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0章15節 今更立ち止まることなんてできないのだから

 人々の晴れやかな希望と予感とは裏腹に、その日の空はあいにくの曇り模様を広げていた。何層にも重なった灰色の雲が太陽をすっかり隠してしまい、切れかけの電球のような薄明かりが時間を示す目盛りの一部をぼかしてしまっていた。陽の届かない東京の空気はしんと冷え込み、ときおり乾ききった風がやすりのように肌を撫でた。もう少し先にいるべき一日が、何かのきっかけで一足早く目覚めてしまったようだ。

 それでも喧騒が沈み込む様子はなかった。煮えたぎる人いきれが寒さを忘れさせ、昂る心が暗さを覆い隠していた。それが彼らの、たとえ嵐にだって覆されることのない、輝くばかりの青春の集大成なのだ。そうしてわたしたちのクラスも準備おさおさ怠りなく、燦燦祭の一日目はつつがなく迎えられた。

 わたしたちのクラスの出し物である『メイドカフェ』は、原則的に三人から四人のメイド服を着た接客担当と、一人から二人の注文の準備の補佐をする裏方担当をワンセットとして、おおよそ三十分おきに交代するスケジュールで運営される。基本的にわたしがメイド服を着るときは各務優理もセットとなるが、この二人と並ばせるのは酷だろうという話になり、わたしたちが担当する時間帯は裏方の人数を増やして二人だけで接客を担当することになっていた。

 わたしたちの担当は一日二回あり、今日は開場から三十分後、つまり二番目のシフトで一回目の出番が訪れる。わたしは開場直後、クラスの雰囲気を見届けてから(一番目のシフトは男子のメイド服のお披露目だった。演出は悪くなく、客も子供から大人まで面白おかしくも和やかな雰囲気に包まれていた)普段は部活動で使われる更衣室に行って、早めにメイド服に着替えていた。更衣室は他のクラス、学年の生徒も利用しており、その中に知り合いがいればわたしに話しかけた。口々に「可愛い」と言い、わたしはすかさず笑顔を返した。

 しばらくしてから、更衣室に各務優理が顔を出した。その頃にはすっかり閑散としており、スマートフォンをいじるのに夢中な上級生が二人いる程度だった。彼女はわたしの姿を認めるとすぐに安堵にも似た微妙な表情を見せ、わたしの隣に立ってメイド服の着付けを始めた。

「なんか、緊張してきちゃった」

 衣擦れの音が鳴りやむタイミングで彼女は言う。それが独り言か、わたしに向けられたものなのか、正しく判別はできない。ただどちらにせよ、わたしが黙ったままでいるにはきまりの悪い沈黙が待っていた。

「各務さんでも緊張することはあるんですね。こういうのは慣れてるものだと思ってました」

「慣れてても、緊張するものは緊張するよ。それに撮影のときとは全然違う。撮影してるときは、カメラマンと撮影スタッフしかいないからね。当然だけど読者はそこにはいない。でもこれから対面する人たちは、写真の中のあたしじゃなくて、生のあたしを見る」

 彼女はそこで会話を区切って、しばらくバストの位置を調整する作業に集中する。

「ねえ、染衣さんは……写真の中のあたし、見たことある?」写真の中のあたし。それは『PriMA』に掲載された、読者モデルとしての各務優理を指しているのだろう。

「見たことありますよ」

 わたしがそう言うと、彼女はほんのりと頬を紅潮させ、ばつが悪そうに顔を背ける。返事はない。言葉は、彼女の喉元に設けられた関門を通過することができなかったみたいだ。ずいぶんと厳格な警備員が目を光らせているらしい。

 それからしばらく彼女は着付けに集中する。スマートフォンのインカメラを上手く使いながら、ホワイトブリムの位置を丁寧に確かめ、フリルの端をつまんで形を整え、指先でさらりと前髪を揃える。事細かに記載されたチェックリストを上から順に消化していくように、隅から隅まで装いを整えていく。

「あのさ、全然関係ない話、してもいい?」彼女は改まってそう言う。

「いいですよ」

「夏目とはさ……その、どういう関係なの?」彼女はそう言ったあと、慌てて付け加える。「いや、あの、答えにくかったら別に答えなくてもいいからね」

 彼女は簡潔にいきさつを説明した。夏目水季と連絡先を交換する際、わたしの名前を目にしたこと。それを追及すると、彼は「単に家が近かっただけ」と説明したこと。それについて、彼女はまだ腑に落ちていないということ。

