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0章13節 苛むものたち

 母はわたしを気味悪がっていた。

 初めこそはわたしを健気に愛していたのだと思う。誰から見てもわたしの家庭はすこぶる裕福で、使用人を雇わなければならないほど家は広く、不自由と言う縛りはわたしの足元に届くまでに全て排除されていた。その代償と言うように父はほとんど家に帰ってくることはなく、親と呼べるような存在は母と、当番制の世話人だけだった。その世話人も、わたしが物心ついて身の周りのある程度を自分自身でこなせるようになってからはすっかり見なくなった。幼少期の子供が摂取するべき愛を、母は一人で賄っていた。初めこそは。

 わたしが歳を重ねるにつれ次第に母の心が離れていく気配を、わたしは肌で感じ取った。どれだけ上手に取り繕っても、子供心には否が応でも気付いてしまうものだ。今思えばその態度は、わたしの表層に露出し始めた出所のわからない不気味な違和に起因するものだったように思える。もし母がわたしの心の空しさに気付いていたのなら、多分わたしたちの関係は、こんな雨の日の薄甘い白昼夢のような漠然とした関係ではいられなかっただろう。夏目水季とわたしが、そうでいられなかったように。

 わたしはわたしでもう、特に親の愛を欲する年齢でもなかったのだろう。そもそもそれをどう受け取るべきなのかすら今のわたしでもわからないことなのだから、母の態度の変化に対して特に思うところは何一つとしてなかった。それは秋が終われば冬が来るのと同じように、あらかじめ定められた法則性を含んだ環境の変遷に過ぎなかった。この程度はごくありふれた家庭的な不和の一つに過ぎず、わたしの本質を形成するに至る要因にもなり得なければ、わたしはそれを特に問題視することもなかった。そうしてわたしたちは離れるまま離れて、気が付けば言葉を交わすこともほとんどなくなっていた。

 高校入学を前にわたしが一人暮らしをすると言い出したとき、母はどこか安堵した表情を浮かべた。それはある種、わたしたちの関係の決定的な終止符とも言えた。母は快く承諾し、わたしもひとまずの落ち着きを得た。それについてもまた、わたしが考慮すべき問題にはなり得なかった。

 夜八時、部屋のベッドの上。青白い月がよそよそしくわたしを見下ろしている。なぜ今更になってこんなことを思い出したのだろう。


 わたしたちのクラスの出し物である『メイドカフェ』の設営はつつがなく進んでおり、文化祭本番の三日前となる今日の段階ではすでに大まかな形は整っていた。ティーポットや食器、様々な種類のドリップコーヒーや紅茶パックなど、生ものである食品を除けば出店に必要最低限のものもすでに取り揃えられており、このまま開店してもほとんど問題ないという状態だった。あとは装飾の細かい造形などを詰めるだけだ。何人かでメイド服を着て校内を歩き回るという宣伝活動も行われていたり、クラスとしてはかなり余力のある状態だ。これは文化祭委員である佐切裕太と鳴海茜音の精力的な働きのおかげでもある。わたしたちも学級委員としてはすでにやるべきことをほとんど終えてしまい、あとはただ当日を待つのみとなってしまった。つまり暇だった。

「それじゃあ、今日やろう」東至真がそう言う。何をやるのか、補足せずとも察することができた。「各務に声かけてくるよ。一応水季にも」

「じゃあわたしは教室を確保しておきますね。連絡したら来てください」わたしはそう言って、その場をあとにする。


 音楽室は不気味なほどしんと静まり返っていた。じっと黙ったままのグランドピアノが、あらゆる音を押し殺してしまっているかのようでもあり、役割を全うできない空間が、わたしたちを存在ごと否定しているかのようでもあった。それでも確かにわたしたちはここにいる。昼下がりの陽気な斜光と、その場違いな温度が、わたしと各務優理の存在を存分に確かめている。奇妙な感覚だ。あれほど離れていたわたしたちが、今は互いに手の届きそうな距離を佇んでいる。

