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0章11節 君たちに向けて

 文化祭の準備が本格的に始まり、実質的なクラスのリーダーは一時的に文化祭委員に渡されることとなった。今後出し物に関する決定権はおおむね彼らに委ねられる。わたしたち学級委員のやるべきことは、企画に対して予算のすり合わせをしたり、権利関係の確認をおこなったり、必要であれば頭を下げに行ったり、そういった副次的に発生する事務仕事を処理することだけで、それらの大部分は事前に済ませてしまっていた。あとはトラブルが起きないことをただ祈るだけだった。

 わたしと東至真が学級委員の定期的な会議から教室に帰ってくると、異様で騒然とした空気がわたしたちを迎えた。教室というロケーションに対してあまりにも場違いなシルエットをクラスメートたちが方々から取り囲んでいた。それは一目でわかるほど象徴的で歴史深い造形をしていて、わたしたちはその状況をまばたきする間に理解した。

「メイド服の試着会か。いいね」隣にいる東至真がからっとした声で笑う。

 わたしたちの姿を認めた文化祭委員の佐切裕太(さぎりゆうた)(確か彼はつい最近各務優理に告白した男の子だっただろうか?記憶があいまいだが、結果は考えるまでもないだろう)が改めてこの状況について説明を付け加えた。コスプレ用のメイド服は着付けの手順が単純になっている分、サイズに調整の余地がなく、特に男子が着ても十分耐えうる構造になっているか確認する必要があったらしい。腰周りはどうしようもないのでウエストの太い人には諦めてもらうとして、身長や肩幅で着られない可能性がないかどうか確認するため、今回は身長が高い順に男女二人ずつ選出して着てもらっている、とのことだった。もちろんそれは建前で、これは文化祭準備という青春のささやかな一ページを飾るイベントのようなもの、という認識の方がどちらかと言えば正しいのだろう。

「あとはほら、胸元がきつくないかの確認とか……」と佐切裕太が視線でわたしの輪郭をなぞりながら歯切れ悪く言うと、「黙れよ、お前。ほらあっち行け。しっしっ」と東至真が左手で払うようなしぐさをしながら割り込む。こういうも青春の一ページ、と言うべきなのだろうか?わたしにはよくわからない。できることと言えば、ただ困ったような笑顔を作ってみせることだけだった。

 これも天恵の一つとしか言いようがないが、わたしは同世代の女の子と比べれば胸が大きい方だった。適度に運動もし、栄養にも気を配っていることもあって、全体的に見れば細すぎず太すぎもしない、バランスのとれた健康的な身体つきであるという自覚もあった。そのシルエットがいくらか煽情的に映るのだろうか、性的な視線を向けられる機会は決して少なくはなかった。下心というのは、本人が思っているよりもはるかに明け透けに露出してしまうものだ。しかしわたしはそれに気付いても、それがよほど直接的に向けられたものでない限りは、明瞭に嫌悪を表に出すことはなかった。それは本能的なものであり、否が応でも正しく、わたしが『みんなに好かれる素敵な女の子』でいる限りは避けようのないものでもあるからだ。これはわたしが背負うべき咎の一つとも言えるのだ。ただそういった物事は、いつだってわたしにとって決して愉快でないかたちで押し付けられ(当然だ。わたしが他人に好意を抱いたことなどないのだから)、いつしか性的な話題からは自然と身を引くようになっていた。

 ではなぜわたしは夏目水季にキスをしたのだろう?ふと、そのことに思い至った。わたしはあの日の、茜差す温度にうずくまった時間の、自らの行動の意図をいまだに解明できないでいる。いや、意図なら明白だ。あの口づけはただの確認作業にすぎない。それでもなお彼に好意を抱くことのできない、わたしの心に深く根差した冷たい空白との、言葉を持たない対話でしかない。だからこそごく自然と、まるで予定でも消化するかのように、唇を交わすという選択に至った、その理由がわからないのだ。それはあまりにも『染衣雪野』らしくなく、彼が「向こう見ずの馬鹿」と揶揄するのもうなずけるほど、刹那的で愚かな選択だ。でもそのときの想い、まぶたの裏で見た光景、その全てが色鮮やかな記憶としてはっきりとした輪郭を留めていた。これもまた『自分にもわからない真意』なのだろうか?もしそうなら、わたしの胸の奥底には、彼に対するそういった欲望が渦巻いているのだろうか?その可能性に思い至ると、わたしは穏やかでない心中に少しだけ眉をひそめた。しかしそれでもなお知りたいと思った。答えを得なければ、わたしはずっと名も知らぬ感情に振り回されるばかりなのだから。