「わたしと夏目くんの関係は、厄介で一筋縄ではいかないんです」わたしはそう答える。今更ごまかしたところで、それが何かいい結果をもたらすとは思えなかった。「どういう関係かと言われると、わたしにもどう答えていいものかわかりません。確かなことは、ロマンチックな出会いもなければ、劇的な関係の発展もないということです。外的繋がりもないし、まるっきり無関係なただのクラスメートです。でもわたしたちは不思議と、互いの特別な領域に平気な顔をして踏み込んでしまうことができるんです」

 彼女はすっかり着付けの手を止め、怪訝な表情でわたしを見つめていた。わたしの言葉を文字にこしらえて、その一つ一つをじっくり検証しているようだ。でもそれはいくら考えたって答えの出ない命題だ。もしくはあなたが答えを出してしまってはいけない問い。わたしには、その汲々とした考察から彼女を引っ張り出してやる必要があった。

「まあつまり、いくぶん距離が近いように見えるかもしれませんが、わたしたちは別に恋人だとかそういうのじゃない、ってことです。互いに好意のないことなんてわかりきったことですから」

「……そうなんだ」

 彼女が見せたのは、得心が行ったような、行っていないような、微妙な表情だった。何か言いたげでもあったが、意図的に喉元で抑え込んでいる様子も見て取れた。真ん中だけくり抜かれたぎこちないかたちの沈黙と、硬い素材の衣擦れの音だけがふわりと漂っていた。多分、わたしは何も間違ったことを言ってはいない。信号が青に変わるまで、少しだけ立ち止まる必要があるというだけだ。わたしはそう自分に言い聞かせた。


 彼女が着付けを終えると、わたしたちは互いにメイド服の具合を丹念に確認した。おおむねほころびがないかを確かめていたわたしに対して、彼女はフリルの寄り方だとか、胸元のしわだとか、そういった細やかな部分を調整した。「染衣さんがいやらしい目で見られるのだけは本当に耐えられない」と彼女が言うと、わたしは「でも期待に応えないわけにはいきませんから」と言って困ったような笑みを浮かべた。

 彼女が満足いくまで装いを整えると、わたしたちは床まで伸びた大きな黒い外套に身を隠して更衣室を出た。まるで不吉な儀式に向かう魔女たちのようだ。わたしたちはこれから、色んな人たちの前に立って、笑顔を振りまいて、彼らを満足させる。それが儀式じみていると言われればその通りだ。ただしわたしたちは魂を奪い取る魔女ではなく、幸福を配り分ける魔法使いでなければならない。慣れたものだ、とわたしは思う。

 教室の前ではすでに前の担当の男子たちが、わたしたちの交代を待っていた。うち一人は東至真だった。「今入ってるお客さんは全員もう君ら目当てらしい」と彼は耳打ちした。続けて「まだ交代の時間まで数分ほどあるけどもう始めてほしい」と困ったように言った。行列もすっかり伸びていて、過ぎ行く人々は何事かと、糸を手繰り寄せるようにその根元を確認していた。

 わたしたちは並んで『メイドカフェ』に入った。仰々しく外套を脱ぎ捨てると、大げさな喝采が教室中にこだました。それは次の瞬間には熱した油の跳ねるような拍手に変わり、余熱のまましばらく続いた。横目に彼女を一瞥すると、事務的な笑みに唇の角度を固定させていた。一方でその一対の瞳は人々の向こう側にある真新しい煌めきを反射させていて、未開の島を望む航海士のように多彩な予感の色をありありと浮かび上がらせていた。

「お帰りなさいませ、ご主人様!店頭の注意書きにも記載させていただきました通り、当店にはナンパ禁止、撮影禁止、お触り禁止のルールがございます。その他、店員の気分を害する言動も控えていただきますと幸いです。守っていただけないご主人様はこわ~いお兄さんたちに追い出されてしまう場合もございますので、気を付けてくださいね」

