表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/27

0章12節 まるでガラスの木が風に逆らうように

 他人と関わらないことはひどく容易だった。

 きっかけと言えるものはなかったように思える。東京の高校に進学が決まり、引っ越しの作業が一通り終わったあとの夜、僕は暗いワンルームの隅に置かれたベッドの上でゆったりと薄甘い孤独に苛まれた。ここに僕を知る人はいない。たかが新幹線で数時間の距離が、まるで星々の間を佇む無限に近い隔たりのように感じられた。そんな形容すら星の見えない東京では何ら意味を持たなかった。ほつれた糸をはさみで切るように簡単に、僕の人生をなぞる道程は足元ですっかり分断されてしまっていた。

 僕は僕のこれからを想像する。数日後に控えた入学式を終えれば、僕は真新しい人間として生きていくことになるだろう。今まで通り同類のふりをして、真新しい関係性の中に溶け込んでいく。マニュアル通りの学園生活を淡々とシステマチックにこなしていく。青春と名付けられたタスクを、求められるまま消化していく。整然と形の揃えられた歯車の一つとして、学園生活という歴史、記憶を刻むパーツを演じていく。

 果たしてそれが正しいのだろうか?それは僕の人生の中で数えきれないほど僕自身に投げかけられた問いだった。そんなことを続ける人生に何の意味があるのだろうか?東京の夜、静かなワンルームは、僕が目を逸らし続けた疑問に答えを強いた。

 そうして僕は確かな決意を持つまでもなく、驚くほど自然に孤独を選んだ。課題を諦めて解答を丸写しするように。


 十月二十日、金曜日。文化祭準備期間の一週目も程なくして終わりを迎える。今日の授業を終えるとすぐに、クラスは本格的にメイドカフェの内装に着手し始めた。当然そこに、悠長に昼食を嗜むようなスペースなどない。僕は弁当一つ持って、逃げるように食堂へと足を運んでいた。

 僕が弁当箱を開いてしばらくすると、すぐ右隣で椅子の引きずる音が聞こえた。食堂は多くの人で溢れかえっていたが、決して椅子の数が足りていないというわけではない。つまりあえて僕の隣に座るという行為にはそれ相応の意味がある。僕は視線を向けることなく、その相手の言葉を待っていた。しかし最初に差し出されたのは言葉ではなく、炭酸飲料の小さな缶だった。

「はい、これ。約束ね」

 僕が顔を上げると、そこにいたのは柚原要だった。相変わらず特徴的なつり目が、僕をまっすぐ見据えていた。約束?僕はその言葉の意味を吟味する。しかし僕が答えを出す前に彼女が補足する。

「この前優理を助けてくれたお礼。ジュース奢るって言ったでしょ?」

「ああ……」僕はその缶を受け取る。「すっかり忘れてた。随分と律儀だね」

「まーね。アタシこういう小さな借りも残したくない性分だから」

「そうか」

 どうやら彼女はもう一本同じものを買っていたらしい。僕に渡さなかった方の缶のプルタブに指を掛け、アルミニウムの軽快な音を鳴らす。二口だけごくりと喉に流し込んでから一息つくと、彼女は僕の方を見ずに言う。

「最近、優理と仲いいね」

「そう見える?」

「見えるわよ」

「それって改めて言うほどのこと?各務さんは誰とでも仲良くしてるイメージがあるけど」

「改めて言うほどのことよ。夏目くんって、全然目立たないというか、影薄い感じだったじゃない。そして、見るからに人付き合い拒否してますって感じ。優理もなんというか、来る者拒まず、去る者追わず、って感じなのよ。あの子意外とそこらへんさっぱりしてるの。だから優理の友達関係ってどちらかと言えば、優理に対して積極的な人たちが集まるというか……とにかく、優理と絡んでる人の中でも夏目くんみたいなタイプって珍しいのよ。珍しいというか、なんなら初めて見たってくらい。優理の方から積極的になるパターンっていうかさ」

「各務さんの方が積極的?」僕は視線を落として白米をつつく。「僕にはそうは見えない。単に同じ図書委員ってだけだよ。そう見えるのは、彼女が仕事に対して真面目に取り組んでる証拠でしかない」