「あとできつく言っておく」わたしの表情を見て、東至真が言う。わたしははっとして、「いいえ、気にしてませんよ、全く」と取り繕ってみせると、彼は少しだけ安堵した様子で「それはそれで酷だ」と諧謔を含んだ笑みを見せる。わたしも笑う。

 わたしたちは示し合わせたように喧騒の発生源の一つに目を向けた。身長の高い生徒を選んだのなら、当然そこに夏目水季はいる。彼はクラスメートに囲まれ、あちらこちらと検分されながら、あからさまな困惑の表情を隠すことなく露呈している。わたしはそれを見て、ふふ、と笑ってみせた。

「夏目くんがあんなに感情を表に出すのも珍しいですね」

 東至真が怪訝な表情を浮かべる。「そうか?俺が軽口叩いたときと同じ顔に見えるけど」

 もう一度夏目水季を見る。確かにパーツの配置だけ見れば、普段のプログラムされたような無表情から少し眉をしかめる程度の変化しか見られない。しかしわたしはそこに大きな感情の動きを感じ取った。なぜだろう?

「そんなに俺の冗談が嫌かなあ?」東至真が困ったように零す。

「……そうかもしれませんね」わたしも困ったように笑う。舌先が少しだけ痺れていた。


 それからわたしは手持ち無沙汰になり、からからと賑わう教室をあとにした。豊かな人熱、とりとめのない雑音、色とりどりの表情。廊下を歩けば忙しない人々の気配がわたしをおおらかに包み込んだ。滑らかな空気が肌の表面を撫でながら、潮目を生む海流ように不規則な流れとなってわたしの周りを彷徨っていた。それは人肌の海を揺蕩うように心地好く、わたしは温かな孤独の中に密やかに沈んでいった。

 気付けば喧騒は遠く、わたしは特別教室が集まる東棟に足を踏み入れていた。人の気配はない。実験室のシャーレも、家庭科室のカトラリーも、音楽室のグランドピアノも、美術室のパレットも、今は役割を果たせずに薄暗い空間の中で眠っているのだろう。秋の冷気に正しく体温を下げながら、亡霊のように音もなく、わたしは陽に照らされるままの廊下を歩いていた。

 やがて見覚えのある白銀の長髪が視界の端でなびいた。まるで約束されていたかのように、彼女はそこにいた。彼女は開いた窓際の手がかりに肘を乗せ、ただ静かにグラウンドを眺めていた。ときおりきまぐれな秋の風がさらりと白い波を生み、含みのない純粋な微笑みを垣間見せた。わたしはつかの間、時間からほど遠い光景に釘付けになった。

「サボりですか?」

 わたしが話しかけると、チエさんはゆっくりと振り向いた。やはり彼女はまるでこの日、この時間にわたしと会うことを知っていたかのように、どこか意味ありげな表情を浮かべていた。彼女にとって全ての出来事は、運命に紐付けられた必然のみで構成されているのかもしれない。それはある種の悟りとも言える。謎めいた彼女の佇まいは、そんな突拍子もない考察すら現実味を帯びるほど、特別な文学性に満たされていた。

「参ったね、君にサボっているのがバレてしまうとは」

「わたしも、チエさんにサボってるのがバレてしまいました」

 彼女の隣に並んで景色を見下ろすと、グラウンドでは小さな影が右へ左へと忙しなく駆けている。準備期間の一週目はまだ部活動がある。

「私はここからの景色が好きでね。夕暮れ時になると落ちていく太陽がよく見えるんだ。そうすると人の小ささと確かな生命力が、皮肉な対比を生む。両面性、矛盾、ごくありふれた文学的なテーマだけど、それを肌で感じる瞬間なんて日常の中にはなかなか存在し得ないものなのだよ。原則的に言えば人の営みに物語性はないからね。そう見えるのは、そうであれば美しいという希望的観測に過ぎない。だからこそ私は、あのグラウンドにいるひとりひとりの豊かな歴史を想像したいのさ」