 各務優理は満面の笑みを見せ、多少大振りなジェスチャーを挟みながら、はきはきとしたビジネスライクな声色で説明した。言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、体格のいいクラスメートの男子が二人、セキュリティ・ポリスのように事々しく腕を組んでわたしたちを挟むように立つと、ざらついた笑いがところどころで立ち上がった。そのあと彼女は目配せをすると、わたしはうなずいてから続けて口を開いた。

「また、只今の時間帯は混雑が予想されるため、提供させていただくメニューは食品のみとし、早めのご退店をお願いさせていただく場合がございます。大変申し訳ございませんが、ご理解のほどよろしくお願いします」

 それからわたしたちの業務が始まった。裏方の指示に従いながら順番に、手分けしてオーダーを取り、提供するタイミングで客と簡潔な言葉を交わした。わたしたちはメイドの姿をした魔法使い、架空の人物。今だけはいくらでも嘘をついていいと思えば、喉元はオイルを塗られたようにすっと滑らかなものになった。燦燦祭で楽しみにしているイベントはありますか?軽音部!素敵ですね。わたしはロックとかには疎くて。好きなアーティストとかはいるのですか?へえ、今度聞いてみますね。

 時間は瞬く間に過ぎていった。わたしたちが気付いたのは、二人の手には余るということだ。行列が想定以上に伸びていて、急遽飲み物類を提供せずに回転率を大幅に上げるというプランを取ることになったが、そのおかげでほとんど会話することのできない客もいた。さっきまで普段使っている化粧水の話をしていた客は、次の瞬間にはソーシャルゲームの話題に花を咲かせる三人組に変わっていた。メイドカフェという媒体を介して、人間という人間が目まぐるしく代謝されていた。

 気付けば時計は十一時を指していた。交代の時間だ。あれだけ長い尾を携えていた行列も、その頃にはすっかりどこかへ消え去ってしまっていた。鳴海茜音の能率的な時間管理のおかげだろう。行列をさばくという点において言えば、彼女は大成功を収めたと言ってもいい。そこにはわたしたちとは比にならない苦労があったに違いない。

「はっきり言って失敗だわ」鳴海茜音は言う。「四人で回す想定で設定した席数を、二人で回そうって考え自体がそもそも間違っていたんだわ。染衣さんと優理ちゃんにはずいぶんと苦労をかけちゃった。ごめんね」

「人が多すぎました。こればかりはどうしようもありません。それにわたしたちの苦労は考慮すべきではありません。お客様とお話をしてるだけですから」

「ごめん」彼女は小さな肩をすぼめてもう一度言う。「次までになんとかする」

 彼女が更衣室を出たあと、わたしは一人でクラスTシャツに着替え直した。各務優理は「要と約束があるから」と言って、すでにその場をあとにしていた。広い更衣室にはわたしの他に一人、ダンス衣装(のように見える物々しい装い)に着替えている生徒がいる他に、角に座り込んだ三人組が少し早い昼食を嗜んでいる様子が見て取れた。わたしは脱いだメイド服を簡単に畳んで決められた棚に戻し、乱雑に置かれた脱衣かごや鞄の間を縫って更衣室をあとにした。

 特に行くあてはなかった。模擬店の立ち並ぶグラウンドを歩いてみたり、部室棟に顔を出してみたりもした。当然ながら興味を惹かれる催しはなかった。人の多いところを歩けば、知り合いかそうでないかに関わらず、多様な人間がひっきりなしにわたしに声を掛けた。わたしはシステマチックに挨拶一つ返し、誘いの文言には穏やかな言葉を選んで断った。そのやり取りをいくらか煩わしく感じる瞬間はあったが、かと言って人の少ない場所に行く気にもなれなかった。多くの視線こそが、わたしの身を守る殻を形成するための素材になっていた。学校という枠を越えて外部の人間が闊歩するような状況で、わたしは無防備になるわけにはいかなかった。

 こんなときに夏目水季がいたらいいのに、とわたしは思った。わたし一人で歩ける世界はあまりにも狭く感じられた。彼が隣にいなければ、わたしはどこにもたどり着けない。彼さえいれば、わたしはどこへだって行ける。