「まあ別に、夏目くんがどう思ってるかは知らないけど。少なくとも夏目くんより付き合いの長いアタシからはそう見えてるってだけ」

「そうか」

 そうか、という言葉が一種の命令文のように作用し、彼女は再び缶に口をつける。こくり、と音を鳴らして喉を潤したあと、彼女はその缶をしばらく見つめる。僕の視界からその表情を察することはできない。途端に、食堂の喧騒がいっそう音量を上げたように感じられた。意味を持たない雑多な音の数々が、僕らの沈黙を嘲笑っているかのようだった。

 やがて彼女が口を開く。あらかじめ定められたタイムラインに沿って予定を消化するように、丁寧に。「アタシからしてみれば、どちらかと言うとよくわからないのは夏目くんの方だけどね。夏目くんって身長高いし顔もいいし、多少暗くても明らかにモテる側の人間じゃん。暗いってのも言い方悪いだけで、むしろ落ち着いてるって感じで印象いいし。でも恋バナとか全くもって無縁だったし、アタシだってそれに気付いたのはつい最近だし……この半年間どうやって隠してこれたの?それが不思議でならないわ」

「徹底すれば目立たないようにすることなんて、意外と簡単だよ」箸を動かす手を止める。「でもその言い草だと、今はそうでないように聞こえる」

「最近はむしろ話題の中心って感じね」

 僕は彼女の方を見る。「聞き捨てならないな」

「夏目くんと優理、最近色々と噂されてるわよ。ついにあの難攻不落の各務優理に彼氏が?そのお相手は……」彼女は僕の方を見る。「……誰?この謎のクールなイケメンは」

「勘弁してくれ。僕と各務さんはそういう関係じゃない」

「そういうのっていくら本人が口で否定してもさ、はいはい、って感じなのよ。優理って色々目立つ子だから、ちょっとした変化にもみんな敏感に反応しちゃうし、読モもやってるからさ、それって付き合ってるのを隠す動機にもなり得ちゃうわけ。で、相手はダークホースの夏目水季くん。噂にするにはうってつけよね」

「どうすればその噂を完膚なきまでに否定できるんだろう?これは僕だけの問題じゃない。各務さんだって迷惑してるはずだ」

「どうでしょうね?」彼女は僕の顔を覗き込む。皮肉を乗せた表情の奥にいたずらな笑みが垣間見えた気がする。「夏目くんに対する優理の態度が明らかに違うっていうのは事実だし、意外とまんざらでもないかもよ?」

「本当にそう思ってるの?」

「さてね。アタシだって優理の全部がわかるわけじゃないのよ。ただの気まぐれかもしれないし、ひょっとしたら本当に夏目くんのこと好きなのかもしれないし」

「それは……」僕はそれ以上を言葉にするすべを失う。一つ言えるのは、それはどう転んだって、正しくはならないということだ。

「ま、そういうこと。夏目くんってそういう噂には疎いだろうし、一応伝えておいた方がいいかなって。どうするかは夏目くんの勝手だけど、友人としてはできれば優理を傷つけないでほしいかな」

「……善処するよ」

 僕のその言葉を契機に、彼女はすっかりぬるくなった缶をからりと鳴らして席を立ち上がった。それじゃ、と一言残すと、まるで処理し終えたタスクに打ち消し線を引くように、その姿をまたたく間に雑踏の中に紛れさせてしまった。僕は取り残された未開封の缶を眺めながら、改めて事の重大さについて熟考していた。


 関わりと正面から向き合っていた中学生の頃までの僕は、有体に言えば確かにモテていた、と言えるだろう。異性から好意を抱かれる機会は、相対的に見れば少なくはなかったはずだ。憧憬、羨望、嫉妬、そんな視線を感じることも決してまれではなかった。テストの点数は妥協しないし、部活動にも積極的に参加して、目立つことも大いに厭わなかった。多くの関わりの中で、僕は他人を観察していた。他人が僕に向ける感情の正体を、突如として現れた青春と呼ばれるものの実体を、僕は必死に探そうとしていた。

 ああ、そうだ、と僕は気付く。染衣雪野は、少し前までの僕だ。そして僕がそうあろうとしていた人間像が、まさしく今の東至真だ。僕にとって二人は避けようもなく特別で、目を逸らしたくなるほど生々しくて、だからこそ向き合わなければならない関わりだ。そこから逃げ出そうとする僕を、二人が片手ずつ引っ張っている。その手を振りほどかないのが、まさしく今の僕の答えでもあるのだ。

