0章14節 祈り、もしくはもっと現実的な方策
「ねえ、夏目!見てこれ!」
まるで角のない石ころが真昼の清流を中心で穿つような声が僕の名を呼んだ。十月二十七日、金曜日。飛び散ったミルクのように小さくちぎれた雲を疎らに、からりと乾いた晴天が晩秋の寒空を繊細に彩っていた。文化祭を明日に控えたこの日はどこも捉えどころのない不自然なざわめきに包まれ、学校全体が得も言われぬ浮遊感に支配されていた。あたり一面が非日常的な色彩に満たされ、さながらテーマパークの入口に立った子供のように、人々はあらゆる予感に想いを馳せていた。
僕らは図書委員が主催する『詩歌大会』で秀作として選ばれた詩歌の掲載作業をしていた。それは用意された紙を用意されたコルクボードに貼り付けるだけの、ものの数分で終わってしまうような作業だった。僕一人で事足りると他の図書委員には伝えたが、各務優理だけは一緒にやると言って聞かなかった。妙なタイミングで意固地になるところは、いまだに僕の理解の及ばない彼女の性質の一つだ。ただ彼女の行動の一つ一つに意図を探すのもまた然したる意味を生み出さない行為だった。彼女がそうと言ったのなら好きなようにさせる、それは彼女との関わりを自然な形で保つための一つの不文律と言えた。
そんな彼女が僕に見せたのは、掲載される前の一枚の詩だった。作者名の欄に『江本慶子』と印字されている。僕は少し時間をかけてその名前を思い出す。夏目漱石の『こころ』を返さないままでいる、存在しない生徒。その名前はまだ、随分と長引いた延滞記録にぽつねんと残されている。まるで彼岸花がくたびれた落葉の中にひっそりと置き去りにされるように。
「あの『江本慶子』の詩だよ、これ!」彼女が目を輝かせて言う。
「そうだね。随分と懐かしい名前に聞こえる」
「あたしもすっかり忘れてた。でもなんで今更、詩なんか?」そう言うと彼女は紙面に視線を落とし、その詩の内容をゆっくりと読み上げる。
一つ、二つ。あなたに見えない恋文を贈る
三つ、四つ。あなたとしばし言葉を重ねる
それから十まで数えて、木々は彩に満ちて
虹の門をくぐり抜けた先のあなたのもとへ
彼岸過ぎる頃に、わたしは一つ罪を犯して
先を行くあなたの影をただ徒に踏むばかり
さあ、閉ざされた扉はすでに開かれました
落陽を見届け人々の喧騒を望む薄明の下で
あとはあなたがこころを受け取るのみです
「なんか意外と……ちゃんとしてる?でもあたしこういうのよくわからないや。夏目はどう?」
「僕にも詩はよくわからない」
「そう?でも……あ、待って!」ぱちりと電球が灯るように彼女は顔を上げる。「最後の文、『こころ』って書いてあるわよ!これって夏目漱石の『こころ』のことを指してるんじゃない?」
「まあ、そうだろうね」
「つまりこれって『こころ』の在りかを示してるってこと?」
彼女は新鮮なまなざしで詩の内容をよく確かめる。言葉一つ挟み込むのも気が引けるほど煌めきに満ちた視線が、一行一行を丁寧に追っている。整然と揃えられた文章を色々な角度から眺めては(そんなことをしても文章が持つ意味が変わるわけではない)、軒先の暖簾が乾いた雁渡しに揺られるように不規則なリズムで右に左にと首を傾げる。僕がその様子を黙って見守っていると、次第に彼女の表情は困惑の色を見せ始め、やがて疑問に満ちた顔を僕に向ける。
「つまり……どういうこと?夏目は何かわかった?」
「まあ、大体は」
彼女は驚いたふうに身を乗り出す。「えっ、何それ!早く言ってよ!」
「君が随分と楽しげに謎解きをするものだから。答え、もう知りたいの?」
「いやっ……でも、うーん……」彼女はしばらく考えたのち、跳ねるように答えを出す。「知りたい!」