 彼を想像すると、わたしは途端に強い孤独に苛まれた。それは生まれてからずっと連れ添ってきたものとは違う種類の冷たさを持っていて、褪せることのない黒色に塗りつぶされていた。じめじめとした雨雲の塊を飲み込んでしまったかのように肺が重く冷え込み、少しの間だけ呼吸のしかたを思い出せなくなった。わたしは胸に手を当て、乾いた鼓動を静かに数えた。

 彼に会いたい。彼に会って一言、一緒に文化祭を回りましょう、と言うだけでいい。わたしが誘っても、彼はにべもなく断ってしまうだろう。それでいいんだ。わたしにはその確認が必要なんだ。

 わたしの足は自然と『メイドカフェ』へと向かっていた。記憶が正しければ、彼は今裏方担当をしているはずだ。もちろんそこに乗り込んで、仕事中の彼に話しかけることはできない。ただ交代のタイミングを見計らえば、彼と会話する機会は簡単に作れるはずだ。

 しかしわたしは一向に、彼にかける言葉を用意することができないままでいた。彼が教室から出てきたところを、こんにちは、少しお時間いいですか?と連れ出せばいい。彼は目立つことを避けるから、人目のつきにくいところに行けばいい。そして、一緒に文化祭を回りませんか?と聞くだけでいい。そうすれば彼はこう答えるのだ。君と歩くのは目立ちすぎる、また妙な噂が立ちかねない、悪いけど他を当たってくれ、と。それだけでいいはずだ。なのにその想像には妙に濃い霧が掛かっていた。まるで知らない国の童話のように、一向に実在感を見出せない漫然とした風景が広がっていた。

 結局わたしは答えを見つけられないまま、気付けば『メイドカフェ』のすぐ近くに身を置いていた。雑多な喧噪はもはや一つとして正確な区別をつけられないまま、混沌と混ざり合って謎めいた塊を生み出していた。あたりを見渡せば小さな子供から白髪をこしらえた老人まで、多くの人種を広い視野で捉えることができた。そこには一つ一つの物語を明瞭に垣間見ることができた。慣れない様子の中年男性は、一人の女子生徒に連れられてどこかきまりの悪い表情を浮かべていた。一人の男子生徒は、小さな女の子にむりやり手を引かれて右へ左へと振り回されていた。一対の男女が、互いにぎこちない笑みを浮かべながら色々なところを指差して話し合っていた。

 そのようにして少し離れたところから人々の様子をうかがっていると、やがてわたしは一つの人影に釘付けになった。まるで幽霊でも見つけてしまったかのように、わたしはそこにいるはずのない女性を、記憶の中で検証した。黒いハイネックとライトグレーのロングスカートをベージュのトレンチコートで隠しただけの簡素な装い。カールのかかったライトブラウンの髪は後ろで束ねられていて、あまり目立たない大きさのピアスが冷たい空気に触れていた。目元のしわと頬のわずかなたるみが逆らい難い大きな潮流に相対する疲労をありありと映し出していた。気取ることのない質素な佇まいでありながらその実、上品で近寄り難い空気が彼女の周りの風景を異様な色に染め上げていた。そこだけ光の屈折の法則がわずかに歪んでいるようだった。

 ふと目が合うと、彼女は中立的な表情をわたしに向けた。唇は固く結ばれたまま、笑みとも憂いともとれない角度でじっと佇んでいた。多分、わたしも同じ表情を見せていたのだろう。ばつの悪い沈黙を、多様な人間が横切った。どれだけの間そのままでいたのかはわからない。最終的に歩みを寄せたのは彼女の方だった。上靴の裏に接着剤でも仕込まれていたかのように、わたしは一歩もその場から動くことはできなかった。そうしてわたしたちはやがて、誰も横切ることのできない距離で向かい合った。それでもまだ、顔を合わせて話すには少し開いた距離だった。

「お母さま」

 わたしはその女性をそう呼ぶ。上手く喉が開かない感覚がある。わたしの声は思ったよりも低く、重く喧騒の中に溶け込んでいく。

「お久しぶりです、雪野」

 母は恭しくそう言う。母は昔からずっと、誰に対しても敬語を使っていた。わたしが敬語を使うのがもっとも自然だと思うのも、恐らくはその影響なのだろう。

「お久しぶりです」

 わたしは言う。続く言葉が見当たらない。わたしは肩をすぼめて、終着点を見失った沈黙をやり過ごす。まるで街中に点々と置かれた旗を辿っていくようなたどたどしいやり取りだった。