 じゃあ僕にとって、各務優理とは一体何なんだろう?彼女はとりとめのない些細な関わりの一つに過ぎない。決して特別ではないし、増して好意を抱いているはずもない。仮に誰もが羨む太陽のように輝かしい少女であっても、それは僕にとっては全くもって関係のないことだ。でも僕は明らかに、彼女と過ごす時間を大事だと思っている。東至真が持ち出すくだらない恋愛話なんかよりもずっと、僕は各務優理の言葉の一つ一つに価値を見出している。僕は彼女に何を求めているんだろう?いくら考えを巡らせても、今はまだその答えを見つけることはできない気がした。そして同時に、いずれ見つけることができるだろうという確信もあった。僕が見る景色は目まぐるしく移り変わっていて、一日として同じ世界を生き得ることはない。明日にはもう違う僕がいて、そこには違う他人がいる。それはまるで未来の僕に見つめられているような奇妙な感覚だ。未来の僕は全てを知っていて、悟った瞳で柔らかく僕に語り掛けているのだ。焦る必要はない。僕らはまだ出会ったばかりなのだから。


 その日は図書室で資料探しの手伝いをし、気付けば時計の針は五時と少しを過ぎていた。この頃にもなると連なる教室を望む長い廊下もすっかり活気を失い、暗がりつつある空の奇妙な闇色が、蛍光の完璧でない光にもどかしい違和を差し込んでいた。1年B組も、中途半端な装飾の中で数人のクラスメートが手持ち無沙汰に無駄話を浮かせているのみだった。教室に入ると、ちょうどすれ違いざまに一人の女子が僕に「おつかれ」と言った。僕も小さな声で「ああ、おつかれ」と返した。更け込む晩秋の乾いた寂寥に、あらゆるものが調和を欠いていた。

 帰り支度をしてから教室を出て、下駄箱で靴に履き替えて校舎を出ると、すぐそこにすっかり見慣れてしまったカーネーションの髪色を見つけた。各務優理、それともう一人、どこか見覚えのある男子生徒。僕は足を止めずにその様子を横目に観察する。彼女はときおり自身の手首を擦りながら、仄暗い表情を俯かせていた。それは深い省察に沈んでいるようにも見える。対する男子生徒は、神妙な面持ちで彼女をまっすぐに見つめている。ひどく対照的な構図だ。いわゆる告白の現場だろうか?僕はその状況を少し推察してやめる。

 ふと、彼女が僕の姿を認めた。彼女の視線を感じ、僕も彼女を見た。それは柄にもなく複雑さに富んだ表情だったが、やはり彼女らしい明瞭さも含んでいて、そこには僕に縋る想いと、僕を拒む想いの相反する感情が無体に混ざり合っていた。それはヒントが十分でない問いであって、ただ一つ言えることは、その強い視線は僕に答えを求めているということだけだった。

 僕はどうするべきか逡巡して、男子生徒の方に視線を向けた。そうだ、思い出した。彼はあの日、図書室で、受付担当の各務優理と話していた上級生だ。柚原要が僕をけしかけ、その会話に割って入り、各務優理を連れ出した、あの日に見た姿。彼の整った容姿はよく憶えている。各務優理を慮らないその態度も。

 僕はもう一度各務優理を見る。配合比率の変わらない感情が、ほのかに形だけ変えてまだ残っている。ああ、そうだ。彼女は優しくて、とりとめのない気持ちを支配できない、どこにでもいる普通の女の子だ。一度風向きを変えた彼女の心は、誰かが止めてやらないと、どこかにぶつかるまでひたすら邁進し続けるのだ。

「おまたせ。取り込み中?」僕がわざとらしく各務優理に声を掛けるとその表情は一転して、安心とも形容しがたい、どこか気の抜けた様子を映し出す。

「あ、いや、」「ゴメンね、取り込み中」彼女の言葉を遮るように、上級生が振り向いて言う。整った前髪の隙間から、見覚えのある挑戦的な、余裕に溢れた視線が垣間見える。それが僕の姿を捉えると、はっとしたように神妙な面持ちに戻る。