僕はひとまずその詩歌をコルクボードに貼り付けた。正確な矩形に収まる文章がひときわ目を引き、詩という漠然とした輪郭の中で、特別な何かを訴えかけているようだ。その何かの正体をどう見出すか、試しているようでもある。「芽生えた恋心が少しずつ育まれ、それが季節の移ろいとともに仄暗さも生んでいく。無常と葛藤の中の決意、そんな情景がありありと目に浮かぶようです」、そばに書かれているさっぱりとした短い批評は、ある側面ではこの詩が持つ意味をひどく正しく理解しているのかもしれない。ただ筆に乗せられた意図は、まだ誰にもわからない。『江本慶子』ただ一人を除いて。
「各務さんは、夏目漱石の三部作を知ってる?」僕は言う。
「三部作?んー、そういうのがあるっていうのはなんとなく知ってるけど、どの本のことを言ってるのかまでは知らない」
「『三四郎』、『それから』、『門』。これらは前期三部作と呼ばれてる。実際に繋がりはないんだけど、テーマ的に地続きになってるように見える作品群なんだ。それと『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』。こっちは後期三部作と呼ばれてて、葛藤や苦悩、エゴっていう共通のテーマが描かれている。胃潰瘍で死の瀬戸際を彷徨った夏目漱石自身の経験によって書かれた、なんてよく言われるね。
まあ内容は置いといて、改めて読んでみると、この詩にその夏目漱石の作品群を示している語句が読み取れる。二行目の『三つ、四つ』が『三四郎』、三行目の『それから』はそのまま『それから』、四行目の『門』、五行目の『彼岸過ぎる頃』は『彼岸過迄』、六行目の『先を行くあなた』が多分『行人』だろう。そして最後に『こころ』」
「な……なるほど」彼女はこくりと息を呑む。「でも、それって何を意味してるの?最後の『こころ』も夏目漱石のことですよ、っていうことを言いたいの?それって別に『江本慶子』って名前ですぐわかっちゃいそうなもんだけど。実際あたしでもすぐにわかったし」
「それがちゃんと夏目漱石の『こころ』を示している、っていう説得力が欲しかったんじゃないかな。謎解きってそういうものだろ。謎解きのつもりで書いたものかはわからないけど」
「で、結局、どこに行けば『こころ』を返してもらえるんだろ?」
「それもまあ、なんとなく検討がついてる。だから僕が受け取りに行くよ」
これはたぶん、僕に宛てられたメッセージのはずだから。
僕はまた少し前のことを思い出した。入学式当日、まだクラスが一切のまとまりを見せていない頃のこと。一人ひとりが先の見えない暗渠に投げ出され、手探りのまま歩み寄るしぐさだけを見せていたときのことだ。自己紹介、担任からの連絡事項、そういった恒例行事を終えて終業となると、そわそわとした微妙な空気がぬるりと肌の表面を撫でるように、きまりの悪い沈黙が不正確なリズムを刻んだ。関わりを不要とした僕にとっては、この間合いの読み合いに参加する意味はなかった。僕の決意は思ったより頑なで、身体は驚くほど自然にそのために駆動した。僕は誰よりも早く席を立とうとした。それが叶わなかったのは、それよりも早く前の席の生徒が僕の方に振り向いたからだ。初日の席順は出席番号で決まっていた。夏目水季の一つ前は、東至真だった。
「よ。俺、東至真。真でいいぜ。よろしくな、水季」
随分と馴れ馴れしい奴だと思った。ただ不思議と鼻につくわけでもなく、わざとらしさも感じられない自然な態度は、僕にしかめ面一つ見せてやる隙も与えなかった。もし僕らの関係に勝敗を着けるなら、僕はこの時点で二度と覆せないほどの完敗を喫していたのだろう。かの決意とは裏腹に、僕は実直に反応するしかなかったのだから。
「ああ、よろしく。東至」
『真』と呼ばなかったのは、僕のせめてもの抵抗なのかもしれない。