「学校生活はどうですか?」母は言う。

「つつがなく過ごせてます」

「楽しい?」

「どうでしょう」

 母の前では、上手い表情の作り方がわからなくなっていた。今は多分、困ったような笑みを浮かべているに違いない。そう仮定する。

「あなたのクラスでは『メイドカフェ』をやっているんですってね」

「はい」

「あなたもメイド服を着るの?」

「はい、先ほど出番がありました」

 母はそこで初めて、笑みらしい笑みを浮かべる。「残念です。すれ違いになってしまいましたか」

「一時半ごろにもう一度あります」

「ごめんなさい」母は顔をしかめる。「そろそろ帰らなくてはならないの。明日も来られそうにありません」

「そうですか」わたしも眉を下げる。下げていると仮定する。

「でもあなたの顔が見れてよかった」

 本当に、と母は付け加える。まるで冷え込んで固まった粘土がすっかりほぐれて柔らかくなるように、彼女の口元には自然な笑みが浮かんでいた。遠い記憶の中の、ほこりが被ったおもちゃ箱の中に置き去りにされていた表情だった。

「雪野」母は真っ直ぐわたしの目を覗き込んで言う。「高校生をぞんぶんに楽しみなさい。十分に青春を謳歌しなさい。あなたが大人になったとき、青春時代の記憶は多かれ少なかれあなたを苦しませるものになり、同時にあなたを救うものになります。あなたの人生の土台をかたち作る大切な時期です。ときには将来のことも忘れて、一日一日を丁寧に過ごしなさい。

 そしてたまには家に帰ってきてください。お茶でも飲みながらゆっくり話しましょう。――ああ、あなたはコーヒー派でしたね。まったく、変なところであの人に似てるんだから。ともかく、元気そうで何よりです。体調には気を付けてね」

 母はそれだけ言うとわたしに背を向けた。何か言わんとわたしが声を掛けようとすると、言葉は全て喉元で踵を返してしまう。もどかしさを含んだ短い息だけが窮屈そうに漏れて出てくるだけ。母はそんなわたしの様子を背中で感じ取ったのか、もしくはただの運命じみた気まぐれが彼女をそうさせたのか、最後に一度だけ振り返り、ふっくらと実った採れたてのトマトのような新鮮な笑みをわたしに向けた。

「あなたも恋をするということがわかっただけでも、来た甲斐がありました」

 その表情にはいくらか若返ったような印象が見受けられた。わたしと同じ年齢くらいに。


 母との短いやり取りは、しばらく大きな雲の塊となってわたしの心の中にどっしりと腰を据えていた。それはいずれ空が晴れるのと同じように、少しずつ彼方へと姿を消していくたぐいのものではあったが、彼女のいくつかの言葉は辛抱強くそこに残り続けた。わたしたちのクラスに待機場所として割り当てられた生徒指導室の一角で、わたしは持参した弁当に箸を立てながら、その言葉について考えを巡らせていた。ものごとの順序が無造作に並び替えられ、気付けば夏目水季の姿は意識の根本から少しだけ遠い場所に佇んでいた。

「あなたも恋をするということがわかっただけでも、来た甲斐がありました」母はそう言った。ここで言う「あなた」とは、紛れもなくわたしのことだ。わたしが恋をする?それはわたしの中で最も起こり得ない可能性の一つだ。しかし母の言葉一つ一つには奇妙なまでに説得力があった。最後の笑顔は、その言葉が決して出まかせの嘘でないことの確かな証左のようにも思えた。わたしが恋をしている。なぜ母にはそう見えたのだろう?