「キミ、ひょっとしてナツメくん?」彼は僕に言う。

「そうですけど、自己紹介しましたか?」

「いや。キミちょっとした有名人だからね」ふうん、と彼は思わせぶりな感投詞を挟む。「キミがナツメくんね、なるほど」

「何か?」

「いやいや、何でも。これじゃオレが悪者みたいだな、って思っただけ」

 そう言うと彼は踵を返して校門へと向かう。僕らから数歩離れると一度立ち止まり、振り返って言う。

「気を付けなよ。優理ちゃんのお相手は敵が多いから」

 ひらひらと手をなびかせ、彼は今度こそ振り返ることなくその場を去っていく。その後ろ姿が完全に見えなくなると、彼女は不満げに鼻を鳴らした。

「何あの捨て台詞。感じ悪」

 そして僕の方に向き直ると、彼女ははっとした表情を見せて言葉を詰まらせる。毒の抜けた視線が右往左往し、行き場を失った両手がしばらく彷徨ってからぴたりと頬を覆う。発するべき言葉が彼女の中でぐるぐるとかき乱されては、喉元を通ろうとすれば次の瞬間には別の言葉に押しのけられている。そんな情景が、ありありと僕の目に映っている。その感情の変遷を黙ったまま見下ろしていた僕に、ついに彼女は詰め寄って口を開く。

「食べに行くわよ!クレープ!」

 彼女はスクールバッグを背負い直すと、ずんずんと地面を砕く勢いの歩幅で歩き始めた。僕はため息一つついてから、少し距離を置いてその後ろ姿についていった。


 僕らは駅とは反対側に向かい(幸い、件の上級生と再会するなどという非常に気まずい展開にはならなかった)、いくらか見覚えのある通りを抜けた。しばらくすると馴染みの書店のある商店街に出て、白を基調としたシンプルな景観の小綺麗なクレープ屋の前に彼女は並んだ。チョコレートやホイップクリーム、色とりどりの果実が丁寧に添えられたクレープを両手に僕の元へ戻ってくると、その片方を僕に差し出した。有無を言わさぬ強い視線に、僕はそれを受け取るしかなくなる。それから見覚えのある小さな広場のベンチに二人並んで座るまで、僕らは終始言葉を交わすことはなかった。

「……えっと、まず、ありがとね」彼女が最初に口を開く。整理されたはずの言葉が、それでもなおもがくようにつまづきながら這い出てくる。それから少しの奇妙な間を、僕は黙ってやり過ごす。「あたし、やっぱ無理だった、あいつ」

「付き合うつもりでいたの?」

 彼女は黙る。それは否定を意味する沈黙のようにも見える。しかし彼女の言葉には正しい順序があって、その法則を乱せばたちまち感情の行先を見失ってしまう。自身にもそれがわかっているのだろう、彼女は僕の問いに答えるまでもなく続ける。

「ねえ、夏目。あたしたち、噂されてるの……知ってる?」

「ちょうど今日知ったよ」

「そっか」彼女は俯く。「その……ごめん」

「君が謝ることじゃないだろ」

「でも、あたしのせいだから……間違いなく。あたし、自分でも全然気付いてなかった。なんでだろ……でも、夏目には、他の人と違う感じで接してるって、思い返してみれば確かに、って思った」

「その程度で噂になるのも不思議な話だ。よしんば君の方に気があるように見えたのだとしても、果たして僕はどうだろう?僕も君に気があるように見えたのかな?」

「それはないでしょ。夏目って誰に対しても同じように塩だし」

「つまりこれは、僕の方の気持ちが加味されてないってことだ。不条理だよ」

 ぷっ、と吹き出すと、彼女はそのまま自嘲を含んだ笑みで僕に問う。

「迷惑……だよね?」

「迷惑だよ」

 その短い言葉に彼女は息を呑む。そして少し俯いたあと、また穏やかに笑う。「そう、だよね。夏目はそう。だからあたしも、こうやって夏目には気兼ねなく接しちゃうんだろうね」

「……なんか勘違いしてるなら訂正するけど」僕は慎重に言葉を選ぶ。「僕は君がそうやって接してくれること自体はなんとも思ってないよ。迷惑なのは、事実無根の噂の方」

「あ……そ、そっか」彼女は複雑な笑みを浮かべる。

 そこで彼女は初めてクレープを口に含む。僕も合わせて一口食べる。ふわりとしたホイップクリームのほのかな甘みと、クレープ生地の香ばしさが口の中で中和される。ときおり冷たいものが舌に触れたと思えば、チョコレートの刺激的な甘みが鼻を抜ける。僕はあまり咀嚼せずに飲み込む。少し遅れて彼女も飲み込む。

「あたしね、慣れてないんだ、こういうの」彼女が甘みの残る口を開く。「あたし、中学生まで地味女だったから。髪もぼさぼさでこんな鮮やかじゃなかったし、ピアスもネイルもしてなかった。ずっと俯いてばっかで、友達少なかったし、告られることなんて一度もなかった。そんな自分が嫌で、高校で変わろうと思ってさ。ファッション、スキンケア、ヘアケア、色々調べて、できる限りやった。綺麗になってく自分が楽しくて仕方なかった。