「それじゃあ、今日はよろしくお願いしますね」わたしは言う。

「うん……よろしく」各務優理は俯きがちに応える。

 こうやって面と向かって会話したのはいつぶりだろうか。彼女から返ってくる言葉はわたしを新鮮な気持ちにさせた。いつだって会話はわたしからの一方的な言伝くらいなもので、彼女はそのたび多くとも一つだけうなずくのみだった。それは会話と呼べるかすら怪しかった。

 今まさに、彼女の気持ちはまっすぐわたしに向いていた。その複雑に入り組んだ表情の中に、確かな決意を見出すことができた。彼女が踏み出した大きな一歩だ。わたしはしっかりと向き合わなければならない。

「どちらを着たいですか?」わたしは机に置かれた二種類のメイド服を広げて言う。片方はクラシックタイプ。もう片方はミニスカタイプで、その中でもなるべく丈が長く露出の少ないものを選んでいた。

「あたしは、どっちでも……でも、染衣さんなら、どちらかと言えば上品な方が似合うし、あたしはこっちの短い方にする」

 染衣さん、その言葉に、わたしは心臓からじわりと熱が広がる感覚を覚える。くすぐったくも温かい響きだ。彼女に初めて名前を呼ばれた気がする。なんとも新鮮だ。彼女はわたしのことを「染衣さん」と呼ぶらしい。冷静に考えれば、それは最も初歩的な呼び方の一つだ。それでいい。わたしたちは、これから出会うのだから。

「じゃあわたしはこっちですね」

 そう言ってクラシックタイプのメイド服を手に取り、着ているベージュのセーターに手を掛けると、彼女は慌てた様子で制止する。「こ、ここで着替えるの?」

「ドアの外で夏目くんと東至くんが見張ってるので平気ですよ。声を掛けるまで絶対に入ってこないようにも言ってありますから」

「でも……」そこで一旦言葉を止めてから、彼女は迷いの中でふらりと微笑む。「まあ、あいつらが覗くわけもないか」

 そういうことです、と言ってわたしも微笑みを返す。夏目水季も、東至真も、随分と信頼されているようだ。

 それからしばらく密やかな衣擦れの音だけが続いた。同性に下着姿を晒すくらいはなんとも思わないが、それが各務優理相手だとどうも勝手が違うらしく、わたしは変にそわそわとした気分になり始めた。もしくは、彼女が目の前で肌を晒しているからだろうか?体育の前の更衣室とは違い、今ここにはわたしたち二人しかいない。彼女もまた憧憬を一身に受ける人間であり、決してこの景色は安いものではない。直視を避けようとするほど、わたしはいっそう彼女を意識してしまい、整理のつかない言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡った。なんということだろう、わたしは彼女に劣情を抱いているのだろうか?それともこの知らない感情に、そう易々と名前を付けていいものなのだろうか?

 わたしはその疑問を固い引き出しの奥に押し込む。今はそのことについて考慮する時間ではない。省察に耽ることなど家に帰ればいくらでもできる。今はただ、彼女との関わりのかたちを見極めたいのだ。

「……ね、ねえ、染衣さん」

 ふと彼女がわたしの名を呼ぶ。わたしははっとして、いつも通りの冷静なわたしのままで応える。「なんでしょう?」

 それからしばらく返事がなく、わたしは着付けを中断して彼女を見る。彼女はニーソックスの位置を確かめながら、迷いに満ちた表情でその手元を睨んでいる。その視線は次の瞬間にはころころと右往左往し、やがて半分だけ陽に照らされた足元にすとんと落ちる。窓際に浮かぶわずかなほこりの輝きが見守る中、彼女は上げた顔をわたしに向けて何かを言いかける。その言葉は喉元で行き詰って、再び彼女の中へと戻っていく。その様子を確かめながら、彼女は自然とわたしから視線を外す。

「……ごめん、何でもない」

 その言葉を聞いてから、わたしも視線を外す。ゆっくりでいいんですよ。心の中でそう言いながら。


 わたしたちはメイド服の着付けを終え、外で待っている二人を呼び出した。わたしが「どうですか?」と問うと、東至真が「二人ともよく似合ってる」と言った。夏目水季は解答権を譲ったと言わんばかりの表情で黙ったままだった。