 母がわざわざわたしを訪ねて来たこと、わたしたちの間に重く鎮座していたわだかまりが、気付けば些細なものになっていたこと。それらを確かめるよりも先に、その記憶は疑問符のラベルによって覆い隠されてしまっていた。まるで飴を包装紙ごと口に含んでしまったかように、味のしないものごとばかりが舌の上で転がっていた。ふと時計を見上げると、時針が一時を少し過ぎる頃合いだった。わたしは乾いた白米を半分残したまま弁当箱を閉じると、ついでに生じた新たな疑問を引き出しにしまい込んで、静かに更衣室へと向かった。


 わたしたちの二回目の担当でも、相変わらず教室の前に長い行列を生み出していた。この人数をさばき切るために、飲み物の提供を停止することで回転率を上げるという方針は変わらなかった。変わったのは裏方の担当を無くしたこと、代わりに接客担当(もちろん、メイド服を着た女子)を増やしたことだ。彼女たちはオーダーと提供のみを担当し、わたしと各務優理は客との会話に専念することになった。結果的に言えばこの試みはおおむね成功し、接客の穴をほとんど生み出すことなく長蛇の列をさばき切ることができた。当然わたしたちは喋り続けることを余儀なくされ、交代の時間が来る頃には各務優理は疲労困憊といった様子を隠し切れないままありありとその表情に映し出していた。

「本当にごめん!」鳴海茜音が軽快な音を立てて手を合わせる。「二人の負担を考えてなかったわけじゃないんだけど、こうするしかなかったんだ」

「いいえ、これ以上ないプランでした。鳴海さんも自分を労ってください」

 これもわたしの背負うべき代償の一つです、と声を出さずに言った。


 それからわたしと各務優理は更衣室で着替えたあと、生徒指導室の隅で並んで燦燦祭のパンフレットを眺めていた。事前の約束通り、わたしたちはこれからともに文化祭を周遊する。催しの何一つとしてわたしに期待を抱かせることはないが、隣に彼女がいること自体が、わたしにとってひどく意味のあることのように感じられた。彼女の瞳に宿る、まさに燦燦とした輝きを眺めていれば、母のことも夏目水季のことも、一旦頭の隅に追いやることができた。

「柚原さんとはどこに行ったんですか?」私は問う。

「軽音部のライブとか、ダンス部とか、とりあえず時間限定のやつを優先して回ってたかな。あ、でもC組の肝試しはクオリティ高くて面白かったよ。あたしももう一回行きたいし、行こうよ。染衣さん、怖いの平気?」

「平気ですよ」

「あ、あと、三時半からある軽音部の『ウィンチェ・シスターズ』ってバンドの演奏は必見よ!通称『ウイシス』ね。ボーカルの子がレーベルに所属してて、めっちゃクオリティ高いんだよ。ユーチューブとかにもMV上げてて、かなり人気なんだ」

 そんな子供のように語る彼女の腹部から突然、しびれを切らした猛獣がうめき声を上げた。わたしたちは揃ってその音の出所に目を向けてから示し合わせたように互いの顔を見上げ、彼女は頬を赤らめながら行き場のない笑みを見せる。

「……そういえば今日、まだ何も食べてないや」

「ふふ、それじゃあまずは出店から回ってみますか」

 わたしたちはパンフレットを片手に、並んでその場をあとにする。


 しかしわたしたちの目論見が思い通りに事を運ばせることはなかった。一歩外に出れば大いに耳目を集め、まるで鳥の群れが荒野の中心にぽつねんと聳える一本の止まり木に身を寄せるように、数多くの視線がわたしと彼女の間に落ち着いた。わたしたちを取り囲む声は断絶することなく続き、ほんの一秒として二人きりになれる時間が訪れることはなかった。ときおり肥大化した人の一団に、芸能人の来訪やら、何かしらゲリライベントを期待して集まる人々まで現れ、そのたび収拾がつかなくなった。わたしたち二人が揃ったところで、何のイベントも起こりはしない。わたしたちはただ昼食を済ませて、肝試しに行って、軽音部のライブを見に行きたいだけなのだ。

 わたしたちが並んで歩けば大いに注目を集めるということを、もちろん予見していなかったわけではなかった。しかし実際に目の当たりにして、いくぶんか見込みが甘かったことは認めざるを得なかった。これまでわたしたちが二人並んで歩いてるという光景はほとんどあり得なかったし、それが実現されれば何が起こり得るのか、わたしたちは正確に把握することはできなかった。それでもわたしたちは意識をともにした。それがどのような性質を持つのかわからないまま、新たな化合物を生み出してしまうように。しかし互いに、大変なことになるかもしれないからやめよう、という気持ちは一切生まれなかった。ただ文化祭という火が、ことのほか人いきれを過熱してしまったというだけだ。