 それでいざ高校入ったらちやほやされちゃって、あたしでも目立てるんだって思って……読モなんかも応募してみたら一発で選考通っちゃうし。あたしってすごいんだってなって、まあ気が大きくなっちゃうわけだけど……結局、根の暗い部分って変わらないからさ。なんかイケてる友達がいるとか、告られるとか、全然慣れなくて。好意が寄せられると……その、全部下心に見えちゃって、まあ自意識過剰な部分もあるんだろうけど、それがどうしても無理でさ。でも今更無理なんて言えないから、もう適当な距離保っとくしかなくて。そうやって、なんというか、なあなあな関係ばっかになっちゃって……。

 でも夏目は違ったの。なんというか夏目って、そういうのが全然なくて、絶対あたしのことそういう目で見ないって、確信みたいなものすらあって。それがね、すごく安心するの。だからだろうね、無意識的に夏目とは、本当に心から親しくなりたいと思って、他の人とは違って特別になっちゃったんだと思うんだ」

 彼女の言葉が終わり、僕はしばらくして、そうか、と呟いた。クレープを口にする。僕はこのクレープに、甘くて美味しいという事実以上のものを見出すことができない。それが今の僕にとって唯一曲がらない真実であり、皮肉なことに僕という人間を支えるただ一本の支柱でもあった。各務優理も、染衣雪野も、この柱に僕が特別たり得る理由を見出している。これが外れたとき、僕はどういう人間になるんだろう?彼女たちは僕を、どういう人間として認識するようになるんだろう?それは答えのない問いなのかもしれない。それでも僕は求めなければならなかった。一歩でも前に進むために。

「……突拍子もない話に聞こえるかもしれないけど」そう添えて、僕は話す。「僕は男女問わず、他人に好意を抱くことができない。それはある種病的なもので、無性愛とも違って、それ以前の段階で絶対的に他人に興味がないんだ。本当に見たまんまの、つまらない人間だ」

 そこで一度、彼女を一瞥する。神妙な視線が僕の眉間を貫いている。そこには少しの驚きと、深い考察が含まれている。それを確かめて僕は続ける。

「僕はできれば、その病を治したいと思ってる。色々なことに興味を持ちたいし、他人を好きになるということの意味を知りたい。つまり極論を言ってしまえば、僕は君をそういう目で見れるようになりたいと、そう願ってる。君に好意を抱くことだって、ありえない話じゃないんだ。僕は、僕自身のことが、何よりもわからないから。……これは単純な疑問なんだけど、もしその日が来たとして、君は今まで通り僕と接することができる?」

「できるよ」彼女は僕の問いに即答する。まるで初めからその言葉しか用意されていなかったみたいに。「夏目、大切なのは経験だよ。図書委員の仕事一緒にやったりさ、染衣さんのこと話したり、こうやって一緒にクレープ食べたり……そのときにやってたこと、そのときに思ってたこと、その積み重ねが関係を作るんだ、ってあたしは思うの。だから今更夏目が下心抱いたりしても、あたしは全然平気。むしろさ」

 彼女は僕の方を見ると、白い歯を見せて大胆に笑った。この小さな広場、冷たいベンチの上を舞台に、惜しみないスポットライトが彼女に降り注いでいた。彼女は心許ない蛍光よりも強く、よりいっそう輝いて見えた。

「あんたみたいな超朴念仁を落とすとか、女として最強じゃない?」


 それから僕らに訪れたのは、互いに黙ってクレープを食べる時間だった。あたりはすっかり暗くなっていて、ときおり冬へと向かう冷たい風が僕らの体温を無機質に下げていた。商店街に連なる人いきれの中にぽっかりと空いた静寂を、枯れた葉がからからと転がると、まだここに置き去りにされたままの言葉たちが不意に囁きかけた。舌に当たったキウイフルーツの酸味が脳を明晰にさせ、視界の端の各務優理を捉えた。彼女は満足げな表情を浮かべながら、その甘みをよく咀嚼していた。列車の車窓から見る景色のように、気付けば彼女は違う色を見せていた。いつだって彼女は前進し、僕は後退している。僕らの距離は近づいているようで、緩やかに離れていっている。空を見上げても星はなかった。果てのない闇だけが、無言のまま僕を見下ろしていた。

