は思いの外不愉快でない表情を大抵顔に出していたように見えた。僕も僕で、それが自嘲を含んだ皮肉ではなく、自身の価値を探る指標とするための好奇心にも似た純粋な疑問であることに気が付いた。僕の理想や認識がどうであれ、他人が僕のことをどう思っているのか、改めて思慮を巡らせてみるのは悪いことではないように思えた。
二日目の『アフタヌーン・コーヒーブレイク』もつつがなく完了し、僕らが着替えを終えて生徒指導室に戻ると、すでに多くのクラスメートが室内を埋めていた。二日目の午後ともなるとめぼしい催しは回り尽くして、すっかり手持ち無沙汰となってしまう生徒が増えているようだった。生徒指導室はさほど広くもなく、なお各々の荷物が床の半分近くを占拠しており、十人もいればパーソナルスペースを守ることすら困難になっていた。
各務優理と染衣雪野は隅に並んで座り、肩を寄せ合い、スマートフォンから伸びたイヤホンを片耳ずつ共有して、同じ画面を見ながら談笑していた。その光景は明らかに異様でありながらも、まるで子供の頃のおぼろげながらもたびたび思い出される記憶のような、限定的で印象的な懐かしさを覚えさせた。彼女たちが並ぶと、もっぱら背反的な形容ばかりが姿を現した。まるで柄の全く違うパズルのピースがぴったりとはまるように。
彼女たちの間に不恰好なかたちを成して存在している、密やかな世界の歩みを妨げてはならない。僕らはその認識を無言のままに共有し、一旦窮屈な生徒指導室を出て、扉のすぐ隣の壁に並んで背を預けた。何をするでもなく、互いが互いの取るに足らない思索を泳ぎながら、遠くの人々の往来を黙って眺めていた。彼は何を考えているのだろうか?いつだってそれは、憶測すら然したる意味を為さない、完璧な暗闇に手を伸ばすような問いとなって宙を舞った。彼の頭の中を覗くのは、四次元をかたちとして認識するよりも難しいことなのだ。
しばらくして、白と黄色のレインコートに身を包んだ二人組が生徒指導室から顔を出した。白が染衣雪野で、黄色が各務優理。二人ともフードの部分を目深にかぶり、物々しく正体を隠していた。あまりにも不自然な装いだったが、並んで歩いてみても奇異な視線を向けられるだけで、特に話しかけられるということはなかった。燦燦祭も終わりが近づいていて人通りが少なかったことも功を奏したのだろう、彼女の作戦はおおむね成功をおさめ、僕らは何事もなく体育館にたどり着くことができた。
僕らが人混みに紛れるとすぐに照明が落ち、大きな声援とともにライブが始まった。鋭いギターの音が耳をつんざき、鼓動にも似たドラムの拍動が地面を揺らした。ボーカルが「太陽の声」と言うと、いっそう大きな声援が上がり、本格的にイントロが始まった。太陽の声、どうやら曲名らしい。
人々の反応は様々だった。大きく身を乗り出してリズムを刻む者、直立不動で聴き入る者。各務優理と東至真が前者で、僕と染衣雪野が後者。暴力的な音量が僕の心臓を物理的に揺らす感覚はあったが、ついに心そのものが揺れ動くことはなかった。巨大な音の塊が、あるセオリーにしたがって規則的にかたちを変えているだけに過ぎなかった。しかしその波形に、間違いなく人々の心は共鳴していた。染衣雪野の表情は、終始その特徴的な横髪と暗がりに隠れて窺い知ることができなかった。僕は足元もおぼつかない不確定の孤独を、一人静かに受け容れるしかなかった。
ときおり短いMCを挟みつつ、彼女たちは五曲を演奏し終えると、後夜祭で新曲を発表するという告知だけを残し、そのライブに幕を閉じた。鼓膜が静寂に慣れるまで、しばらく周りの音がくぐもって聴こえた。照明が点いたあとも人々はその新曲に関する話題で持ちきりで、体育館は依然として強く開放的な熱にうなされていた。各務優理と東至真もまた、この曲が良かっただの、あの曲を聴きたかっただの、ライブの感想を熱心に語り合っていた。
「どうでしたか?」
染衣雪野がレインコートの中から僕を見上げて聞く。その頬にほんのりと茜を差して、艶やかな熱をこっそりと隠している。
「どうもこうも」
僕がそう言うと、彼女はそうですか、と一言だけ小さく残して、僕らの前を歩く二人組に視線を戻した。体育館をあとにする人混みの中で、ときおりレインコートの硬い生地が僕の腕に触れると、彼女は居心地悪そうに肩をすぼめた。僕らを守る殻は影もかたちもない。ただ二人の男女が、人いきれに紛れながら並んで歩いているという事実だけが深く腰を据えている。
「後夜祭、行きますか?」彼女は視線を動かさずに言う。
「行かない。他に用があるから」僕も視線を動かさずに言う。
そうですか。彼女は再びそう言う。いっそう小さな声で。