 わたしたちを取り巻く事情を知っている人々――主にクラスメートは、まるで王族の休暇を陰から見守る近衛のように、わたしたちを取り囲む(場合によっては、まとわりつく)人々を適度にそぎ落としていた。彼らもわたしたちに好奇のまなざしを向けたが、それ以上に状況を憂いていた。結局わたしたちは彼らを上手く利用して(もしくは彼らも上手く利用されて)どうにか二人きりになれる場所に逃げ込むことになった。西棟と東棟を分かつ陽の入らない通路脇の、自動販売機のそばのベンチ。わたしがキスできなかった場所。そこはまるで文化祭なんてとりとめのない夢の一部だと言わんばかりに、いっそう閑散としていた。遠くの喧騒も、無数の壁を跳ね返って形を失った感触のない大きな塊のように響いていた。それは白昼夢の外から微かに聴こえる現実の音のような、ぼんやりとした啓示のようでもあった。

「まさかこんなことになるなんて」彼女は大きくため息をついて言う。

「まさかこんなことになるなんて」わたしも困ったような笑顔を浮かべて言う。

 わたしたちは知らずのうちに、互いの失敗を共有財産のように温めていた。自卑を押し付けることもなく。

 彼女は両脚を放り出して、ベンチに深くもたれ込んだまま、あてどなく狭い空を見上げている。少し前であれば、それは逃げ出したくなるような気まずい風景だっただろう。実際のところ、彼女なら逃げ出していたかもしれない。しかし今隣にいる各務優理は、逃げ出すこともなく、その沈黙の味を思慮深く確かめている。時間が音もなく流れていく様子を、丁寧に検証している。わたしにはそのように見える。

「楽しみにしてたんだけどなあ」彼女は言う。

「はい、わたしも」わたしもそう言う。波打ち際の沈黙。

「でもさあ、ひどいと思わない?」彼女は身を乗り出す。詰めた詮が少しだけ緩んだように。「あたしたちにだって普通に文化祭を楽しむ権利はあると思うんだけど」

「これもまた代償です」そんな言葉が、わたしの口をついて出る。

「代償?」彼女はまるで聞いたことのない言葉の意味を確かめるように繰り返す。

「はい、代償。わたしはそう思うようにしてます。容姿がいいとか、頭がいいとか、カリスマがあるとか、オーラがあるとか、努力じゃどうにかなりにくい部分って、言わば天恵によって得られた不可思議な力なんです。そしてそういった得体の知れない力が発揮されるときには、必ず代償が発生する。そう思えばいくらか楽になるし、多少の理不尽くらいは許せるんです」

「ねえ、ダメだよ、そんな考えは」彼女はわたしの手を握る。力強く、簡単には振りほどけないように。「確かに染衣さんは、他の人が持ってないもの、欲しいと望むようなものをいっぱい持ってるかもしれない。あたしだってそういうのを持ってないなんて言わない。でもそれらは今も確かに手放さず持っているものだし――持っていたいと思うもののはずだし、あたしたちがそうありたいと思ってそうある今の姿を、一体誰が咎めていいと言うの?

 どういう考えがあっても、今のあたしたちが、今一番なりたいあたしたちなんだから。そこに代償が付きまとうなんて、あたしは考えたくない。それは楽になってるように見えて、確実に染衣さんを追い詰めてる。理不尽だって、許しちゃダメなんだよ」

 彼女の神妙なまなざしが、わたしの眉間を深く貫く。わたしは口を半開きにしたまま、ただ静かに彼女の言葉に鼓膜を震わせている。何か言わなければ、何か。そう思えば思うほど、言葉は心臓の奥でぐるぐるとかき回され、カプチーノにミルクが溶け込むように、血液を灰色に染め上げていく。灰色の人間。灰色のパレット。

 彼女に握られた手が途端に強い熱を持ち始める。込められた力はよりいっそう強くなっていて、痛いくらいにわたしの手を締め付けている。いや、違う、わたしがそう感じているだけだ。彼女の手の力はわずかばかりも強くなってはいない。むしろ優しく、穏やかになっている。じゃあこの痛みは何だと言うの?