 僕は早くクレープを食べ終わり、随分と遅れて彼女も最後の一口を飲み込んだ。ふう、と彼女が息を吐く声を合図にして、僕は長く続いた沈黙に終止符を打った。

「これからどうする?」

「んー?カラオケでもいく?」

 僕はため息をつく。「そういう意味じゃないし、二人でカラオケに入るのを見られたら、もういよいよだろ。例の噂をどうするかって話」

「あー……」彼女はごまかすように頬を掻く。「あたし割と全力で否定してるんだけどね。取り合ってくれないというか、なんかどんどん墓穴掘ってく感じで嫌になってきたわ、正直。だからね、あいつ。さっきの上級生。いっそあいつと一旦付き合っちゃえば、とりあえず夏目には迷惑掛からないかな、って思って、迷っちゃった、さっき」

「君がその最悪の選択を取る前に止められてよかったと思うよ、本当に」

「夏目は……あたしがあいつと付き合うのは、嫌?」彼女は恐る恐る、という様子で僕の顔を覗き込む。

「君がそう望んでるなら別に何とも。望んでないなら、まあ愉快ではないね」

「……そっか、まあそうよね」彼女は含みを添えて笑う。「じゃあ、あたしと夏目が一旦付き合ったフリをする、ってのはどう?でそのあと、なんか違ったね、って感じで別れるの。それならもう噂なんて流れないし、そのあとも自然な友達のままでいれる」

「気乗りはしないな。その中身がどうであれ、僕らが一度でも付き合ったという事実が、他人から見た僕らの印象として残り続けることになる。それは互いにとってあまりいいことじゃない気がする」

「うーん、まあ流石にか……なんか、面倒くさいね、恋って。ちなみにあたしは嫌だよ、一旦夏目と距離置く、とか」

「こんな噂が広まったせいで仲違いした、みたいな話をでっちあげればあるいは効果的かもしれないけど、そういうばつの悪いやり方はできれば避けたいね」

 いよいよ煮詰まってしまったと言わんばかりに、彼女は腕を組んで喉元を唸らせる。実のところ僕は、大して危機感を抱いてはいなかった。噂なんて台風のようなもので、何もせずとも少し時間が経てば通り過ぎてしまう。逆に言えば通り過ぎるのを待つしかなくて、今の僕らにできることと言えば、なるべく禍根を残さないように備えておくことだけだ。しかしやはり各務優理の今後を思えば、できる限りのことはやっておくべきなのだろう。

「……まあ、これは僕が折れればいい話か」ふと僕は言う。

「ん、どういうこと?」

「実のところ最初から、簡単な解決方法はあったんだよ。僕がなんとなくそれに頼るのが嫌だったというだけで」

「それって……?」

 僕はポケットからスマートフォンを取り出す。「恋バナと言えば東至真、そして染衣雪野だ」

 連絡アプリを開いて、彼ら宛に長くもなく短くもないメッセージを残しておく。彼らが自然な態度で否定していれば、少なくとも悪い方向に転がることはないだろう。この噂が事実でないことを本質的に理解しているのも、また彼らしかいないように思える。各務優理と最も親しいであろう柚原要ですら、僕の言葉にはどこか懐疑的だったのだから。

「ほんとにこれで大丈夫かな……?」その様子を不安げに見ていた彼女が口を開く。

「まあ、今僕らにできることと言えばこれくらいだろ。これで無理ならまた考えよう」

 そう言うと僕は、雑に折り畳んだクレープの包装紙とスマートフォンをポケットに入れて立ち上がる。彼女も慌てた様子で立ち上がり、僕らは広場の入口で向かい合う。六時過ぎの商店街、恣意的な街灯り、過ぎ行く顔のない人々。これほど存在感の放つ各務優理が、全ての蚊帳の外にある。たった一つ僕を除いて。それがなんとも不自然で、否応なく自然だった。

「僕は書店に寄っていくから。それじゃあ」

 立ち去ろうとする僕を、彼女は「待って」と制する。彼女は逡巡した様子を見せてから、改めて僕の顔をまっすぐ見据える。その決意が全身に伝播し、足元からアスファルトにかけて深い芯を根差す。営みに照らされた彼女がその輪郭をくっきりとかたち作っては、巨木の幹のようにがっしりと力強い軸を持って佇む。その確かな意志で以て言葉を組み上げる。

「あたし、やる。染衣さんと写真、撮る」

 その瞳には強い煌めきがあった。僕は少し間を空けて、そうか、と言った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