「チエさんは人を観察して、知るのが好きなんですね」

「そうだね。それが私のオリジンなのかもしれない。私の欲求は全て、最終的には人を知るというところに繋がってるような気さえするよ」

「チエさんにしては珍しく、曖昧な言葉選びです」

「自分のことであっても、確実にこうだと言えることは何もないものさ」

「自分にもわからない真意」

 わたしがそう言うと、彼女の微笑みが含みを持つ。「つまりそれは特別なことではない、ごくありふれたものだということ」

「……チエさんは、なぜ人を知りたいのでしょうか?」

「君はなぜそれを知りたいのだろう?」

 わたしは少しの間だけ沈黙して言葉を探す。「ある種の特異性を感じるから、でしょうか。悪い言い方をすれば、異常な執着にも見えます。客観的に見れば、単に好きだから、だけでは説明がつかないほど一線を画して、あなたは他人の奥底がよく見えている。……普通ではないです、少なくとも」

「気味が悪い、とでも言いたげだね」

「本当に言葉を選ぶ必要がなければ、わたしはそう言ってたかもしれません」

 彼女は、ふふふ、と少し長く笑う。その表情はどこか楽しげに見える。

「確かに異常かもしれない。考えたこともなかった」そして彼女は、少し間を空けてから話し始める。「四歳くらいの頃に、家族と乗っていた車が交通事故にあってね。事故自体は大したものではなかったのだけれど、私も歳が歳だったもので、不運も重なって結構な大怪我を負ってしまったらしい。私はね、どうやらそれ以前の記憶がないらしいんだ。でも聞けば、四歳の頃までの記憶なんてみなほとんど覚えているものではないそうじゃないか。かくいう私自身も、記憶を失っているという感覚はないのだよ。全くと言っていいほどね。でも記憶を失っているという事実だけは確かにあって、私はその日を境に違う私になったはずなんだ。じゃあ本来の私とは一体どんな私なのだろうか?私はある時期からそのことばかり考えるようになってしまった。そしてそれは、単なる省察だけでは得られない答えだと知った」

「……それが他人を知りたいという欲求に繋がってる」

「きっとね。単にそうだとすれば説明がつく、というだけだけど」彼女はそこで思い出したように、ふふ、と微笑む。「こんな話をしたのも君が初めてだな。ごまかす言葉なんていくらでも用意できるのに。なぜだろうね、なぜか君には話しておきたいと思ったんだ。理由はわからないけど」

 わたしは中立的な笑みを浮かべる。「それは嬉しいことなんでしょうか?」

「どう受け取るかは君に任せるとするよ」

 そこでわたしたちはしばらく沈黙する。さっぱりとした午後の日照りが少しだけ沈み込んだ空気を温め、置き去りにされた爽籟が遠くから金木犀の香りを運んでいる。グラウンドの小さな影は、熱力学の実験映像のように乱雑に散ってはときおり一つにまとまり、意味ありげな法則でうごめいてはまた拡散する。隣にいる文学少女は今、この景色をどう描写しているのだろうか?彼女は漠然と景色を見下ろすばかりで、その澄んだ山麓の湧き水のような純粋な表情からは何も推し量ることができない。チエさん――小池知恵(こいけともえ)という人間との対話には、言葉が大前提なのだ。

「……他人を知ることで、自分の知らない自分を知る」わたしは言う。

「鏡がなければ、自分の顔を知ることもできない」彼女はそう返す。

「知って後悔することもあります」

「知らなければ後悔することもできないのさ」

 彼女の微笑みが、わたしたちの問答の一時的な終着点となる。彼女は手がかりから身体を上げると、からりと乾いた空気を控えめに吸い込み、組んだ手を外に伸ばして身体を反らせる。そして一息ついてからわたしを見る。その表情はどこか満足げに見える。

「さてと、そろそろ帰らないと。鳴海茜音(なるみあかね)さんにどやされてしまう」鳴海茜音、もう一人の文化祭委員。「実は私が試着をする予定だったのだけど、理由をつけて逃げてきてしまった」

「メイド服、着たくないなら無理して着なくてもいいんですよ」

「いいや、着たいさ。こんな楽しげなこともなかなかないだろう。ただちょっと注目を浴びるのが苦手でね、私はひっそりと脇役のままでいたいのさ。まあいずれ試着はしなくてはならないだろうし、問題の先送りに過ぎないけれどもね」

「そうですか」わたしは、ふふ、と笑ってみせる。「なんとなく想像しにくいですね。チエさんが楽しげにメイド服を着る姿」

「それはもう楽しみだとも。こう見えて私も青春真っ盛りの女子高生なのさ」

 そう言って微笑むと、彼女はわたしに背を向けた。その後ろ姿はもう何も語ることなく、確かな温度を保ったまま、静かに遠ざかっていった。

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