「……まあ、本当はあたしが言えたことじゃないんだけどさ。中学生の頃のあたしは今よりずっと地味で、そんな自分を変えたいと思って、努力して、今のあたしになった。でも、何もかも初めから全部持ってたみたいに、なんというか運命的に、染衣さんは綺麗で美しくて、輝いてて……あたしは多分、それが許せなかった。許しちゃいけないって思ったんだ。……くだらないよね。でも……今にして思えば、多分それも、染衣さんにとってみれば『代償』だったんだろうな」

 彼女はそこで一度言葉を切る。そして下唇を噛み、大きく顔を歪めて、一対の瞳から水滴をぼろぼろと零し始める。ときおり垂直に、ときおり頬を伝って。もう二度と元に戻らないんじゃないかと思うほど深く眉間にしわを寄せて、感情の潮が凪ぐ瞬間を注意深く待っている。わたしを握る手は今度こそ確かに強くなっていながらも、逆説的に弱弱しく小刻みに震えている。ふいに彼女は大きく息を吸い込むと、熱しすぎた言葉が晩秋の空気と混ざり合って冷え込むように、不思議なほど落ち着いた温度で彼女の口からまろび出てくる。

「でも染衣さんと近しい立場になってみて、その苦労を身近に感じて、努力だとか天恵だとかそんなの関係なく、あたしたちは同じ想いを抱いて生きてるんだ、って気付いたの。染衣さんは染衣さんのまま生きてるだけなのに、それを許してくれない人間がいるなんて、そんな悲しいことがあっていいわけない。ずっと前から気付いてた。でも、たった一歩踏み出す勇気が出てこなかった。結局変われたのは外面だけで、中身はずっと変わらない、弱いままの自分だった。あたしが許せなかったのは、染衣さんじゃなくて、あたし自身だったんだ」

「でも――わたしは今、こうして各務さんの前にいます」わたしは遮るように言う。言わずにはいられなかった。「ちょっと、ほんのちょっと時間が掛かっただけです。弱い各務さんはもうどこにもいません。そうでしょう?」

 わたしはポケットからハンカチを取り出して、涙に濡れた彼女の頬に当てた。彼女は何かに耐えるように口を真っ直ぐ結び、顔をひどく歪めたまま、目を細めてわたしを正面から見据えている。そのまま顎を引いて、音一つ立てずに小さくうなずく。止めどなく零れる涙が、心許ない布切れをしっとりと湿らせていく。

 ふいに視界がぼやけ、一粒の水滴がわたしの頬を打った。雨が降ってきた。温かな雨だ。終日曇りだと朝のニュース番組で言っていたはずだが、予報が当たらないことだってあるだろう。とにかく彼女を泣き止ませて、早く屋内に行かなければ。

 しかしわたしの身体は、まるで幸福な白昼夢のさなかにひどい金縛りに遭ってしまったかのように、気付けばその場から指先一つとして動かすことができなくなっていた。鼻の奥につんとした刺激を持つ匂いが腰を据えていて、喉元にどうしようもなくもどかしい感覚があった。心臓が忙しなく灰色の血液を巡らせ、呼吸は正しいリズムをすっかり忘れてしまっていた。両手は小刻みに震えていて、ハンカチを持つ手も、彼女に握られた手も、まるで音叉を使った物理の実験のように、正しい周波数で共鳴していた。身体が動く気配はない。こうしている間にも、雨はいっそう強くなっていく。

「……なんでさ」彼女はふと、不恰好に口元を歪ませて笑う。「なんで、染衣さんまで泣くの?」

 泣く。泣く?わたしが?変なこと言わないでください。雨ですよ。雨が降ってきました。早く中に入らないと。でもそんな顔誰にも見せられませんから。ひとしきり泣いて、落ち着いてから戻りましょう。大丈夫、付き合いますよ。多少雨に打たれるくらい、どうってことないですから。

 一つとして言葉にならない。

 なぜ?

 視界は常に、不規則に明滅していた。頬に布の感触があった。密やかに撫でる感触があった。視界に霧がかかり、また思い出したように晴れた。彼女は笑っていた。いびつな形に口の端を曲げて。元に戻らないと思っていた眉間のしわは、気付けば跡形もなく消えていた。視界が曇る。晴れる。穏やかな瞳が、なおも煌めく逆さまの世界を産み落とし続けながら、儚く、力強くわたしを見ている。

 綺麗だ。全てが。

 わたしは今――彼女をひどく、愛おしく思っている。

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