 それからすぐにわたしたちは撮影を始めた。カメラはわたしのスマートフォンを使用することになった。まずどのように撮るかテーマを決めて、それに沿って何枚か撮る、というのが大まかな流れだった。東至真が撮った写真を各務優理がダメ出ししているうちに、彼女自身が自撮り棒を使って撮る、というやり方に落ち着いた。初めこそ身体や表情の硬かった彼女も、何枚か撮るうちにすっかりほぐれたようで、さすが被写体のプロと言うべきか、写真の中の彼女はその輝くばかりの魅力が最大限に引き出された瞬間にしっかりと収まっていた。カメラの角度、光の入り方、小道具の写りもしっかりと計算されているようで、単なる自撮りとは一線を画す青春の瞬きが、わたしのスマートフォンの中に次々と記録されていった。

 彼女はわたしと密着することも厭わなかった。そのたび、彼女の高い体温にわたしは焦がれた。ふと垣間見た彼女の表情は、雑踏を見下ろす鳥のように自由で、アマリリスの花畑を泳ぐ蝶のように優雅で、沈みゆく夕陽を望む海原のようにきらきらと輝いていた。彼女の茜色のオリジンが、そこにありありと描かれているようだった。その温もりに満ちた情熱に抱かれながら、わたしはわたしを演じることで精一杯になった。

 当初は数枚撮る程度で終わる予定だったが、彼女の希望もあって、撮影は延長を重ねていた。それはまるで彼女のリードするワルツのようで、わたしはその華奢な手に引かれながら不器用にステップを踏み、すっかり時間から切り離されてしまっていた。それは誰一人として観客たり得ない、わたしたちだけのひっそりとした舞台だった。東至真の「こんなもんかな」という一声がなければ、わたしたちはいつまででも踊り続けていただろう。

「ありがとうございました、こんなに付き合ってくれて」わたしは彼女に言う。

「えっ、あ、いや、その……あ、あたしこそ、ありがとう」

 先ほどまでの活き活きとした姿が幻だったかのように、彼女は跳ねた身体をそのまま委縮させてしまう。しかしそれは単なる照れ隠しのように見える。彼女の迷いの大部分は、少なくとも今だけはさらりと払拭されている。長い曇天からふと懐かしい温度を覗かせるように。

「うん、いい感じだ。早川姉に送る写真の選定は二人に任せてもいいか?」東至真がわたしにスマートフォンを返しながら言う。

「そうですね。じゃあ連絡先を教えてください、各務さん。写真も送りたいので」

「あ、うんっ」

 「各務さん」という言葉に、どこか馴染みのない舌の痺れを覚える。今まさに初めて彼女の名を呼んだ、というわけでは当然ない。ただその言葉の持つべき意味が、今までのそれとは大きく異なっていたように思えた。間違いなく、この些細な時間に生じた大きな変化だった。それはわたしと各務優理のあるべき関係を示す一つの道標とも言えた。

 それからもう一度男子二人を音楽室から追い出し、わたしたちは制服に着替え直した。引き出しにしまい込んだ名もない感情は、気付けば忽然とその姿を消していた。差し込む陽気は形を変え、その漠然とした輪郭の中で、やはり彼女は凛とした輝きと一体になっていた。怠惰なまどろみに優しく包まれながら、わたしたちはとろりと肌の表面を流れる空気の味を確かめた。様々なかたちを模した静寂が一つ一つこぼれて、いずれ言葉が芽吹く瞬間を互いに待っていた。