十六時になり、燦燦祭は閉会を迎えた。これから二時間は後片付けの時間になる。そのあとに閉会式があり、そのまま後夜祭が開催される。グラウンドで行われ、参加自体は自由とのことだった。
メイドカフェは一時間と少しであっさりと元の教室の姿に戻った。遠い昔の記憶に想いを馳せるように、各々が冬の夕暮れに冷めつつある時間の味を確かめていた。つかの間の熱狂は、長い夜の始まりを告げるように、僕らを置き去りにしてどこかへ消えてしまったようだ。かすかな足跡と奇妙な寂寞だけ残して。
時針が六時に近づくと、校内放送で閉会式の報せが鳴りわたり、ぞろぞろとした人の波が緩慢に流れ出した。まるで校舎が溜まり込んだ息をどろりと吐き出すように人々がグラウンドを目指す中、僕はその足で特別教室が集まる東棟へと向かった。熱の残った喧騒が夢の終わりを報せるように遠く響く中、誰一人とすれ違うことなく薄暗い階段を上っていく。柔らかな靴底が一歩一歩床を打つ音が意識の隙間に入り込む。物語が、確実に終わりへと向かっている音。
屋上へ続く扉は少しだけ開かれていた。冷え切ったドアノブに手を掛けると、扉口から大きく息を吸い込むように、真新しい空気が僕の髪をなびかせた。屋上のコンクリートを踏むと、帳が下りつつある広大な薄明が僕を見下ろした。閉会式はすでに始まっていて、生徒会長が労いの言葉を述べる声が朦朧と反響していた。微風が形容しがたい匂いを運んでいた。それが秋と冬の間の、夕方と夜の間にしか感じ得ないものであることを、僕は直感的に理解していた。
僕は屋上を見回した。まだ雲のかたちをぼんやりと捉えることのできる薄暗い空、他人事のように立ち並ぶ室外機、無骨に張り巡らされた背の高いフェンス。ほとんど完璧に近い無機質な景色の中で、僕は一つの白い人影を見つけ出した。その佇まいには空間の捻れのようなものが渦巻いていて、間違った加工を施してしまった風景映像のような違和を浮き彫りにしていて、ともすれば幽霊にでも出遭ってしまったかと思うほどに、沈みゆく夜の調和を乱していた。しかし僕はその存在をよく知っていた。色素の薄い肌、銀色の長髪、深い藍色の瞳。温度のない、希薄な少女。
彼女はフェンス越しの人熱を遠く見下ろしていた。晩秋の冷たい風が、ときおりきらきらと白い波を生み出した。まばゆいコントラストが却って輪郭を柔くにじませていた。表情は見えない。生徒会長の謝辞が終わり、ひとしきり拍手が鳴り響いたあと、僕は声の届く位置まで足を運んだ。
「待ったかな」
「待ったさ。待つためにここにいるのだからね」『小池知恵』は振り向かずにそう言う。
「僕が来るのが正解、ということでいいのかな、『江本慶子』さん」
「誰が来ても正解は正解だよ。君が来ればちょっとしたオマケがある程度だ。来るのが君でなければ、素直にこれを渡して、『おめでとう。正解だ。謎解きは楽しんでいただけたかな?それじゃあまた』と言ってここを去るのみさ」
これ。僕は彼女の後ろに組んだ手元に視線を向ける。そこには一冊の文庫本が握られている。硬い装丁の中に、大きな『こころ』の文字。
「ずいぶんと分の悪い賭けに見える。僕が来たのは、いつだったか君が僕に夏目漱石の話をしたからだ。本当にそれだけだよ」
「これが賭けなら、勝敗なんて些事さ。私にとって大事なのは、この場を用意したこと、ただそれだけなのだから。もう伝えたいことは全て伝えてある。答えなんて、待つまでもない。ここから先は、ちょっとした後日談みたいなものさ。そうだろう?」
振り返った彼女の瞳は水面に浮かぶビー玉のように、遠くの街灯りをかすかに捉えてはきらりと光っていた。ふいに小さな水滴が一つ零れ、冷たく柔らかな頬を下っていく。物静かな動作でそれを拭い、彼女は僕の目の前まで歩み寄る。大事そうに両手に持った『こころ』を掲げ、彼女は言う。
「『こころ』は読んだかい?」
僕はうなずく。彼女は続ける。
「……初めての恋なんだよ、夏目水季くん。知らないものは、説明のしようがない。だから特別な感情には、まず名前を付けなくちゃならない。私は君への、君だけへの感情を恋と呼んだ。『香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです』――この想いを、まだ新鮮なうちに伝えなくてはならないと思った。強く、そうしたいと願った。でも……それが簡単にできるのなら、この世界に美しい物語の一つだって生まれはしないのさ。こと君に関して言えば、完全な孤独がすでに全てを物語っていたのだから。