「それで?いつになったら俺のこと下の名前で呼んでくれるんだ、水季は」
東至真はおどけた様子で僕の顔を覗き込んで言った。彼は相変わらず窓の手がかりに腰を掛けている。いつもと違うのは、僕も同じように彼と並んでいるということだ。教室はすっかり風貌を変え、ぎこちないながらもしっかりとしたカフェの様相を呈していた。装飾の傾向はごくありふれた喫茶店という印象だった。並べた机に彩度の低い落ち着いた色のテーブルクロスを具えたものを客席に見立て、広いとも狭いとも取れない教室にぎっしりと大小バランスよく配置されている。曰く、実際の喫茶店の配分や導線を参考にしたらしい。コーヒーメーカーや食器類は全て教室の隅に集められており、それを臨むようにカウンター席もいくつか置いてある。昼過ぎの陽光は暗幕で遮られており、その暗幕にも不恰好にならないようにいくらか自然な装飾が施されている。セッティングはほとんど完成しており、内装に関してもうやるべきことはないと言えるだろう。みな暇をもてあそびながら、それぞれの方法で午後のぬかるんだ倦怠をやり過ごしていた。そんな様子を眺めながら、僕らも漠然とした言葉の応酬を繰り返していた。
「君がそう頼めば」
「おいおい、俺は最初に頼んだはずだぜ。初っ端も初っ端だ」
「『真でいい』って言っただけだろ。『真がいい』なんて一言も聞いてないな」
「まったく、お前は随分と強情だな。じゃあ言うぜ。真がいい。よろしくな」
「半年も付き合ってれば、君のそういうノリが僕の肌に合わないことくらい気付きそうなものだけど」
「重々承知してるさ」
少しだけ垂れ込んだ沈黙に、僕はいくらか思索的になる。東至真。彼のオリジンとは一体なんなのだろう?東至真は、僕がかつて追い求めた人物像そのものだ。結局のところ出来損ないの僕は、ごくありふれた凡庸な人間にしかなり得なかった。東至真は違う。彼は自然体のままで、数多くの関わりの中を豊かに生きている。しかし僕にはそれが彼のオリジン――本質の奥底から浮き彫りになった人間性の根源、有体に言ってしまえば本当の自分――には見えなかった。彼もまた制御し切れない自我の奔流に身を委ねていて、それが彼の本意を無意識のうちに、特別なテリトリーの中に鍵を掛けて隠してしまっているのだろう。彼は本当はどうありたいのだろうか?滑らかな沈黙の中で、ふと彼の顔を覗く。その表情が僕の問いに答えることはない。そして僕の一瞥を合図とするように、彼は穏やかで些細な笑みに張り付いたままの口元を開いた。
「優理の件はありがとうな」
彼は僕と二人で話しているときに限り、各務優理のことを「優理」と呼ぶようになっていた。その言葉の響きに然したる深い意味を見出すことはできない。単に「各務」より「優理」の方が、彼にとって収まりがいい響きだというだけだろう。僕はそう思うようにしている。
「僕は提案しただけだよ」
「でも水季にしかできなかったことだ」
「……まあ、噂の件では僕の方も君に世話になったし、それでトントンだ」
彼はにこりと、含みを持たない笑みを浮かべる。「水季。持ちつ持たれつってのは、恩の打ち消し合いじゃない。ありがとうと、ありがとうだ」
「そうだな」僕はまぶたの裏を見る。「助かったよ。おかげで茶化されることもなくなった。君らの影響力は偉大だ」
「よく言うぜ。でもまあ優理のことに関しては、お前には本当に感謝してるよ、色々とさ。感謝しっぱなしだ」
彼はそこで一度言葉を切る。それが会話の区切りではなく文の区切りであることを、彼の微妙な表情が物語っている。彼が言葉の整理に時間をかけるのは珍しいことだ。そしてそれはいつだって、十分に重みを持つものになる。僕は口を挟まず、次の言葉を静かに待つ。