「各務さん」わたしは彼女の名前を呼ぶ。

「ん、なに?」

「文化祭当日、一緒に見て回りませんか?」

 彼女は驚きを明け透けに表現する。「えっ、あ、あたしと?」

「はい」

「そ、そんなのはもう、願ったりだけど」そこで彼女は少し言葉を切る。「……ひょっとして、男除け?」

「実を言うと……それも少々」

 彼女はぎこちなく笑う。「いいよ、隠さなくても」

「男の子からのお誘いは先約があることにして断っていたのですが……実はとくに約束をしているというわけではなくて」

「あたしも同じ。要とかとは一緒に回る約束してるけど、クラスのシフト的にあんま時間合わなくてちょうど困ってたとこ。その点染衣さんはあたしと入る時間帯被ってるしね」

「もちろんそれとは関係なく、わたしは各務さんと回りたいです。各務さんさえよければ」

 わたしがそう言うと、彼女は頬を赤らめて視線を逸らす。「う、うん。いいよ、もちろん」


 わたしは青春と呼ばれる、悩ましくも華やかな刹那の輝きについて、その意義の一つとして理解することができない。だからこそ他人の行動原理について、わたしが言及すべきところではない。わたしはわたしのできる限りを受け入れるべきであり、そこに否定する道理もあるべきではない。それが理解できないものに対して、理解せんと臨むための姿勢だ。それでも感情というのはいくらか場当たり的で、道を踏み外したタイヤのように自由が利かないことがしばしばある。

 告白という行事について、わたしはいつからか些細なわずらわしさを覚え始めていた。断る瞬間の息苦しさはわたしの心に小さくくすぶる火種を落とし、そのたびわずかに煤けた傷跡を残した。文化祭での約束を全て断っているのは、そのもどかしい痛みからの逃避とも言えた。わたしの心は仮に氷のように冷たく硬いものであったとしても、決して機械のように完璧に統制されたものではない。それを代償の一つだといくら言い聞かせても、その得も言われぬ苦みから逃れることはできなかった。


「君は随分と自尊的で自罰的だ」

 わたしがそんな秘めたる想いを夏目水季に吐露したのは放課後、西棟と東棟を分かつ陽の入らない通路脇の、自動販売機のそばのベンチだった。小さな缶のブラックコーヒーを片手に、彼は自尊的で自罰的だと、そう言った。その言葉の並びには聞き覚えがあった。決して聞き逃してはならない響きのかたちを、わたしは舌の上でよく確かめた。自尊的で、自罰的。

「……チエさんも全く同じことを言ってました」わたしは言う。

「なら僕の言いたいこともわかるだろ。つまり君は他人にとって良い人間であることが当たり前で、そのせいで却って負の感情を生んでしまうことに責任を感じてしまいがちなところがある。別にそれを悪いことだとは言わないけど、葛藤するくらいなら君はもっと自由であるべきだ、と僕は思うよ」

「自由、ですか」

「私心を持つべきだって話。僕にしてみれば不思議な話だけどね。僕に対しては随分と利己的なくせに」

「……ひどい言い草です」わたしは少しだけ笑う。「夏目くんだから、できるんです」

「ひょっとすると君は、そういう抑圧されたものを僕で発散してるのかも」

「そんなことは……ない、とは言い切れないですね」彼の顔を覗き込む。「嫌、ですか?」

「別に」彼は短くそう言うだけ。

 遠くの人音がそびえ立った壁の隙間に溶け込んで、この暗がりに静寂をよりいっそう深く沈め込んでいた。ときおり忙しなく過ぎ行く人影はわたしたちには気付かなかった。行先のない視線がしきりに空へと向いては、大げさなコントラストに思わず目を細めた。のっそりとしたちぎれ雲の遊泳が、わたしたちの間に鎮座する時間の流れをよく表している。彼もまたこの澄んだ一定の潮流を、手持ち無沙汰に缶コーヒーを揺らしながら漠然とやり過ごしていた。意味のないこと。それが思索するまでもないことを、彼が教えてくれる。

「もう一度、キスしようとしても……夏目くんは受け入れてくれるのでしょうか?」わたしは空を見上げたまま、どこにもたどり着けない言葉を放り投げた。彼は何も言わない。わたしは膝の上で組んだ手をゆっくりとほどいた。それは枷を外すことへの一種のメタファーなのかもしれない。そう思えるほど自然に、わたしは上半身を傾けて彼の顔に近づいた。彼もまた、落葉が水面を揺蕩うようにただ自然と、その整った冷たい顔をわたしに向けた。修正不可能な絵画のように無表情のまま固定されていて、昏く沈んだ瞳は、なおもわたしを見ているようで見ていない。心臓が懐かしいリズムで脈を打つ。