契機になったのは、君がその完全な孤独を捨てたときだ。いや、ごまかすのはやめようか。言い直そう――君たちが、君と染衣雪野さんが、同時に、完全な孤独を捨てたとき。それが何を意味するか私にはわからない。わからなくていいとも思える。ただ一つ間違いなく言えるのは、その時点で私の恋は確かに始まり、そして同時に終わったということ。
でもね、夏目水季くん。憶えておくといい。恋心というのは、存外簡単に消えはしないんだ。君が私の想いを知らないままでいるなら――それはそれでいい。いずれ親しみが、恋慕の熱を冷ましていくものなのだから。でもこのまま何もせずにいることだけは、どうしてもできなかった。だから私はこうやって、回りくどい方法で君に伝えようとしたんだ。私はごまかしたかったのさ。私のどこかに確かにあった、『先生』の抱いたような心持ちを。人間の罪を、ね」
彼女はそこまで言うと、大きく息を吸い込む。続く言葉が胸元で二の足を踏み、その代わりとでも言うように、静かな瞳から再び涙が溢れ出す。ついさっき見せた、丁寧に紡がれた一本の糸のような静謐な流れとは打って変わって、嵐に耐え切れなくなった河川の氾濫のように。眉間にしわを寄せ、口を固く結び、それでも止まらない涙を隠すように俯くと、両手で持った『こころ』を僕の胸元に押し付け、そのまま彼女はその背表紙に額を預ける。
「……なんで君なんだ」まるで心拍の乱れと同期するように、彼女の声が細やかに震える。「なんでよりにもよって、君を好きになってしまったんだろう」
彼女は肩を小さく震わせ、声もなく嗚咽を漏らす。たかが文庫本一冊の厚みが、決して縮まらない大きな隔たりとして僕らの間に腰を据えている。僕は何も言わない。今の彼女に必要なものを、今の僕は何一つとして用意してやれはしない。僕にはそれがなんとなくわかっていた。だから声を掛けることも、触れることもせず、ただじっと不規則な感情の周波を胸元で滑らせていた。
グラウンドからポップミュージックのイントロが流れ始める。たしかダンス部の催しだ。後夜祭が始まった。まるで別世界の出来事のように。場違いな喧噪が、時間と空間の決定的な齟齬を生む。テレビの中の役者と画面越しにそれを観る人々が互いに触れることができないように、僕ら二人とそれ以外との間には気の遠くなるような無限の真空が佇んでいる。どちらが正しい現実かわからない。誰にも。
「すまないね」
やがて彼女は顔を上げる。ネイビーのセーターの袖で乱暴に涙を拭い、見慣れた笑みを密やかに浮かべる。どこか含みのある、澄んだ表情。目元にはまだ感情の奔流が刻んだ跡が残っている。ぬかるんだ土に重みを背負って踏み込まれた深い足跡のように。
「構わない。君の言葉を聞くためにここにいる。それ以上もそれ以下もないから」僕は彼女から視線を外さずに言う。
「夏目水季くん」彼女は改まって言う。「私は君のことが好きだ。ぜひ、お付き合いをしたい。その……一応、答えを聞かせてもらってもいいかな」
「僕は君のことが、異性として好きじゃない。だから君の気持ちには応えられない」
「うん」彼女は表情を変えずに言う。ほのかに赤く腫れた目元から、もう涙が流れることはなかった。「ありがとう。それでいいんだ」
一人にしてほしい、そう言った彼女を屋上に残し、僕はその場をあとにした。『こころ』は受け取らなかった。薄暗い階段を下っているうちに、正しく時間を進んでいるのか、それとも進んだばかりの時間をたどって戻っているのか、僕はわからなくなった。時計が右に回るのも、日が西に落ちるのも、春夏秋冬の順で季節が巡るのも、このさい些事だ。記憶も歴史も、時間の方向を示す指標としてはいくらか心許ないものになっていた。世界は五分前に始まったと言われてもなんら不思議ではない。
知らないものは、説明のしようがない。だから特別な感情には、まず名前を付けなくちゃならない。
ふと僕は彼女の言葉を思い出す。僕には知らない感情が多すぎる。知らないのは、その感情に名前を付けてこなかったからだ。当然と言えば当然だろう。言葉を知らなければ本を読めないのと同じで、正体不明のものを認識することはできない。発見があり、識別を経て、初めて地図が描かれる。これはある種の怠惰であり、その怠惰の代償だ。見つめるばかりが心の在り方ではないのだ。
東棟を出て、僕は空を仰いだ。雲はすっかり輪郭を失い、夜の闇に紛れていた。ダークブルーの絵具を貯めたバケツを静かに傾けただけの、特筆すべきところもない平坦な空。月も星もない。道しるべと呼べるような光明はどこにも見えない。見えないだけで、この先に確かに存在している。正しい道をたどるために、正しい時間を生きるために、まずはその闇に身を浸さなければならない。恐れることなく。