「俺はさ……あいつが顔によく出る性格だからこそ、頑なに出ない部分のことがずっと気になってたんだ。一応付き合いは長いからな、わかっちまうんだよそういうのは。上手く言葉にできないんだけど、ずっと七分で付き合いをしてるみたいな、微妙なやり切れなさみたいなのがあったんだ。
それがお前とよく絡むようになってから、お前の前では九分九厘が出るようになったんだ。あいつの出せなかった部分の受け皿にお前がなってくれた。正直嫉妬しちゃうぜ。俺でも成し得なかったことだ。でもあいつが楽しげにしていられることは、俺にとってはそれだけで嬉しいことなんだよ」
彼はすらすらと、惜しむことなく言葉を露出する。彼の独白は懺悔にも似ていて、心の奥底の機微を薄色の水彩のようにじんわりと滲ませている。物言わぬ表情が、普段より少しだけ多くを物語っている気がする。常に完璧な調和を保っていたはずの彼の心の秤が、この瞬間だけは僕の方にほんの少しだけ傾いている。
「……君は」僕はその、いくつかの手続きを無体に踏み越えた問いを一瞬だけ躊躇する。しかし思い留まるのも今更なように思えて、そのまま口にする。「君は、各務さんのことが好きなのか?異性として」
彼は一瞬だけ驚きの色を見せ、すぐに気取った笑みを見せる。「好きさ。そうじゃなかったら、こんなに気に掛けたりはしないよ。お前だってどうせ、聞くまでもなくわかってたんだろ。随分と前からさ」
彼は思いの外あっさりとその答えを口にする。乾いたスポンジのような質量の言葉が、大きな音も立てずそのへんに転がる。その表情はひとしきり軽口を言ったあと、ゆっくりと次の言葉でも探しているときと同じように、思索の薄い穏やかなものだった。その自然な落ち着きは、僕の中でベルトコンベアのようにいくつかの決められた経路をたどって、一つの単純な疑問に変換された。僕はそれを臆することなく口にする。
「複雑じゃないのか?」
彼は諧謔に満ちた笑みを浮かべる。「複雑だよ。はっきり言って、めちゃくちゃ複雑だ。今だって平静保ってるように見えて、心中穏やかでないってところだよ。仮に優理がお前のことを好きになったら、そりゃもう凹む。すげー凹むさ。でも相手がお前ならさっぱりと諦めがついちまうかもしれない。そこもまた複雑って感じだ」
「君には一体、僕がどう見えてるんだ」
「高身長のイケメン。クールで落ち着いてて、思ったより人当たりがいい」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「そういうことだよ。単純に男として敗北を感じてるのさ」
「君が?不思議な話だ」
「でもなんだろうな、それだけじゃないんだ」彼は僕から一度視線を外し、密やかに笑って言う。「水季にはなんというか、特別でいたい魔力みたいなのがあるんだよな。水季との関係を、特別なものとしたいというか。もっぱらこっちからお前に対しての、一方的な特別だ。その正体はよくわからないけど、確かにそういうのがある」
「それが、やけに僕を気に掛ける理由?」
「どうだろうな。まあ少なくとも、俺はお前を特別に思ってるってことだ」
「そこだけ聞くとぞっとするな」
彼は声に出してからりと笑うと、一言「さてと」と口にして手がかりから腰を上げる。「ちょっとA組の様子でも覗いてくるかな」
「真」僕は立ち去ろうとする後ろ姿を引き留める。その短い言葉の響きに、彼は明瞭な反応を見せて振り向く。驚きのような、喜びのような。「各務さんは染衣さんに歩み寄った。君に同じことができないなんて、僕は思ってないからな」
「そりゃどうも。励みになるぜ、兄弟」
彼は真新しい笑み一つ残して、その場をあとにした。そこには余韻もなく、ただ午後のとろりとしたもどかしい倦怠だけが置き去りにされていた。その旅人はいつだって、自分の足跡を残そうとはしなかった。