 そして息を交わす距離で、全身の血液が凍ってしまったかのように、わたしはその先に進めなくなった。同時に、まるで透明な羽毛のクッションを挟み込んでいるようでもあった。柔らかく、優しく、彼の作り出す空気圧に押し返されてしまう。まるで静止画のようにぴくりとも動かない表情を見つめる。彼は肯定も否定もしない。言葉一つ持たず、ただわたしがもたらす物語の結末に静かに身を寄せている。

 やがて彼はしびれを切らしたように視線を逸らしてため息一つ零すと、肩をそっと掴んでわたしの身体を元の位置へと戻した。されるがまま、わたしは彼の細長くも凹凸に富んだ指の感触を制服の上からただ確かめるばかりだった。どこか畏れ多く、どこか頼りがいのある感触。からんと軽い水音を指の間に挟んだ缶から鳴らして立ち上がると、彼はわたしを見下ろして言った。

「各務さんと噂されたあとで、次は君、ってなったら、僕は随分と手の早い男にされてしまう」

 そんな彼の冗談を、わたしはぎこちない笑みで返した。秋が終わりへと向かって、確かな歩幅で歩んでいた。


 その日の夜、夕食を済ませて風呂にも入ってしまうとわたしは手持ち無沙汰になり、ベッドの上に寝転がってぼんやりとした思索の湖に揺蕩った。白一色の天井に飾り気のない蛍光灯が一つ、毎日のように見ているはずのそれは、改めてじっくり観察してみるとわたしに妙な違和感を覚えさせた。カーテンレールの先端、使わないままのコンセントの形状、フローリングの木目。当たり前のようにそばにあるからこそ、知らないことがたくさんある。口をついて出た言葉に隠された真意も、根源的な人間性の本質も、そのうちの一つだ。巨大な絵画のように、近づけば近づくほど認識できる範囲が狭まっていってしまう。ときには数歩引いて、全体を眺める時間が必要なのだ。

 わたしは夏目水季にキスをすることができなかった。それが普通だ。好意のない相手とのキスなど、昨今罰ゲームでだってそんなことはしない。でもわたしは普通じゃない。あの日は簡単に唇を交わすことができたし、そのときのわたしに間違いなく躊躇いのようなものはなかった。つまりわたしは夏目水季と『普通』の心持ちで対面するようになった言える。本当にそうだろうか?

 わたしは改めて、胸に手を当てて思考の迷路を逆走し、その瞬間を再現する。画面いっぱいに彼の顔が映る。端正で固く、上にも下にも目立った特徴のない顔立ち、隠れがちな右目、わたしの少し後ろを見据える瞳、マットな漆塗りの瞳、肯定も否定も示さない瞳……そこでかちりと時間が止まる。何度再生しても同じところで止まる。壊れたカセットテープのように。

 答えの出ない疑問を引き出しにしまおうとすると、不意にこれまで押しやってきたものが次々と中から溢れ出した。まるで一本の糸に引っ張られるように、運命的な関連性のようなものを携えて。その一つ一つが溶け出すと、どろりと床に広がり、混ざり合って、見分けがつかなくなる。やがてそれは完全に一体となり、色の境界をなくしてしまう。それでもわたしの思考はさっぱりと明瞭だった。特に焦燥のようなものもなく、眼下に広がるものをただ無感動に眺めていた。

 わたしはベッドから立ち上がり、キッチンで一杯の水を飲み、そのあと洗面台で顔を洗った。水気をしっかり拭き取ってから顔を上げると、見紛うこともなく、染衣雪野が鏡に映った。多分、とても美しい少女だ。その姿を確かめると、脳裏の表面に疑問を散らかしたまま、すっかり空いた引き出しの中に新たな疑問を押し込んだ。

 普通とは一体、何なんだろう。

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